さて、逆さ富士の湖尻で、家光公が黄金の三角玉、音無し鉄砲で襲われて暫くの時が流れまして、
二月も月末、季節は梅から桃へと移ろうとしております頃。ここ長崎の寄合町に在る遊廓付の料亭『水月楼』での事。
この水月楼は、一般の遊廓茶屋が出す様な日本料理ではなく、横濱遊廓申す所の佐野茂、富貴楼の様な趣向でして、
明の支那料理と、加えて長崎特有の卓袱料理を出す趣向の料理茶屋で御座います。
その水月楼に、この日は長崎の豪商四名と郷士三名が集まって、歌会を催しております。
さて、その七名の面々とは、商人が大坂屋久兵衛、作兵衛兄弟、松屋傳右衛門、神光屋仁兵衛の四人、
一方、武家の郷士は、加藤文左衛門、山田作右衛門、高木格之進の三名で御座います。
山田「それにしても、大坂屋! この七人の集まりは、色気が無ぉ~て詰まらん! これでは宜い歌など詠めるはずが御座らん。」
久兵衛「山田様、大坂屋は二人居りますので、まずは、長兄の私から申し上げますが、
歌会などと云う物は、元来、大和絵巻の様式美の風情、風流を楽しむ物。」
作兵衛「左様、兄じゃが申す通り、白痴な女子(おなご)など無用に御座いまする。歌詠みの邪魔こそすれ、役には立ちません。」
高木「山田氏は、芸者や太夫を呼べと仰るのではなく、恐らく女流の歌詠みを混ぜてはと仰っているのだ、のう?山田氏。」
山田「左様、連歌を読むような場合は、やはり女流の歌人が居ると、華やぐでは御座らんかぁ?!」
加藤「そう、申すからには、山田殿、心当たりがお有りかなぁ?」
松屋「加藤様、野暮ですよ、山田様のお相手と言えば、『柳捨女(りゅうのすてめ)』と仰る貞門派の女流六歌仙のお一人。」
加藤「何ぃ何ぃ、それは捨女だけに捨て置けぬ。山田氏、貴公にも遂に春が訪れたのか?もう、手は握ったのか?」
山田「加藤さん!そ、そ、其のような不埒な関係では御座らん!!」
と、若い山田作右衛門が赤くなるのが、面白く、意地悪く六人が囃し立てます。
そんな事を噺ながら、酒も進み歌詠みにもやや飽きが来た頃、小春日和だった水月楼の庭に、雪がチラ付き始めます。
仁兵衛「雪で御座います! 紅梅に白い小雪が、実に風流だなぁ~」
久兵衛「確かに、ただただ、酒を喰らってばかりは居れん。この光景を歌詠みましょう。」
作兵衛「兄じゃぁ、ここは『お香』を焚いて、気分を更に高めるましょう。さすれば、尚良き歌が生まれまする。」
久兵衛「名案!!それは、宜い趣向だなぁ。」
加藤「単に、香を焚いても芸がない、匂い当て! 香道の『匂い遊び』と洒落ましょうぞぉ。」
「それは宜い!」「それは宜い!」と、俄かに盛り上がりまして、香道の用意を始めます。
支度が整い大坂屋久兵衛が香炉にお香を焚いて、その銘を当てる遊びをしながら、庭の紅梅に降る小雪を歌にする七人。
紅梅の 華にふりける あわ雪の 香をふくみて 心染ぬる
梅の花 さやかに紅立ち 雪白く つちはしめりて 香(匂い)鼻抜く
来ぬ人に よそへて見つる 梅の花 小雪の姿 伴になぐさむ
などと、互いの歌を評し合っておりますと、庭の裏木戸の隙間から、誰か中を覗き見る輩が御座います。
頭は、以前は町人髷だったのでしょうが、今はボウボウに伸び放題。それをテッペン辺りで茶筅に縛り於きます。
顔と言わず、肌と言わず、垢まみれで日焼けも相まってドス黒く明らかに禅門(乞食)で御座います。
着物も、着ているから着物で御座いまして、脱いで置いたらボロ以下のゴミ。誰が見立てても近寄りたくない存在です。
「おい!禅門、不届き千万、人の家の様子を木戸から覗くとは、許さん!!」
