またまた、時計の針を少し過去に戻します。殿中松の廊下にて、内匠頭が刃傷となった江戸城の大手下馬先の事で御座います。
大きな立札を持った数多くの旗本衆などが、半蔵門から土手伝いに、大手下馬先へと出て来て、其れを下馬先にへ、オッ立て始める。そして、見ると、
『播州赤穂五万三千石、浅野内匠頭長矩が、殿中松の廊下にて、高家筆頭、吉良上野介義央に対し刃傷。』
と、だけ札には書かれていて、仔細は不明のままであった。是だけの情報しか与えられませんから、播州浅野家も吉良家も、そして浅野本家も吉良から養子を出した上杉家も、
只々、上を下への大騒ぎをするしか成す手はなく、断片的な情報に、一喜一憂するばかりで、赤穂側も、片岡源五右衛門が、
國元、播州赤穂へと書面にて早飛脚を出しはしたが、其れはこの立札並に情報に乏しく、二番手にはもう少し具体的な情報を持たせて出す算段をしていた。
そして、片岡源五右衛門が田村邸にて、内匠頭の遺言を仕入れて、鉄砲洲の藩邸に帰り、直ぐ様、赤穂國表への伝令、進言役が選ばれて、
萱野三平と速水藤左衛門の足自慢両人が、江戸表を出発し、睡眠中も早駕籠を乗り継いで、播州赤穂を目指した。
この二名は、実に昼夜を徹し動き続けて、三日の内に、六十八時間走り四時間の仮眠中は駕籠移動、是を二セット繰り返して、なんと!六日目には赤穂郡の豊田庄に在る苅谷城へ登城するのです。
さて、播州赤穂の國表では、内匠頭が切腹する数日前と申しますから、三月十日前後に、赤穂城の大手の中庭、内匠頭の居間の北側に、
周囲三尺は有ろうと云う程の大きな蜂の巣が出来ていて、是を見た藩士、奉公人達は、『何時、こんな物が出来たやら?!』と、不思議がっていた。
その巨大な巣へ、蝉か?!と、突っ込みたくなる様な、又、巨大な山ん蜂が一匹飛んで参りまして、巣の上に止まりまして徘徊致します。
すると、この山ん蜂の周囲に小蜂が数百匹、巣の中から出て参りまして、山ん蜂vs群の小蜂の闘いと相成ります。
然るに、この巨大山ん蜂は、小蜂の攻撃に全く怯む様子なく、是に応じまして勢い鋭く、左右前後に小蜂を蹴散らし、
初手は優勢に見えて御座ましたが、敵は巣の中から無数に現れて攻撃致します由え、次第に動きが鈍くなり、最後は地に落ちて死んで仕舞いまする。
この様子を見た、城代家老大石内蔵助義雄は、山鹿流の兵法の奥義を極めた人なれば、風水天文にも深く通じておる由え、
一連の蜂の異変を見ては、『当家に何も起ら無ければ。。。』と、深く深く心配なされていた所に、
片岡源五右衛門よりの、早飛脚に続き、萱野三平と速水藤左衛門の二名が息せき切っての到着、事の次第を注進に及びます。
是を受けて、江戸表に遅れる事六日、播州赤穂城に於いても、大評定が開催されて、
『籠城しての徹底抗戦!』を主張する者、『江戸表吉良邸に討ち入り、上野介の身印を捕れ!』と言い出す者、
はたまた、『素直に開城し、公儀に対して敵対心の無い事を示して、ご舎弟大學様を立てて、お家再興を願い出るべし!』と、冷静な考えを申すもの。
兎に角、武士なのだから主君に従い『殉死』は当然!と、主張する藩士と、いやいやもう泰平の世なれば、公儀には逆らわず『長い物には巻かれろ』と、主張する藩士が衝突致します。
また、伝令は口伝えに人を変えて本家である芸州の松平安芸守にも伝えられますれば、芸州公は、内匠頭長矩が、起こした事件の重さから、切腹、改易の処分はやむなし!だが、
長矩候は一國一城の身でありながら、庭の白洲にて筵の上に畳を置き、白幕張りの場所にて切腹、しかも、吉良家には一切お咎め無し。
是には芸州公、忿懣を露わになさりまして、当時、江戸城に居わした由え、翌日十五日には、田村邸に使者を遣わして、
芸州公「昨日の内匠頭不行届につき、切腹仰せ付けられましたるは、恐れ入り次第に御座いますが、庭白洲上での切腹の儀は、何方様のご指図やぁ?!この儀、承りたく候こと。」
と、申し入れられておりました。この件は、田村家側は、書院・室内での切腹を主張したが、如何せん、検使側、正田下総守と多門傳八郎が、『罪人なれば庭』と譲らず、
田村右京太夫としても、大いに反論した末の、苦渋の決断だったと、芸州公へは苦しい返答を返すしかなかった。よって、
「御検使役、正田下総守様よりの強いご指図で御座います。」と答えたと言う。
さぁ是には、安芸五十万石の芸州公が、公儀に対して怒りのご意見書を出し、老中・若年寄、並び大目付に訴えて出ます。
すると、翌十六日には、正田下総守と多門傳八郎には登城命令が出て、若年寄の諸侯列座の場に於いて、
若年寄「貴殿等は、公儀検使役を拝命して於きながら、なぜ!内匠頭を庭上にて切腹をさせた?!
