こうして、早雲戸親方達も巡業から戻り、十一月の回向院での本場所へ向けて、厳しい稽古を連日熟す櫻川だった。

いよいよ本場所の半月前、親方衆と行司、そしてご贔屓連の面々が集まり、幕内・十両・幕下の番付表の会議が開かれた。

当然、ご贔屓連の中に幡髄院長兵衛の顔もある。そして我らが櫻川五郎蔵の番付はと見てやれば、幕下二枚目!

明らかに、会議に参加した面々が、幡髄院に忖度した番付位置で、是を聞いた長兵衛が、この番付に異議を唱えた。

長兵衛「皆さんが、アッシの顔色を見て、二枚目に櫻川を押して下さるのは嬉しいが、貫目の釣り合わない勝負で、お客様をガッカリさせては本末転倒。此処は、櫻川は幕下付け出しからにして下せぇ〜。」

この長兵衛の鶴の一声で、櫻川五郎蔵は幕下しんがりに格付されて、本場所を迎える事になります。


さて、番付表が張り出された江戸中で、花川戸の元締が贔屓にしている櫻川は大人気で、もう、下谷・上野界隈の人気だけでは御座いません。

甲「今度番付入りした、櫻川ッて野郎がなかなか、宜いらしいじゃないかぁ?何んでも、幡髄院の息子なんだって?!」

乙「へぇ〜、幡髄院長兵衛さんの倅なのかい?」

甲「そう聞いたぜ!」

丙「そうは噂になっているが、幡髄院の元締は内儀(にょうぼう)は持って無いだろう?」

甲「馬鹿!倅を産むのは内儀ばかりじゃないぜぇ、芸者だって、女郎だって、比丘尼だって、皆んな皆んな生きているんだ、女子(おなご)なんだ!」

丙「ミミズやオケラやアメンボに聞こえるぞ!」

乙「ところで、幡髄院の元締は幾つだぁ?」

丙「三十三だぞ確か。そして、櫻川は二十一だぞ、十二の時の子か?」

甲「ナーニ、長兵衛さんの舎弟だ!舎弟。」

丙「元締の兄さんの倅、甥っ子じゃないか?」

と、櫻川五郎蔵が何者なのかで、まずは、世間の噂は持ちきりで、更に番付に噺は及びます。

甲「番付表を見たか?」

乙「見ましたが、櫻川が見つからない。幕内は勿論、十両にも有りませんよ。」

丙「出稽古では、小結の宮戸川や関脇の岸柳島と互角の勝負をするらしいですよ。」

甲「此処なんだ!櫻川五郎蔵、何故か幕下の尾っぽに書いてあるんだよ。」

乙「分かった!番付表を逆さに見ろって謎掛けなんじゃありませんか?」

丙「半じもんの番付表なんて!聴いた事がないぞ。」


さて、櫻川五郎蔵の人気は、大変なもので大勢の客を回向院の境内に集めたのですが。。。

甲「櫻川は、まだ、取らないのか?」

乙「之より、三役だそうですよ。」

丙「何を寝ぼけた事を言っている、明六ツと同時に相撲は始まるんだぞ!幕下のしんがりなんだぜ櫻川は。

夜明け前に来ないてと駄目に決まっているだろう?俺なんか、今日は一番太鼓の暗い中、朝七ツに来て、櫻川の取組が終わって一旦寝に帰って、其れから又来ているんだから。」

