元禄十四年三月十四日、春の三月半ば、桜はもう満開を終えて散り、千代田の城の堀には花筏が浮かんで御座います。

黄昏た空は曇晴として、慈芝愛宕下にある田村右京太夫の屋敷、その庭先に麻裃を着して、福草履を履いた、

一個の凛然たる武士(もののふ)が平伏して御座います。其の目は血走り、言うに言われぬ苦悶の様が脈々と浮かんでいる。

此の一人の男が、身には同じ麻裃を付けているが、何処となく犯し難い、気品が自ずから備われる様子で、静々と其の縁先に現れた男、其れこそが一人の家来で御座います。


家来は一目、この武士を見るや。「ハッ!」

と、ばかりに平伏して、早胸が塞がったのか、堰来る泪を止めもせず、差し俯くと、

「おぉ、宜く訪ね参った。」

と、上なる人は、只一言で跡に次ぐ言葉がない。軈て、差し俯いていた家来は、泪に現れた顔を上げて、懐かしげに、その人を見つめやった時、両者の見交わす目と目が合うので御座います。

「お心静かに。。。」

下なる武士は、漏れる様な声で、上なる者へ言上致すがやっとで、後はただただ寂然、心菜の花、二片三片ハラハラ地に敷いた。


そも此の光景は、何を示すのか?時は元禄十四年、勅使御饗応役の一人たりし、浅野内匠頭長矩は、

殿中松の廊下にて、吉良上野介義央に対し刃傷に及び、此の芝愛宕下田村邸にお預かりとなり、取調べ吟味の結果、即日、切腹の沙汰が下ります。

是より先、その内匠頭が家臣にて、内證用人  兒小姓頭の片岡源五右衛門は、主君長矩候に付き従い登城。

大手下馬先にて、供待ちをしている折り、殿中の凶変が紫電の如く閃傳されて、其れはお家の一大事!!

