仙太郎は考えた、五十両で小夜衣を堅気にできるなんて!それは、夢みたいだと。しかし、五十両を手にするには、五郎兵衛の手文庫の金子に手を付けるしかない。
手文庫の金子から、五十両を何んとか工面して、長庵からは『身内とは言え、金銭の事はケジメを着けたいから証文を』と言われたので、
一.金五拾両、是、預かるもの也 享保八年六月十四日
と書いた証文を作成して、この横に長庵が署名すれば宜い塩梅の証文を準備して、五郎兵衛の往診に長庵が来るのを待っておりました。
迎えた六月十四日、お昼の九ツ半過ぎに村井長庵は、神田三河町の伊勢屋へ駕籠に乗って一人で現れます。
長庵「御免下さい。 村井長庵と申します。麹町の長庵が五郎兵衛さんの往診に参ったと、仙太郎さんにお伝え下さい。」
定吉「ヘイ、いらっしゃいませ、若旦那から伺っております。此方へどうぞ!」
そう言うと、応対に出た定吉が長庵の薬篭を持って、奥の六畳間へ長庵を案内して「お待ち下さい!」と告げる。
そして、直ぐに仙太郎を呼びに行き、又、呼ばれた仙太郎は五郎兵衛の病気は二の次で、兎に角、五十両で小夜衣を身請けする事で一杯になっております。
長庵「食欲が出るようなお薬を出しておきました。さて、五十両は準備出来ましたか?!」
仙太郎「それはもう、支度出来て御座います。 先の六畳へ戻ってからお渡し致します。」
五郎兵衛が寝かされていた部屋を出て、廊下に出た途端、そんな噺を致しまして、二人は奥の六畳へと戻ります。
そこで仙太郎が紫の袱紗に包んだ二十五両の切餅を二つ、五十両の金子を長庵に渡しますと、
長庵は切餅の封印を確認して、差し出された証文に、自ら腰に差した矢立を抜いて、是に『村井長庵』と署名致します。
長庵「確かに、五十両お預かり致します。それでは私は、早速この足で松葉屋半左衛門の所へ向かい、小夜衣の証文を巻いて来ます。
そして明日の朝一番で、小夜衣を駕籠で迎えに行き、麴町の私の家に連れて参りますので、仙太郎さん!そうですね、七ツ頃に逢いに来て下さい。
先に申し上げた段取り通り、小夜衣には丸髷を結わせてお歯黒に染めて、堅気のお小夜にさせて貴方をお待ち致します。」
仙太郎「長庵先生、宜しくお願い致します。」
仙太郎は、天にも昇る気持ちで、長庵の事を拝むようにして送り出します。そして、肝心の証文など宜く見返す様子もありません。
長庵が帰って烏カァ~で翌日を迎えます。朝からソワソワしている仙太郎の様子を見て、久八は是を大いに怪しみます。
ですから、朝から床屋へ行き、恐ろしくめかし込んで、昼の九ツ過ぎに出掛ける仙太郎の跡を定吉に付けさせます。
しかし、両国柳橋の方ではなく、千代田の城の方へ向かい掘割沿いを九段下から麴町平河町の方へ向かって、
途中、半蔵門に近いお稲荷さんでお参りをして、茶店で繋ぎをしていると聴いて久八は安心を致します。
一方、仙太郎の方はと見てやれば、朝から頭の天辺から足のつま先までおめかし致しまして、
家にジッとして居られない様子で、約束の刻限よりも二刻半も早く家を出て、神信心をしながら茶を飲み団子を喰らい繋ぎつつ、
夕刻七ツ、遠寺の鐘に誘われて西日をたっぷり受けながら、麴町平河町の長庵の家へと参ります。
仙太郎「御免下さい!長庵先生、仙太郎で御座います。」
仙太郎は、小夜衣が泳ぐ様に中から飛び出して来るかと期待しておりましたが、何の反応もありません。仕方なく、再度。
仙太郎「御免下さい!長庵先生、仙太郎で御座います。」
と、声を掛けると、実に迷惑そうに、長庵の返事が返って参ります。
長庵「だ、だ、だッ誰だい?」
明らかに、酔っぱらった長庵の声で、土間につっ立っている仙太郎を見て、「何んだぁ、若旦那かぁ?入(へ)いりなさい。」と、
実に素っ気ない返事で、さも邪魔臭そうに仙太郎を招き入れます。
何んとも調子が狂った仙太郎。兎に角、長庵がドッカと座って、茶碗酒を飲んでいる居間へと上がります。そして、
仙太郎「長庵さん!小夜衣は?!」
長庵「へへぇ、へへぇ、何んの噺ですかぁ? 藪から棒に、小夜衣は?って、小夜衣は𠮷原の松葉屋ですよ。」
