浅野内匠頭長矩が、殿中松の廊下での刃傷に及んだ『真の動機』『潜在的動機』は、一休禅師の『照月』の真筆論争と云っても差し支えない。

今一つ、触れて起きたい動機に、内匠頭の内儀、阿久里(後の瑤泉院)に対する上野介のちょっかいと言うかぁ、

上野介本人が横恋慕したと言うよりは、倅の内儀にと、備後国三次藩の藩主、浅野因幡守長治の姫・阿久里を狙っていたのだが、

同じく浅野長政からの分家である内匠頭に、取られて仕舞った事への恨みがあったと、芝居や講釈では、其れや之やが複雑に絡み絡れて刃傷となるのである。

兎に角上野介という人は従四位少将で、年齢は既に還暦を過ぎては居ましたが、その当時中外の耳目を驚かせたのは、

時の老中柳澤出羽守、即ち後に松平美濃守吉保に対し、深く深く取り入り、大変気に入られており、禄高は五千石弱なのに大層な羽振りだったと言う。

と、申しますのも、吉良上野介義央は、柳澤吉保からの信任厚く、徳川家が代替りをする際の、朝廷との『征夷大将軍』任命交渉を行なって居ました。

其れ由えに、実に莫大な礼金を、朝廷と幕府の間を取り持つ事で得ていたと言われております。

然し、吉良家は高家筆頭として、この『征夷大将軍』任命の根回しと言う最大の利権を、初代家康から、秀忠、家光、家綱、綱吉と、

徳川家五代までの征夷大将軍を誕生させて来ましたが、吉良上野介義央が、赤穂浪士に討ち入りを受けて、

吉良家は、養子で上野介の孫に当たる吉良義周が、『不行届』として、諏訪藩諏訪忠虎に預けられ、最終的には領地没収となり、吉良家は断絶してしまう。

この吉良家に対しては、徳川家(とくせんけ)が『征夷大将軍』の代替りで、露骨な謝礼金の釣り上げと思われる、朝廷との交渉期間引き伸ばしを怨みを買っていた様に推察されます。

特に、家康と秀忠は、生前退位し、大御所として影から政に関与していた関係から、『征夷大将軍』が空位とは成る期間無く済んだが、

三代家光、四代家綱、五代綱吉と、全て、将軍が空白となる期間が三ヶ月程度必ず発生し、その間、幕府は上野介の京での朝廷との交渉を待つしかなく、

正に、『まな板の上の鯉』と言っても過言ではなく、その将軍空位の間は、上野介からの要求を無条件に呑むしか無かったと推測される。


この様な朝廷利権の上に胡座を掻いている上野介ですから、野心満々、金銭第一主義で、当時の風潮では御座いますが、賄賂を貰うのは当たり前、

公私共に、結果を左右するのは賄賂が全ての吉良上野介義央だったようで御座います。誠に始末に悪い人物だったと思います。

然し、この始末の悪い人物が、当時の幕府、及び諸大名家にとっては不可欠な存在だったのも事実で、『征夷大将軍』の任官の根回しだけに止まらず、

吉良家は、高家筆頭として『お師匠番』と言う役目を担って御座ました。即ちこれは、京より年に一回、『天奏使』と言うか畏き(かしこき)辺りの御使いと申しますから、朝廷よりの使者が幕府に下る。

