今回は題名にもしました『三通の書面』と、二組の伝令の両人、萱野三平と速水藤左衛門、月岡治右衛門と多川九左衛門について語ろうと思います。

両組とも実に、殺人的な電撃の様な強行に御座います。まずは、最初の江戸より赤穂への伝令から見て行きましょう。

羽柴秀吉の毛利攻めからの京都山﨑への大返しにも負けない位の激走で、江戸から赤穂は実に百五十里以上の距離が有り、そこを江戸表を出て五日後の六ツ半過ぎには赤穂に到着。

既に、城は閉門の時間を過ぎていた為に、萱野と速水の両人は、城代家老・大石内蔵助義雄の自宅を訪ねます。

そして、翌朝が城入りと成るのですが、二人を待ちかねた大石は、兎に角、早く伝令両人から事の詳細を耳にしたい。

言上書に目を通しながら、両人に逐次質問し、『勅使饗応役拝命から、上野介との確執、刃傷松の廊下、そして田村邸での切腹まで』を詳細に理解しようと致します。


【言上書】

勅使榊原大納言様、高野中納言様、清閑寺中納言様、御道中はご機嫌宜しく、恙無く当月十一日に江戸御到着。

翌日十二日には御登城と相成りまして、翌十三日は饗応『能』も相済みまして、最終日十四日を迎えまして御座います。

この最終日は、殿中白書院に於いて、御勅使返答の儀、是有り。御執事・御役人諸侯、残らず登城相成り候処、

松の御廊下に於いて、吉良上野介、上様よりの『奉書』を理不尽にも長矩侯に見せず、是に激怒した御君、その場に於いて刃傷に及ばるゝ。

ただ、この刃傷、この時ばかりの上野介の理不尽に有らず、勅使拝命からこの最終日まで、数多の嫌がらせ、罵詈雑言、謂われ無き恥辱の積もりたる所以に御座候。

然る処、同席の梶川輿惣兵衛なる御人により、御君押さえ済まされ候にて、他勢により白刃を奪い取られ、上野介を討ち取るには至らず候こと。

双方存命である事から、上野介は大伴近江守様へ預かりの上、御殿薬師・吉田自庵先生による治療の後、極々簡易な聴取を受けて吟味は終了、即日夕刻には屋敷へ戻され候。

一方、我君内匠頭様は、御検使、多門傳八郎殿と大目付、正田下総守殿の聴取、吟味から、即日、上様の命を受け御老中、若年寄の評議と成り候。

然し裁定は我らの意に反し、即時切腹!田村右京太夫様に預かりと成り候。そして、天奏饗応使のお役目は、戸田能登守様へ差替えとなり、場所を黒書院に移し、御勅使答の式と相成り候。

あらましは、右の通り候條、いずれにも御家御大切の時節に候。由えに御注進として、萱野三平と速水藤左衛門両人を使わし候。

この日取り急ぎ、書中一々能わず、両人委曲言上仕るべく候。(一々細かい事までは書きませんから、詳細は二人から聴いて下さい!)

