正月七日の事、幡随院長兵衛は、大坂天王寺の天王寺屋五兵衛の手代、藤吉に連れられて天王寺屋へ夜中四ツ過ぎに到着した。
藤吉「藤吉ダス、只今帰りました!」
勝手口の戸を開けて、藤吉が天王寺屋の店の中へ入ると、番頭の一人が出て来て、怒った様子で藤吉に尋ねます。
番頭「藤吉、何をしてましてん!もう、十五日まで幾らも在らしまへんのですよ、お前、何処で何をしてましたんやぁ~?!」
藤吉「いやそれが、伊之助さんが名古屋に居てはらしまへんのです。聴いたら三州の吉田へ行ったと申しますから、
名古屋から三州吉田へ行ったんですが、行ってみたら伊之助さん、吉田からも消えてて居ない。往生しまっせ!」
番頭「往生しまっせ!やないでぃ、お前。伊之助が居らんかったら、『水浴び』はどないしまんねん?!」
勝手口で番頭と藤吉が喋っておりますのを、主人の五兵衛が聴いて、奥から出て参ります。
五兵衛「夜中に、騒がしいですよ、番頭さん! 藤吉、お前、伊之助を連れて来たんですか?」
藤吉「それが、今、番頭ハンにも云いましたんやけど、カクカク、しかじか、見つからんのです。」
五兵衛「見つからんでは済みませんでぇ。もう、時期に『水浴び』に成るというのに、伊之助が居てへんかったら、鹿島屋の若衆をどうするつもりやぁ?」
藤吉「それは心配御座いません。ちゃんと、伊之助ドンの代わりの方を連れて来ております。 オーイ!ちょいと入って下さい、先生!」
漸く、藤吉に呼ばれて、外に居た長兵衛が中へ入って参ります。
五兵衛「藤吉、どなたハンやぁ?!」
藤吉「えぇー道中、生駒峠で出会いました、江戸の顔役の元締ハンで御座います。」
五兵衛「江戸の顔役ッて、夢ノ伊知郎兵衛ハンかぁ?!」
藤吉「伊知郎兵衛ハンより、上です。」
五兵衛「えっ! そしたら、唐犬ノ権兵衛ハン?!」
藤吉「いいえ、もっと上のお方です。」
五兵衛「えっ! もっと上って、まさかぁ!?幡随院長兵衛の元締かぁ?」
藤吉「そのもう一つ上!」
五兵衛「アホなぁ、テンゴ言うたらアカンわぁ。長兵衛ハンの上は、ブツクリハンですがなぁ。
ブツクリの清兵衛ハンは、去年の春に殺されてまんねんでぇ? 幽霊を連れて来たんかぁ?」
藤吉「まさか!幽霊、違いまんがなぁ。その上の鬼ノ半兵衛さんをお連れしたんダス。」
五兵衛「誰ぇや?!半兵衛なんて顔役は聴いた事ないでぇ、半兵衛いうたら、竹中やろう?!」
藤吉「流石に、竹中半兵衛じゃないですけど、安心して下さい。この出立をよーく、見ておくんなはれぇ!
まず、この煙草入れ!之が『松皮印傳』に金具は金と赤銅ですよ。十二両の代物ですから。
そして、此の煙管! 銀無垢に龍の細かい彫物、そしてラオが又見事で、漆の重ねが深くて見事!!
更に驚いたのが、こので脇差すよ。見て下さい!此の鮫皮尽くし。柄が鮫皮なら、鞘も鮫皮。
目貫は金細工、赤銅七子に牡丹の狂い獅子。そして、中身の銘は『彦四郎』貞宗ですよ!
貴方が自慢の貞宗を、この半兵衛さんも差してらっしゃいます。
まぁ、どうあっても、ご本人は鬼ノ半兵衛だと言わはりますけど、ワテは幡随院長兵衛ハンやと確信しております。」
五兵衛「うーん」
と、五兵衛は腕組みをして、目を瞑り考え込んだ。そして、藤吉に尋ねます。
五兵衛「藤吉、このお方は、何人で旅をなさっているんだい?」
藤吉「一人旅です。」
五兵衛「任侠道で生きてなさる親分さんが、子分もお連れにならず、一人で旅をなさっていると、お前は言うのかい?」
藤吉「ヘイ。」
五兵衛「其れはちーとばっかし、おかしいのと違いますかぁ? 事によると正月十五日の前日になると、
もしかして、天王寺屋へお仲間が集まって来るてな、そんな段取りが出来てますのと違いますか?
