五郎兵衛は、鬼のような形相で久八を睨むのだった。そこへ金次郎と定吉が六右衛門と源兵衛の二人を呼んで来た。

六右衛門「旦那、お呼びでしょうか?」

五郎兵衛「お呼びでしょうか?じゃないよ、六右衛門さん! お前の従甥(いとこおい)がやって呉れましたよ。どえらい事を!」

六右衛門「どえらい事って。。。久八、何をしでかしたんだ?盗み喰いか?寝しょんべんか?」

五郎兵衛「盗み食いや寝しょんべんで、わざわざ、従叔父(いとこおじ)のお前さんを呼んだりしません!」

六右衛門「するってぇ~と、まさか?! 寝糞?」

五郎兵衛「ふざけるな!、寝糞な訳ないだろう?! 怒るよ!っタク、久八も久八なら、六右衛門さん!アンタもアンタだ!

この久八の野郎はねぇ~、店の金子を盗んだんですよ。 しかも、五十両という大金を。」

六右衛門「本当なのか?! 久八。」

久八「ハイ、本当です。五十両、盗みました。」

五郎兵衛「しかもねぇ、五十両を盗んだ理由を、國のご両親が、飢饉で年貢に困っているから盗んだと言うんだよ、

しかもねぇ、お前さん、六右衛門さんと、そちらの町役人、源兵衛さんには相談したと言っているんだが。。。何か?聴いているかい?」

六右衛門「いいえ、それは?聴いておりません。」

五郎兵衛「源兵衛さん、お前さんはどうだい?」

源兵衛「いいえ、私も初耳です。」

五郎兵衛「そうだろう、そんな事だと思ったんだぁ、やい!久八、親の年貢の為だなんぞと嘘八、こきやがって、白状しろ!何に使った?」

六右衛門と源兵衛を呼びに行かれた段階で、是はもう、年貢の嘘で押し通す訳には行かないと思った久八。ここはもう、腹を括って、こう答えました。

久八「𠮷原に馴染みの女郎(おんな)が出来まして、それで、悪い事とは知りながら、店のお金、五十両を盗みました。」

そう、久八が云い終わるか?どうかのタイミングで、五郎兵衛は傍に在ったキセルを持って、思いっ切り久八の額を打擲します。


痛い!!


流石に、『親父にもぶたれたことないのに!』とは、久八は申しませんが、額から流れる血を素手で押さえて痛そうにしております。

五郎兵衛「飼い犬に手を嚙まれるとは、貴様の事だ!!久八。十二歳で此の店へ、此処に居る六右衛門と源兵衛に連れられて来た日の事を、お前は覚えて居るか?!久八。

此処の土間にゴロがっていた物差しを、お前は大事そうに拾って、その泥と埃を自分の着物の袖で拭って綺麗にして呉れたんだぁ。まだ覚えているか?!