片時も猶予なり難しと感じた源五右衛門、直ちに汗馬一鞭、築地鉄砲洲の藩邸へと立ち帰り、事変のあらましを藩中の面々に伝える。

その後、筆を取り此の事変を草しては、早飛脚を立てて、国元播州赤穂へ即日注進させんと致します。

更に、自身は千代田の城へと戻りまして、公儀お目付役より、長矩候が芝の田村邸へと移されたと知るや、是に馳せ参じ、君侯の身の上如何に?と伺い出たのである。


すると事は既に決して折り、沙汰は下り、田村藩の面々は源五右衛門に面接して、

田村藩士「お気の毒ながら、既に大目付様より、内匠頭殿へは御切腹の沙汰が下って御座いまする。

又つい先程、遺言の趣きも、書き留め終えて御座いますれば、既に御検使の許しも頂いており、其れをお伝え申しましょう。」

と、申されて、あの有名な長矩候の臨終(いまわ)の一首。


風さそふ 花よりもなほ 我はまた

     春の名残を 如何にとかせん


と、書留られた歌を見た源五右衛門、余りの衝撃に声も出ず茫然自失、泪すら出ない状態で暫くその場に佇みます。

そして暫くの後、片岡源五右衛門は意を決して、取り継ぎの藩士に申します。

源五右衛門「私は、之れまで主君の左右近くにお仕えして参った近習の一人に御座います。

さして重き役職には御座らんが、

重き仕置きを主君内匠頭が受ける前に、何卒、何卒、主人に一目面会を賜りとう存じます。この儀何卒、お取次をお願い申し奉りまする。」

使者の間の畳に鼻先を擦りながら懇願する源五右衛門を見て、取り継ぎの武士(さむらい)も、勿論、理解して是を主人の右京太夫へ取り継ぎます。

是を聴いた田辺右京太夫も、人の子です。人情が判るお人ですから、御検使に対して、切腹の前に、内匠頭と源五右衛門の面会の許可を取り、二人の対面を叶えてやるのです。

この更に、詳しいやり取りは、『本傳』にて、お届け致しますので、この『銘々傳』では、片岡源五右衛門の生い立ちからの紹介を致します。


彼、片岡源五右衛門は、尾州、尾張國の産で御座います。祖父は熊井藤兵衛と申しまして、かつて、浅野采女正に仕えて、二百石取りの武具奉行職を拝命しておりました。

しかし、浅野宗家の姫君が、芸州から尾州の徳川家へ嫁入りする事になり、その近習として、藤井藤兵衛の倅、十次郎重房が選ばれ、重房は尾州徳川の藩臣と成ります。

この重房には、二人の男子があり、長男は祖父の名である藤兵衛を次いだ『藤兵衛次房』で、藤井の家名を継ぎ、尾州徳川家の家臣として勤めます。

そして、次男は『十兵衛高房』と申しまして、播州赤穂の祖父である藤井藤兵衛とは、遠い親戚である片岡六左衛門の養子となりまして、

後には、家督を継いで、片岡源五右衛門高房と名乗り、赤穂浅野家の家臣となるので御座います。

この源五右衛門は、兎に角、美少年剣士として有名で、播州赤穂の田舎育ちに混じると、尾州名古屋の洗練された育ちで御座いますから、

君主の長友候に、まず気に入られて小姓に取り立てられ、更に長矩候の代になると、御用人として三百五十石取りの重臣となるのです。

片岡源五右衛門は、年齢も、内匠頭長矩と同じで御座いますから、用人の中でも、長矩は源五右衛門を大変頼りにし、可愛がっていたので御座います。

ただ、なぜか?ドラマ、映画『忠臣蔵』に登場する源五右衛門は、長矩候より、五歳から十五歳程年上の役者が選ばれる傾向に御座います。

取り敢えず、時代順に、テレビドラマだけ、簡単に調べてみました。


1964年 大河ドラマ『忠臣蔵』

大石内蔵助に長谷川一夫、吉良上野介は滝沢修、そして内匠頭長矩は七代目尾上梅幸で、片岡源五右衛門は二代目中村又五郎ですから、一歳差と珍しく歳が近く歌舞伎役者二人を揃えて御座います。

因みに、堀部安兵衛は加藤武、彌兵衛は二代目中村芝鶴という組合せでした。


1969年『あゞ忠臣蔵』

大石内蔵助に山村聰、吉良上野介は山形勲、そして内匠頭長矩は松方弘樹で、片岡源五右衛門は小池朝雄ですから、十一歳年上です。

因みに、堀部安兵衛は梅宮辰夫、彌兵衛は伴淳三郎でした。


1971年『大忠臣蔵』

大石内蔵助に三船敏郎、吉良上野介は八代目市川中車市川小太夫、そして内匠頭長矩は七代尾上菊五郎の菊之助時代で、片岡源五右衛門は江原真二郎ですから、六歳差です。

因みに、堀部安兵衛は渡哲也、彌兵衛は有島一郎という組合せでした。


1975 大河ドラマ『元禄太平記』

大石内蔵助に江守徹、吉良上野介は小沢栄太郎そして内匠頭長矩は十五代片岡仁左衛門の孝夫時代で、片岡源五右衛門は日高晤郎ですから、同じ年齢です。

因みに、堀部安兵衛は関口宏、彌兵衛は有島一郎という組合せでした。


1979年『赤穂浪士』

大石内蔵助に萬屋錦之介、吉良上野介は小沢栄太郎、そして内匠頭長矩は松平健で、片岡源五右衛門は和崎俊哉ですから、実に十六歳差です。

因みに、堀部安兵衛は伊吹五郎、彌兵衛は香川良介という組合せでした。


1982 大河ドラマ『峠の群像』

大石内蔵助に緒形拳、吉良上野介は伊丹十三、そして内匠頭長矩は隆大介で、片岡源五右衛門は郷ひろみですから、二歳差で年が近い配役、何んとなく大河ドラマは時代考証が綿密です。

