大岡越前守忠相は、同心・片桐祐介に命じて、北町の書庫から八年前の重兵衛殺しの調書を写して来させていた。
片桐「北町から八年前の『重兵衛殺し』の調書を写して参りました。」
越前「ご苦労、諏訪美濃守殿は文句を言って参っただろう?!」
片桐「えぇまぁ、直接では御座いませんが、与力の井脇大膳という御人が『北が八年も前に落着させた事件を、南が今頃何を!?』と、凄い剣幕で。。。」
越前「それで、宜く調書を見せて呉れたなぁ?!」
片桐「ハイ、竹馬の友で同じ秋山道場の門弟が北に居りまして、その加藤新八郎という同心が、こっそり見せて呉れました。」
越前「持つべきものは朋友であるなぁ、ご苦労であった。」
そう言いながら、越前守は、片桐が写して来た調書を読み、『重兵衛殺し』の事件のあらましを知る。
そして、今度の事件、『仙太郎殺し』との接点である、松葉屋半左衛門の花魁小夜衣への尋問を決意します。
さて、𠮷原は、遊女三千人御免の場所と俗に呼ばれておりますが、この𠮷原から遊女を外へ出すには厳しい決式(ルール)が御座います。
小夜衣を𠮷原から出すのは手続き上も手間なので、奉行所側から𠮷原へ出張しては?という意見も御座いましたが、
花魁が慣れ親しんだ遊廓の中で詰問しても、「知らぬ存ぜぬ」と、白を切られたら何も聴き出せないと越前守考えまして、
後日、松葉屋の番頭、平蔵に連れられて、小夜衣は遣り手をお伴に南町奉行所へと三人で現れます。
そして、お白洲へと引き出されて、長袴に麻裃の正装の南町奉行!大岡越前守忠相が厳正な雰囲気の中、唐紙を開けて登場致します。
越前「一同、大儀である。 では早速、松葉屋半左衛門預かり、遊女、小夜衣に質問致す。
まず、その方、どういう経緯で松葉屋半左衛門方に預かりと成った?有体に申せ!」
小夜衣「私の両親は元々駿州江尻の大代村の百姓でして、私が十六の年に、飢饉で年貢が払えず、
あまつさえ嵐で家が壊れて難渋しておりました。それで私自らが𠮷原で働く決心を致しまして、
それで、伯父の村井長庵の仲介で、松葉屋で奉公する事に成りました。八年前の事でありんす。」
越前「平蔵に聴く、小夜衣が松葉屋へ売られた時の受人と身元保証人は誰だ?」
平蔵「へぇ、受人は父、重兵衛で、身元保証人は村井長庵で御座います。」
越前「立ち入った事を聴くが、小夜衣の年季と身入代金は幾らだ。」
平蔵「へぇ、年季は二十五迄で、お礼奉公が一年付きます。そして代金は六十両に御座います。」
越前「その六十両の金子は、父重兵衛が國元へ持ち帰ったのか?」
小夜衣「それが、享保三年六月二十五日早朝、伯父・長庵の家を出た父・重兵衛は、
藤掛唐十郎という吉良の浪人の盗賊に襲われて、帰らぬ人となり、その六十両も藤掛に奪われます。」
越前「なるほど、之は奉行所に在る調書からの噺であるが、その六十両、結局藤掛の周りからは出て来なんだとあるが誠か?!」
小夜衣「ハイ、誠で御座います。それ由えに。。。妹も。。。」
越前「妹?!」
平蔵「平蔵、お奉行様に申し上げます。 小夜衣の妹、お梅も松葉屋へ預かりとなり、現在は紅梅と名乗り遊女をしております。」
越前「誠か?それで妹が松葉屋へ売られたのは何時だ?」
