時は元禄十四年三月十四日、江戸城松の廊下で浅野内匠頭長矩は、吉良上野介義央に刃傷。内匠頭は上野介のトドメを刺せず、即日切腹、御家は改易領地没収の沙汰が下ります。

古より、國乱れる所に忠臣現れて、家貧して渇っす時に孝子現れると申します。赤穂藩未曾有の危機に際して、茲(ここ)に端なくも、一代の英雄は突如として現れます。

さて、その英雄は謂わずもがなの『大石内蔵助義雄』で御座います。この『義雄』、ヨシタカと呼ぶ本、講釈師、映画・ドラマが主流で、

ヨシオと呼ぶのは、大層少数派のようで御座いますが、一龍斎貞心一門はヨシオ派で御座います。なぜなら、貞心先生のご本名が『大友義雄』で大石義雄と一字違いだからで御座います。

また、講釈では、大石内蔵助、親戚筋からの養子と言う噺がされますが、史実は異なるようで御座います。

尚、ヨシオ、ヨシタカ問題は、家督を継ぐまでは、内蔵助は『義雄』と書いてヨシオ。家督相続後に、『義雄』と書いてヨシタカと読みだけ改めた説が有力のようです。


さて、この大石内蔵助義雄、遠くは近江源氏の流れを汲む血筋にて、俵藤太藤・原秀郷が祖先に当たると言われて御座います。

一度は世を捨て江州栗太郡大石の荘を領じた時期も有ると云われます、大石内蔵助義勝の曾孫にして、その孫、権内義昭なる者の嫡男、是が大石内蔵助義雄、その人で御座います。


この内蔵助義雄は、万治二年1659年の生まれ、幼くして、父権内義昭が病没して、三歳で祖父の養子として育てられます。

そして、元服し成人となって、十九歳で大石家の家督を継ぎ、浅野家に仕え、祖父内蔵助義欽(ヨシスケ)が亡くなった、二十六歳で内蔵助義雄を名乗り、城代家老を拝命致します。