尚、追々御注進仕るべく候、恐惶謹言。


                                  片岡源五右衛門高房 花判押

御城代 大石内蔵助義雄殿


是に目を通し、所々場面々々で萱野、速水両名に仔細を尋ねる大石内蔵助、実に椿事(ちんじ)と悩める顔をお造りになる。

更に二日後、第二の御注進、原惣右衛門、大石瀬左衛門の両人が赤穂へ到着。内匠頭の切腹から鉄砲洲江戸藩邸の立退きの様子を物語る。


昨夜、酉の下刻。芝の愛宕下、田村右京太夫様のお屋敷に於いて、御我君御切腹なされ候。


と、言って来た。此処からの『言上書』は、先に「田村邸の別れ」でお話しした、内匠頭の辞世の歌や、遺言などが紹介されて、

特に『全ては内蔵助に従え』『無念である!』の言葉が、赤穂の家臣、三百余人の胸に突き刺さります。

赤穂城の大広間と、其処へ入り切れず庭先に溢れた面々は、御注進に聴き入りながら、腸を裂かれた様に、老若男女を問わず涕泣する様は、如何にも哀れである。

さる程に、江戸表よりの御注進は、櫛の歯を挽くが如く聴こえまして、江戸表より片岡源五右衛門と磯貝十郎左衛門の両人も馳せ参じるので御座います。


両人は赤穂の藩士たちに、江戸で見た臨場感を、兎に角、伝えて赤穂藩が江戸も國元も一丸と成って決起せん!て、必死に御注進を致します。

源五「相手方吉良殿には、去る十五日に、仙石伯耆守様より、上使としての欽命が下り、手紙養生の上、本復の上は、遠慮なく公儀に勤めるべき旨、仰せられており申す。」

十郎「しかも、官位、役職もそのままで、五代様は、御殿薬師、吉田自庵と、御殿医師、栗崎道有を使て、治療に当たらせておるとか!」

と、事細かに、御君、浅野内匠頭長矩侯の最期の一言まで、一伍一什の逐一物語り、聴けば聴く程、無念残念の思いに打たれて、只々、泪を誘うばかりで有った。


然し、只々、泣いてばかり居ても、賽の河原で死んだ子の歳を数える様なもの。城代家老、大石内蔵助は、猛然と意を決して、全藩士、三百余人に対して登城命令を出すので御座います。

さぁ、登城命令を受けた家臣が驚いた!寝耳に水、其れでも家臣三百余人、我も我もと、出仕いたして勢揃いと相成ります。

内蔵助は、相役第二城代の大野九郎兵衛、是は芝居で言うと『斧九太夫』に当たる仇役で御座いまして、

是れら様々な家臣を、仇だろうと味方であろうと、全部を一同に集めるのです。奥野将監、河村傳兵衛、進藤源四郎、小山源五右衛門などなど、

赤穂詰めの藩士に留まらず、江戸、京都、大坂の御留守居番の侍までもが、可能な限り集まりまして、

この藩士達の面前に於いて、是までは伝聞にて、断片だけ知る面々にも、言上書を見せて、片岡、磯貝の両御注進役の口からも、事件の仔細が語られたのである。

更に、語気を変え、改めて敢えて感情を殺して、大石が口を開きます。

内蔵助「さて一同、かかる次第で御座れば、お家断絶の御沙汰、就ては城地召し上げらるゝと存ずる。

然るに、相手方吉良上野介殿は、何んのお咎め無く、手創平癒の暁は遠慮なく公儀、高家筆頭の職へ返り咲く所存。

然して是を見るに付け、定めし事は我君の御落度たるに相違御座らん。と、言うは易い事なれど、君臣の義は亦格別に致して、

古より、『君辱めらるれば臣死する』の喩え、今日、我君、斯かる恥辱の憤死とあらば、正しき我ら臣下たらんと欲せば、切に『殉死』こそが、我らの進むべき道と存じ上げ申す。

もとより、死は一旦にして易く、死に処するや、其の術、実に成り難とう御座る。然し、事是に致っては、又、如何ともなすべからず。

唯とる討死あるのみ、我君の恥辱を晴らさずして、何が武士道や!と、言う意見も、確かに御座ろう。

由えに、此処に集まりし各々方の本心、忌憚なきご意見を、この内蔵助、是非とも承りたいと存じる。」

と、言い放って内蔵助自身は、一切口をつぐんで仕舞うのであった。斯くと耳にしては、何條義憤の血に踊る若侍の面々、黙って居ろうはずがない。


若侍A「御城代、今更、問うのも時間の無駄に御座る。我君は切腹、相手の上野介は存命の上お構い無しは、理不尽極まりない。

さすれば、唯今より彼の地へ赴き、上野介の白髪首を捕るしか御座らん!!」

と、叫び腕を突き出せば、同じ血気に逸る者でも、別の意見があり、

若侍B「事此処に至ったからには、公儀より城の受け取りに参るは必定、然らば何條むざむざ城を明け渡す必要のあらん!

