浅野内匠頭長矩が、吉良上野介義央を、江戸城松の廊下にて、刃傷に及んだ事が、所謂、『赤穂事件』の発端です。

では、何故?刃傷に浅野内匠頭は、及んだのでしょうか?刃傷に及べは、自らの切腹は免れず、

単に其れだけではなく、長重から五代続いた浅野長政の分家、赤穂五万三千石はお取り潰しと分かった上での刃傷なのです。

その理由として、一般に広く知られていて、映画、テレビの時代劇でもよく取り上げられているのが、

幕府から勅使饗應役を仰せ付かった浅野内匠頭が、上野介の要求する賄賂を贈らなかった為、万事、的外れの助言や隠蔽などに合い、

大名の通有たる短気の浅野内匠頭が、堪えられずに斬り付けたという事に成っているが、此れは『きっかけ/トリガー』であり、

『真の動機』『潜在する動機』は、もう一つ別に存在に存在し、その動機を此れから紹介しましょう。


さて、浅野内匠頭長矩は、家系紹介でも少し触れた様に、父である長友が長矩がまだ又一郎と呼ばれ九歳の時に突然他界し、家督を継ぐ事に成ります。

其れ由えに、五代綱吉公に初めて謁見するのは、元服を終えた十五歳と成った時の、参勤交代で江戸詰めと成った時のことでした。

即ち延寶八年、十一月十五日の事で、初めて緊張の中、将軍綱吉公への御目見があった。

当日は諸侯の御禮日であったから、交代で江戸に詰めている諸大名が一斉に出仕していたのである。

浅野又一郎長矩は、江戸家老・安井彦右衛門を付添に、お玄関まで出仕致します。そして、付添の彦右衛門は、虎の間の内縁で控える事に成ります。

当日の茶坊主衆は、山口久榮と關久和と申す二人で、大目付、お目付へと達し、ご老中御列座で、ご奏者方よりのご披露など御座いまして、

大太刀、馬代などの献じて、首尾能く目見の式も済み、即日、長矩は従五位下に叙せられました。

然るに、此の時、浅野又一郎長矩が、浅野内匠頭長矩と成った門出の日であり、官位を頂戴する為の登城でもあったのである。

そんな折に、ふと幕府高家の支度部家(へや)の前を長矩が通り掛かると、『浅野さ!浅野家!』と言う声を耳に致します。

全く聴き覚えの無い声なれど、『浅野』は自身の家の事だと思いますから、長矩は唐紙の向こうの噺に耳を傾けました。

高家A「今日綱吉公に御目見式を致した、播州赤穂の浅野と言う田舎大名、五代の長きに渡り『信義』と言う事を知らぬうつけに御座る。」

高家B「五代も続く、甲州浅野の分家なれど、全く禮法と言うものを、高家より学ぶつもりもなく、誠に地方惚が甚だしい。」

高家C「我等、高家を諸大名がなぜ、賂まで出して必要としておるのか?浅野の山猿は知らぬのであろうか?」

高家D「五代続くとは言え、幸運にも、京都大内の式法や禮法を用いるような、公家衆の接待や晩餐の饗応に付いた事が御座らぬから、知らぬのよ!」

高家A「左様、京へ幕府御名代の命を被り、あるいは、京よりの勅使、又は公家衆の饗応を賜るような事態が御座れば、

その節は、諸向き・聴き合わせなど、幕府高家の知恵無くして、之勤まるはずはあるまいて!!」

高家B「唯一、京の所司代の面々はあるが、諸大名は、我等高家の助言無くしては勤まらぬ。由えに、日頃より必ず、盆暮の付け届けを致し、親密な付き合いを致すものだが。。。」