本んでもって、この人、着物の下には鎖帷子の筒袖を着込んで、おられて、法螺貝の合図で、
槍弓、鉄砲を下げた子分が、私らの寝首を狙って、踊り込んで来る段取りが出来てませんか?!」
長兵衛「やい!黙って聴いてりゃ、人を盗人、盗賊の類な様に言いやがって、冗談も大概にして貰いたい。」
藤吉「そうですよ、旦那! この方は、そんな料簡の人じゃありません。
四条畷と長田の間で、身投げをしようとする武家のご内儀を助けて、返って来る保証もないのに、
五両という金子を恵んではるのを、ワテがこの目で見ておりますから、安心して下さい。」
五兵衛「お前が、そこまで言うのなら、信じてみましょう。失礼しました、半兵衛ハン、
『水浴び』の件は、藤吉からも聴いておると思いますが、本間に宜しゅうお頼み申します。」
さて、天王寺屋五兵衛も、最初(ハナ)は半信半疑、疑っておりましたが、長兵衛の佇まい言葉使いを見ているうちに、
五兵衛も一角の商人ですから、長兵衛が大した人物である事が判りますから、何んとか無事に『水浴び』が終わる事を願うようになります。
そして、いよいよ、正月十五日。朝から大きな盥を重ねて、一番上に手桶を置いて、その中に梅の小枝を入れて、後ろに金の屛風が立てて御座います。
鹿島屋の若衆が現れるのを、五兵衛の親戚、奉公人総出で待っております。そして、その先頭に床几を置いて座っているのが我らが幡随院長兵衛で御座います。
その長兵衛の出立はと見てやれば、黒羽二重に五所紋付、その紋は本多政勝公の『立葵』の紋所で御座います。之に、仙台平の袴を付けて今か今かと待っておりますと、
やって参りました、大坂三郷から集まった『仲司』の連中です。ざっと、三、四十人の集団で何やら菰に巻いた荷物を抱えて御座います。
一同「めでた!めでた!の若松様んに御座んす。 さて、婿さんはどなたでございますか? 婿さんは?! どなたで御座いますかぁ?!」
長兵衛「之は皆様、能くいらっしゃいました。お待ちしておりました。ささぁ、どうぞ!どうぞ!」
若衆甲「貴方様が、この家のお婿ハンですか?!」
長兵衛「いいえ、私は江戸表より参りました。半兵衛と申す者。婿は正月早々風邪を引いて御座いまして、私が名代で御座います。」
若衆乙「ヘイ、さいですか?お前様は、二つ名は御座いますか? 何の半兵衛さんと仰りますか?!」
長兵衛「鍾馗ノ半兵衛と申します。」
若衆甲「この大坂ではなぁ~、関東の兄ちゃん! 『水浴び』の口上なんてモンは、朝比奈藤兵衛とか、帆柱ノ伊之助とか、一端の名の通った親分が受けて立つんだ!
同じ江戸表から来ましたと言うのなら、唐犬ノ権兵衛とか、夢ノ伊知郎兵衛とか言うくらいの親分衆でないと、貫目が釣り合わねぇ~んだ!!判るかぁ?
鍾馗ノ半兵衛?! 誰れなんだぁ、お前。 竹中半兵衛なら知ったぁ~いるが、鍾馗ノ半兵衛じゃぁ、ちと判らねぇ~なぁ~。」
長兵衛「だから、その伊之助とか言う野郎が、借金拵えてフケちまったんで、俺様が名代だぁ! 何んかぁ文句あるかぁ!」
若衆乙「大有りだぁ!このタコ。 貴様、何様の分際で『帆柱ノ伊之助』ドンを呼び捨てにしてやがる。伊之助サン!と言え伊之助さんと。」
若衆甲「野郎、腹が空き過ぎて、脳ミソに栄誉が廻らねぇ~から、寝言をほざいているんとちゃうかぁ?!」
若衆乙「そいう事かぁ、そしたら、宜い餌を喰わしたる! 遠慮せんと、之でも喰って脳ミソに栄養、付けねぇ~!!」
そう言うと、持って来た菰ん中から、犬の死骸を取り出して、それを長兵衛目掛けて、放り投げて来た!!
