この事変を『赤穂事件』と能く申しますが、この『赤穂事件』の中身を語る前に、事変・事件の遠因と成った背景を先ずは、『浅野と吉良』両家の家系から語りたいと思います。



先ずは、浅野家から説明いたしましょう。その家系は、『六孫王経基』源経基に繋がる家系と言われる名門です。

経基自身、清和天皇の男系で、第六皇子の貞純親王が父になります。この経基の九代後に、光衡と言う人があり、その嫡男を光行と言います。

ここからは、直系の嫡男ではなく、二代下、光行の次男光時の三男で、長政というのが、豊臣秀吉の五奉行の一人、浅野長政に当たります。

つまり、この長政で有名に成った浅野家は、光行・光時の時代から、尾州浅野村の豪族として有名だったらしく、浅野内匠頭長矩は、この長政の血筋ですから、血統は申し分ありません。

元々は長政の三男・長重を祖とするのが浅野家五万三千石のスタートですが、最初から播州赤穂が領地では御座いません。

浅野長政が慶長十一年に、長男・幸長の紀伊三十七万石とは別に、自らの隠居料として支給された常陸真壁に五万石が与えられて暮らしていましたが、

その長政が死去した事で、常陸真壁が三男の長重が継いだことに始まります。慶長十六年の事です。

長重は元和八年、常陸笠間に転封すし、寛永九年に長重が死去すると嫡男・長直が家督を跡ぎます。

正保二年、長直は赤穂へと転封となり、ここで初めて、浅野家の領地は赤穂となるのです。

更に長直は、赤穂城築城、城下の上水道の設備、赤穂塩開発などをおこない、藩政の基礎を固めた名君として知られます。

この頃から、塩田開発にも力を入れて、長直の時代に赤穂と言えば、塩で有名になるのです。

長直の後は嫡男・長友が継承、そして長友の嫡男が長矩なのです。つまり、浅野家は、浅野長政から五代下の分家という事になります。


さて、では分家と成った浅野長政の三男・長重からは、もう少し詳しくご紹介致しましょう。

長重は、采女正、幼名を又一郎といいました。因みに、この又一郎と言う幼名は、代々嫡男の幼名として浅野家では受け継がれます。

ただし、官位である『采女正』従五位下が、長重公と長友公で、長直公と長矩公の官位は『内匠頭』従五位下と呼び名が改まる。

この様な家系で、浅野内匠頭長矩には、大學という舎弟が一人ありました。大學は長廣といい、長矩の三歳下で、幼名は犬千代。後の大學長廣と成っております。

後に詳しく話す事に成ると思いますが、長矩があの様な最期で亡び、赤穂城開城と成った時、大石内蔵助ら、殿長矩公の無念をと、

団結し血判を押した四十余人の浪士たちは、最初第一位に掲げた目標は、仇討ちではなく、浅野大學長廣を、

喩え、所領が一万石、二万石に減らされても、浅野家再興が第一と、公儀に働き掛けて、各方面から嘆願しております。

其れ程に、この時代、御家、主人家と言う物は尊く大切なモノで御座います。


一方、しからば相手、吉良上野介義央の方の家系はと見てやれば、勿論、徳川幕府の高家衆に加えられ、その筆頭ですから卑しいはずがない。

先祖は、あの八幡太郎義家、その三男、足利治郎太輔義綱から五代、足利左馬頭義氏の三男で、三河の吉良に住して、吉良上野介と呼ばれる様に成りました。

室町将軍の時代は、中々の巾利(はばきき)で、将軍の一族であった事から、飛ぶ鳥を落とす勢いで、まぁ、天狗で御座いました。

渋川、石橋、そして、この吉良。足利の巾利御三家と称されておりまして、あたかも徳川幕府の尾州紀州水戸の如く扱いで御座いました。

その後、室町将軍家の威光が地に落ちると、吉良家は、遠江國の今川氏に接近して、重縁関係を持つ迄になります。

当時の当主、吉良義弘の母は、今川氏真の女(むすめ)である事から宜く伺える。しかし、今川氏が桶狭間の戦い以降没落すると、

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、近隣に天下人が立った事もあり、義弘、更にはその子、義冬と長い物に巻かれて、子孫に巾利の家系を伝えて行く。

そして、特に同族・清和源氏の血を引く、徳川家康には、高家に取り立てられて、義冬、そしてその嫡男、上野介義央と家系は続いて行くのである。


さて、吉良上野介義央は、寛永十八年九月二日、吉良邸江戸屋敷にて生まれている。幼名は三郎、次いで左近と言った。

承應二年、十三歳で幕府の官職に就き、千代田の城へ登城となる。四代家綱、そして五代綱吉に仕えるようになるのである。

その間、官位が与えられ、やがて出世を進めて従四位上に叙せられ、左近衛少将となり、所領は三河國幡豆郡と上野國甘楽郡の二領に、合わせて四千二百石の禄高を頂戴していた。

此れは、武士の嗜みとしての能、茶道、詩歌に上野介が非常に丈て、また是により、武鑑に記された面々との交際・社交に大変明るい事が影響している。

この上野介の社交性として、俗説として語られているのが、上野介は上杉家へ能を拝見の為に出向いた際に、

上杉家の姫に見染められて、この姫を嫁に貰うのであるが、野心家の上野介は、この時、内儀の兄である嫡男の上杉綱勝を、茶会に呼んで毒殺し、

自らの嫡男を上杉家に養子に出したと言う話が、誠しやかに語られているが、真意はかなり疑わしい。

真実は、恐らく何等かの病で、上杉綱勝は病死し、上杉家に当時綱勝以外跡を継ぐ者がなく、三姫、後の梅嶺院の嫁ぎ先、吉良家で生まれて居た三郎を養子に貰い受けて、上杉綱憲と成るのである。

そして、吉良家は、唯一の男子、三郎を上杉に養子に出したので、その後生まれた、綱憲の次男、即ち上野介の孫を養子に貰い、吉良左兵衛義周として跡取りとするのです。


この様に、浅野家には、甲斐に四十万石近い大大名の浅野長政本流の本家と言う後ろ盾が有り、

一方の吉良家の方にも、複雑な婚姻関係で形成された上杉家と言う名門の大名の尻(ケツ)持ちが有った事が、この『赤穂事件』を複雑に致します。



つづく