この『天奏使』を江戸にて、接待する『饗応使』の役が、幕府が決める輪番で、三〜五万石の大名が任命され、この『饗応使』を担う事になります。

すると、『饗応使』に任命された大名達は、この持てなしに掛かる費用は、全て持ち出しで、この元禄の時代には、七百から千両を要したと言う。

物や人に掛かる費用は、大名なのだから、何んとか捻出出来るが、問題は、日頃交わりを持たない雲上人を、公家流の作法にて持てなさねばならない事である。

そして、此処に上野介への利権が発生し、『饗応使』となった諸大名は、否応なしに『お師匠番』の上野介に、ご指図を仰がねばならなくなるのである。

即ちこの立場を、始末の悪い上野介が利用するのだから、当然の如く、『お師匠番』としての指南の代償として賄賂を要求し、

守銭奴・上野介がやる事ですから、賄賂の金額に依って、手厚い指南にも、又虐めに近い指南にも、全ては上野介の匙加減なのである。


例えば、泉州岸和田の城主・岡部美濃守という方が、日光御社参の節、将軍家御代拝を仰せ付けられました。

この時、徳川家(とくせんけ)の流儀の指南を、幕府高家筆頭の吉良上野介に教えを乞う為に、賄賂としての金品は贈らず、

一般の儀禮の範囲で白扇と菓子折を贈って、その指南を受けたのだが、結果、上野介は提案型の良し悪し判断はする、つまり、『甲と乙何方にしたら良いでしょうか?』には答えるが、

意見、指図を求めるようなぁ、『どうしたら宜しいでしょうか?』と言う様な質問には、一切答えなかったと言う。

この嫌がらせは受けたものの、岡部藩は幸いにも役目は無事に済ませられたが、美濃守の怒りは大変なもので、

このお役目後に、美濃守は突然、幕府に隠居を申し出て、息子に家督を譲り、自ら對鷗軒と名乗り、青山に隠居所を構えて、此処に移り住みます。

そして、機を伺って上野国を誘いだして、闇討ちにして殺害せん!と、企てるのです。

そんな事は、夢にも思わぬ上野介、散々虐めた事をすっかり忘れて仕舞ったのか?意地汚く欲の皮が突っ張って御座いますから、

この誘いに乗ってノコノコと、青山へと出向きます。しかし、流石に對鷗軒となった美濃路の顔、特に目の奥に殺意を見付け、

米搗きバッタの様に平謝り!武士とは思われぬ土下座の命乞いで、對鷗軒をドン引きさせて、逃げ帰ります。


亦もう一つの例は、石州津和野の城主、亀井能登守で、この人は内匠頭と同じく、『天奏饗應使』の役目を幕府より仰せつかります。

先の美濃守とは異なり、全く知らない公家衆の作法をご教授頂くのだからと、賄賂は贈りましたが、藩の財政が苦しく、充分には贈れませんでした。

すると、上野介露骨に意地悪を致します。ただ、能登守がしくじると、責任は『お師匠番』の自身に返って来るので、

結局、罵詈雑言を浴びせ、田舎侍!井の中の蛙、いや!蛙以下の下魚由え鮒だ!鮒だ!鮒侍じゃ、とお決まりのフレーズで罵倒した後に教えます。

まぁ、この上野介の所業には、流石に能登守は堪忍袋の緒が切れて、次に奴が、素直に教えない時は、刀に掛けて成敗してやる!と、心に決めます。

さて此処で!能登守の忠臣に多古外記と言う聡明な勘定方がありまして、この人が殿様が上野介と一色触発なのを察知します。

そして、この人は直ぐに吉良邸に出向き、追加の賄賂を渡して、『ちゃんと教えないと、ウチの殿様が切れて、貴老、命は無いよ!!』と忠告するのです。

まぁ〜、翌日から上野介の掌返しが始まります。充分な賄賂を貰ったのだから、虐める必要はないし、何より命は惜しい。

逆に、能登守は上野介が、突然、豹変して尋ねもしない事まで、事細かく教えて呉れる様になるから、拍子抜けして、殺意は失せて、『天奏饗應使』の役を無事終える事が出来ます。

此処ですよね、能登守には多古と言う実に対応能力の高い宜い家臣が有ったのに対し、内匠頭の家臣、江戸家老の藤井と安井の無能ぶり。

殿様が、個人的に上野介を嫌いで、賄賂は贈るなと言われいても、赤穂五万三千石の行末を思うならば、江戸家老として、やり方が有った様に思われます。

ただ、内匠頭が切腹すると、討ち入りメンバーには最初から加わらず、退職金と言うか、見舞金を貰うと、とっとと姿を眩ました輩なので、仕方ないのかなぁ?!