平蔵「お小夜、小夜衣が売られて来た半年ほど跡ですがら、享保三年の十二月か?翌四年の正月かと存じます。」
越前「そのお梅の時の受人と身元保証人は誰だ?!」
平蔵「ハイ、受人は伯父の村井長庵、身元保証人は馬道七丁目の人形屋三次郎です。」
越前「其れではそのお梅、紅梅からも噺を聴く必要があるなぁ、平蔵、すまぬがその旨を手紙に書いて呉れ、松葉屋へお梅を誰か呼びにやらせる。」
平蔵「判りました、畏まって御座います。」
その場で、番頭の平蔵がサラサラと手紙を書きますと、つくばいの同心の一人が是を持って松葉屋へ馬を使い走ります。
越前「さて、噺は変わるが、小夜衣!その方、伊勢屋の養子、仙太郎を存じておるか?」
小夜衣「ハイ、存じ上げております。」
越前「その仙太郎、何時から松葉屋へは参るようになった。」
平蔵「お奉行様、平蔵代わりましてお答え致します。今年の正月二十五日、三名様で起こしになったのが初回で御座います。」
越前「それから、仙太郎はどのような様子であった。」
小夜衣「ハイ、仙さんは綺麗に遊ぶお客様で、次第にアチキをご贔屓にして下さいました。」
越前「所謂、客から馴染み、更にはマブに成ったと申すのだなぁ?!」
小夜衣「ハイ、そうでありんす。」
越前「マブとなった仙太郎が、小夜衣、お前を身請けする噺が在ったと聴くが誠か?!」
小夜衣「へぇ、先ほど来噺に出ます、伯父長庵が仲介に成り身請けの噺を仙さんと致しておりました。」
越前「その身請け噺の為、仙太郎は五十両という金子を用意したと聴くが誠か?」
小夜衣「ハイ、誠でありんす。妹の紅梅も呼んで、アチキを堅気にして『家族』になると、伯父の長庵が言いました。」
越前「それで? おかしいなぁ、小夜衣!お前は堅気になど成ってはおらぬ。籠の鳥のままではないか?」
小夜衣「ハイ、実はそれから仙さんは松葉屋へ来なくなりんした。」
越前「それもおかしいなぁ~、実際に仙太郎は亡くなる前日、お前の所へ来ていたはずだ。」
小夜衣「そうなんです、つい最近、誤解が解けて、仙さん、又馴染みに戻って呉れはったんです。」
越前「どういう事だ、有体に申してみよ。」
小夜衣「ハイ、仙さんが急に見えなくなるし、身請けの噺も一向に進みません。
それで馴染みの茶屋、蔦屋さんに、燃し、仙さんを見掛けたら、『小夜衣が淋しいがっている』と伝えて欲しいと頼んだんです。
そしたら、暫くして仙さんを蔦屋の女将が猿若町で見掛けて、声を掛けたら「小夜衣?! あんな泥棒女郎には用はない!」と、言われたとか。
それを聴いて、之は身請けの五十両で、伯父の長庵と何かあったに違いないと思いますから、蔦屋の女将さんに無理を云って、
仙さんを半ば騙して蔦屋に連れて来てもらって、その場で直接逢ってアチキが全てをお噺したら、漸く誤解が解けて、
それで又、仙さん、先月からアチキの元へ通って下さるようになったんですが。。。あんな事に成って。。。」
小夜衣の泪を見て、越前守、女郎とはいえ恋をするのだと思い、不憫な気持ちに相成ります。
越前「最後に、平蔵今の噺を聴いてどう思う? 五十両で小夜衣を身請けする噺、あり得るか?」
平蔵「いやはや、飛んだ茶番ですね、お奉行様。最初(ハナ)から騙すつもりで長庵の野郎が絵を描いたんだと思います。」