などと、浅野五万三千石に対して悪口雑言を浴びせて御座います。何んと!武士に有るまじき、傲慢!強欲!と、長矩は思いますが、彼等高家の言動はまだ止みません。

高家A「今日、綱吉公に御目見した又一郎なる亡き采女正のご子息を、各々方は見聞なされたか?」

高家B「見た!見た!父采女に似て、井の中の蛙と見た。瓜の蔓からは茄子は生えぬの喩えを申すまでもあるまいて!!」

高家C「左様、左様!桜木に桃はならぬと言うことぞ。井の中の蛙、大海を知らずだぁ。播州赤穂辺りで五万や七万の石高を取り、

天下を我が手中に収めた気に成っておる、山猿野郎のお山の大将とは、あの采女の倅、又一郎の事で御座ろう。」

そう言うと高家衆四、五人は、唐紙をゆっくりと開けて、長矩の休む次の間へと侵入し、何事も無かったかの様な態で過ぎ去ろうと致します。


流石に、この雑言には若い又一郎長矩の血潮は熱く煮え沸り、怒り心頭に発し胸を躍らした。

そして長矩は、強く癇癖のムラムラと雲の如く広がって、『己れ!何者?』と、眼を大きく見開き、鋭く閃光が輝いた。

然しながら、この日初めての登城なれば、殿中の誰彼を、誰一人見知りません。顔を見るのも初めての方々ばかりで御座います。

己の家臣と本家筋の数人の顔を知るだけで、公儀の高家衆など初めて見る方々由えに、流石に癇癪持ちの長矩も、此の場で彼等を襲う事は御座いませんでしたが、

この連中の顔は、一生忘れられない『仇』として、深く心に刻まれたとしても、あながち、不思議なことでは御座いません。

そして、後日何度も千代田の城へ出仕するうちに、気心の知れたお数寄屋坊主に、『あの御人は誰方であるか?』と尋ねたら、其れが吉良上野介義央だと知れたに違いない。


元来、長矩は文武両道を好む性格で、武においては家中に、名高い武芸者が多かった事を徴しでも分かるであろう。

この頃の俗言に『関東の武は笠間にあり』という言葉が有った。その起こりは慶長年間、浅野家が常陸國は笠間に在った事に起因します。

即ち、浅野家は常陸から赤穂へ移っても、尚、家風は変わらず、長矩の代に成っても武芸が盛んな家柄を維持していたのである。

又、浅野の家訓として祖先の名を穢してはならぬ!。。。。。と言う教えが心に強く宿り、藩中にも強く浸透していた。

此の事も、赤穂義士の仇討ちには、欠かせない要因だと、後々に分かる事にもなるのは、今更言うまでもない。

一方、文はどうであったかと見てやれば、長矩は、好んで書史を読まれたそうで、亦、書く方にも熱心で、『雅號(がごう)』は梅谷といった。

更に、茶道も嗜み、当時江戸では有名な茶人の、加藤遠江守や、木下肥後守、そして牧野備前守などとの交友を持っていた。

尚、挿花も石州流を酌んでかなりの腕前で、詩歌も好まれて、歌会などにも能く参じられたようである。

且て、元禄十一年二月二十五日、一向専念宗の宗祖、法然上人の忌日に当たり、

京の黒谷より、求問和尚という高僧を招いての法要の席上で歌会にて、お題。


『光明遍照十方世界を詠め!』


に対して、浅野内匠頭長矩が詠んだとされる歌が残っております。


月影の 至らぬ里は 無けれども

    眺むる人の 心にぞ住む


此れを即座に一番の歌詠みとして披露されて、周囲の高い評価を得たと、山鹿甚五左衛門素行の書いた書簡文などに残されている。


さて、そんな文武を好み、其れなりに高い教養と剣の腕前を有して居た、浅野内匠頭長矩が、元禄十一年九月に、木下肥後守の屋敷にて模様された茶会に参加した時に、事件は起こりました。