因みに、『仮名手本』では、この多古外記が、加古川本蔵、そして亀井能登守が桃井若狭介として登場します。


兎に角、吉良上野介義央と言う人は、大欲無道で御座いまして、賄賂一つでどんな大名、いやいや、幕府に対しても、容赦なく意地悪が出来る人なのですから、

浅野内匠頭長矩のように、一休の『照月』で大勢の知識人を前に、上野介を論破したりすると、どんだけ深い怨みを買っていたか?計り知れません。

そして、月日は流れて、元禄十四年に、吉良上野介義央に、内匠頭へのリベンジの機会が訪れます。

この年の三月、例年通り勅使院使御下向と相成りまして、近く京より御出立とのご沙汰是有り。

この下向は、年始の賀儀を述べる為なれど、この年は是に加えて、桂昌院殿へ一位の官位を授けらるる勅命をも帯びている、

特別なる御使いであるが由え、一層の準備をおさおさ怠りなくと、幕府の重臣方も、ピリピリした状態で在りました。


此の桂昌院殿とは、五代綱吉公の御生母であらせられて、ば、父は北小路太郎兵衛宗正、本庄宗正と言う、摂関家の一つ二条家の家臣であり、

桂昌院は、公家衆方の武士の女(むすめ)として大奥に上がり、三代家光の側室として綱吉を産んで公方様の御生母となるのである。

そして、この一位の御位を賜った後は、通称・一位様と、江戸城内では呼ばれることとなります。

先に申した通り、桂昌院の父は、所詮、公家に仕えた武士であり、二人か三人扶持の下賤な下級侍に過ぎません。

京に在って二条家に仕え、台所の役回りで、本人自身が九条市場へ大根や菜葉を仕入に行っていたと申しますから、

大根買いの太郎兵衛と呼ばれていた時代も御座ましたが、流石に、一位桂昌院様の父上を、大根買いのまんまにはして置けませんから、

五代綱吉公の意向も有って、一気に大名の列に引き上げられて、急の出世を致します。

そんな桂昌院殿への件も兼ねた使者なれば、京よりは勅使一名、院使一名、そして副使一名の合計三名での下向と相成ります。

そこで、饗応役に当たる大名も、勅使と副使の対応に一名、そして院使の対応にも一名を当てる事がまず決まり、

そして、勅使と副使の饗応には、かなりの金銭が必要となる事が明白なので、五万三千石とはいえ、財政が豊かな播州赤穂の浅野家が早々に選ばれた。

また、赤穂浅野は、この十六年前にも勅使饗応役を賜った経験があり、更には本家が、甲州から芸州へと國変えとなり、四十二万石の大大名・松平安芸守が後楯である事なども、選定には影響している。

一方、院使饗応役には、伊予宇和島伊達家、その分家で吉田城の城主が選ばれる事になるのですが、石高は三万石、その名を伊達左京亮宗春と言います。

伊予宇和島の伊達は、勿論、奥州の雄、伊達陸奥守、五十二万石の分家に当たり、禄高は十万石。つまり吉田の伊達家は仙台青葉山の伊達家は、彼等の総本家となるので御座います。