越前「長庵とは、そのような悪党か?」
平蔵「あんまり他人様の悪口は言いたくありませんが、村井長庵はどう贔屓目に見ても善人じゃない。どちらかと言えば悪党で御座んす。」
すると、そこへ呼びにやった、小夜衣の妹、紅梅が同じように遣り手に連れられて白洲へと参ります。
越前「小夜衣の妹、紅梅! 早速で悪いが松葉屋半左衛門方へ預かりになった経緯から噺を聴かせて呉れ。」
紅梅「ハイ、父親が藤掛唐十郎という賊に六十両を奪われて間もなく、伯父の村井長庵が江尻大代村の私の家を訪ねて参りまして、
母のお登勢と、名主の卯兵衛さんの三人で相談して、村を出て江戸へ住むことを薦められます。
母親は、江尻の田畑と家を売る算段で村に残りまして、その銭で借金の清算やらなんやら、名主の卯兵衛さんの世話になります。
一方、私は先に江戸へ出て来たのですが、村に居る時の噺では大名屋敷、松平長門守様の所に世話すると云っていたのに、
江戸に着いてみると、母様の借金の返済の塩梅が悪いとか、この跡、母様は父様、重兵衛の供養でお遍路になり、
信州の善光寺と京の高野山へお参りして、相応の金子を寄進する事になっているからと、強引に私を𠮷原へ売ろうと致します。
結局、当時十四の私は、之は抵抗しても拒否できないと諦めて、せめて、売られるのなら姉と同じ松葉屋へと願い出ました。
しかし、これも当初はなんのかんのと難癖を付けて断られたのですが、私が折れないのに諦めて呉れて、やっとの思いで松葉屋で姉妹お世話になっておる次第です。」
越前「なる程、長庵は当初は武家奉公と云って江戸へ連れ出したのかぁ。それにしても、なぜ、姉妹を最初(ハナ)、別々に働かせたかったのか?判るか?紅梅?」
紅梅「判りません。」
越前「小夜衣、その方はどうだぁ?!」
小夜衣「推量ですが、おそらく、姉妹で居ると、お梅を武家奉公させていないと、母にバレてしまうからだと思います。」
越前「何ぃ?! まさか、母親とはお前たち、松葉屋へ売られてから逢ってはおらぬのか?!」
紅梅「ハイ、母様は善光寺へ行ったと聴いてから、音信不通で。。。」
越前「平蔵!、紅梅は松葉屋に幾らで買われた。身入代金は?!」
平蔵「四十両です。」
越前「四十両は?!母親のお登勢は貰って巡礼に出たというのか?!」
紅梅「伯父の長庵はそう申しますが、私にも姉にも、便り一つ届きません。」
平蔵「お奉行様、この四十両も恐らく、長庵に偽(ギ)られていると思われます。」
越前「相判った。小夜衣、紅梅、そして平蔵、大儀であった。本日の白洲はこれまで、一同、立ちませ!」
こうして、第二回の吟味は終わり、改めて、大岡越前守忠相は、村井長庵の極悪ぶりを知る事となった。
さて一方、全く別のところで、この事件に絡むもう一つの裏の出来事が進行していた。
麴町一丁目に瀬戸物屋が御座いまして、正直だけが取り柄のクソ真面目、正直忠兵衛という男が店主で御座います。
子供に恵まれず女房のお崎と二人暮らし、唯一の楽しみが神信心。この日も水天宮さんへお詣りに行った帰りで御座います。
忠兵衛「オイ、今帰った。風呂敷と小遣いを呉れ!!」
お崎「何んだい、此の人は帰って来るなり、『小遣いだ!風呂敷だ!』って、小遣いは今朝百文やったばかりだろう?!