因みに、堀部安兵衛は磯部勉、彌兵衛は北見治一という組合せでした。


1985年『忠臣蔵』

大石内蔵助に里見浩太朗、吉良上野介は森繁久彌、そして内匠頭長矩は風間杜夫で、片岡源五右衛門は竜雷太ですから、九歳差です。

因みに、堀部安兵衛は勝野洋、彌兵衛は加藤嘉という組合せでした。


1987年『必殺!忠臣蔵』

大石内蔵助に山城新伍、吉良上野介は日下武史、そして内匠頭長矩は沖田浩之で、片岡源五右衛門は佐川満男ですから、二十四歳差です。

因みに、堀部安兵衛は高峰圭二、彌兵衛は幸田宗丸という組合せでした。

やはり、必殺シリーズの中の『忠臣蔵』と言う感じです。


1988年『忠臣蔵』

大石内蔵助に児玉清、吉良上野介は若山富三郎、そして内匠頭長矩と片岡源五右衛門は供に登場なし!!

因みに、堀部安兵衛は沢竜二と言う役者でした。


1989年『大忠臣蔵』

大石内蔵助に二代松本白鸚の幸四郎時代、吉良上野介は御木裕、そして内匠頭長矩は近藤正臣で、片岡源五右衛門は岡田圭ですから、逆に内匠頭が十八歳歳上!