仙太郎「大層酔ってらっしゃる様子ですが、真面目に聴いて下さい。五十両をお渡しした身請けの件です。小夜衣は、何処へ連れて来たんですか?!」
長庵、舌舐め擦りするような仕草をして、茶碗で酒を一杯煽って答えます。
長庵「さっきから、何んの噺をしているんです?若旦那、噺が見えないんですが?!」
仙太郎「今更、何をとぼけているんです。冗談が過ぎますよ、長庵さん。」
長庵「何んの噺ですか?身請けとか五十両とか、小夜衣とか? さっぱり分かりません。」
仙太郎「冗談じゃない!昨日、五十両、貴方に渡したじゃないかぁ?!」
長庵「昨日?!五十両渡した?! 知りませんよ、私は。夢でも見て居るんじゃ在りませんか?!」
仙太郎「昨日、伊勢屋へ来た時に。。。お渡ししました、五十両!!」
長庵「昨日、確かに伊勢屋へは行きました。でも、ご主人の五郎兵衛さんの往診に行っただけだ。俺は、診察のお代すら貰ってねぇ~ぜぇ!」
仙太郎「何を今更。。。白を切るんですか?! ちゃんと五十両、お渡ししました。其の証拠に!」
長庵「其の証拠に、何が在るッてんだ!?」
仙太郎「出る処へ出れば、ものを言う、この証文が御座います!!」
と、言って仙太郎は、例の証文を出したのですが、其処には、昨日、『村井長庵』と書かれたはずの署名が。。。
殆ど見えない薄墨になっていて証文の態を成しておりません。
仙太郎「そんなぁ~、馬鹿なぁ~」
そう云って呆然とする仙太郎を尻目に、ニタニタ笑いながら長庵が云い放ちます。
長庵「残念でしたねぇ、若旦那。その証文ではものは言いませんよ。おととい出直して来て下さい。」
畜生!!
仙太郎は、怒りに任せて拳を握り長庵に殴り掛かりますが、長庵、さっと体を交わして仙太郎の腰の辺りを蹴り上げます。
すると土間につんのめって倒れる仙太郎、着ていた羽織が転んだ拍子に破れてしまいます。
更に立ち上がって、長庵に掴み掛かろうとするのですが、医者六上がりの六尺近い長庵に、
五尺四、五寸のひょろひょろの若旦那、仙太郎がかなうはずもなく、その上、長庵は木刀を抜いて仙太郎を打擲致しますから、
仙太郎の着物はボロボロに破れて泥塗れ。。。額からは血を流し這う這うの体で逃げ帰ります。
暮れ六ツの遠寺の鐘が聴こえて、辺りが黄昏て来た中、仙太郎は人目も気にせず泣きながら、
伊勢屋へ裏口から中へと入りまして、庭を通って縁側からは家に上がらずに、先ずは井戸端へ行って手足と顔を洗い手拭いで血を拭います。
そして、顔と手足が綺麗になった所で、梯子を使って物干台から二階の時分の部屋へと直接(ジカ)に上がります。
更にボロボロに破れて泥に塗れた羽織と帷子を脱いで、木綿の単衣に兵児帯に着替えて、
箪笥の一番下、其の奥に仕舞ってある道中差を取り出して、鞘を払って刃毀れを確かめます。
もう一度、鞘に戻した長脇差をしかり腰に落とし差しにして、今度は、紙と硯箱を取り出すと、
サラサラと走り書きに、『先立つ不幸をお許しください。』と、富澤町の甲州屋の両親と兄、そして番頭の久八に向けて遺書を認めます。
そして、この遺書を床の間に置いて、イザ!長庵、お命頂戴、と、部屋からで出ようと障子戸を開けますと、
その廊下には、両手を大きく広げた番頭の久八が立って御座います。
仙太郎「どいて下さい、番頭さん!!」
久八「若旦那、お帰りの様子を見ておりました、一体どうしたんですか?!」
仙太郎「あの長庵の奴に、五十両、騙し取られたんです。あんな悪い奴は生かしておけません、成敗するので通して下さい。」
久八「ちょっと待って下さい。順を追って話して下さい。何が有ったんですか?」
久八は、兎に角、仙太郎を落ち着く様に言い聞かせて、一旦、家の中へ戻るように説得致します。
最初は、大いに興奮して全くいう事聴くそぶりも無かった仙太郎でしたが、久八の言葉を聴くうちに落ち着きを取り戻し、
仙太郎は脇差を腰から外して、膝を突き合わせて、久八にこれまでの経緯(いきさつ)を語り始めた。
仙太郎「そいう訳で、私は義父さんの手文庫から、五十両、帳面上『入り』と成った跡の金子に手を付けて仕舞ったんだよ。」
久八「其れは、大変な事をして呉れましたね。」
仙太郎「其れも是も、長庵の奴が、小夜衣を堅気に出来ると言うから。。。私は悪い事と知りながら、五十両を盗んで渡したのに。。。