内蔵助義雄は、祖父内蔵助義欽の存在の影にあって、藩内に広くは知られて居ませんが、知る人ぞ知る器量人で御座います。

若くして、一代の英雄山鹿素行に入門し、その講学を学ぶ内蔵助義雄。この山鹿流軍学に造詣を深めた事が、結果として吉良上野介の首を仕留める要因となったとも言える。

又、内蔵助義雄の学問のもう一つの車輪が、『論語』を「最上至極宇宙第一の書」と称した伊藤仁斎の儒学であり、

赤穂藩の京都詰めの役人として赴任した際に、伊藤仁斎の門下となり、是を極める事にも余念が無かった。

こうして、内蔵助義雄は山鹿流軍学と伊藤仁斎流儒学の机上の両輪によって、その思想が形成されていると言って過言ではない。


そんな内蔵助の京都時代の仁斎先生に纏わるエピソードを一つ紹介しましょう。

或る一日、伊藤仁斎先生の講義を門徒が集いて、謹聴する機会があり、仁斎先生が章句の解説を、唐土の古い文献より、例を引いて行い始めると、

内蔵助は、コックリコックリと舟を漕ぎ始めたのである。席に列した同門の人々は、此の有様を見て一人笑い、二人笑いして、

果ては目引き袖引き、殆どの門弟達は笑い始めた。併し、当の内蔵助は自身が笑われていた事には気付かず、講義は終わってしまう。

すると、門弟たち一同が退席するので、漸く内蔵助も目が醒めて、何喰わぬ顔をしてその場を一緒に退席した。

そして、門弟たちは退席後、直ぐに集まり、俄に内蔵助の悪口が始まる。

門弟「先生の講義を謹聴しに来て、居眠りするとは言語道断!あんな者に何が分かる、そもそも、門を叩く資格が御座らん!」

と、口々に罵り、憤慨のあまり、声高に噂致す由え、是が伊藤仁斎先生の耳にも届く事になる。

しかし、流石一世の鴻儒である!仁斎先生は、内蔵助を呼んで叱るどころか、逆に他の門弟を集めてこう言い放つ。

仁斎「陳渉少時嘗与レ人庸耕。輟レ耕之二壟上一、悵恨久レ之曰、苟富貴無二相忘一。

庸者笑而応曰、若為二庸耕一。何富貴也。陳渉太息曰、嗟乎、燕雀安知二鴻鵠之志一哉。

どう言う事だか、皆さん判りますか?決して、内蔵助を馬鹿にするでない、内蔵助を馬鹿にすることは、陳渉を馬鹿にした、庸者・仲間たちとお前さん方は同類で御座る。

今はまだ、内蔵助は富貴には無いかも知れぬが、器量人であると、私は確信します。必ず、大事を成す器だと、私が予言致しましょう。

其の時に成って、諸君は気付きます。貴方が燕雀で、内蔵助が鴻鵠である事に。」

そう言って、伊藤仁斎は、『史記 陳渉世家』を例に、内蔵助の大器を予言し、門弟たちの愚行を戒めたと言う。


また、大石内蔵助は、机上の学問だけに明るかった訳ではない。武芸の奥義を極めた人で、職は城代、つまり『國家老』という実践現場から離れた所の要職に有りながら、

播州赤穂からは海の向こう、讃岐國は高松の國人、奥村権左衛門重旧(しげひさ)、又の名を『無我』と号していた東軍流剣術の第一人者である。

門弟の数は五百とも六百とも云われ、美作、備前、備中、播磨、四国と歴遊して池田・浅野・松平の藩士に数多く門弟が有った。

たとえ、雪朝霜夜、内蔵助は未だかつて、突撃弾刺の鍛錬を欠かさず、それが為、三十五歳の時に遂に東軍流免許皆伝を得る。

其の折り、内蔵助が師匠である無我に対し、入れた起請文が現代に残っており、其れは左記の様な物である。


【起請文】

         起請文前書之事

一、東軍流之兵法就御相傳、免許己前聊他言他見申間敷事

一、免以後交他流、別一流立申間敷事

一、免以後無誓紙而太刀見申間敷事

右之條々於相背者