それに風呂敷なんか何に使うんだい?まさか、寅さん家で、貸本屋の新さんが押し入れに隠れているんじゃなかろう?」
忠兵衛「馬鹿野郎!落語みたいな事を抜かしてるんじゃねぇ~、之から赤坂の兄貴の家に行くんだ。」
お崎「あら?そうだった。お兄さんの家に行くんでした。すっかり忘れていましたよ。」
忠兵衛「だから、早く、小遣いと風呂敷を出して呉れ。」
お崎「だから、今朝百文渡したでしょう。お小遣いは要らないでしょう?」
と、言って唐草の風呂敷を、忠兵衛にお崎が差し出します。
忠兵衛「馬鹿野郎、今朝の百文は昼に蕎麦手繰って、水天宮様にお賽銭上げたらもう十二文しかないよ。四百文呉れ!四百文。」
お崎「四百文?! 四百文も何んに使うんだい?!」
忠兵衛「兄貴ん処はガキが三匹も居るんだ、何か菓子でも土産に持って行かないといけないし、兄貴も姐さんも酒が行ける口だ、
宜い酒の一升も切手で渡すようだ。そして、晩飯は食わずに出るから、途中食わないといけないし、日枝神社へのお参りもある。
だから、少し余裕をみて四百文必要なんだ。残ったら返してやるから、四百文!早くよこしやがれ!!」
江戸っ子らしく、せっかちに忠兵衛が云うので、渋々、お崎は四百文渡します。是を引っ手繰るようにして家を飛び出す忠兵衛。
赤坂見附から日枝神社の門前町、一軒の居酒屋に飛び込んで、忠兵衛、早速腹拵えで御座います。
忠兵衛「あぁ~寒ぃ(デービス・Jr)。姐さん!熱いの一合とヤタだ!(湯豆腐をヤタといいます。)」
忠兵衛が女中にそう言うと、忠兵衛の斜め前の席では、牡丹鍋を食べております。
忠兵衛「美味そうなぁ、獅子の肉だぁ。分厚くて堪らねぇ~なぁ。しかし、アレを喰っちまうと兄貴に酒が買えなくなる。。。我慢!我慢!」
間もなく熱燗と、鍋がやって来て、結局、忠兵衛さん此処で三合飲んでしまいます。
忠兵衛「あぁ~芯から温まるには、三合は仕方ねぇ~、おっ?!ガキが柿を売ってやがる。あれを子供たちの土産にしよう。」
そう独り言を云うと、忠兵衛さん、七つ八つの男の子が店番をしている、
空箱を四つ並べて戸板を乗せた、その上に柿を並べて売ってる露店に声を掛けます。
忠兵衛「おー!坊主、柿を貰いたい。」
男子「ヘイ、毎度有難う御座います。 母ちゃん!お客さんでぃ。」
ガキが、呼びに走ると、茶店ん中から三十凸凹の女が出て参ります。
女「お待たせしました。どれに致しましょう?」
忠兵衛「こっちの小さいのは幾らだい、八文。この中くらいのは?、十文。 じゃぁ奥のデカい奴は? 十二文か?
それじゃぁ、そのデカい奴を全部、八つ纏めて買うから八十文に負けて呉れよ。」
女「ダメですよ、旦那。今年は柿が不作で高いんだぁ。それでは儲けが無くなります。」
忠兵衛「なら、八十五文?」
女「ダメですねぇ、逆に小さい柿を一個オマケするから、百文でどうです?」
忠兵衛「お姐さん、商売人だなぁ。」
女「母一人、子一人で喰って行かないといけませんので。 アレ?お前さんは、麴町の瀬戸物屋、忠兵衛さんじゃないかい?!」
忠兵衛「そうだが、なぜ、俺の名前をお前さん、知っているんだい?」
お美津「八年前、お前さんの店の裏の長屋に住んでいた、藤掛唐十郎の女房で、お美津ですよ。お久しぶりです。」
忠兵衛「藤掛先生のお内儀! お美津さんかい、元気にしていたかい?今、どうしてるんだい?」
お美津「どうしているも、こうしているもないさぁ、藤掛があんな濡れ衣で捕まって死んでしまうから。。。母一人子一人でこの様ですよぉ。」
忠兵衛「まだ、独り身かい?苦労しただろうねぇ~、藤掛先生があんな事になって。」
お美津「ハイ。本当に生き地獄でしたよ。病で臥せってろくに動けない藤掛が、
雨ん中旅人を襲って金子を奪うなんて。。。出来もしない罪で捕まって、牢屋で死んでしまうから。。。」
忠兵衛「本当にねぇ、また、運が悪い事に月番が北町の諏訪美濃守。。。大岡様なら死なずに済んだのにと皆んな云っていたよ。」