だから見どころがあると思って、お前を拾ってやったんだ。そして、賄いの米と芋の俵の『始末』を見て、手代、番頭へと引き上げてやったら、

『米の飯がてっぺんに登る』とは、お前の事だ! この上なく増長仕腐って。。。店の金子に手を出すとは、本当に許し難い。

私が、ちょっとばかり病で臥せっているのをいいことに、十八年、育ててやった恩義をすっかり忘れて、店の金子を盗むとは!どういう料簡だ。

人の恩を何んだと思っていやがる。恥を知れ!恥を。 本来なら即刻奉行所へ突き出してやる所だが、十八年働いて呉れた功も幾らかは在る。

よって、奉行所へ突き出すのは勘弁してやる。その代わりに、この『始末』を、お前はどう決着させるつもりなのか?私が納得する『始末』を見せてみろ!」

久八「大変申し訳御座いません。どんなに口で謝っても五十両を盗んだ罪は消えません。

よって、この上は、是迄旦那様に預けてある給金三十六両と、着物そして煙草入れで埋め合わせ致します。」

五郎兵衛「何を寝惚けた様な口を利いているんだ!久八。預けている給金は、盗人の本性を現した瞬間、お前の物ではない!!」

久八「それは、あんまりな仕打ち。。。言い草です。 預けていただけで、私の物でしょう?!」

五郎兵衛「まだ、寝言を云うつもりか?、それが厭なら、奉行所へ訴えて出ようか?! 十両盗んだら首が飛ぶんだ。死んだ後で三十六両欲しいのか?!」

まぁ、乞食伊勢屋の面目躍如。現代の懲戒解雇で退職金が払われないのと同じような論理、感覚でものを言う五郎兵衛で御座います。


久八が宛にしていた預けてある給料を召し上げとなり、途方にくれていると、五郎兵衛、次なる獲物である六右衛門と源兵衛に襲い掛かります。

五郎兵衛「五十両を盗んだ久八は、既に、その五十両は𠮷原で使い果たして残っておるまい。そこで。。。

こいう時の為に、奉公人には『身元保証人/受人』と言うものを二人用意してある。それが六右衛門と源兵衛ですよねぇ?!」

六右衛門と源兵衛は、互いに顔を見合わせて、五郎兵衛に「ハイ!」と、返事するしかなかった。

五郎兵衛「付きましては、お二人にご相談です。五十両を丸々、今すぐ耳を揃えて返せ!と言うのは無理でしょう。

私も鬼や夜叉では在りませんから、今すぐ返せとは申しません。取り敢えず、幾らなら返せますか?」

きっちり、契約書を取られている二人は、ここで白を切ったり、ゴネて揉めても全く得は無いと思いますから、

返済の条件を様々なやり取りをして協議を致します。

源兵衛「アッシは、土地持ちじゃないタダの家主なんだ。既に隠居の身だから十両くらいが限度だぞ、伊勢屋さん。」

六右衛門「俺も、しがない夜鳴駕籠やだぁ。俺だって十両が手一杯です、五郎兵衛さん。」

五郎兵衛「判りました。それでは、六右衛門と源兵衛、それぞれ十三両ずつ出して下さい。

そして、残りの二十四両は、久八!お前が働いて月賦で毎月一両月末、廿八日に払いに来い。

利子まで呉れとは言わん!二年月賦、毎月一両で許してやる!! いいなぁ。三人さん。」

「ハイ、判りました。」と、久八が絞り出すように言って、立ち去ろうとすると、

堪え切れない表情で仙太郎が「番頭さん!」と、叫んで跡を追おうと致します。しかし、

是を見た五郎兵衛が、「放って置きなさい。あんな泥棒猫は番頭さんじゃ在りません。」と、仙太郎を怒鳴り付けます。

こうして、取り敢えず、久八が被った『濡れ衣の五十両』の一件は、伊勢屋五郎兵衛の強い要請で契約が強引に纏められた。

そして、作成された借用書が以下のような内容である。


右の金圓借用申候 実正なり然る上は月々金壱両ずつの月賦として、毎月月末の廿八日迄に、無相遅なく相納め可申。

万一、一ヶ月たりとも延滞仕候節は、受人・六右衛門、及び源兵衛の両名に於いて、一時皆在仕り決て、御損忘相掛申間敷く後日の為、一礼由て如件。


享保八年 七月十七日 借用主 久八 受人 六右衛門


借用主 同上 受人 源兵衛

伊勢屋五郎兵衛殿


こうして、久八は六右衛門の家に居候して、源兵衛に紹介された『浅草紙』の卸売の仕事を、七月十八日から生業とする事に成ります。

浅草紙は、所謂、再生紙で主な用途が便所紙ですから、一ヶ月の払いの一両を捻出するのは、至難の業で御座います。

それでも、早朝から天秤に沢山の紙の束を担いで、嫌がらず早朝から深夜まで其れを運びます。

この久八という男、元来真面目で、親切、そして人当たりが宜い男ですから、方々に得意先が出来て、

七月に始めた浅草紙の行商で、八月分の払いは、何んとか廿八日に伊勢屋へ一両届けられる稼ぎに成ります。

そして、爪に火を点す様な努力を重ねて、九月はどうにか順調にお金が溜まり出した、十三日の事で御座います。

六右衛門「今日は、早いじゃねぇ~かぁ、久八。 飯の用意が出来ているから早く食って呉れ。」

久八「いつも有難う御座います。 毎日毎日、叔父さんに飯の支度をさせて。」

六右衛門「仕方ないさぁ、お前さんは新しい仕事を始めて、漸く二月になろうとしているばっかりだぁ、俺に甘えて呉れて構わないよぉ。

それより明後日はどうする? 神田明神のお祭だぁ。明後日ぐらいはお前も休め。俺は朝から祭の付き合いで出掛けて居ないから、

久しぶりに、家でのんびりして骨休めしているといいさぁ、なぁ!久八。」

久八「ハイ、それじゃぁ、伊勢屋の払いも何んとか成りそうなので、明後日はお休みさせて頂きます。」


こうして、神田祭の当日だけは、久八も六右衛門に付き合って、仕事はお休みと言う事に致します。

そして享保八年九月十五日、神田祭当日ですが、しかし!生憎の雨で御座います。