驚いた長兵衛、是を何とか交わしましたが、犬の死骸は、そのまま金屏風に当たり、金屏風が血み泥になり汚れてしまいます。
若衆乙「やい!関東の田舎っぺ! 犬は美味いかぁ?!しょっぱいかぁ?!」
頭に来た長兵衛、その場に有った、手桶の水を柄杓で金屏風に掛けて、血を流して、其れを拭き取るように藤吉に指図致します。
若衆甲「なんじゃぁ、折角、餌に呉れてやったのに、喰んのかぁ?田舎者!」
真っ赤な顔になった、長兵衛、げんこつを握って、憎まれ口を叩いている若衆に、怒鳴り付けて、一発殴ります。
長兵衛「のぼせるのも大概にせぇ~よ、贅六。もう、こんだけのいたずらをしたんだ、俺も手加減しねぇ~ぞ!」
そう言うと、握った拳で、目の前の若衆を、一発、殴ります。殴られた若衆は、二、三軒後ろに飛ばされて、気を失ってしまいます。
すると、後ろに居た若衆たちが、「やりやがったなぁ!」「やっちまえ!」と、血気して、長兵衛に襲い掛かろうとした、次の瞬間です。
蹲踞の姿勢に構えた幡随院長兵衛、水鴎流の居合の極意で、『彦四郎』貞宗を一線致します。
すると、一番前で襲い掛かろうとした若衆の髷が、ポン!と、見事に斬り落とされて宙に舞うのでした。
長兵衛「やるのか?! 俺様は鍾馗ノ半兵衛とか、鬼ノ半兵衛とか、洒落で名乗っていたが、
俺は、浅草花川戸の幡随院長兵衛、大名相手の口入稼業、その元締で屋敷渡世のお兄さんだぁ!!
上方の贅六に、犬の死骸を投げ付けられたとあっちゃぁ~、黙って引く訳には行かない。
世間様が許しても、俺の先祖の助六が、黙っちゃいねぇ〜と、言っているだぁ!コン畜生。
貴様たちは、一人残らず叩き斬って、住吉神社の前の掘割に沈めて関にしてやる。
さぁ贅六、死に急ぐ野郎は、遠慮なく掛かって来やがれ!ベラ棒めぇ~。
最初(ハナ)から殺すつもりはありませんが、犬の死骸を投げ付けた落とし前は取ってやろうと、『彦四郎』貞宗を抜いた幡随院長兵衛。
抜いた刀で、所謂、デモンストレーション!風切り音をさせて、ゆっくり摺り足で、じりじりと連中に対して、圧を掛けて行きます。
是を見た若衆は、『鍾馗様より、恐いがなぁ?!』と、びっくり仰天、たまげたなぁ~、と、蜘蛛の子を散らす様に逃げて行きます。
大坂の道と言うやつは実に狭い路地でありまして、慌てて、三十数人が同じ方向に逃げようとしますと、倒れる奴が出て、
それを踏んで逃げる者、途中で大事な煙草入れを落とす奴、将棋倒しになって、五、六人が重なり合って転倒(コケ)て血を流して、それでも命が欲しいから逃げようと致します。
長兵衛「天王寺屋さん、申し訳ございません。刀まで抜くつもりはなかったが。。。あの贅六どもが余りにも無礼なもんで。」
五兵衛「いえいえ、幡随院の元締。伊之助が居ても、奴等は同じ様に暴れていたはずです。正月早々、犬の死骸なんぞ持ち出して。。。」
長兵衛「江戸も、正月の挨拶廻りはやりますが、この『水浴び』は酷い!悪しき風習です。辞める訳にはいかんのですか?」
五兵衛「仲司を使う側の商人は、皆んな辞めたいと思っていますが、朝比奈藤兵衛が怖くてねぇ、云えません。」
長兵衛「藤兵衛は、何処に居るんです?!」
五兵衛「多分、昼過ぎになると、鹿島屋ハンに戻って、酒を呑んどる思います。九ツ過ぎでしょうなぁ。」
長兵衛「そうですか? 儂が一対一(サシ)で、朝比奈藤兵衛と噺をしてみましょうか?」
五兵衛「噺て判る相手では、在りませんよ。」
長兵衛「その時は仕方在りません。一対一(サシ)で勝負するだけです。」
五兵衛「刀で斬り合うんでっかぁ?!」
長兵衛「違います。素手で喧嘩するだけです。」
五兵衛「それでも、一つ間違うと、命のやり取りでっせぇ?!」
長兵衛「人間は何時か死にますから。」
五兵衛「あんさんと言う人は。。。」
天王寺屋の五兵衛は、心底、幡随院長兵衛と言う漢に驚き、そしてその魅力を強く感じていた。
旅の行き掛かりで巻き込まれた『水浴び』の挨拶の口上を経験して、この行事に難儀している商人を見ると放っては置けない長兵衛。
金が欲しい、縄張りが欲しい、そんな欲得の料簡ではなく、漢(長兵衛)が漢(藤兵衛)に仁義を切る。
世の中には、こんな任侠道に真っ直ぐな漢も居るものかと、心酔するのであった。