お美津「でも、長屋の人だって、関わり合いになるのが恐いから、知らぬ存ぜぬで、冷たかった。
まともに藤掛の葬式も出せず、遠い親戚が板橋に居て、そこへ頼って行ってこの子を産んだんです。
ところが、この子が三つの時に、その親戚も流行病で亡くなって、どうにかこの裏の長屋に越して来て、
此処日枝神社の門前で、茶屋の中居と野菜果物の露店を出してその日暮らしをしているんですよ。」
忠兵衛「凄いね、お美津さん、中居と露天商の二刀流!?」
お美津「二刀流なんて大層なもんじゃありません。この子、条太郎が店番できる年になったから、両方やってるだけです。」
忠兵衛「そうかい、条太郎っていうのかい。可愛い盛りで、元気で、旦那さんに似て賢いお子さんだ。
そう言えば藤掛さんは確か、『唐十郎』と仰った。『唐』の字は子供に付けなかったのかい?」
お美津「之でも武士の子ですから、父親から一字貰って、唐之助とか唐之丈なんて名前を付けようとも考えたけど、
縄付の父親の名前を継ぐのは、本人が可哀想だと周囲に言われましてねぇ。それで、条太郎と付けました。」
忠兵衛「そうかい、そうだったのかい。本当に、気の毒にねぇ~。 でもねぇ、あの藤掛さんにも悪い所と云うのか、落ち度が在ったんだよ。」
お美津「何んですか? それは?!」
忠兵衛「それは、藤掛さんは無神論者というのか、神信心を一切なさらない人だった。」
お美津「確かに、苦しい時に神に頼るようでは、武士ではない!が口癖でした。」
忠兵衛「だろう、そんな性分が神様の禍を招いたのかもしれん。私などは神信心が一番の心の拠り所だ。
朔日はまず山王様へお詣りだ。そして今日と同じ五日は水天宮へ参詣に行く。
更に十二日は薬師様、十三日は堀の内の『おそそ様』、十五日は八幡様へのお詣りだ。
月の後半は二十日にお不動様、そして何より一番と思っているのが二十五日の天神様へのお詣りなんだよ。
アッ! 思い出した。 二十五日の天神様。。。 あぁ、済まない!御免んなさい!」
柿の露店売をしていた藤掛唐十郎の内儀、お美津に偶然出会い。是までの苦労噺を聴いてしまった忠兵衛。
突然、自身の神様道楽について語っている最中、二十五日の天神様で何かを思い出して仕舞います。
『是は墓場まで持って行こう。』そう決心しながら、跡で凄く後悔している事が一つ御座いました。
そしてそれを、この場でお美津に逢ってしまった為に、喋る事になるのです。
忠兵衛「あの~、お美津さん、怒らないで聴いて呉れるかい?」
お美津「何んでしょうか? 忠兵衛に怒るなんて。。。そんな料簡はありません。」
忠兵衛「今から八年前の六月二十五日だ。 さっき言った通り、二十五日は天神様へお詣りする日なんだ。
その日は、朝早く目が覚めて雪隠に入ったんだ。俺の店は表通りの宜い所にあるが、憚りが付いてない。
だから、長屋の共同の厠へ行ってその日も用を足したんだが、そこでションベンしながら見ちまったんだ。
そうだ、まだ暗かった七ツを過ぎたばかりだ。雨が激しく降っているのに、長屋の路地に長庵の野郎が現れた。
それが妙な恰好(なり)なんだ。蓑・笠付けず、傘も持たずに、ウコン木綿の手拭いで頬被りしてやがる。
ドブ鼠のように濡れていて、野郎、いつもは木刀を差しているのに、その日は長脇差の落とし差し。
しかも、裸足でピチャピチャ音を立てて走って来やがるもんだから、長屋の厠の斜め前、
秦野屋って屋号の煙草屋が在ったでしょう?あそこの健坊が可愛がっていた白いムク犬で、チロってのが居たでしょう。
あれが長庵の足音で縄張りを荒らされると思ったのか、けたたましい鳴き声で吠え掛かった。
すると、長庵の野郎、脇差を抜いて、ムク犬のチロを叩き斬ったんだ。まぁ、思い出してもゾッとする形相でだ。
その跡、俺は家に戻って、支度して雨ん中を傘を差して天神様へお詣りに行った。そして、帰ると長屋が大騒ぎだ。
あの麴町界隈の連中は、全員、自身番に呼ばれて、上役人と町役五人組の前で聴かれた。
朝、怪しい野郎を見なかったか?