内匠頭と伊達左京亮は、一歳違いで内匠頭が二十二歳、左京亮は二十一歳。いずれにしても、若い二人が勅使院使の饗応役を勤める事と成った。


さて、この様に赤穂浅野家、宇和島伊達家が饗応役に選ばれたと言っても、元禄十四年に突然決められた訳ではなく、前年には既に内定していた。

つまり、前年元禄十三年の十一月には、所管の老中土屋相模守正直から呼び出されて、殿中帝鑑の間に於いて、勅使院使饗応役に、其々任命されていた。

そしてその際に、浅野内匠頭長矩は、老中方に対して、下記の様に一度は辞退を申し述べています。

内匠頭「かかる重きお役儀を仰せ付けらるるは、誠に身に余る光栄なれど、公儀の作法並びに、公家衆の饗応作法も知らぬ不肖内匠、

且つ、若輩者由え御役を全う仕る事、誠に覚束つかない次第で御座る。ぢゃによって、お恐れながら、此の儀は余人に仰せ付けらるるよう、お願い申し上げます。」

しかし、これを聴いた老中土屋相模守は、直ぐにこう言い返します。

相模守「内匠頭殿、汝が不安にかられる気持ちはよーう分かるが、杞憂に御座る。この饗応の作法全般に付いては、

高家筆頭の吉良上野介義央を、指南役に付けまする由え、万事、分からぬ時には、上野介を頼られよ。

彼の者は、権現様の代より、公家との折衝全般を取り仕切る者なれば、案じるには及びません。

貴殿にこの大役を申し付けるというのは、老中の拙者、相模守も共に責任の一端を担う覚悟での推挙で御座る。

ぢゃによって、この場での辞退は、公儀に対しての背信と見なされまする。恐れ多い事ですぞ、浅野殿。」

この様に、老中より言われたからは、受けないと言う選択肢は御座いません。

内匠頭「家の面目、弓矢の誉れ、謹んでお受け致しまする。尚、饗応役に際しての費用も、赤穂藩にて、賄い難い折には、本家の安芸守に助成を乞うても、立派にお役目勤めさせて頂く所存で御座いまする。」