さすが、既婚二十七歳の娘ありで、『柔道一直線』で高校生を演じた近藤正臣です。

因みに、堀部安兵衛は岡本富士太、彌兵衛は有馬昌彦という組合せでした。


1990年『忠臣蔵』

大石内蔵助にビートたけし、吉良上野介は東千代之介、そして内匠頭長矩は三田村邦彦で、しかし、片岡源五右衛門は登場せず。

なんと!田村邸の別れは無いパターンみたいです。

因みに、堀部安兵衛は陣内孝則、彌兵衛は下條正巳という組合せでした。


1991年『忠臣蔵』

大石内蔵助に仲代達矢、吉良上野介は大滝秀治、内匠頭長矩は中井貴一で、片岡源五右衛門は高橋悦史ですから、なんと!二十六歳差です。

因みに、堀部安兵衛は地井武男、彌兵衛は花澤徳衛という組合せでした。


1994年『大忠臣蔵』

大石内蔵助に松方弘樹、吉良上野介は西村晃、内匠頭長矩は東山紀之で、片岡源五右衛門は近藤真彦ですから、二歳差です。

因みに、堀部安兵衛は役所広司、彌兵衛は浜村淳という組合せでした。


1996年『忠臣蔵』

大石内蔵助に北大路欣也、吉良上野介は平幹二朗、そして内匠頭長矩は緒方直人で、片岡源五右衛門は本田博太郎ですから、十五歳差です。

因みに、堀部安兵衛は世良公則、彌兵衛は根上淳という組合せでした。


1999年『赤穂浪士』

大石内蔵助に松方弘樹、吉良上野介は田村高廣、内匠頭長矩は石黒賢で、片岡源五右衛門は大橋吾郎ですから、ちょうど十歳差です。

因みに、堀部安兵衛は山下真司、彌兵衛は内藤武敏という組合せでした。


2001年『忠臣蔵』

大石内蔵助に佐藤浩市、吉良上野介は津川雅彦、内匠頭長矩は堤真一で、片岡源五右衛門は原田龍二ですから、六歳歳差で此方も内匠頭が上パターンです。

因みに、堀部安兵衛は木村拓哉、彌兵衛は杉浦直樹という組合せでした。


2003年『忠臣蔵』

大石内蔵助に二代中村吉右衛門、吉良上野介は橋爪功、内匠頭長矩は上川隆也で、片岡源五右衛門は田中実ですから、一歳差で此方も内匠頭が上パターンです。

因みに、堀部安兵衛は伊原剛志、彌兵衛は浜田雄史という組合せでした。


2004年『赤穂浪士』

大石内蔵助に松平健、吉良上野介は伊藤四郎、内匠頭長矩は沢村一樹で、片岡源五右衛門は羽場裕一ですから、六歳差です。

因みに、堀部安兵衛は宇梶剛士、彌兵衛は佐野浅夫という組合せでした。


2007年『忠臣蔵』

大石内蔵助に北大路欣也、吉良上野介は江守徹、内匠頭長矩は高島政伸で、片岡源五右衛門は山下規介ですから、四歳差です。

因みに、堀部安兵衛は山田純大、彌兵衛は寺田農という組合せでした。


2010年『忠臣蔵』

大石内蔵助に田村正和、吉良上野介は西田敏行、内匠頭長矩は玉山鉄二で、片岡源五右衛門は尾美としのりですから、十五歳差です。

因みに、堀部安兵衛は小澤征悦、彌兵衛は山本學という組合せでした。


2012年『忠臣蔵』

大石内蔵助に舘ひろし、吉良上野介は柄本明、内匠頭長矩は十代松本幸四郎の染五郎時代で、片岡源五右衛門は金子昇ですから、一歳差で内匠頭が上になります。

因みに、堀部安兵衛は内野聖陽、彌兵衛は橋爪功という組合せでした。


さて、噺を片岡源五右衛門に戻します。最初でもうした様に、源五右衛門は藩士でただ一人、内匠頭長矩候の最後に立ち合い、最期の言葉を交わします。

更に、埋蔵先にも、磯貝十郎左衛門と二人して奔走いたします。此れは堀部安兵衛の銘々傳でも紹介した通り、

浅野家の元々の菩提所、芝愛宕下萬年山青松寺が、寺社奉行の許可証がない事を理由に埋蔵を拒否するので、

源五右衛門は、目付並びに評定所の役人と掛け合いまして、何とか受け入れ先となる泉岳寺に、内匠頭の遺体を持ち込んで埋蔵して貰います。

此の時、源五右衛門は磯貝十郎左衛門共々、必ずや、上野介より受けた遺恨に対しての復讐を心に刻み、

彼ら二人は、直ちに播州赤穂へ向けて行動を起こし、大石内蔵助に会って『復讐の意志』を伝えるのですが、

まだ、この段階では、赤穂藩内は議論の最中で御座いまして、籠城か?開城か?の議論が最優先課題ですから、

大石内蔵助ですら、二人が願う『吉良上野介への復讐』の噺に乗ってすら呉れません。

ですから、此の時点では、二人共に大きな失望を胸に、何の夢も希望も失いつつ、江戸へと帰るしか御座いませんでした。

君主長矩候の不条理な死を、間近で目撃した片岡源五右衛門と磯貝十郎左衛門に比べて、是を早飛脚の書面で知らされた大石をはじめとする赤穂の藩士達では、やはり、温度差が激しく、


城に籠って討死するも?捲土重来を待って敵に斬り死にするも、君主に殉じるの義は一つで御座る。此の上は、銘々が信じる義を貫くまで!