梵天、帝釈天、四大天王、伊豆箱根三島大明神、八幡大菩薩、天満大自在天神、摩利支尊天、総而日本國中大小神祇御罰可蒙者也依起請文如件


元禄五年六月二十日

                        大石内蔵助義雄 華押

奥村権左衛門殿


この起請文を見ても判る様に、大石内蔵助と言う人は、実践に於いても、武道に明るい方だったと言えます。


併し、大石内蔵助と云う方は、伊藤仁斎塾の例からも判る様に、普段は非常に大らかと申しますか、お人好しと云うのか、一見ぼんやりした方で御座いますから、

凡人には、所謂、『昼行灯』に見えてしまいます。能ある鷹は爪を隠すと申しますが、常に深爪の様で。。。能が見え難い様で御座いました。

そんな『昼行灯』が、ヘッドライト!テールライト!と、中島みゆきの歌の様に変身する事件が、実は元禄六年の極月に起こるので御座います。

それは備中松山の城主、水谷出羽守勝美が急死して、養子縁組を予定していた、従兄弟にあたる旗本・水谷信濃守勝阜の長男、勝晴を迎える前に亡くなった為、

慌てて養子縁組を幕閣に画策したが、公儀は是を認ず、松山藩五万石は改易と決まった。因みに、水谷家はお取り潰しに成り掛けたが、

出羽守の舎弟、勝時を当主として御家再興が幕府に認められて、旗本として水谷勝時は三千五百石で、明治維新まで上級旗本職として家は存続した。

この時、隣國の松山藩と言う事で、浅野家に受城使者の役目が回って来て、此の大役を仕切り、使者の大役を勤めたのが、大石内蔵助義雄であった。

此れは、あくまでも推理で、能く云われてはいる事ですが、この松山藩のケースを宜く知る内蔵助だから、

水谷家と同じ様にと、御舎弟大學様を擁立しての浅野家の再興に動いたと、云われておりますが、私も此の意見を支持致します。

又、此の受城使者と、城明渡しの責任者の両方を体験したと言うのも、恐らくは大石内蔵助ぐらいだと思いますし、

更に思うのは、受城使者として松山城を受け取りして、一年半もの間、仮城主の任にも着いた浅野内匠頭は、なぜ、我慢出来なかったのだろうと、少し思います。

同じ五万石の大名が、幕府によって潰される場面に、正しく実地に見聞し体験しているのにも関わらず、其れでも我慢ならない虐めだったのでしょうか?!

この辺りが、謎と言うかぁ、どうせなら、饗応役を辞〜めた!と、投げ出した方が、マシだった様にも思ったり致します。

いずれにせよ、此の松山城開城の功績で、まぁ、まず赤穂の藩内で、内蔵助を『昼行灯』などと呼ぶ者は無くなり、内匠頭からの信任が厚くなります。

そして、更には近隣の國、及び、公儀の目付役人の間では、『赤穂に大石あり!』との評判が立ち、器量人だとの認識を持たれるので御座います。


さて、此の大石内蔵助義雄と言う人は、風水天文を観る力があり、そして第六感の『虫の知らせ』とでも言うべき予感が働いた。

その『虫の知らせ』の例として、以前本傳『戸田の局』でも紹介した、『蜂の噺』を再び、詳しくご紹介しましょう。

其れは殿中刃傷から田村帝切腹が有った元禄十四年三月十四日、時刻は羊下刻。城内を大木戸へ向かい下城せんとしていた内蔵助は、

大手前の庭先で、大層な人が集まり、ワイワイ騒ぎ立てている光景を目に致します。

内蔵助、立ち寄ってみますと、其の数幾く数千とも知れぬ蜂が、蝉に群がり、猿蟹合戦の蟹の助っ人以来の蝉蜂合戦に御座います。

そして、よーく見てみますと、其の蝉に見えた大きさ蝉程の塊は、蝉では無く是も、蜂で御座いまして、つまりは、巨大な一匹の山ん蜂と、数千匹の小蜂との戦だったので御座います。