しかも、預かり先の田村家からは、書院内の使用を予め提案されていたにも関わらずである。
如何なる法度、流儀に乗って、かかる野蛮極まりない作法にて切腹なされたか?返答を頂きたい!?」
と、真っ赤な顔で怒鳴る若年寄に対して、恐縮仕切った下総守は、
下総守「全く思いも依らず。。。無知で御座った。」
と、下総守は無知な振りして、この場を逃げようとしましたが、多門傳八郎が是を許しません。
傳八郎「アぁイヤ待たれよ。昨日に於いて、確かに田村右京太夫様より、書院にてと提案を承り、下総守様と協議致した上で、
下総守様が田村側の意見を一向に採用なさいませんで、庭先での切腹をご判断なさりまして、斯様な士業と相成りまして御座いまする。」
と、多門傳八郎、下総守を二階に上げてハシゴを外します。
是には下総守、酷い事を言う!貴様も片棒担いだ癖に、とは思いましたが、事の真相如何とも仕難く、この場は責任を一身に受け、
一言の言い訳も出来ずに、平謝りして、この場を去る事になるのですが、其れが為、翌十九日に大目付のお役御免と成って仕舞うのである。
この時代は、特に『武士の情けを知らぬ奴!』と、レッテルが貼られてしまうと、生きては行けぬ世界だった様で御座いますが、まぁ、いい気味です。
この後、江戸表では、正田下総守の処分と同じ頃、鉄砲洲の赤穂江戸藩邸に対して、屋敷引き渡しの沙汰が下ります。
是を仕切るのは、新しい大目付で、戸田采女正と言う方で、赤穂藩士、まぁ既に赤穂浪士には、夢々騒動は起こすなとの達しが出まして、
同じく芸州公からも、「内匠頭家来に対しては、即刻退散いますべし!」との訓令が出されます。
そこで、期限を三日と切られてしまいますか、鉄砲洲の藩邸では上を下への大騒ぎに成りました。
この時、内匠頭ご正室の阿久里様(後の瑤泉院様)は、内匠頭様刃傷、田村邸にて切腹、赤穂藩改易と、
怒涛の様な不幸が押し寄せて、暗く心は鬱々となり体調も優れません。更に泪も枯れたご様子で、何か一点を見詰めてボーっとなさいます。
そして、ハッと我に返り思う事は、あの白狐の十四日の朝で御座います。あの日の『お勤め行ってなさいませ。早々御入りなさいます様。』と、掛けた言葉が、まさか!今生の別れになろうとは?!
近習の戸田の局だけが頼りと成る、阿久里様なのですが、この戸田の局と言う役も、『忠臣蔵』では重要な役所です。
そして、『南部坂、雪の別れ!』『二度目の清書』では、キーマンであり、赤穂義士・小野寺十内の妹です。
講釈は『南部坂』で、落語は『二度目』と呼ぶ傾向にありましたが、最近は講釈師も、『二度目の清書』でやる人がちらほら。
さて、戸田の局。『忠臣蔵』全体を通して見ると、キレ者の奥女中頭と言うイメージですが、『南部坂』や『二度目』では、
あの展開で、大石内蔵助の演技が読めないのは、やっぱり間抜けで、そんな間抜けなのに、上杉が送り込んだ女中のくノ一(女スパイ)は見破るという、
出来るキャリアウーマンなんだけど、天然ボケが入っている。『そこまで言って委員会N P』の元財務官僚の山口真由さんみたいなキャラクターです。
この山口さん東大法学部主席で卒業し、在学中に司法試験合格、ニューヨーク州の弁護士資格も持つハーバード・ロースクール出。
なのに、一週間消費期限切れの牛乳に、消費期限の一週間前の牛乳を混ぜて、『ヨシ、之で大丈夫!』と言って飲み腹を下す様な天然。
正に、お前は、戸田の局かぁ?!と、突っ込みたくなる女性です。さて、今回は、そんな山口真由キャラの歴代、戸田の局を見て行きます。
1964年 大河ドラマ『赤穂義士』
桜緋紗子。宝塚出身ですね。新派から引退して仏門に入られ、長勝寺で尼僧になられて、後に「小笠原英法」と改め瑞龍寺に移られてからは人生相談をされてましたね。
桜さんは、やっぱり古い映画ですが、『アルルの女』のイメージですね。阿久里は岸田今日子でした。
1969年 あゝ忠臣蔵
阿井美千子。宝塚から大映の専属女優です。目が切れ長で、昭和の時代劇女優ってイメージです。阿久里は高田美和(元々は藤純子の予定だった。)この阿久里と戸田の局の対比が宜いですね。
1971年 大忠臣蔵
