今、白井権八に助けられた江戸は浅草の山ノ宿に住む呉服商、彦兵衛は、『セリ呉服』で田舎を巡り、
着物・仕立て呉服を田舎へ卸し、反物や生糸を仕入れて江戸へ戻る途中でした。
権八「彦兵衛殿、お主は、代々の呉服屋なのか?!」
彦兵衛「いいえ、私は江州は犬上郡彦根の城主、伊井掃部頭様に支える足軽で御座いました。
しかし、血筋も無く、参勤交代が無い年は、馬の世話以外仕事は無く、二十俵二人扶持の身分ですから、城務め以外にも、副業をせねば、家族を養えず。
それで、生まれ付き、読み書き算盤が得意で、商いの交渉事も上手に出来た由え、副業で始めた呉服商、まぁ、当初は古着屋に毛の生えた様な商売でしたが、
次第に、足軽の仕事より副業の呉服商の方が楽しくなり、稼ぎも宜しいので、組頭様にお暇を願い出て、二十八で足軽を辞めて呉服屋として、江戸へ出て参ったと言う訳で御座います。」
権八「其れは、なかなか見よう見真似で出来る事ではないぞ。やはり、近江と言う土地柄もあるのだろうなぁ〜、彦兵衛殿。」
彦兵衛「ハイ、確かに、『近江の泥棒と伊勢の乞食』と言われます様に、近江商人は、商売上手で、他國へ稼ぎに出向き、
地方、地方で稼いだ銭を、せっせと近江に送金しますから、『近江の泥棒』と、陰口を叩かれています。
特に、京・大坂では、素性が江州・近江國と知れると、商売が大変やり難いと聴いておりましたから、私は敢えて、商いの場を江戸に求めました。
ですから、最初は元手が少なく始められて、儲けが以外と多い、露天売りの足袋の販売から商いを始めたのです。
そして次に、足袋の商いで開拓した江戸の新しい顧客に、古着を売る商売を始めて、漸く、五年の歳月を経て、
浅草に店が構えられる様になり、座の鑑札を手に入れて、古着と呉服の販売へと、奉公人も三人使い商人らしいセリ呉服屋を構えるに至ったのです。」
権八「其れは其れは、人はその才で頭角を表す為には、並々ならぬ努力と勝負する度胸、そして、運が必要だと聴く。
彦兵衛殿には、その才能が備わっていたと言う事ですね。若い拙者には、江戸表で再出発する宜い手本となりそうだ!大いに生き方を学ばせて頂きたい。」
彦兵衛「何を仰っしゃいますかぁ、私は、手代二人と丁稚一人の小商人です。白井様の手本などに成れる器では御座いません。
そして未だに店の重要な仕事は、私自身で熟さないと、手代二人には、まだまだ代わりが勤まらず、仕入や集金は私の仕事で御座います。」
権八「ご謙遜を。さてこの度は、何方へ出掛けられたのだぁ?!」
彦兵衛「ハイ、神奈川、保土ヶ谷、藤沢と廻りました。予め、信州や尾州で仕入れた生糸と反物を送り届けて有りまして、その代金を集金した跡、あの雲助達に襲われて仕舞いました。」
と、是迄の彦兵衛の身の上のあらましを、白井権八に語りまして、品川宿で駕籠を二丁頼みますと、山ノ宿の彦兵衛の店に着いたのは、深夜八ツ過ぎで御座います。
ドンドン!ドンドン、と、やや加減気味に表戸を彦兵衛が叩きますと、手代の新七が奥から眠い目を擦りながら出て参ります。
新七「ハイ、何方様で?」
彦兵衛「おぉ、新七か?儂だ、彦兵衛だ。開けて呉れ!」
新七「お内儀!旦那様がお戻りです。」
『ハーイ』と返事が聴こえて、奥から内儀(にょうぼう)のお崎が出て参ります。
彦兵衛「お連れ様が在る。早く開けてお呉れ!」
お崎「貴方、随分と遅いお着きで。」
と、お崎が言って、芯張り棒を外して、戸を開けますと、旦那の彦兵衛と白井権八が立って御座います。
直ぐに、二人を中へ入れて、足を洗う桶を土間に用意致しまして、手代の新七が、権八の足を洗い始めます。
彦兵衛「実は、鈴ヶ森でカクカクしかじか、雲助に身ぐるみ剥がされそうな所を、この白井様に助けて頂いた。お前からも、礼を申し上げて呉れ。」
お崎「其れは其れは、危ない所を主人の命を助けて下さいまして、誠に、有難う御座います。」
権八「いやいや、大した事ではない。其れよりも、初めて江戸表に出て参った身、由えに、右も左も判らぬ田舎者だ。
先々色々とご迷惑をお掛けするやもしれぬが、拙者の新居が見付かる迄、お世話に成りまする。」
彦兵衛「構いません白井様。ささぁ、上がって下さい。お崎、酒の用意を頼む。新七、再度戸締りを厳重に頼みます。」