証文に細工の薄墨で署名しやがって、まんまと五十両を奪い取られて仕舞ったんだ。番頭さん!何んとかならないかい?奉行所に訴えて。」
久八「そいつは駄目だと思います。確かに、長庵の奴は最初(ハナ)から若旦那をカモにする気で五十両を取り上げているでしょうが、
証文に署名と印行が無い状態で、奉行所に捻じ込んでも、お奉行様が相手にして下さるはずが在りません。」
仙太郎「では、私は泣き寝入りかい?!」
久八「私も、あの村井長庵という野郎は怪しい奴だと思いましたから調べてみたんですが、元は医者六だったようじゃありませんか?」
仙太郎「医者六? すると、元は駕籠カキかい?」
久八「そうです、その駕籠カキを三十過ぎまでしていて、最初(ハナ)は揉み療治の四十八文医者をしていた様です。
其れが表通りに看板を上げるようになったみたいですが、殆ど医者としては働いていないようなので、
若旦那のお噺から推測すると、遊人や無宿渡世の輩と攣るんで悪い事しているのでしょう。」
仙太郎「しかし、五十両をみすみす長庵に取られて悔しいではないか?番頭さん!」
久八「確かに、悔しい限りでは御座いますが、此方には分が在りません。
まぁ、毒を以て毒を制すで、香具師の親分に頼めば、五十両を取替えせるかもしれませんが、
今度は、本職の親分借りが出来てしまいます。返って高く付いて仕舞う場合も御座います。
ここは、高いお勉強代では御座いますが、五十両は諦めて、小夜衣とは二度と逢わないようになさっては如何でしょうか?」
仙太郎「う~ん。」
久八「五十両は確かに大金です。其れでも当家の商い全体からすると、五十両で身代が傾くような事には成りません。
高い授業料に着きましが、之を教訓に若旦那が当面𠮷原へ行くような遊びをなさらないと言うなら、
大旦那様も、病が治ってからお許しになると存じます。」
仙太郎「本当かい?!」
久八「ハイ、本当です。其れに若旦那、若旦那がこの伊勢屋の当主とお成りになって、貴方の采配で身代を廻して行ける時代になれば、
神田一、江戸でも三本の指に数えられる両替商です。𠮷原の女郎を身請けして囲うなんて、
若旦那の代になれば、小夜衣級を二人、三人、平気で出来ますから。。。今回は悪い夢を見たと思って諦めて下さい。」
そう云われた仙太郎は、村井長庵への復讐は思い留まりますが、
今度は五郎兵衛の手文庫から盗んだ五十両の事が気になってしまいます。
仙太郎「判りました。長庵から五十両を取り戻す事は諦めますが、時期に棚卸の十月がやって来ます。
そうなると、私が盗んだ五十両が、大きな問題になりませんか?」
久八「勿論、五十両の穴埋めを考えて於く必要はあります。
ただ、一つだけ幸いなのは、大旦那様が床に臥せって居られる事です。
そして、五十両の処理ですが、私が大旦那様に預けているこれまでの給金が三十六両御座います。
その金子と、残りは、行李二つに貯めた着物が御座います。之を質に入れたら残りの十四両も何んとか成ると思います。」
仙太郎「本当かい?! 済まないねぇ~、番頭さん。何から何までお前さんに迷惑の掛け通しで。。。
この恩は一生忘れない。私が伊勢屋の主になった時には、この恩を倍、いや三倍にして返すからねぇ、番頭さん。」
久八「そんな事は、お気になさらず。元金の五十両、何時か返して頂けるなら、この久八、若旦那の為に何んとかさせて頂きます。」
仙太郎「有難う!本に恩に着ます。」
この時、久八は思いました。これが薬になって、仙太郎の𠮷原通いが止まるなら五十両は安いもんだと。
この後で、まさかの展開が待っているとは、この時点では微塵も思わなかったのです。
こうして、六月が過ぎて七月を迎える事になります。仙太郎は家の稼業に打ち込み、𠮷原通いはピタリと止んでしまいます。
ヨシ、この調子で若旦那が真面目に勤めて呉れれば、来年の春には暇を貰って駿府に帰れる。
そんな事を久八が考えておりますと、思いもよらない事態が起こってしまいます。それは!
五郎兵衛の突然の快復です。
二月から床に臥せっていた五郎兵衛。もう、五ヶ月熱は下がらず、食も細く、このまま亡くなるのか?!