そうです。この当時の相撲は、制限時間と言う概念が有りません。だから、兎に角、立ち合いの呼吸が合うまで何度も仕切り直しします。

ですから、冬場は特に、まだ薄暗いうちから取組が始まりました。ですから、幕尻の櫻川はかなり早朝の出番でした。

その為、初日、櫻川の取組を見逃したお客さんが早朝と言うより、真夜中から押し掛けて、回向院は大変な事になります。

真冬の吹きっ晒しの中で一刻ほど待つので、行火(アンカ)や炬燵(コタツ)を持ち込む者は、まだマナーが良い連中で、

中には焚火を始めて、茶碗酒を呑んでワイワイやり出す輩が現れまして、寺男や小坊主と喧嘩に成ったり致します。

すると、又是が幡髄院長兵衛一家の出番と成りまして、火事や喧嘩が起こらない様に、大人しく取組を客が待つ様にと警備に当たります。


こうして、初めての番付入りの場所を、七戦全勝した櫻川、破竹の勢いで出世街道を爆進しまして、四年後、櫻川五郎蔵二十五歳で、

漸く、今場所勝ち越すと三役が見えて来る東の前頭二枚目とう位置、通称・貧乏神まで昇進致します。

一方、この頃櫻川の好敵手(ライバル)と言えば同じ西の前頭二枚目で黒鷲勘太夫。

そして、この二人には、この様な因縁が御座います。

甲「さぁ〜、今場所は深川八幡様の境内だ!ここに、必ず、血の雨が降るぜぇ!」

乙「エッ!何かい?又、宮司同士が刀で殺し合うのかい?!」

甲「馬鹿!其れは四百年も後の噺だ!違うよ、タニマチ!タニマチ同士が犬猿の仲、町奴の幡髄院の元締の櫻川五郎蔵と、

旗本奴、水野十郎左衛門様の配下、近藤登之助様がタニマチをしている黒鷲勘太夫が、同時に前頭二枚目で同じ番付に並んだんだよ。」

丙「この二人を、本場所で取らせるかな?」

甲「取らせない訳には行くまい。」

乙「櫻川と黒鷲、取った事、有りませんでしたか?」

甲「在るよ、幕下ん時に、櫻川が上手投げで勝っている。でも、其れは黒鷲のご贔屓に、近藤登之助様が成る前の噺だ。」

丙「取組が決まると、どっちが勝っても大変だなぁ〜。櫻川なら町奴が旗本奴を囃し立てるだろうし、

黒鷲なら旗本奴が町奴を囃し立てる。どちらが勝っても大喧嘩は必定!こりゃぁ〜血の雨が降るなぁ〜。」


さて、深川八幡での本場所初日、我らが櫻川は花筏と対戦。豪快な上手だし投げで櫻川の快勝する。黒鷲も危なげ無く藤ノ松を寄り切る。

二日目、櫻川の対戦相手は曲者、出水川!!胸に頭を付け粘られたが、最後は押し倒して櫻川の勝ち。黒鷲も北斗灘を引落として勝つ。

そして、二日目の取組後、翌日の幕内の取組が境内に張り出され、呼出さんによって読み上げられます。


櫻川には、黒鷲! 櫻川には黒鷲!


