明日、神田三河町、伊勢屋と言う口入屋へと奉公先を相談に行くと決まった前の晩の事でした。
久しぶりに、身綺麗にしたくなり、白井権八は『奴湯』へ行って山ノ宿にある髪結い床『猪狩床』へと出向き月代を綺麗にした白井権八。
彦兵衛の店に戻ると、彦兵衛夫婦に、噺が有ると奥の間へと呼ばれた。
権八「何んで御座るかなぁ?新七殿が、奥にてお二人が呼んでいると伺った。」
彦兵衛「ヘイ、明日、伊勢屋さんに行けば、奉公先はその日にも決まると、元締の小平さんは仰っておいででした。
そうなると、足軽ですから、江戸藩邸の仲間・足軽屋敷へ部屋詰めと成りましょう。さすれば勤めて半年、一年は非番も無いと伺っております。
つまり、もう今夜ぐらいしか、白井様が小紫とお逢いできる機会は御座いますまい。そこで、今から桐屋を通し、小紫の貰いを三浦屋へお掛け下さいませぇ!」
権八「しかし、拙者、手元不如意にて。。。小紫を買う様な金子は御座らんぞ!」
お崎「だ・か・ら、今夜の分は、アタイのへそくりから出そうって言っているんですよ!!」
権八「本当かぁ?!ご内儀、いやぁさぁ!お崎殿?」
お崎「ハイ、ホレ!此処に十両御座います。此れで、小紫さんに逢って、昨夜決めた足軽奉公する噺を、小紫さんにも貴方の口から伝えなさい。
年が明けるまで、内儀にしてやるまで、苦界で苦労を掛ける相手なのですから、白井様のお言葉で伝えてやる方が宜しいはずです。」
権八「済まぬ!本当に、貴方かだ夫婦には、何から何まで、本に世話を掛け申す。忝い。」
権八は、お崎が差し出した十両を、拝む様にして攫み取り、懐中深く仕舞うのでした。
彦兵衛「さて、白井様。今夜はお泊まりで構いませんが、明日は、八ツには神田の伊勢屋へ参りますので、宜しくお願い申します。」
権八「承知致しておる。必ず、四ツには此処、山ノ宿へ戻りまする。では!」
そう言うと、桐屋へと上がり、三浦屋の小紫に貰いを掛けて、白井権八と小紫は、暫しの別れを惜しむ様に、逢う事となるが。。。
小紫「主、何か心配事でも有りんしたかぁ?」
権八「心配ではないのだが。。。色々と彦兵衛夫婦が親身に成って呉れたお陰で、
明日、仕官先を探す為に、神田三河町、伊勢屋と申す口入屋へ出向く。足軽からの人生のやり直しだ!
そして、愛でたく奉公先が決まれば、足軽勤めと成る由え、住込となる。非番以外の日には、出歩く事もなかなか出来ないので、
之までの様にソナタとは、頻繁に逢えぬ様になるが、我慢をして呉れ。喩え、十年十五年掛かろうと、夫婦約束した間柄。
拙者は、必ず、お前を内儀に致す所存じゃぁ。苦界で苦労を掛けるが、辛抱して呉れ。出世をして、一年でも早く、身請けを致す。宜いなぁ。」
小紫「アチキは、之まで、主以外に間夫も御座んせんにより、辛抱するもしないも、アチキは主を待つだけでありんす。」
権八「兎に角、今夜が暫くは最後の夜と成ろう。必ず、お前を我が内儀に致す。そして、身を粉にし励み、一日も早く出世を致し、小紫!お前を迎えに参る。」
小紫「嬉しゅうありんす。」
そんな会話が御座いまして、お引け!九ツ頃になりますと、風が俄に強くなり、暴風雨、嵐・台風の様相と成りまして。。。
権八「之は酷い雨風だぁ。山ノ宿へは帰れようがぁ、神田迄は出張る事はまま成るまい。小紫!まだ、七ツで暗いが、誰か店の奉公人で、彦兵衛の店へ、遣いに出て呉れる者が無いだろうか?」
小紫「ヘイ、徳松ドンに、頼んで参りますんで、主は、こちらで、休んで居てくんなましぃ?!」
そして、牛太郎の徳松が、小紫に呼ばれて、事象を噺まして、嵐が止み次第、山ノ宿へと戻りますと伝言致します。
権八も、もう一晩は泊まるつもりは御座いませんで、三浦屋を引け前くらいには出て、彦兵衛の店に戻る胸中で御座いました。
さて、雨・風も、五ツ半には治りましたので、お引け前の四ツの鐘を聴きながら、大門を出た白井権八。
それより衣紋坂へと上り色々と思案が頭ん中を巡ります権八、『あぁ〜、実に情けなやぁ。國表でたかが飼い犬如きの喧嘩で刃傷に及び、
藩より追放されて浪々の身と成った。
江戸表へ立ち退く途中で、山賊と箱根山中で遭遇致し、図らずも七人を討ち、その戦闘の巻き添えに、妻・八重を失った。
そして、何故か一日も早く江戸表へ着かねばと思い立って、夜中鈴ヶ森を通る事となり、彦兵衛を助けて、又、雲助二人の命を奪ってしまった。
更には、箱根で亡くした八重そっくりの遊女・小紫と偶然にも出逢い、懸想して入れ上げて、漸く、夫婦約束を機会に人生の目標の様な物が出来て、
喩え足軽でも、仕官を考える様に成れたのは、間違いなく、彦兵衛夫婦のお陰だ!もう、彼等には足を向けて寝られないぞ。』
全ての由無し事に悩む輩は、どうしても、心に闇を抱えて悩み、愚痴が出るものだなぁ〜、と、自身の今を考えながら、自問自答を繰り返して居た。
いよいよ、白井権八は、吉原堤(ドテ)に差し掛かり、之を山ノ宿を目指して進んでおりますと、辻の際で『ウーン!ウーン!』と唸っている声を耳に致します。
何事かぁ?!