そう伊勢屋の誰もが思っていましたが、暑い夏が終わり秋になろうとしていた七月。
まさか!?長庵の薬が利いたのか? 正に薄紙が剥がれる様に、突然、治り全快です。
是には、久八も仙太郎も驚きます。そして奉公人にも、『エッ!生き返るの?』と、いう落胆の空気が広がります。
この空気、気配と申しますものは、当人に伝わるものでして、元気に成った五郎兵衛、
自身が病に臥せっていた、是迄の五ヶ月間の帳面が大層気に成ります。
金次郎と、定吉に両替、質屋、油屋、そして荒物屋、それぞれの帳面を二月から全部持って来させては、
その中身を事、細かく調べ上げまして、差異が無いか?!入念に調べ上げます。
そうすると、当然、養子である仙太郎が抜いた、手文庫の五十両が合わなくなりますから、
是は誰かがやったに違いないと、確信致します。そして、額が額だけに下手人は仙太郎か?久八だろうと見当を付けるのでした。
そして、或る日の夕方。仙太郎と久八を名指しで、自分の部屋へ呼び出して、この帳面づらと現金の不一致を見せて問い詰めます。
五郎兵衛「之までは、毎日キチンキチンと帳面を見させて貰っておりましたが、
二月に病に掛かり、七月までの五ヶ月間、それが出来ませんで、お前たち二人を信じて任せて参りました。
それが漸く、病も癒えたので、五日ばかり前から、十月の棚卸もあるので、金次郎や定吉に言い付けて、
私も自ら帳面を確かめておりますと、六月の十四日、この帳面に五十両もの穴が空いて御座います。
そして、わざとと思われるくらいに、この五十両の金子を、十五日以降、複雑に出入りさせて御座います。
しかし、私の目は誤魔化せませんよ!手文庫の残金を浚うと、五十両!帳面と合いません。
これは、一体全体、どういう事ですか? どちらかがやったのか?二人が共謀してやったのか?
それは、判りませんが、正直に全部白状しなさい!!」
五郎兵衛は、今まで見せた事もないくらいに鋭い目をして二人を睨み付けます。
こうなると、温室育ちの仙太郎は、蛇に睨まれた蛙、ガタガタ震え出して、『私がやりました!』と、
𠮷原で女郎に入れ上げて、それが元で五十両の金子に手を付けたと白状してしまいそうです。
それをやられると、折角、養子ができて、久八は暇を頂いて故郷に帰れそうだったのに、
全てが水泡に帰す事になると、思いますから、取り敢えず、仙太郎が罪人になるよりは、
自分が一旦受けて、その上で上手に言い訳をして、預けてある三十六両の噺を絡めて、
その上で、許して貰おうと、久八は咄嗟に判断し、『私が、やりました!』と、仙太郎の罪を被ります。
五郎兵衛「何にぃ~、貴様が五十両を盗んだのか?! 五十両もの大金を何に使った?!」
久八「ハイ、それは。。。」
五郎兵衛「それは?!」
五郎兵衛から、理由(わけ)を聴かれて、久八、ハタと困ってしまいます。そこで、、、
久八「実は、國元より父親の久右衛門が参りまして、従弟の六右衛門さんと一緒に来て。。。
本年の年貢が納められないで窮しておると申します。。。それで、悪い事とは知りながら、」
五郎兵衛「えー、もういい。言い訳は聴きたくない、直ぐに、その六右衛門と町役でお前の身元引受人の源兵衛を連れて来い!!噺はそれからだ。」
さて、咄嗟に思い付いて喋った言い訳を、ロクに聴きもせず一蹴して、六右衛門と源兵衛を連れて来いと言い出す五郎兵衛。
流石、伊達に一代で伊勢屋を築いただけの事は御座いまして、鋭い眼力で嘘を見破ります。
一方、六右衛門、源兵衛の二人に来られると、途端に嘘がバレてしまいます久八。こちらは困ってしまいますが、
今更、仙太郎が真犯人ですとも言い出し難い。どう、誤魔化すか?どう切り抜けるか?頭脳をフル回転致します。
さて、突然病から復活した伊勢屋五郎兵衛が、飛んでもない不幸の元凶になる展開。
さて、この難局を久八、どのように切り抜けるのか?そして、勝手に自分の罪を被って呉れた仙太郎は、
この跡、どう立ち回り、そもそもの悪党、村井長庵はどうなるのか?
物語はより複雑に展開し、なかなか大岡越前が登場しない『村井長庵』。
全体絶命の久八が、どのようにしてこの難局を乗り越えるか?それとも呑み込まれるのか?次回の意外な展開を乞うご期待!!
つづく