と、血気盛んな高木格之進が大声を上げて、酒の酔いも手伝って、刀を取り庭先に出る。
すると、この乞食、逃げる様子はなく、木戸を開けて庭に入り、その場で土下座をして謝り始めます。
禅門「どうか!命ばかりはお助け下さい。門前を通りますと、余りに宜い匂いが致しました由えに、
思わず匂いに惹かれて、中の様子を覗いてしまいました。怪しい者ではありません。どうか!ご容赦願います。」
高木「その恰好で、怪しい者でないとは片腹痛いワぁ!無礼討ちだぁ。」
仕切りに弁明する乞食を見て神光屋仁兵衛が、驚いた様子で口をつきます。
仁兵衛「高木様、暫くお待ちを、暫く!暫く暫く!」
そう言って、乞食の顔をしげしげと覗き込む神光屋仁兵衛。
仁兵衛「お前さんは、長助さんじゃないのかい、濱町(はまんまち)の『物知りの長助さん』?」
長助「これは、神光屋の旦那。 止めて頂いて有難う存じます。
いやぁ、お香の匂いがあまりに宜しくて。。。つい他人様の御屋敷を除いて仕舞いました。」
仁兵衛「こう言っちゃ悪いが、お前さん、お香が判るのかい?」
長助「へい、三度の飯より、好きなたちで。。。三度の飯を五度にしてもお香でゲス。」
仁兵衛「それじゃぁ、ただの食いしん坊だぁ。 あぁ、皆さん、この人は長崎濱町の『物知り長助さん』です。
衣装(ナリ)は、ご覧の通りややくたびれてますが、知恵者で長崎の異人、バテレンさんも一目置く、そんなお人なんです。」
加藤「しかし、香が判ると言い出すのは、チト眉唾だなぁ。本当に香道に明るいのか?」
長助「明るいって程ではありませんが、今、焚かれた三種類の香ぐらいは存じ上げております。」
久兵衛「何ぃ!今、私が焚いた三種類のお香が、お主、嗅ぎ分けできると云うのか?!」
長助「勿論でゲス。最初が『白菊』、丹波産の麝香(ジャコウ)を混ぜていて非常に上等な逸品です。
次は『天菱』、こいつは間違いなく天竺からの渡来物で、一斤で二十五から三十両はする代物だぁ。
そして、最後のお香は『筑羽根』。これはビャクダンの中でも上品な香りがして万人好まれる。」
加藤「どうなんだ?! 大坂屋、この禅門の嗅ぎ分けは?」
久兵衛「白菊、天菱、そして筑羽根。お見事で御座る。それにしても、この天菱が天竺モンと当てるとは、凄い嗅覚です、長助さん!!」
この解説の披露で、長助は七人に大いに気に入られて、直ぐに仲間に入るように薦められた。
そして、酒肴のご馳走になり、そのお礼にと長助は七人に、香道についての蘊蓄を色々と披露した。
長助「噺ばかりでは何ですから、ではここらで、私の方からも、皆さんに問題を出しましょう。」
そういうと、手際よく香炉の掃除を始めて、懐中から長助、何やら紫の袱紗を取り出して、
その中から更に油紙にくるまれた、更に更に錦の布に包まれたこげ茶色の塊を取り出します。
そして、其れを慎重に慎重に六寸ばかりの小刀を使って、半紙の上に粉を削り出します。
やわら香炉を開けて、赤く熱した大理石の窪みに、この粉を均等に静かに、パラパラと振り掛けますと、
辺りには、えも言えぬ何とも言えない、厳かな香りが漂い中を彷徨っているかの如く心地が致します。
加藤「何んですか?これは?、長助殿。 大坂屋分かるか?」
久兵衛「いいえ、分かりません。初めての香に御座います。」
山田「何んとも、香に支配されたくなる。これは何んとも、幸せな気分だぁ。」
仁兵衛「さぁ、教えて下さい。長助さん、この香は、何という香ですか?」
長助「これが、信長公もこよなく愛された『蘭奢待』に御座います。」
加藤「何にぃ!蘭奢待。」
高木「拙者が生きているうちに、嗅げるとは思わなんだぞ!!」