矢玉の在る限り抵抗し、討死して御君のおわす冥土へと行かん。是こそが御城代の言わるゝ『殉死』に御座ろう。」

と、肩を怒らせて声高に叫ぶので御座いまする。こうして、此の評議の場に百を超える意見が出され、何時果てるとも知れず、活発に意見が飛び交った。

斯くして、この評議は十九日に始まり三日後の二十一日迄続けられたが、その中には、忠義の士も有れば、無責任、無節操な輩も噴出して、

誰が『正』で、誰が『邪』なのか?所謂、正邪の区別、差別が色分けされて、是により義党の一派の御大将が大石内蔵助義雄で、

殆ど意見が出揃って、誰も喋らなくなった其の時に、大石はゆっくりと口を開き、初めて自身の考えを述べるのである。

内蔵助「各々方、拙者も『殉死』の方向で、物事を武士道の義の精神に基づき決すべしとは、思うので御座るが、

一方で、忠臣ならば、此処まで五代に渡り継いて来た、播州赤穂、浅野家を絶えさせたままで宜いのか?!と、言う事が、

喉に刺さった魚の骨の如く気になりまして、此処は一つ、先ず、第一に考えねばならぬのは、お家の再興。つまり、

御殿、御舎弟大學様を立てて、公儀に対して、浅野家の再興を願い出る、この儀が最優先されるべきではないのか?!と、存ずるが如何であろうや?

喩え、石高は一万石、二万石に減らされたとしても、浅野家の存続を第一に考えるべきては御座らんか?各々方?

即ち、城明け渡しに参る御目付役に対して、拙者、御舎弟大學様を城主にして、浅野家再興を願い出たいと存じる。

籠城との駆引とはなるが、その上で、この可否を見てからでも、籠城の上、城を枕に矢玉が在らん限りの討死は遅くないと存じるが、この件、各々方は如何が思し召されんや?!」

と、内蔵助が大學様の擁立を主張してみたが、然し中々、容易に意見の集約は計れなかった。


特に、事務方で縁の下の力持ち、勘定方や御納戸方の武士の意を汲んで、仇役の大野九郎兵衛はこう反論した。

事務方「そもそも、籠城を前提に大學様擁立を申しては、公儀の心証が宜しく御座いません。よって、大學様擁立を計るならば、

まず、速やかに城を公儀に明け渡した上で、公儀への従意を示し、大學様擁立の再興を願い出るのが得策と存じる。」

是を聴いて、血の気の多い連中が、大野九郎兵衛に掴み掛かる勢いを見せるので、内蔵助は若侍衆を制して、大野九郎兵衛に返します。

内蔵助「アイヤ、大野氏。貴方が仰せらるゝ所、合理的且つ道理では御座るが、抑(そもそも)武士たる者の守るべきは、義の一字で御座ろうと、拙者は存ずる。

今から大事に処して、大義を以って上に迫らず、徒に死を恐れて、其れを守らんと欲するは、苟も武士に在らざる也。

もとより大學様擁立は、未来への願いなれば、成るか?成らぬか?未だ知る由も無き事、それを口にして、

無条件で城をむざむざ明け渡すを優先するれば、世間は赤穂の浪士の料簡を如何思うやぁ?それで、先君の恥辱を雪いだと言えましょうや?否(いな!)、返って恥の上塗りに御座しょう。」

と、言って、命を賭しても恥辱は雪ぐべしと、大石内蔵助は『殉死』を主張し、是に一同は、

一同「其れに相違御座らん!」

と、返した。其れでも元より武士の魂など持ち合わせぬ、大野九郎兵衛は、屁理屈を言い続けては『殉死』など、泰平の世の武士に有るまじきとの主張を止めません。

すると、此の大野九郎兵衛の主張に対し、列に座していた原惣右衛門が、スックと立ち上がり、九郎兵衛の面前に座りて語り出します。

惣右「お黙りなされよ!大野氏。此処に列する者は、大石様と意見を同じゅうする者ばかりで御座る。異議ある其許(そこもと)は、早々にお立ちあれ!貴殿の如き不義不忠は、最早御無用に御座る。」