甲「いよいよ、世紀の一番、血の雨が降る戦いですね。」

乙「之は絶対に見逃せない一番に成りますね。我々、櫻川の贔屓としては!」

丙「之こそ、女房を質に入れても見ないと漢じゃない!そして、櫻川贔屓と言えない。」


さて、此処まで櫻川が出世しましたから、幡髄院長兵衛は、連日、深川八幡の境内に足繁く通っている事と思いきや、

流石に、幕下・十両の時代の取組とは違い櫻川が毎回圧勝する訳では御座いません。ハラハラドキドキの勝負も有りますから、

長兵衛、もう目を開けて見て居られません。よって、唐犬ノ権兵衛を筆頭に相撲好きな子分たちに見に行かせて、

櫻川の取組が終わると、結果を急ぎ走って花川戸まで知らせると言う。そんな仕組みが出来上がっておりました。

この日二日目も、長兵衛は花川戸の家の門前で、出ては入り、入っては出て、『お前はプレーリードッグかぁ?!』と言う状態です。

すると、金襖治兵衛と申します、子分が駆けて結果を知らせに参ります。

長兵衛「どうだった!関取は?!」

治兵衛「勝ちました。危なかった。立ち合いから、詳しく話しますと。。。かくかくしかじか。。。ってな感じでからくも勝ちました櫻川関。」

長兵衛「そうかそいつは宜かった。之で初日から二連勝だ。」

と、そんな話を中でしておりますと、関取も取組が終わって長兵衛の家に報告にやって来ました。

櫻川「御免なさい!櫻川です。」

長兵衛「おーう!今日も押し倒して勝ったらしいなぁ。」

櫻川「ハイ、頭を付けて前ミツ取られ苦しい相撲でしたが、何んとか力で捩じ伏せました。」

長兵衛「そうかぁ、ご苦労様。其れで明日の取組は?!」

櫻川「ハイ、黒鷲勘太夫関で御座います。」

是を聞いた幡髄院長兵衛は、『遂にこの日が来たかぁ!?』と、心に釘を刺された様な気持ちがした。

長兵衛「関取、相撲素人の私からは助言なんて、大層な事は申せませんが、剣術を私に仕込んで下さった、

鷗流居合剣法の達人、本多藩の指南役・勝浦孫之丞先生のお言葉に、『勝つと思うなぁ、思わば負けよ』と言う言葉が有ります。

櫻川「其れは、美空ひばりの『柔』ではありませんか?!」

長兵衛「違います!何を言うんです、勝浦先生のお言葉です。(正直、ズバリ同じで驚いた!三代目伯山は美空ひばりは知らないだろう?)

そして、明日の相撲は、勝ちたいとばかりは思わずに、負けない為の備えも忘れずに闘って、全力を出し切って下さい。

其れで負けたなら、其れは其れで仕方ない。運が足りないのか?勝負の神に見放されたのか?実力では計り知れない物が勝負の世界には御座います。」

櫻川「ご助言、有難う御座います。」

と、脇で是を聴いていた芝居馬鹿の相撲馬鹿、二刀流馬鹿の金襖治兵衛が異議を唱えます。

治兵衛「関取!関取らしい相撲ってぇ〜のは、自分から攻める相撲だ。其れを勝ちたいからと言って守りに入るのは、どうなんでしょうかぁ?

あえて、素人が失礼承知で言いますが、守って守って負けない相撲をして、そんな卑怯な相撲をして、相手がバテるのを待って勝って、其れで行司から勝ち名乗りを受けて軍配を指されたいですか?」