一方、この『水浴び』で、幡随院長兵衛が仲司の若衆を相手に、刀を抜いてやり込めた噺は、直ぐに大坂中を駆け巡った。
長兵衛が九ツの鐘を聴いて、天王寺屋五兵衛の道案内で、道頓堀の鹿島屋へ向かう道中ですら、聴こえて来る程である。
野次馬A「あんさん!知ってはりまっかぁ?」
野次馬B「何をいなぁ?」
野次馬A「何をてぇ、天王寺のホレ、幡随院長兵衛が仲司の若衆に刀抜いた一件でんがなぁ。」
野次馬B「何にぃ、そんな事件がおましたんかいなぁ。あんさん見たん?」
野次馬A「残念ながら、見てしまへんのやけど。。。仲司の若衆を殺そうとしたらしいですワぁ」
野次馬C「ワテは一部始終を見ましたでぇ。」
野次馬B「あんさん、見たん?! 見たんなら、詳しゅう教えて!?」
野次馬C「へい、最初は『水浴び』らしく、言葉の掛け合いだったですワぁ
所が、幡随院の元締の方が最初(ハナ)は、神宮皇后ノ半兵衛とか言うて、ボケよりましてん。」
野次馬B「変なボケやなぁ~ そりゃ仲司が怒って突っ込みますワァなぁ。」
野次馬A「あの、其れ神宮皇后やのうて、鍾馗様違いますかぁ?」
野次馬C「アッ!それそれ鍾馗さんや、鍾馗さん。」
野次馬A「そんな『人形買い』みたいなボケは要りませんがなぁ、何んで幡随院の元締は刀を抜いたんでっかぁ?」
野次馬C「其れがなぁ、仲司の跳ね返り者が、帆柱ノ伊之助を何んで呼び捨てにすんねん!て、因縁つけよって、
まぁ、幡随院長兵衛やと知らんからやけど、犬の死骸を元締に投げ付けよったんですワぁ」
野次馬B「無茶しよりまんなぁ。」
野次馬C「無茶いうても、知らんさかいにやりよったんですが、元締が怒る!おこる!
『上方の贅六』言うて、殺(い)てもうて住吉さんの掘割に沈めて関にする!って啖呵切りなはった。」
野次馬A「そんくらいの啖呵は切りまっしゃろなぁ、幡随院長兵衛やし。」
野次馬B「本でぇ、どないなったんです。」
野次馬C「幡随院長兵衛や!って、名乗って、相撲のウンコ座りになって。」
野次馬A「汚いなぁ、おまはん。其れを云うなら『蹲踞』やろう。」
野次馬B「何んですか?その傷害保険の保険屋みたいなんは?」
野次馬A「其れは、損保や!儂が云うでるのは『蹲踞』。」
野次馬B「コロナになって、老人が出来ん!って嘆いている。」
野次馬A「其れは、散歩や!だから『蹲踞』。」
野次馬C「もうええは、限がない。 こんな格好ですワぁ、この蹲踞の姿勢をして、居合ですね、スパッ!と仲司の一人の髷を斬りよった。」
野次馬A「凄い腕前やなぁ。」
野次馬C「本まぁですワぁ。正に電光石火! 切られた仲司は座りションベンですワぁ」
野次馬B「そんでぇ?」
野次馬C「刀を振って風切り音を出しただけで、蜘蛛の子散らした様に、随徳寺ですワぁ!」
野次馬B「其れは、知ってますワぁ。松尾芭蕉が美しさを俳句にした、日本三景ですね。」
野次馬C「其れは松島の瑞巌寺、ワテが云うのは随徳寺!逃げたと言うこっちゃぁ。」
野次馬B「本でも、『水浴び』で刀は抜いたらアカンなぁ。漢やないワぁ。あくまでも言葉で鎮めて見せんと。」
野次馬A「せやなぁ、朝比奈藤兵衛ハンなら口だけで鎮めてまいますなぁ。」
野次馬C「そうかなぁ。犬の死骸を投げられても、浪花の首領(ドン)なら口だけで鎮めるかなぁ?」
野次馬B「鎮めますて藤兵衛ハンなら、江戸の、東の田舎者とは、やっぱり、違いますって。」
野次馬A「まぁ、云うても、三国志に例えるなら、幡随院長兵衛は張飛!力だけでしょう。そこ行くと朝比奈藤兵衛ハンは関羽の器ですなぁ。」
野次馬C「おまはん!、なかなか上手い事云うなぁ。」
野次馬も、ご当地贔屓になるのは仕方ない。そう思いつつ、是が明日になると、更に尾鰭が付いて、俺は悪者にされるんだろう。
しかし、その前に、朝比奈藤兵衛と一対一(タイマン)勝負で、ケリを付けて於けば、噂ではなく真実になる!と、思う長兵衛でした。
お控えなすって!
と、幡随院長兵衛と天王寺屋五兵衛が、鹿島屋へ向かう途中、一人の若い野郎が仁義を切って参ます。
さて、この旅姿の若い漢、一体何者なのか? 敵か?味方か? まさかぁ!?仲人かぁ?
さて、いよいよ、次回は、幡随院長兵衛と朝比奈藤兵衛が一対一(タイマン)勝負が始まると言う、
これからが面白いのですが、続きは次回のお楽しみです。
つづく