と、『鯉口』くつろげて詰め寄った。その意気に押されて、唯でさえ腰抜けの大野九郎兵衛で御座いますから、真っ青な顔をして、その場から退きます。

是により、第二家老大野九郎兵衛に従う、『殉死』反対の勢力は、評議の場から立ち去ってしまいます。

評議の結果を受けて、大石内蔵助と大學様擁立で纏まった藩士一同は、其の評議の結果を嘆願書にし、江戸表の大目付、戸田采女正に宛てて直ぐに使者が立てられたのである。

この使者こそが、月岡治右衛門と多川九左衛門の両人で、ここからは此の二人のお話しになります。さて、二人が江戸表へ届けた『嘆願書』から紹介致します。


【嘆願書】

此の度、我が主君内匠頭、殿中刃傷による責めに依って、切腹仰せ付けられ、是に依り城地召し上げ候段、家中一同協議に及ぶも、些か異議是、御座候。

当日の次第、江戸に罷り在り候年寄どもへ、鈴木源五右衛門様、仰せ渡され候、趣、其の後、土屋相模守様方にて、

御汝(おんおてまえ)の戸田采女正殿より、我が本家、浅野安芸守へ、仰し渡され候次第、承知仕り候までに御座候。

仮に、相手吉良上野介殿『卒去』なりて、我が主君内匠頭の切腹、城地召し上げなれば、喧嘩両成敗、公儀の法式・法度に照らして、此の由承知奉り候。

然し、相手上野介殿ら『卒去』なってはおらず、又、吉良家には禄高没収、減易すら無しと伺うに至り、

家中の侍無骨の者共、一筋に主人一人の刑罰と存じ、御法式の儀も弁えず、相手方恙無き段、是を承知仕り、城地請渡候儀と嘆き申し候。

由って、年寄共頭立ち候者より、末々を教訓仕りても、家中一向に安堵仕らず候。

此の上は、年寄共料簡を以って、申し定難く候間、憚りながら立場返見ず申し上げ候儀、上野介への仕置き、願い奉ると申して御座なく候らえども、

御両人様方のお働きを以って、家中を説得仕るべき筋を、御立て下され候らはゞ、有り難く存じ奉り候。

当表御上着の上、言上仕るべきと候と、存じ奉り候らへど、当城請取りなされ候滞留(とどこおり)にも、罷りなり候らわんと存じ奉り候由え、只今言上仕り候。以上。


                         大石内蔵助義雄

                         並家中一同

戸田采女正様

荒木十郎左衛門様


斯くの如き、緒訴を認めて、月岡治右衛門と多川九左衛門の二人を使者に交付しつゝ、大石たちは、公儀が城地請渡しの決定を下す前に、この嘆願書を大目付に訴え出る算段だった。

内蔵助「各々方、只々より月岡、多川の両人が急ぎ江戸に参って、受城の使者が江戸を出ぬ間に、この書を差し出し、

我ら家中の面々が、既に決心の定まる所を示し、よくゝゝ陳述の上、一途に嘆願の程を願い申す。

よいかぁ?!多川、月岡。江戸表に着いても、嘆願の成る前に、喩え、江戸藩邸の家中、安井氏、藤井氏などの重臣であっても、此の嘆願書の噺は致すな、宜いなぁ?!

拙者、些か思う所がある。此処に居る同士の願いを叶える為の大切な役目だ!兎に角、急いで大目付、戸田采女正様に届けて呉れ。

受城の使者を出す前に、戸田様がお読みになれば、必ず、我らの味方に成って下さり、老中、土屋相模守様に働き掛けて下さるはずだ。」

と、言って内蔵助は、多川と月岡を江戸表へ、使者として遣わしたのである。


こうして、両人が江戸表へ到着したのが、四月四日深夜。しかし、彼ら両人が江戸に到着する二日前に、既に、受城の使者一行は江戸を出て仕舞っていた。

両人は、其れでも戸田采女正を訪ねて、嘆願書を示し、在らん限りの陳述には及んだが、時既に遅きに失し、

返って、速やかに城請渡しに従うようにと、下記の様な、説論の手紙を託され、二人は無念のまんま、赤穂に戻る事になる。


【戸田采女正よりの返書】

昨五日。月岡氏、多川氏の御両使、御到着申し御越しになり候。紙面の趣、賜り候らえども、

既に、赤穂城開城を決し、受城の使者一方も江戸を出た後なれば、拙者如何とも成し難く候。

家中の面々、一筋に主君の為を思われ候段、余儀なきには聴こえ候ども、

偏に御当地不案内由えと存る事に候、月岡、多川の両氏には、よくよく事情は説し候。

戻りたれば、両氏に申し含め候の如く、公儀を重んじ、奉り、いよいよ、城滞りなく相渡し、退かれ候儀、

内匠頭殿の存念に相叶い、本望なるべき候間、尚、此の旨存ぜらるべき候、右に相違すべき為、斯くの如くに候也

四月六日


                        大目付 戸田采女正

浅野内匠頭長矩様 家老中

同        組頭中

同        用人中

同        目付中

同        総家中

追啓 御当地に詰め合わせる面々へは、右の旨よくよく申し語り候。以上。


この手紙を持って、月岡治右衛門と多川九左衛門の両人は赤穂へと戻ったので御座います。



つづく