そう主人の彦兵衛が、命じると、居間に通された白井権八の前に、酒・肴が運ばれて、膳部が用意されます。
彦兵衛と権八は、酒を酌み交わし、お崎の酌で、辺りが白くなるまで呑み喰いしておりますと、手代の新七が、声を掛けて参ります。
新七「白井様、江戸には朝湯と言うものが、今、大変流行って御座います。旅の垢や疲れを取るには最適です。もし、宜しければ、湯屋へ参りましょう?!」
彦兵衛「新七!其れはお前さん、宜い事に気付きました。白井様、是非、新七と朝湯を使いに行って下さい。
私は、この辺で床に着きたくなりました。朝湯はお付き合い出来ませんが、新七に案内させますから、どうぞ!朝湯をお楽しみ下さい。」
権八「其れは忝い。新七殿、宜しくお頼み申す。」
こうして、手代新七に連れられて、二丁ばかり離れた『奴湯』で、白井権八は朝湯を使う事になります。
権八としても、鈴ヶ森で二人斬った跡なので、この穢れと言うかぁ、悪い心持ちが朝湯で、流せるように感じて、実にサッパリした心持ちに成った。
そして、彦兵衛の店へ戻ると、青菜と豆腐の味噌汁で、朝飯を食べて床に入ると、翌日迄、泥の様に眠る権八でした。
彦兵衛「おはよう御座います。お加減は如何ですか?白井様。」
権八「彦兵衛殿、昨日は、すっかりお世話に成りました。朝湯を使い一日寝て過ごしたお陰で、此の通り!元気に成り申した。」
彦兵衛「其れは宜しゅう御座ました。貴方様は、私の命の恩人です。この先、幾日でも此の家で宜しければ、滞在されても構いません。
又、貴方様はまだまだお若いし、優れた剣の腕前が有らせられます。よって、もし仕官を望まれるなら、私が受人(保証人)となります。
また、万一、刀を捨てて町人と成られます時は、町役人への人別帳の届出と、商売の資本(モト)をお出し致します。」
権八「有難たきお言葉、彦兵衛殿、本に痛み入ります。」
こうして、因州鳥取から江戸へと出て参りました白井権八。早いもので、金の掛からない江戸見物。
つまりは、寺社巡りと山川海などを散策して過ごしておりますと、アッ!と言う間に二ヶ月と言う月日が流れます。
そして、事ある毎に思い出されるのは、好き同士で一緒になり、夫婦と成った、死んだ内儀・八重の事で御座います。
そんな想いが日増しに強くなりまして、夜寝付くと、八重の夢を見る事が屡々(シバシバ)で、その夢の中の八重は恨めしそうに行灯の横に立って御座います。
そして、深夜、手代の新七が火の元確認に、各部屋を見回ると、必ず、権八の唸る様な声を耳に致しますから、気になり部屋を覗く。。。
すると権八は、決まって眉間に皺を寄せて、苦しい表情をしながら、脂汗を全身にかいて、『八重!八重!』と呟いて御座います。
流石に、四日、五日と是が続くので、新七は、白井権八を揺すり起こして、汗を拭いてやるのですが、一向に是が治まる気配は御座いません。
新七「旦那様!白井様が、今夜も、又、魘(う)なされながら寝ておられて、『八重!八重!』と苦しそうに寝言を。」
彦兵衛「そうかぁ。その八重様と言うお方は、江戸表へ参る途中に、箱根の山中で、山賊に襲われた際に殺されたご内儀に違いない。
まだ、夫婦に成って二年余りなのに、相思相愛で一緒になられた、奥方を、白井様は亡くされて、さぞ、心労は大きいものなのだろう。」
お崎「其れならお前さん。成仏して頂けるように、浅草の観音様へ、白井様をお連れして、そのご内儀の供養を致しましょう。」
お崎の提案で、白井権八と彦兵衛夫婦、其れに小僧の為吉の四人で、浅草寺へ出向き、八重の供養をして、観音様へのお詣りを致します。
しかし、白井権八は、箱根で七人の山賊を殺し、又、鈴ヶ森でも、彦兵衛を助ける為とは言え、雲助を二人。合計九人の命を奪いました。
ですから、権八自身は、この事が祟って、八重の亡霊に、日々取り憑かれているのでは?と、完全に疑心暗鬼、神経衰弱して居ります。
更に、一月が過ぎると白井権八の顔色は、青白く変わり、食がドンドン細く成りますから、更に、彦兵衛夫婦、店の連中は心配に成ります。
新七「旦那様!お内儀(かみ)さん!白井様が本当に心配です。日に日に食は細くなられて、青白い顔は、目は落窪み頬は痩けて、美男子なだけに。。。悲壮感すら感じます。」