櫻川「そうですね。答えるのが難しい質問です。玄人なんだから、相撲で飯を食っているんだから、勝つ事が先ず第一と思う反面、

櫻川らしい相撲を応援して下さる沢山のご贔屓に喜んで貰いたいと言う気持ちも、正直あります。何方を取るのか?と言われると迷います。」

治兵衛「明日の取組後、アッシら町奴と旗本奴が揉めるのは、もう避けられないと、アッシは覚悟を決めています。

そして、アッシらは水野十郎左衛門の首を取りに旗本奴と命懸けの喧嘩をする訳なんですが、関取!櫻川関が勝っても、黒鷲関が勝っても、必ず、血の雨が降ります。

どうしても避けられない戦で命を散らすんなら、櫻川関には勝っても負けても、綺麗な相撲、櫻川関らしい相撲を取って貰いたい。ただそれだけです。」

長兵衛「オイ!治兵衛、少し酒が過ぎているぞ!関取に失礼じゃないかぁ。 関取、済みませんね。

この野郎、酔っ払って大きな口を利きやがって、アッシからも謝ります!御免なさい。 オイ、治兵衛!お前はもう二階で寝ろ。」

櫻川「では、元締!母が待っているので、そろそろ失礼致します。」

長兵衛「ハイ、では明日の相撲頑張って下さい。明日は行けましたなら応援に行きます。」

治兵衛「元締は、見てらんないでしょう?ハラハラし過ぎて、口から心の臓が飛び出しますよ。」

長兵衛「何を余計な事ばかり言う!早く寝ろ。」

治兵衛「寝てられません。まだあと五合残ってますから、之を呑み干すまでは眠れねぇ〜!」


長兵衛の家を出て、入谷田圃の家へと帰って来た櫻川五郎蔵です。

櫻川「今、帰りました、お母さん。」

母「五郎蔵!おめでとう、今日も勝ったんだって?!」

櫻川「ハイ。宜くご存知で。。。誰から聴いたんですか?」

母「毎日、元の長屋の源さんが、教えに来て、お前の相撲を身振り手振りで教えて下さるのぉ。其れはそうと、明日は黒鷲関と当たるッて本当かい?」

櫻川「ハイ。」

母「私は女子ですから、相撲の事は何も分かりませんが、東海道の水口からお前に付いて江戸に出て来たのは、

お前が一人前の関取、親方に成りたいと、夢に向かう気持ちを叶えてやりたいと思う母心から。

だけど、今のお前がその関取になる夢を叶えられたのは、之は間違いなく、幡髄院の元締と一家の皆さんのお陰です。

その感謝の気持ちを思うと明日の黒鷲関には負けられません。黒鷲関にもご両親が居て、お前に負けぬ相撲道に精進なされたやも知れぬが、

明日の一番だけは、幡髄院長兵衛一家の皆さんの為にも、必ず、見事勝って来て下さい。お願いします、五郎蔵!」

櫻川「ハイ、其れは、此処に来る前に元締からも言われました。心配御座いません!母さん、明日は必ず勝って帰ります。」

母「ハイ、其れなら宜い。明日に備えて今日も早く自分の寝所で休みなさい。」

櫻川「ハイ、お休みなさいお母さん。」

寝所に戻り、布団の中に潜ずり込みますが、なかなか寝付ける物では御座いません。

明日の相手、黒鷲関の取口を思い出しながら、対策を考えて、想定対戦(シュミレーション)が布団の中で始まります。

立ち合い、ガツンと当たって来るのか?意外にも右に変わりイナして来るか?

張り手は先ずないが、喉輪は在るなぁ〜、でも、顎を引き過ぎると、ハタキ込まれる可能性も有るから要注意!

得意四ツは『左四ツ』だから相四ツなんだが、敢えて『右四ツ』に受けると、動揺を誘えるか?

いやいや、治兵衛さんも言っていた、奇を衒う作戦より、櫻川の相撲だ!やはり、素早く上手を取る事に全神経を集中だ!

ッとそんな事を布団の中で考えていると、興奮して寝られないは、汗はかくは、浴衣がビショ濡れです。

櫻川、布団から出て浴衣を脱いで、外の風に当たり、頭を冷やそ!と、考えます。そして、手拭いを湿らせ身体を拭こうと。

母親の眠りの邪魔をしない様に、ゆっくりと音を立てずに雨戸を一枚、二枚と外して、庭へと降りて行く櫻川。

入谷田圃から吹き付ける風がかなり冷たく、直ぐに肌の汗は乾いてしまいます。

そして、庭の南側の隅にある井戸端へ、身体を拭こうと歩み始めてびっくりします。


バシャッ!バシャッ!


井戸端で誰か、行水?いやいや、多分、水垢離をしているに違いないと思いますから、

そーッと静かに『誰だろう?』と、朧な月明かりを頼りに進みますと、何やら声が聞こえて参ります。


下總國下植生郡成田山新勝寺大日大照不動明王様、何卒、一子櫻川五郎蔵が、明日の黒鷲勘太夫との取組に勝ちまする様に、

どうかぁお守り下し置かれたく、勝ちを承りますれば、この老婆の命を差し出す所存で御座います。

八万万の神々様!どうか、この老婆の命と引き換えに、息子、櫻川五郎蔵を明日の取組で勝たせてやって下さいまし。


冷水を浴びて一心に祈りを捧げる母の姿を見た櫻川。

櫻川「母さん!貴方の子に生まれて来た事を、これ程、幸せに感じる事は御座いません。

有難う御座います。明日は必ず黒鷲関に勝ちます。万一、万一、負けたら生きてはおりません、舌を自ら噛み切って自害致します。」

こう言って、暫く母の方へ手を合わせ拝み続ける櫻川。水を浴びる音が消えるのを確認して、自らの寝所に戻り、浴衣を着て床に付きます。

やがて、東叡山寛永寺の打ち鳴らす明の七ツの鐘と共に、櫻川がゆっくりと起きて参りますと、太鼓の音と共に三日目の使者がやって参ります。

使者「えぇ、関取!一番太鼓で御座います。」

と、各部屋、関取の屋敷を呼び出し奴が一番太鼓のお振れで御座います。そして、いよいよ、櫻川と黒鷲の世紀の一戦がこの後執り行われます。



つづく