この山ん蜂。初手は四方八面からの攻撃を、ハッシと受け止め大きな顎で、小蜂を砕き投げ飛ばして御座いましたが、

小蜂は次から次へと無尽蔵に大きな三尺玉の様な巣から湧き出て参りまして、且つ、勢いは衰え知らずに山ん蜂へと襲い掛かります。

山ん蜂は、遂には留まって居たい小蜂の巣から落ちて無惨に圧死させられて仕舞います。人々も此の様子を見て、一人死に行く山ん蜂を哀れと思いました。

と、ここ迄の山ん蜂と小蜂の合戦の噺は、既に本傳『戸田の局』の回で紹介し、内蔵助が「御当家の凶兆でなければ良いがぁ。。。」と呟いた所まで紹介しました。


さて、蝉サイズの山ん蜂が討ち死にしてから、暫くあって、彼方の空より、其の大きさ鞠の様な一塊りの物が飛んで参ります。

いきなり飛んで来た此の塊り、彼の小蜂の巣を目掛けて、体当たりし突っ掛かって来た。と、見ていると、その一塊りは巣にブチ当たると、

一瞬砕け散りますが、小ぶりの山ん蜂達は、又、一塊りに戻り鞠状に成って、何度も!何度も!小蜂の巣、目掛けて体当たりを繰り返します。

二度、三度くらい迄は、小蜂もその巣も攻撃に耐えていたが、次第に巣は綻び始めて、山ん蜂は巣の中へと侵入。

巣からは、何んとか侵入を防がん!と、小蜂が次々に湧き出し、必死に争い始めたが、山ん蜂の一群は、備えを立て直しており、

ひた押しに押し寄せて、個体の強さの差が、攻防の勝敗を左右し始めた。そして、一刻にも及ぶ攻防の末、小蜂は山ん蜂の一群に皆殺しにさられ、

巣は完全に破壊されて、一匹残らず地面に落ち散って仕舞った。斯くして、勝利した山ん蜂の一群は、意気揚々と勝鬨を上げるが如く天空高くに飛び、去り行くのであった。

集まった一同は、皆、奇異な光景を目にしたと思い、仕切りと不思議がるも、その理由に付いて言及する者など無く、

一緒に、事の顛末を見届けた大石内蔵助も、見た直後は、珍しい事も在るものと、不審に思っていたが、心密かに思案を巡らして口を開いたのである。

内蔵助「古より『蜂闘』と言って、亦の呼び方を『蛙合戦』とう子孫を残す為の闘いが、此の様に呼ばれて来た。

此の事は、既に古書にも記されており、取り分け衆蜂は、女王蜂を守衛する目的で巣を造り、臺(ダイ)を成して、その世継ぎを立てんとし、

万一、臺崩れて女王蜂が死する時は、衆蜂も必ず供に死して、一匹たりとも逃るゝ蜂無く、又、女王蜂を殺す敵在らん時は、其の讐(アダ)を復すると言われている。

蜂は、節義を守るは斯くの通りである。猶又、衆蜂の針には毒在れども、女王蜂には毒は無い。是即ち、君の志を備える所以なり。

王君徳あれば、臣下には亦、節義の道あり、一寸にも満たぬ虫すら斯くの如し、況んや、人として仁義礼智忠信孝悌の心無きは、虫にすらも如かざるべけんや。

別して人の臣子としては、忠孝の道を、忘るゝべからず、と、先人は申されて御座る。してみると。。。」


独り言の様に、斯く語りき大石内蔵助は、暫く、何度も首を傾げ、思案の末、何を思い付いたのか、突然、踵を返し来た道を戻り始めた。

そして、下城を止めて、再び城内の詰所へ戻ると、机にピタリと着座して、部屋を締切り、自分の家へは戻らなかった。

翌日も其の通り、又其の翌日も其の通りで、三日連続で城中に泊まり込み、内蔵助は執務を続けた。

是を見た多くの家臣は、「ハテ?なぜ、あの御城代が、家にも帰らず、三日もの間、城中に籠られて執務をなさるのか?」と、考えたが、その理由は、一向に分からなかった。

そして、江戸表より、片岡源五右衛門が書いた書状が届きます。是が十八日の申刻。

ここで、去十四日に内匠頭が刃傷に及び、既に切腹した事を知り、『蜂の一件』、虫の知らせが当たって仕舞った!と、失望を覚えますが、

御家の一大事ですから、くよくよ落ち込んでばかりも居られません。兎に角、城代家老としての成すべき道を考え始めるので御座います。


そして、翌十九日の亥刻には、最初の伝令が赤穂に到着。若い取次の藩士が、血相を変えて詰所へと飛んで参ります。

若侍「申し上げます!」

内蔵助「オウ、何んじゃぁ?」

若侍「江戸表より、早打ちにて速水藤左衛門殿、並びに萱野三平殿、火急の知らせ是有りと、罷り越して御座いまする。」

内蔵助「分かった。御家の一大事!屋敷で会うので、二人は屋敷へ廻るように伝えて呉れ。拙者も、直ぐに参る。」


ここからは、本傳『三番早打』で申した通り、二人が携えて来た、『言上書』を受け取り、速水、萱野の両人に聴き取りながら、大石内蔵助は、御家の一大事の仔細を把握に努めます。


さて、次回は又、本傳へと噺を戻しまして、大石内蔵助の山科での生活、『山科閑居』をお届けしますが、

予め申し上げますが、芝居だと七段目の『祇園一力茶屋』みたいな盛り上がりが御座いますが、講釈の忠臣蔵の方は、

まぁ〜、強烈なダレ場で御座いまして、東下りシリーズが始まらないと、面白い場面に乏しいのです。

あんまり、期待せず、覚悟の上、ぼちぼちお付き合い下さい。なるべく、楽しく出来るようには努力致します。