東郷晴子。宝塚出身、同期の越路吹雪、月丘夢路、乙羽信子と共に売れた女優さんで、私は社長シリーズのイメージです。ハコちゃんの愛称で親しまれました。
阿久里は佐久間良子で、此れは三船敏郎が東映の社長に直談判して実現したそうです。条件は三船が東映に三本出演する。
1975年 大河ドラマ『元禄太平記』
露原千草。渋い脇役の女優さんで、戸田の局にもピッタリだと思います。賢く天然な雰囲気がある女優さんです。
因みに、阿久里役は、宮園純子さん。宮園さんは水戸黄門で風車の弥七の女房、霞のお新で有名ですよね。
1979年 赤穂義士
大塚道子。俳優座出身で、悪役のイメージが強く、嫁を虐める姑が似合う女優さんです。
因みに、阿久津は松坂慶子でした。松坂さんは阿久里役は、何度かやっていますよね。
1985年 忠臣蔵
野川由美子。まだまだ、現役で時代劇には出てらっしゃいます。兎に角、地声がデカい女優さんで、撮影所に野川さんが居るか居ないか直ぐに分かるくらい声がデカい女優さん。
喋らなければ、本当に美人だと思います。因みに阿久里は多岐川裕美。このコンビはなかなか宜しいと感じました。
1989年 大忠臣蔵
弓恵子。大映の俳優、潮万太郎さんの娘さんですね。時代劇では、大変お馴染みの女優さんです。因みに、この阿久里役も松坂慶子さんです。
1991年 忠臣蔵
野際陽子。此れは解説の必要がない有名女優さんですね。野際さんの戸田の局、見てみたいのですが、阿久里役が古手川祐子なんですよねぇ〜、ウーン、微妙な配役です。
1994年 大忠臣蔵
二宮さよ子。妖艶過ぎますよね、戸田の局には。大奥の年寄、江島とかなら似合うけど。二宮さんは時代劇に欠かせない女優さんです。
因みに阿久里役は、若村麻由美です。この忠臣蔵の阿久里と戸田の局は、妖艶コンビ過ぎます。
1996年 忠臣蔵
長谷川稀世。長谷川一夫大先生の娘さんです。
因みに、阿久里役は麻乃佳世。『浅野かよ!?』と突っ込みたくなる洒落のキャスティングなのか?
1999年 赤穂義士
朝丘雪路。元祖ボイン!元祖天然キャラの雪路さん。
因みに、阿久里役は沢口靖子。この朝丘雪路、沢口靖子も宜い組合せです。
2004年 忠臣蔵
野際陽子。野際さん二回目の戸田の局です。因みに阿久里役は櫻井淳子さん。櫻井さんは偶に、時代劇でも見ますが、二時間ドラマのサスペンス劇場のイメージです。
2010年 忠臣蔵
梶芽衣子。この人も戸田の局が似合うなぁ。ただ、『鬼平』のお雅のイメージが強すぎるけど、因みに阿久里役は檀れいさん。
さて、この戸田の局に話を戻しましょう。戸田の局は、先にも申した通りで、赤穂義士の小野寺十内の妹子で御座います。
兎に角、内匠頭の死を知らされて揺れる家中にありながら、戸田局の気丈さが際立って御座います。
源五右衛門が、内匠頭の最期を伝える場面に立ち会って、ボロボロと泣き崩れる江戸藩邸の家来を尻目に、
泪の一粒も溢さず、内匠頭の御内儀、阿久里様をお支えし、且つ、この阿久里様の御出家の世話一切を取り仕切りましたのも、戸田の局で御座います。
長い長い戒名『冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士』と書かれたご位牌を、片岡源五右衛門から受け取り、
真新しい仏壇を用意して、お納め致し、更には、瑤泉院と称する事になった阿久里の剃髪を執り行い、
この時、切り落とした黒髪は、亡き内匠頭墓へ納めて下されと、片岡源五右衛門に託し、泉岳寺へと持ち込まれている。
そして、剃髪を済ませた瑤泉院と戸田の局、並びに十名程の侍女たちは、瑤泉院の実家、赤坂の備後國三次浅野家下屋敷へと移り住むので御座いますが、
その後に、瑤泉院たちは、三次浅野家の麻布南部坂の寮へと更に移り住む事になります。
しかし、鉄砲洲の赤穂藩邸から、ご実家、三次浅野家下屋敷へと移っても、瑤泉院の悲しみは消える事はなく、
この跡も戸田の局は、長い間、瑤泉院を時に励まし、時に癒し、そして時に慰め、時に叱り、兎に角、神の御加護と、夫内匠頭の菩提を弔う事で、瑤泉院の生きる気力を支えるので御座います。
つづく