お崎「そうだねぇ、気晴らしに外出を薦めても、最近は外にも出たがらない程、窶(やつ)れた様子で、噺をするのもしんどい様子だからねぇ。お前さん!どうしたもんだろうねぇ〜。」
彦兵衛「そうだなぁ、もう、残る手段は『荒療治』しかないなぁ?!」
お崎・新七「『荒療治』?!」
彦兵衛「そうだ、荒療治。つまり、今夜、俺が一ツ!吉原へお連れ申して。。。」
お崎「何んだねぇ!厭だよぉ〜、いい歳をしてぇ〜。」
彦兵衛「嫉妬(や)くなぁ!俺が女郎を買いはしないさぁ。俺は案内するだけだ。」
お崎「誰も嫉妬いたりしないさぁ。お前さんみたいな、皺爺が吉原へ行ったからってモテないのは知っているよ!」
新七「旦那様、私も、向学の為に吉原へお伴させて下さい!!」
彦兵衛「駄目だ!お前さんは。お前みたいに、のっぺりした田舎顔は、女郎が『顔に鴨で御座います。』と書かれていると、
上手く手練手管で骨抜きにされて、吉原通いで身を持ち崩す典型だ!折角、この店で辛抱しているんだ、我慢をしなさい。」
新七「殺生ですよぉ〜、旦那ぁ〜私も吉原へ連れて行って下さい。」
彦兵衛「成らぬ!留守番をしておれ!」
新七「トホホ。」
そんな噺をしていると、観音様をお詣りした白井権八が、帰って来たが、相変わらず、食は進まず、軽くお崎がよそったご飯も残してしまう始末である。
彦兵衛「白井様、今日は趣向を変えて、今から吉原へでも参りまして、日頃の憂さを晴らしましょう。」
権八「吉原とは、女郎買いであろう?拙者は、その様な趣味は好まぬし、そう言う気分では御座らん!」
彦兵衛「左様では御座いましょうが、余りにも、陰々鬱々となさっておられると、身体に宜しく有りません。」
お崎「そうですよ、白井様。折角、江戸に出て来たからには、吉原へ行って、日本一の太夫を観て於ないと!郷に入れば郷に従えで御座います。」
権八は、彦兵衛夫婦の薦めが有り難かった。江戸表へは来たものの、道中、内儀八重を失い、日に日に生きる希望、
生きる目標を失って沈んで仕舞っている自分を、何とか元気にしてやろうと、夫婦して考えて呉れる。其の優しさが嬉しかった。
権八「折角、お崎殿までもが薦める女郎買いだぁ。今宵は、吉原へ参ろう。」
こうして、白井権八の運命を決めて仕舞う。初吉原の夜と成った。人の人生とは、本当に判らぬ物。この日、吉原と出逢わねば。。。
余り吉原に明るくない彦兵衛ですが、座の組合で、何度か使った事の在る、仲之町は『桐屋』と申します茶屋へと、白井権八を連れて参ります。
そして、桐屋の主人市兵衛に、この若いお侍様は、私の命の恩人で、今宵一晩たっぷり持てなして呉れる、歳格好も釣り合いの取れる、出来る事なら大店の太夫をお願いしますと注文を付けた。
頼まれた市兵衛のお見立ては、それならばと、今売り出し中!!三浦屋の『小紫』に貰いを掛けるので御座います。
さてちょっと、この源氏名・小紫にはお噺が御座まして、実は、この吉原の創成期、三浦屋はまだ無かったそうで、親戚筋の玉屋山三郎と言うのが御座ました。
そもそも、三浦屋と玉屋は親戚で、血縁関係だったそうで御座います。柳も吉原の草分けと言うのが、玉屋山三郎で御座まして、
吉原と申す所は、その昔、庄司甚右衛門というお方が、公儀に願い出て御免蒙りまして、吉原遊廓を開きました。
その庄司甚右衛門の頃から、玉屋は御座いまして、老舗草分けの女郎屋の一つで御座います。ですから、第一に尊い名前と言う意味を込めて『紫』を使う源氏名の太夫が居たと申します。
ただ、女郎の名前が『尊い』と言う表現で敬うのも、又、少々可笑しな噺では御座いますが、小紫と言う源氏名は、其れなりに格式が御座います。
また、当初玉屋にしか『紫』の源氏名は無く、言わば玉屋の専売特許でしたが、玉屋の娘が三浦屋へ嫁に行き、玉屋と三浦屋が親戚関係に成った、その時に、
この『紫』の源氏名を嫁入り道具の一つとして、玉屋から三浦屋へと引き継がれて、一説には、落ち目の玉屋が名跡を二百両で、三浦屋へ売りに出したとも言われております。
しかし、更に時代が進むと、こんな式たりは、廃ると同時に、唯一無二の『紫太夫』『紫花魁』ばかりでは無く成り、
場末の小店にも、普通に『紫』の源氏名が横行致しまして、『紫』の権威、有難味も、地に落ちてしまうのですが、この時代は、まだ、権威の在った時代なのでしょうか?!