そう言って、一同が長助という得体の知れない乞食が出して来た『蘭奢待』に狂喜していると、
ちょうどその頃、この水月楼の前を通った人物がありました。それが『長谷川権六』、長崎奉行に御座います。
この通称、長谷川権六こと、長谷川藤正は、親子三代に渡って長崎奉行を務める人物で、
祖父、長谷川重吉が幕府初代家康公より、長崎奉行を拝命するようにと任じられて、
二代目が、権六の父・長谷川藤広。実に二十年以上、親子三代で長崎奉行を務めております。
さて、この長崎奉行。この徳川幕府創成期から、実に出世の登竜門的お役目で、
祖父は高齢の為、長崎奉行職を辞した後は隠居生活でしたが、父・藤広は大坂城代から幕閣へと出世しております。
祖父:長谷川重吉の時代は、まだ日本が完全に鎖国ではなく、朱印船貿易が許可されていた時代の長崎奉行でしたが、
父・長谷川藤広の時代になると、まず、英国、ポルトガルと長崎商人との貿易に奉行が介入する様になり、
様々な軋轢を生じて、結局、明(中国)とオランダだけを残して他の国の朱印船は認めない事になります。
そして、この長崎奉行・長谷川親子と、長崎の郷士、商人を不仲にさせたのは、小西行長の事件による所が大きいでしょう。
なんせ、この親子、幕府に『キリシタン弾圧』を進言し、これを家康公が宜く聴き入れられたのを笠に着て、
キリシタンの処刑、教会の焼討、更には、外国人宣教師やキリシタン大名までにも厳しい態度で対峙して、
様々な事件を起こし、何千、いや何万という人を処刑してきました。
まぁ、ですからキリシタンを中心に長崎じゅうを敵にして、遂には、島原の乱が起こる事になりますが、
長谷川藤正自身は、この島原の乱の十年前に長崎奉行職を辞任して隠居生活に入っております。
その長谷川権六、長谷川藤正が水月楼の前を通り、この『蘭奢待』の匂いに気付きます。
そして、正にその日、江戸表よりの最新の御触れが松平伊豆守より出されていて、
「蘭奢待を用いる者、即ち、その者は三代様のお命を狙った刺客、曲者である。」
日本広しといえども、蘭奢待を遊廓茶屋で用いる奴なぞ、おいそれと居るまい。
ならば、この水月楼に居る者が、間違いなく上様の命を狙った不届き者。
そう確信した長谷川権六は、直ぐに、ここ丸山に近い番所へ駆け込み、
配下の与力、同心、岡っ引を出来るだけ集めて、水月楼を包囲致します。
そうしておいて、裏木戸を蹴破って中に入り、蘭奢待の香がする香炉の置かれた部屋に居た八人を文句を言う間も与えず捕縛してしまいます。
そして、長崎奉行所での吟味となるのですが、武士三人は蘭奢待など知らぬ存ぜぬで通しますが、
商人の四人は、石まで行く前に、身体を吊るされて竹で殴られ、水を用意された段階で、
「蘭奢待は、長助さんが。。。」と、白状してしまいます。
結局、蘭奢待は長助が水月楼に持ち込んだ物と知れるのですが、この長助は強情で御座います。
どんな拷問に掛けても、一切口は開かず、長崎奉行所の役人たちは手を焼いてしまいます。
遂には、江戸表に連れて行かない限り、こんな長崎の木っ端役人相手に、家光公暗殺の噺など歌えないと言い出します。
そこで、長崎奉行、長谷川藤正は、幕閣と連絡を取り合い、結局、この長助の身柄を江戸表へ送る事に致します。
この時代、まだ、各街道筋も道路整備がなされていない。唐丸籠に入れられた長助は、船に積まれて大坂へと送られます。
大坂城代は、父の長谷川藤広ですから、是を受けると警護の役人を五十人付けて東海道を江戸表へと出発させます。
何だかんだで、長助を乗せた唐丸籠は、二カ月を要して、夏がそこまで来ている江戸に到着します。
つづく