そう、源五右衛門と磯貝は、大石たち赤穂の藩士達に言葉を残して、江戸へと去る訳ですが、

まだ、此の時には、『打倒吉良上野介の同盟』は立ち上がっておらず、連判状も存在しませんから、二人は血判には至らず江戸へと戻ります。

軈て、片岡と磯貝は、江戸で勅使饗応役として吉良上野より受けた恥辱と無念を供に知る、堀部親子、奥田親子など江戸急進派とも、意見交換をするのですが、

どーも、急進派の面々とは、源五右衛門、肌が合わないと言うのか、互いに合い入れずに、当初は別行動を取る事になります。

そして、播州赤穂城が開城と決まり、大石内蔵助らが、浅野大學様を立てお家再興を目指すが、ならぬ時は、吉良上野へ一矢酬いん!と、

『赤穂浪士の蜜盟』が連判状に名を記して血判に及ぶと知り、源五右衛門は、十郎左衛門と供に是に加わります。

そして、大石内蔵助が京都山科へ閑居したと聞くと、家族を連れて、江戸を離れて山科へと移り住みます。

更に、いよいよ機は熟したと、大石の号令で上方に居る同士たちも、東へと下り、江戸の吉良邸へ討ち入りが決まりますと、

妻と子を山科に残して、単身江戸へと下り、吉良上野介への復讐に取り掛かる、片岡源五右衛門。東へと下りる道中で、本家・実家のある尾張國名古屋へ立ち寄ります。

此の時、父である藤井十次郎は隠居の身なれど、まだまだ健在で、次男の源五右衛門の訪問をいたく喜びます。


源五「父上、無沙汰をしております。源五右衛門、只今、伺って御座いまする。」

十次「よう参ったなぁ、高房。元気であったか?女房、子も達者であるか?!」

源五「ハイ、元気に御座いまする。京に在りましても、なかなか、尾州へは足が向きませんで、ご無沙汰しております。

先年、赤穂藩はお取り潰し、浪々の身は貧しくも御座いますれば、父上のご尊顔を拝し、恐悦至極に存じ奉ります。

この度は、江戸表に仕官の口が御座いまして、江戸表へまかり越す途中、尾州名古屋を通りますれば、父上に報告がてら、寄らせて頂きました。」

と、源五右衛門が言い終わるか、終わらぬうちに、父、十次郎の顔がみるみるうちに、鬼の様な形相に変わります。

十次「何んと申した高房!今一度、申してみろ!武士が貧乏して何が恥ずかしい、それより、浅野様からの御恩を忘れるなんて!どういう料簡なんだ!!

内匠頭様から、あれだけ格別の配慮を賜りながら、公儀の理不尽な裁定で、お家を取り潰された内匠頭様の無念が判らぬのかぁ?、此の白痴者。

だいたい、『忠臣は二君に仕えず!』と言う

諺を知らぬのか?少しばかり、貧したと言って節操無く仕官先を探すなど、言語道断!!

お前には、忠義の心は宿らぬのか?それでも、藤井の一族かぁ!?片岡へ養子には出しはしたが、お前は血を分けた儂の子ぞ!其れを二君になんぞ、仕えおって!貴様など、もう、親でも無ければ子でも無い。勘当だ!絶縁だ!

二度と顔も見とうない!高房めぇ、早く、早く!此処から立ち去れ。ウーン、気分が悪いワァ〜!!」

と、怒鳴り散らすと、其の場に置いてあった、孫の手と扇子を、源五右衛門へ力任せに投げ付けるのでした。


そして、荒々しく障子戸を開け放ち、藤井十次郎が出て行った跡に、兄の藤兵衛が参ります。兄一人、弟一人の二人兄弟ですから、

父の怒りで落ち込む弟の源五右衛門に、優しく言葉を掛けて呉れました。

藤兵衛「高房、父上は歳を取られて、短気になられた、許して呉れ。義に生きろ!とは言え、女房や子を養うには金子が要る。

其れは、父上も重々知りながら、あんなに長矩候に心酔していた貴様が、一年も経たぬうちに、仕官すると聴いて、逆上なされたのだ。

儂や父上が、お前を養ってやれる禄も無く、身勝手な言いようだが、父の気持ちも察してやって呉れ、高房。」

源五「すいません、兄上。迂闊にも、仕官の噺を父上の前で聴かせて仕舞いました。もう、二度と、父上、兄上にお会いする事は、無いかも知れませんが、兄上の口から、高房が詫びておったとお伝え下さい。」

藤兵衛「何を、今生の別れの様に言うんだ、高房。また、暫くしたら今度は女房子を連れて、名古屋へ参れ。父の機嫌も治る。」

言われた源五右衛門は、『本当は、主君の仇を討ちに江戸へ参ります!』と、言い掛けて言葉を全部呑み込んだ。そして、代わりに、

源五「兄上、もう之が最後になるやも知れませぬ由え、之を高房の代わりと思ってお納め下され。」

と、小刀を一振り残して、片岡源五右衛門は、江戸へと入ります。


さて、江戸表に到着した片岡源五右衛門、尾州浪人、吉岡藤兵衛という偽名を使いまして、南八丁堀の湊町に、一軒家を借り受けまして住み始めます。

すると、続々と上方からやって参ります浪士、矢頭、大高、貝賀、田中などなど、多数の仲間たちと此処で共同生活をしながら、

吉良邸の様子を探り、討ち入りの日をひたすら待つので御座います。そして、迎えた元禄十五年極月十四日。

片岡源五右衛門は、表門から斬り込んで、抜群の働きをして、吉良上野介に復讐を成し遂げます。

そして、細川越中守へ預かりとなり、翌年元禄十六年二月四日に切腹。享年三十八歳、戒名を『刃勘要剣信士』で御座います。