お前たちはその時刻何をしていたか?
長庵の野郎、舎弟の重兵衛が朝立ちするのは知っていたが、腹が痛かったので玄関で見送って寝ていました。
そんな事を答えてやがった。俺は『嘘付くな!チロを斬り殺していた癖に』と、思ったが、
本当に、済まない。係わり合いになるのが厭で、それで前の野郎の真似をして、
『その頃はまだ寝ていて白河夜船、何も見てません!』と、嘘を云ってしまったんだ。済まない!お美津さん。」
お美津「それは、本当ですか?!」
忠兵衛「本当さぁ、八年ぶりに逢って、こんな嘘を云う訳ないだろう。」
お美津「有難う御座います。よく!よく!云って下さいました。明日、それを書物にして『目安箱』へ訴えさせて頂きます。」
忠兵衛「何んだよ、その『目安箱』って?!」
ここで、目安箱の説明をお美津からされた忠兵衛は驚きます。
忠兵衛「そんな!八年も前の。。。北が落着させている事件をお取り上げになどならないって!!」
お美津「ダメで元々。もしかすると、大岡様なら、藤掛の無念を晴らして呉れるかも知れません。」
忠兵衛「いやぁ、そうなると俺もお白洲に呼ばれたりしないかい?」
お美津「勿論、呼ばれます。ですから、堂々と本当の事を証言して下さい、忠兵衛さん。」
忠兵衛「そんなぁ、あの長庵の野郎が自ら白状するとは思えないし、もう、八年の前だ。。。
チロの死体すら無いぞ、どうやって藤掛さんの無実を証明するんだ!!」
それでも、お美津は『目安箱』に訴えると云って、忠兵衛は思い留まるように云いますが、勿論、聴き入れません。
そして、この噺を家に帰って忠兵衛が女房のお崎に致しますと、こう女房に言われます。
お崎「こりゃぁ~、大変な事になるねぇ。お前さん、長庵が白状しなかったら『合拷問』だよ。」
忠兵衛「何んだ!?その『合拷問』って。」
お崎「知らないのかい? 長庵とお前さんと並べられて、同じ拷問を受けるんだよ。
つまり、長庵に石が一枚乗せられたら、次はお前さんにも一枚、
そして、どちらかが先に『私が悪う御座いました!嘘を付いておりました!』と、白状するまで拷問は続くのさぁ。
石責め、水責め、火責め、そして、最後は瓢箪責めだろうねぇ~、お前さん、奉行所に呼び出されるよぉ。!」
忠兵衛「おーい、勘弁して呉れよぉ~、誰だ!『目安箱』なんて作ったのぉ。」
お崎「お前さんを『合拷問』に掛ける、大岡様だよ。」
忠兵衛「そんなぁ~!!」
こうして、村井長庵の悪事が、いよいよお白洲で裁かれる、次回を乞うご期待!!
つづく