一方、院使饗応役を仰せ使った伊予宇和島、吉田城主の伊達左京亮はと見てやれば、内匠頭が引き受けた次第を見ておりますから、

断るなどと言う選択肢は、勿論無く、この時代、大名同士のライバスル心は凄まじく、「拙者も吉田藩で賄い切れぬ時は、本家宇和島十万石を頼ります!」と、

尻(ケツ)持ちの本家自慢を、左京亮も致す始末で、なかなか、この伊達左京亮と言う人も、負けず嫌いの様子に御座います。

兎に角、浅野内匠頭は、この様な次第で、幕府饗応役の任を承諾し、屋敷へと戻り、此の事を二人の江戸家老、藤井又左衛門と安井彦右衛門両名を呼んで、

内匠頭「今回の饗応役の儀に付いては、全て吉良上野介義央殿より、指南を受けろと、幕老よりの指図である。

よって、能く相応の進物を贈り、吉良家に対しては禮を尽くすよう、良きに計らえ!!」

ここで、内匠頭に仕える江戸家老両人、先にも少しましたが、

この二人が無能で無類のド吝でしわい屋と来ていて、武士、大名の常識と言うものを知らずして、頑固で御座いますから、始末が悪い。

恐らく『赤穂事件』の要因の半分は、この無能で馬鹿な江戸家老二人を信じて、吉良上野介への対応を、内匠頭が任せてしまったからだと言えましょう。

先ずこの二人、十一月の時点で内匠頭から、吉良上野介の事は、宜しく頼むと殿様に言われたにも関わらず放置します。

一方、伊達は十二月に暮れの挨拶に吉良邸へ、左京亮自身が江戸家老同伴で出向き、今後の事は江戸家老に任せますので宜しくと言って、

伊予の特産品の『みかん』などを進物として贈ると同時に、金百両の賄賂も、この時点で渡して御座います。

そして歳が明けて二月になると、いよいよ朝廷よりの勅使院使が京都を出発したとの知らせが、内匠頭の耳にも入り、

内匠頭「藤井!安井!、吉良家にはもう挨拶や進物の進呈は、滞りなく済んでおろうなぁ?!」

と、言われて初めて、『しまった!忘れてた?!』と、舌を出して心で呟き、それでも、常識人なら、この時点でそれ相応の進物と賄賂を贈ったはずだが、如何せん愚か者です。

幕府高家筆頭で、官位が浅野家より上の吉良家に、自身の判断、自身の考えで物や賄賂を贈るなんて、しくじった時の責任が大き過ぎてと、自分で決めるのは、躊躇します。

そこで、先ず、伊達家に探りを入れるのですが、馬鹿だから内々に探るなんて技は知りません。

使者を立てて聴きに行かせます。伊達が『賄賂と特産品を暮れの時点で贈り、春も菓子折りを別に出しましたよ!』などと本音を言うはずもなく、

「当家は今月になり、通常の作法通り、白扇と菓子折りを持参の上、ご挨拶に伺いました。」と、当たり障りの無い答えが返って来た。

これを鵜呑みにし、十六年前の記録と照らして、間違いない!と判断し、藤井、安井の両名は、吉良家へ饗応役指南、『お師匠番』への挨拶に、白扇と菓子折りだけを贈るのである。

まぁ、伊達家と浅野家の差は歴然ですし、浅野には、一休禅師の『照月』の遺恨もあり、そうきたかぁ!と、火に油の結果となります。


上野介「勝手向不如意の伊達左京亮ですら、非常に低姿勢で、『お師匠番』に敬意を払いよるのに、

浅野内匠頭ときたら、一休の『照月』の続きをせん!と、高家筆頭の拙者を愚弄しおる。そちらがそんなつもりなら、此方にも考えが有る!」

ってなもんでしょう。流石に、映画やドラマの様に鰹節を二本は贈りませんが、馬鹿な江戸家老二人のお陰で、内匠頭は吉良上野介から、決定的な怨みを受ける事になります。

この様な背景が有りながら、二月の末、もうあと十日程で江戸に勅使院使がご到着という場面で、老中・土屋相模守より呼び出しが掛かります。

朝廷よりの饗応役と御師匠番との顔合わせの場と言う訳で、江戸城に呼ばれました、浅野内匠頭と伊達左京亮、並びに吉良上野介で御座います。

この時、まさか二人の家老が上野介に対して、まさかあんな失礼千万を働いているとは、露程も知らぬ内匠頭ですから、

内匠頭「未熟者の某(それがし)なれば、万事万端、御師匠番様、貴老のご指図を受くるよう、願わしく存じる次第に御座いまする。」

と、丁寧に言葉を掛けますが、上野介の方は、何をぬかすか!播州の山猿め!ってなもんで、

上野介「いやいや、折角の御頼みなれど、勅使院使のご接待は、愚老とて五十歩百歩、不知不案内なれば、

ご指導ご指図なと以ての外、思いもよらぬ事に御座る。貴殿の思いのまま、御計らい召さるるよう。」

と、突き放すような物言いをされで、事情を理解していない内匠頭は、この上野介の態度に立腹しますが、流石に、土屋相模守の前で喧嘩する訳にも参らず、

内匠頭「左様では御座いましょうが、御老中よりの進言で、貴老が万事万端ご存知である由えに、その方より指図を受けよと、御言葉を頂戴致しました。

何とぞ不知不案内の拙者、ご指導ご鞭撻を賜りたいと存じまする。」

と、低姿勢で丁寧に出られたので、上野介は、何を思ったか?気を取り直して、

上野介「左様でおざっあか、然からば、さぼどのまでに仰せならば、些か心付いた所を申し上げましょう。

魚心あれば水心の例えを出すまでもなく、役目には、御進物が第一で御座る、なぁ、後進物が

と、賄賂を仄めかしたのだが、是を耳にした内匠頭はと見てやれば、『この狸爺め!人が下手に出ていれば、ロクでも無い事を。。。言い出しやがって!』と怒り心頭でしたが、

この場では、之を聴き流して、後日、土井相模守に、この事を内匠頭は相談するのですが、是が更に、上野介の耳に入ります。

是を聞いた吉良上野介は激怒します。人に物を頼むのに、進物を贈るのは当然だ!伊達は、其れなりに呉れたのに。。。それを、老中に告げ口しおって!!

と、是で両者の関係は、決定的に険悪になるのです。



つづく