六右衛門「それじゃぁ、俺は町内に挨拶して、ご祝儀を切って来る。夕方、日が落ちる前には戻るから、飯の支度だけは頼む。」

久八「判りました。久しぶりにお酒を買って飯の支度をして於きますから、早く帰って来て下さい。」

と、そんな会話がありまして、久八は暇ですから、六右衛門の絵草子なんぞをペラペラ捲っておりますと、

この雨ん中、祭の最中に、誰か六右衛門の家を訪ねて参りました。

男「御免下さい。此方は、夜鷹駕籠の六右衛門さんのお家でしょうか?」

久八「ヘイ、左様ですが、どちら様でしょうか?」

そう云って、久八、入って来た野郎を見てみれば、頭から縮緬の頭巾をすっぽり被って、黄金色に輝くような結城の対を着ております。

履物も柾目の檜の卸立の下駄で、幅の大きい雨の日用?と思われる代物、そして蛇の目傘を右手に持っております。

入口をゆっくり閉めて、傘立何んぞという洒落た物が御座いませんから、傘は土間に立て掛けます。そして、頭巾を脱ぐと、久八はビックリ致します。

久八「あんた! 仙太郎さんじゃありませんかぁ?!」

仙太郎「済まなかったねぇ、番頭さん。いや、久八さん。俺がだらしないばっかりに。。。」

久八「兎に角、そんな所に突っ立ていないで、中に入って下さい。今、火鉢に火入れますから。。。でも、座布団は在りませんよ、ご覧の通りの貧乏ですから。」

仙太郎「本当に、構わないで下さい。 本来ならもっと早くに来ないといけないんだから。」

久八「いや、あの大旦那ですから、若旦那が外出して此処へ来ていると知れたら、互いに何をされるか判りませんから。」

仙太郎「兎に角、先ずは詫びを言わせて下さい。全てを久八さん、貴方に押し付ける形になって。。。本当に申し訳ない。

私は穴があったら入りたい! あの七月の十七日、あの場面でなぜ、私が『女郎買いは私です。』と言えなかったのか?本当に情けない。」

久八「いえ、もういいんです。若旦那が反省し、生まれ変わったつもりで働いて、立派な伊勢五の二代目に成られたなら、私のした事は無駄で在りませんから。」

仙太郎「お前が、そう言って呉れるのは嬉しい。けどね、私はお前に、謝っても謝り切れない事をしてしまった。何か形在る物を残したいんだ。」

久八「いいぇ、本当にその気持ちで十分なんです。先月、伊勢屋さんへ一両の月賦を支払いに行った時に、私が伊勢屋に入る前、

実は、戸袋の影から、定吉に言って、中の様子を覗かせて貰ったんです。大きな帳場格子に大旦那が座って居て、

読み上げる帳面の金額を、脇で、若旦那が算盤を入れられていて、合計金額が合うと親子で声に出して笑っていて。。。

あれを見せられると、あぁ、俺は正しい事をしたんだと、そう思って納得したんです。仙太郎さん!伊勢屋を宜しく頼みますよ。」

仙太郎「そう、言って貰えると本当に有難いんだが、やっぱり、久八ドン!お前さんには何か形でお礼がしたい。

心底、私はそう思ったから、之を書いて来た。『誓約書』と言うか、『念書』だ。頼む、久八ドン!之で私を許して呉れ。」

そう言って、仙太郎、一枚の書き物を、久八に差し出して見せた。


一、此の度吾𠮷原江戸町二丁目松葉屋半左衛門方、抱え遊女『小夜衣』身請けの一件に付

金五拾両右同人伯父、麴町平河町、村井長庵と申す医師に騙り取られ候。

此の事、義父・伊勢屋五郎兵衛に知れ候らへば、吾、義父五郎兵衛より離縁となるは必定。

其の罪を一身に貴殿受られ、由えに、伊勢屋を解雇さるるに至るは不憫の極み。

寄って、此処に吾誓うもの成 「貴殿が追し月賦を肩代致し候事。」

「伊勢屋の家督相続の後、その全身代の二分を譲渡致すもの也。」

右、御礼として貴殿に御譲り申し候、後日の為、由て一札如件。


享保八年九月十五日 伊勢屋仙太郎 

  殿


仙太郎「この様な物を書いたのは初めてなので、久八ドンが気に入らない文言が有れば、この場で直します。

どうか、この『念書』と、先に払った八月分の一両と、今月九月の一両、合わせて二両をまずは置いて行きます。」

是には、流石の久八も驚きます。二万両、三万両と言われる伊勢五の身代の二割を渡すと念書を書いた仙太郎。

是は、本気で反省しているな?と、久八は感じます。

久八「判った!仙太郎さん、貴方の決心の程は、この念書を頂いてよく判りました。私の自首が無駄では無かったと思います。

しかし、流石に伊勢五の身代の二割を頂戴する訳には行かないが、お前さんの代になったら、町内、いや江戸中から好かれる伊勢屋にして下さい。

今の旦那は、施し、寄進、その様な事を一切なさらない。自分さえ良ければ、他人は構わない方だ。常々、私はそれが悔しかった。

だから、貴方の目線で構わないので、他人が困っていたら、助けてやろう!情けは人の為ならず、と、施しをして下さい。

そして、もし、伊勢屋の身代で私に下さるならば、あの荒物屋を頂けますか?私はそれさえ貰えたら満足です。」

仙太郎「判りました。施し、寄進致しましょう。」


そういうと、先の念書に、久八に荒物屋を譲る事と、飢饉、災害の時に必ず、伊勢屋は庫を開けて施しをすると、加筆致します。

仙太郎「最後に、少ないですが、此処に二分御座います。これで、今日の祭に叔父の六右衛門さんと酒肴を楽しんで下さい。また、来月一両お持ちします。」

久八「有難う、何から何まで若旦那、本当に助かります。」

仙太郎「では、私は之で失礼致します。」

そう言って出て行った伊勢屋の仙太郎を見送った久八。嬉しさに仙太郎が見えなくなるまで、長屋の角に立って見送るのだった。

すっかり雨は止み、祭囃子が聴こえて来る中、久八は、仙太郎に貰った二分を握り締めて、魚勝で「鮪の柵」を買って、小西では「灘の生一本」を注文した。



つづく