と、白井権八、腰を屈めて様子を伺ってみると、一人の男が腹を押さえて、仰向けに寝ているのを見付けます。
普通の者だと、『ウーン』の不気味な声に驚いて触らないで行き過ぎるかもしれませんが、そこは武士(もののふ)ですから、是に声を掛けます。
権八「如何なさいました?」
病人「仲で遊んでいると、俄に差し込んで。。。茶を出たのが一刻前。。。ここまで来て動けなく成りました。」
権八「差し込み?疝気で御座るかぁ?!」
病人「その様で、御座います。」
権八「尋常では無い汗で、御座るなぁ!」
と、苦しむ病人を、権八は、抱き起こし、相手が痛いと言う処を摩り、押して、汗を拭いてやりながら、「どうで御座るか?!」と、具合を見ながら親身に看護してあげる。
病人「有難う御座います。大分楽にはなりました。」
権八「この辺りが痛みますか?」
病人「忝いない!其処です、其処が痛みます。」
権八は、病人の懐中に手を入れて、痛む部位を探っていると、否応無しに病人が、金子を胴巻に入れて、懐中に持って居る事に気付きます。
悪魔の囁き!!『貧の盗みに、恋の歌!』
人は金子、特に大金を見ると。。。心変わりするモノで。。。難儀している町人を労り看護してやる感心な心が、
胴巻の金子に触れた処から、ふと、気が変わってしまった権八、是非も無いことで御座います。
今まで懸かる町人を介抱して居た権八、突然、両手で首を締めて、『ウーン』の声が出なく成った町人の鼻に手をやり、息をしていない事を確認すると、
自身が二本手挟んで居る小刀の方を抜いて、絞め殺した町人の喉を是で突いてトドメを刺しまして、
町人の懐中に手を突っ込んで、胴巻を引き出し、是も小刀で切り取り、中の金子を取り出しました。
そして、手にした金子は三十六両。この金子を自身の懐中の紙入れに仕舞い、両手を顔の前に合わせ、
『済まぬ!許して呉れ、怨まないで呉れ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と、呟き堤(ドテ)から死骸を川へ突き落として、この場を立ち去りました。
そして、何食わぬ顔で彦兵衛夫婦の所へ帰るつもりで、山ノ宿へ向かいますが、流石に店へ入る気になれず、
白井権八は考えます。『どうしよう?!余り深く考えず、金子に目が眩み又人を殺して仕舞ったが。。。先に殺した九人とは、訳が違う。
銭が欲しいだけで、自身の欲望の為に人を殺めてしまうとは。。。彦兵衛殿、お崎さんに会わせる顔が無い。
毒を喰らわば皿までだ!!
後悔はしまい。』
こうして、一つの間違いで、白井権八は、姿を眩まして仕舞います。そして、馬喰町の安い宿に隠れて過ごします。
何時見付かるか?誰かに見られて居なかったか?と、ドキドキしながら身を潜めていましたが、この当時の奉行所の仕事ですから、
まず、なかなか、死体すら見付からず。権八が殺害して、二日後に漸く、吉原堤脇の川から死体が見付かりますが。。。全く白井権八の存在は奉行所の捜査線上には浮かびません。
しかし、それでも、白井権八は、彦兵衛夫婦の元へは帰らず、三浦屋の小紫にも逢いに行けず。勿論、神田三河町の伊勢屋へも行きません。
さて、足軽として仕官する約束をドタキャン!バッ呉れて、安宿に隠れて居た白井権八ですが、流石に、二月半、五十日を過ぎた頃には、三十六両の金子は底を尽きます。
そして、白井権八は深夜、吉原堤に出没して、辻斬りを働いて金品を盗む、所謂、辻斬り強盗を始めるのですが。。。
吉原で、小紫が買えるだけの金子を持って居そうな身なりの宜い、大店の旦那や若旦那、そして田舎のお大尽ばかり狙いますから、
直ぐに、深夜に吉原を行き帰りする客は、皆無になり、皆んな宵の口に来て、翌朝、活気が出てから帰る様になります。
更に、この辻斬り強盗には、幕府、奉行所も本腰を入れて取締り、捜査に掛かり出しますから、白井権八は安易に吉原へ近付けなくなります。
もう、江戸表では、辻斬り強盗は、ままならぬ!ヨシ、こうなったら、地方へ出て田舎のお大尽を襲い、
纏まった金子を狙い、小紫を身請け出来るだけの大金狙いの強盗旅へと、中山道は熊ヶ谷の宿へと出向き、ある商人に目を付けるのですが、この噺は、次回のお楽しみで御座います。
つづく