さて、呼ばれて桐屋へ現れた小紫。白井権八の隣に座り、一つ、二つと酌を致して、権八を持てなしてますが、
白井権八は、下を俯いて、小紫とは目を合わせるどころか、小紫の顔を真面に見る気配が御座いません。
そこで、脇に居ります彦兵衛が、気を利かせて、権八に対して、小紫への返盃を促します。すると、厭が応にも、権八は小紫の顔を見る事に成る。すると。。。
白井権八、瞬き出来ない位に驚きまして、小紫に声を掛けて仕舞います。
権八「ソナタ!八重ではないかぁ?!」
そう言うと、権八は思わず立ち上がったので、彦兵衛が、白井権八の袂を掴み座る様に促します。
彦兵衛「白井様、何を申されます。此方は、八重殿ではなく、小紫太夫ですよ!?」
権八「エッ!之は拙者とした事が。。。」
この小紫、顔の目鼻立ちだけでなく、背格好、色の透き通る白さ、更には声や手先指先の感じまで、箱根の谷底へ沈んで亡くなった内儀、八重そっくりなので、権八は驚きの余り震えを感じます。
すると、小紫。ゆっくり、権八の側へ寄りまして、煙草盆と煙管を取りまして、
小紫「お武家ハン、よー来てくんなました。一服、お吸いなんしぃ!」
と、長いラオの煙管を差し出します。出された吸い点け煙草を口にすると、不思議と震えが止まり、権八は自然と小紫を自分の方へ引き寄せて、
その場には、彦兵衛や新造に禿、幇間、芸者が有りながら、丸で二人の世界!!やったり取ったり。一刻半程、彦兵衛も付き合いましたが、
このまま、二人は、三浦屋へと送り込まれて、白井権八は、小紫との初回の夜を、夢現で過ごすのでした。
軈て烏カァ〜で、夜が明けたのですが、白井権八は、目が覚めても夢の中。小紫が、まだ、八重にしか思えず、翌朝も、八重!八重!と呼んでおります。
そして、流石にこの、彦兵衛に連れて来られた、初回から居続け!と言う訳には、財布も三浦屋も許しませんし、
白井権八は、居残り佐平次では御座いませんので、スチャラカ!スチャラカ!やりながら、牛太郎を騙す技は無く、後ろ髪を思いっ切り引かれながら、山ノ宿の彦兵衛の店へ戻ります。
そして、昨晩は一睡もしておりませんから、又泥の様に寝て、起きた翌日。昨日の出来事を、冷静に思い返してみますと、白井権八には、八重(小紫)との再会の一夜しか思い出せません。
彦兵衛「どうですか?白井様。三浦屋の小紫は?そんなに、亡くなられたご内儀に似ておられますか?」
権八「ハイ、面差しが似ている何んてものではなく、全ての容姿が死んだ八重にそっくりで、大いに驚いた。
人には、瓜二つの人間が、自分以外に二人は存在するとは聴くが、正に、生まれ代わりか?!と、見紛う程に、よく似て居た。誠に驚いた。」
彦兵衛「左様で御座いますかぁ。さて、吉原と言う場所には、式たりが御座まして、初回、お見立てした太夫が気に入りましたのなら、
『裏を返す』と申しまして、もう一度、その花魁を指名して遊ぶのが、江戸の粋で御座います。ですから、二、三日内に、裏を返しに行きなさいませ。」
と、言って彦兵衛が、十両と言う金子を呉れましたから、白井権八、自身の有金と合わせ、今度は全財産を持ちまして、裏を返しに参ります。
そして、今度は一晩遊んでなどと、生優しい遊びではなく、三浦屋へ居続けとなりまして、五日丸々帰って来なくなります。
さぁ、流石に、是には彦兵衛夫婦が慌てます。気晴らしにと、吉原の遊女を紹介したら、狂った様にド嵌りして、帰って来なく成ったのですから当然と言えば当然で御座います。
お崎「お前さん!どうするのさぁ?完全に、白井様は、女郎にたぶらかされて、色ボケなさっているよ?」