内匠頭長矩が招待されたこの茶会には、加藤遠江守と牧野備前守などという一流の茶人も顔を揃えて居た。

その頃、旗本小笠原佐渡守の茶道会に、山田宗圓という有名な茶人があった。当時の江戸の茶人の五本の指に数えられる名人で、

小笠原佐渡守の大のお気に入りでは御座いますが、高齢の為に、仕官してお仕えする訳には参らず、町家住まいが許されて、気侭に文芸三昧の生活を送って居りました。

さて、この宗圓は『今、宗二』、かの千利休の高弟、山上宗二の生まれ代わりとまで言われた茶道の名人で御座いまして、

多くの大名、旗本、高家から、茶会というとお呼びが掛かる人物で、宗圓が居ると居ないとでは茶会の格付けが変わる!そんな人物で御座います。


この日、宗圓は何やら風呂敷包みを持ち込んでおりまして、中から一本の軸を取り出します。そして、是を一同に見せてる前に申します。


宗圓「この軸、実はかの『一休禅師』の自筆と言って、とある所より私の元へ持ち込まれました。

皆々様、この軸をよーくご覧の上、ご評議頂いて、いよいよ真筆であると極まったなら、入り札にてお求め願いたく、宜しくお願い奉りまする。」

そして、言い終わると、徐に一本の軸を開いて、それを広げて皆々様に開張いたしました。


照月


と、力強い二文字が現れて、オー!ッと言う歓声が、その場に唸るように轟くのでした。

そんな中に、長矩だけでなく、もう一人の主人公、吉良上野介義央も、木下肥後守の招きで、此の場に居合わせておりました。

まぁ、徳川家高家筆頭の上野介で御座います。茶器の目利きや、書画骨董の鑑定には、大変定評があり、多くの旗本・大名からの依頼は数多御座います。

そして、今、宗圓が開いた軸を見るなり、まず、誰よりも先に、其の上野介が口を開きました。

上野介「ホー、宗圓殿、お見事!此れは、一休和尚の真筆に他無い。この上野介が保証致す。拙者が鑑定致したからは、折り紙付きじゃぁ。

他の有象無象が、何を言おうと、真筆に相違ない由え、早く入り札にて、買い手をお決めなされよ。拙者は落札金が早よう見たい。」

と、まぁ〜、傍若無人、自分勝手に吉良上野介義央が、この軸は真筆だと独り決め付けて、持ち込んだ宗圓に、入れ札の催促を致します。

然し、この上野介の物言いを傍で聴いていた、内匠頭は、元来の剛直な人で御座まして、かの室鳩巣が此の人をして、


人となり強硬にして、與に(ともに)屈下せず


と、記している様に、この場に居た多くの方々の様に『触らぬ神に祟り無し』黙して語らずなど出来ません。忽ちに口を開いて、

内匠頭「誠に、高家筆頭の貴老(あなた)が言い切るからには、真筆なのかも知れませんが、

他からの異論・反論を、言う暇(いとま)も与えず押し切ろうとなさるのは、如何なものか。

其れに、一休和尚の手は、拙者も真筆を何度か目に致しておりますが、近頃覚束く存ずる。

今一度、宜く宜く見定められては、如何であろう?」

と、言った。

上野は、この内匠頭の言葉が余程癪に触ったとみえて、苦い顔をして、生意気で猪口才な若造め!と、言わんばかりに語気を荒げた。

上野介「いやはや、釈迦に説法なさるつもりか?拙者、鑑定の際には、心の眼を開いて見定めて御座います。

それが、鑑定の極意!心眼を使わぬ目利きなんぞありえず、其れを持って真筆と申した物を、なぜ、二度も三度も見返す必要が御座ろう!

何度見たとて功なき物を、何故又見る必要があるかわ、いと可笑しいき一言に御座る。」

と、上野は内匠頭を嘲り笑います。


一方、言われた内匠頭長矩は、この上野介の発言に対して、身を乗り出して、軸の前に立って語り始めた。

内匠頭「いやいや、拙者はあくまでも目利きに自信が有るとか無いとか申しているのでは御座らん。

ただ、京の紫野にある大徳寺が所有している一休の作品は、それこそ何度も何度も、穴の空く程見ておるから、

他の御人の書作はいざ知らず、一休禅師の物に付いては、自分なりの印象が頭にハッキリ刻まれておる。

由えに、その印象と此の一軸を較ぶれば、些か、筆勢、墨の黒色甚だ拙く映ると感じまする。」

と、突っ掛けて来た。

すると、上野介は、サッと喰い気味、内匠頭の言葉尻に被せる様に、色を変えて来た。

上野介「浅野殿!その見方こそが、拙い指摘に御座る。最前も申しました通り、真筆と見ればとて、小賢しく差し出たる沙汰には、及ばぬもので御座いまする。

貴方のその偏った眼で見ると、偽筆に映るのでしょうが、其れは変眼による私見に過ぎません。黙して語らぬに如く(しく)はなし。」

と、頭ごなしに、抑えに掛かった。


然し、長矩は、兼ねて己が十五の暮れ、初登城の折に、浅野の家に悪口雑言された怨み怒りが御座いますから、

必ずしも、論ずるを好む性格の内匠頭では御座いませんが、上野介の余りに上からの物言いに、周囲に集まった文化人、教養人の手前もあり、

其の儘、黙って言葉を呑み込むような真似は、もはや出来る状態では無くなりまして、潔白な心に押されて、饒舌に言葉が出ます。

内匠頭「いやいや、某(それがし)が此の一軸、一休禅師の真筆なるを見て、真筆を疑うたぁ所以は、其の証拠が有るからで御座る。

今申す事を、今一度よーく聴かれよ。この一軸の文字は『照月』の僅かに二文字。

月は改めて言うに及ばず、確かに照る姿を持って賞美する物では御座ろうが、文に作り、歌に詠じ、詩に賦する(ぶする)には、

『照』と現わに言う場合は、『月』を包む義理となる。然るに、僅か二文字で書を起こした、この『照月』は甚だ拙い。

一休ともあろう名僧が、斯くの如き何んの捻りも無い文盲なる所業を、争でか(いかでか)なさん。

今の世に何をもって此の『照月』を愛し、誰が重寶と成さんや!筆跡を鑑定する以前の問題だと、貴老は思われませんか?

斯様な事も、心付かずして『真筆』を即断し自慢なさるるは、近頃覚束なく存ずる。」

と、内匠頭は、而も襟を正して、はっきりと大きな声で、字義を正し明らかに申されました。


然し然し!面の皮の人一倍厚い狸爺の吉良上野介は、ビクともしないどころか、返ってカラカラと高笑いで、更に反論致します。

上野介「之はしたり。珍しい事を聴くものかわ。月といい、照ると言うに依って、真筆に有らずと断言さるるとは?!

此の会にお集まりの諸兄は、気心の知れた、実に優しき御人ばかり由え、何を言っても、許されまするが、

浅野殿、間違えても他所(よそ)では、今、申された様な事を、吹聴なさいますなぁ、其処元の恥辱と成り申す。

知らぬ様ですから、貴殿に、月と言い、照ると言いし証拠の歌を、ご紹介してしんぜよう。ようよう、聴かれよ。

源順(みなもとのしたごう) 拾遺和歌集の歌仙第十八の左に御座いまする。」


水の面に 照る月なみを かぞうれば

     今宵ぞ秋の 最中(もなか)なりける


上野介「之即ち、三十六歌仙にも選ばれし歌なれば、照ると言い、月と詠じたるを文盲と定めらるるや!!内匠頭殿、どうじゃぁ?」

流石に、此れを聴いた内匠頭は、吉良上野介の屁理屈極まりない愚説に、内心呆れて果てるも、それでも半笑いに成って、

内匠頭「いやはや、貴老は歌道の道に明るいお方と承っておりましたが、斯くの如き歌を引用なさる所を見ると、道灌で御座ったかぁ。

つまり、歌道には一向に不案内と覚えまする。何故なれば、貴殿は歌の心を知らず、且つ、詠み方もご存知ないとお見受けする。

心知らず由え、某が彼の歌を説いて進ぜよう。歌の、水の面に照る月なみを、数えればと詠んだのは、必ず、照るからでは無い事はお分かりか?!

数を、正二三四五六七八と、月並を算えたる意(こころ)にして、照は上に付き、月は下に付けて、詠月の義である。

然るを、照る月を付けて、照月と覚えられたるは、如何にも幼稚、未熟の極みは言語道断で御座る。少しは歌道をお嗜みなされよ!!」

と云って内匠頭は、フフン!と蔑むように鼻で笑うのでした。

流石に、この指摘には、狸爺の上野介も、グーの音も出ない程、字義を正した理會には、二の矢を返す事すら出来ませんで、ただただ赤面し茹でタコの如くで御座いました。

さて、是を見ていた山田宗圓も、見ていられなくなり、上野介へ助け舟を出します。

宗圓「内匠頭様のご説、誠に御道理(ごもっとも)で御座いまする。亦、上野介様のお言葉も、間違いでは御座いません。物の見方、見解の相違で御座る。

元はと言えば、此の軸のせいで御座います。もう、仕舞いますので、争い事はご無用に願いまする。」

そう言うと、宗圓は一休禅師の軸を、又、元の風呂敷に仕舞い込んでしまった。


其の夜は、何事も無かったかの様に、茶会は幕を閉じて、雅客は三々五々、家路に着く事になります。

中に、浅野内匠頭長矩は、秋晴れの空の様に晴れやかな気分で、過般の遺恨は『照月』の二文字に依って、悉く散じ、気も心も日本晴れ。鉄砲洲の屋敷へと、駕籠で到着いたしました。

お出迎えした多くの家臣たちも、我が殿様の晴れやかなお顔を拝して、此れは何か宜き事があったに違いないと察しますが、

まさか、後に禍(わざわい)を招く火種が、起きていたとは、知る由も御座いませんでした。



つづく