彦兵衛「いやはや、あんなに成るとは。。。食事も喉を通らず、青瓢箪みたいに成り、病人の様だったお人が、
死んだご内儀に、幾ら小紫と言う花魁が似ているとは言え、裏を返しに行って、居続けに成るとは、思わなかった。
私の方から、それと無く意見をしてだなぁ、一日も早く、何処か?仕官できるお勤め先をお探ししてやろう。」
お崎「そんな!それと無くだなんて、緩い事じゃなく、ビシッと意見して下さい。頼みましたよ!お前さん。」
そんな夫婦の会話が御座いまして、白井権八に、彦兵衛が、意見を致しましたが、権八一人が燃え上がって居るのでは御座ません。
小紫の方も、権八に心底惚れて、間夫だと思いますから、権八が一文無しと成りましても、立を引いて遊ばせます。
結局、白井権八は、月の半分以上を吉原で過ごして、山ノ宿の彦兵衛の家には十日も居ないような有様になりますから、
是には、彦兵衛も権八の将来を憂いて、ある日、吉原から久しぶりに戻った権八を捕まえ、じっくりと、噺を致します。
彦兵衛「白井様、少しお話しが御座います。宜しいでしょうか?」
権八「何んだ?!小紫との事か?」
彦兵衛「左様で御座います。」
権八「拙者と小紫の事は、彦兵衛殿には関係御座らんだろう?」
彦兵衛「いいえ、そうは参りません。貴方は私の命の恩人。その貴方が、月の半分以上、吉原へ入り浸りになり、
人伝に伺うと、全て貴方が遊ぶ金を、小紫花魁が立て替えなさり、年期がどんどん伸びておると言うでは御座いませんか?!
其れに三浦屋さんの方では、小紫花魁が、他の客を取らず、常に、白井様!貴方だけに付いておるのにも、ハタハタ困り果てて居るとか!!白井様、どうなさるお積もりですか?」
権八「それは。。。」
彦兵衛「私は、貴方が命の恩人であり、吉原へお連れした責任を感じて居ります。ですから、兎に角、江戸で働き口を、仕官の口を探しますから、
その上で、江戸で地に足を付けて、足軽奉公からには成りますが、働きながら、出世なさいまし。そうした後に、小紫を身請けすれば宜しい。
そん時は、アッシも半分は手伝います。それにあの太閤秀吉様も、最初は草履取りの足軽からです。
白井様!貴方程のご器量ならば、出世して、百石、二百石取りの侍になら、直ぐに成れますって!二、三年辛抱してから、花魁の事は、又、考えましょう。」
権八「すまない!彦兵衛殿。小紫は、親が商いにしくじり、六歳で三浦屋へ売られて、外の世界を知らない不憫な女子(おなご)だ。
今は、両親も亡くなり、天涯孤独。拙者が、何んとかしてやりたい。仕官の方は、何か宛が御座ろうか?彦兵衛殿。」
彦兵衛「ハイ、浅草は猿若町に居る庵崎ノ小平と言う口入屋元締に頼んでみます。この人は、花川戸の幡髄院長兵衛と言う大元締のご身内で、
神田三河町に在る幡髄院の出店、伊勢屋を任されている方で、幡髄院の元締の片腕と言っても過言ではない偉いお方だ。」
権八「分かりました、彦兵衛殿。宜しくお頼み申す。」
そう成って、翌日、彦兵衛は、神田三河町の伊勢屋を訪ねて、『カクカクしかじか、白井権八と言う鳥取藩の浪人が。。。』と、庵崎ノ小平に相談致します。
すると、小平が申すには、大名への仕官には、北は南部の松平から、薩摩の島津まで、色んな家風の大名が御座います。
ですから、明日、その白井権八と言うご浪人を、店に連れて来て下さい。色々と好みをお聴きして、その方に合った仕官先をご紹介致しますと、言って呉れた。
山ノ宿へ帰った彦兵衛は、直ぐにその事を権八に噺をしますと、権八も大層慶びます。さて、足軽奉公を決心した白井権八ですが、
此の跡、思わぬ出来事が、彼を待っておりまして、この続きは、次回のお楽しみで御座います。
つづく