さて、築山の大石の一件で、家康公の目に留まり、御庭番付きの鷹の世話係から、一気に足軽組頭へと出世した本多彌八。

足軽組頭ともなると、職場は戦場(イクサバ)という事になるのですが。。。 この彌八、生まれ付いての臆病者で御座いまして、

戦場へと駆り出されると、震えが止まらなくなり腰が引けて、戦闘員としては全く戦力となりません。

ならばと、木下藤吉郎の出世の例も有りますから、兵糧や武器の運搬をやらせてみたのですが、

兎に角、臆病で臆病で。。。敵の奇声、怒号を聴くと足が竦んで動けなくなる始末。戦場では何んの役にも立ちません。

そんなヘタレの彌八を抱え込んだまんま、織田、徳川の連合軍は、浅井、朝倉との戦が勃発致します。


元亀元年(1570年)四月 金ヶ崎の戦で浅井の裏切りに逢った織田信長・徳川家康連合軍は、

朝倉義景軍の追撃から、九死に一生を得て京へ逃げ帰り、それぞれ兵を立て直すべく、

信長は岐阜へ、家康は岡崎へと退却をします。


そして、軍勢を立て直した信長は、六角の動きをけん制しつつ、是を蹴散らして、

六月二十四日、信長は浅井の小谷城とは姉川を隔てて、此の南にある横山城を包囲し、信長自身は竜ヶ鼻に布陣した。

ここで徳川家康が織田軍に合流し、家康もまた竜ヶ鼻に布陣致します。


一方、浅井方にも朝倉景健率いる一万五千の援軍が到着。朝倉勢は小谷城の東にある大依山に布陣。

これに浅井長政の城兵一万が加わり、浅井・朝倉連合軍は合計二万五千となった。

迎えた六月二十七日、浅井・朝倉方は陣払いして兵を引いたが、翌二十八日未明に姉川を前にして、

軍を二手に分けて野村・三田村にそれぞれ布陣した。

これに対し、徳川勢が一番合戦として西の三田村勢へと向かい、東の野村勢には信長の馬廻、及び美濃三人衆が向かった。

そして、遂に、明け六ツ頃に戦闘が始まる。


【浅井・朝倉軍】

◇浅井勢

浅井長政

磯野員昌

浅井政澄

阿閉貞征

新庄直頼

遠藤直経

安養寺氏種

今村氏直

弓削家澄

鹿伏兎定秀

◇横山城守将 (浅井勢)

三田村国定

野村直隆

大野木秀俊

◇朝倉勢

朝倉景健

前波新八郎

真柄直隆

真柄直澄

黒坂景久

植原伍八郎


【織田・徳川軍】

◆織田勢

織田信長

坂井政尚

池田恒興

木下秀吉

柴田勝家

森可成

佐久間信盛

和田惟政

◆徳川勢

徳川家康

酒井忠次

小笠原長忠

石川数正

榊原康政

本多忠勝


勿論、この忠勝は、同じ本多姓でも、出来る方の本多、古参の本多で御座いまして、槍を持つ手がガタガタ震えて使えない本多彌八とはえらい違いです。

さて、金ヶ崎の戦で全滅の危機に際しても、ガタガタ震えて使えなかた彌八。この姉川の合戦の前に、家康に呼ばれて、こんな小言を喰らいます。

家康「彌八、お前が今日も臆病風に吹かれて、震えてばかり居るのなら、貴様を足軽組頭に取り立てた、予の汚点。

家来一同に示しが付かない。死ね!敵に突っ込んで行って討死致せ!そうでなくば、予が貴様を不忠を理由に討たねばならん。

彌八、お前は予に不忠と呼ばれて討たれるのと、敵に立ち向かい名誉の戦死を遂げるのか?

貴様の子供や、嫁を思えば、不忠の汚名を着て死ぬよりは、戦場で敵に斬られる道を選べ!どうだ、彌八、返事を致せ!!」

彌八「ハイ、私も武士の端くれ。。。親方様に、不忠と呼ばれる位なら。。。戦場で見事に武士として散って行く覚悟です。」

家康「ヨシ!彌八。槍を取り、河原へ向かい見事散って参れ!!」


彌八は、漸く今日は死ぬ覚悟。死なねばならないと、槍を持ちまして、此れを杖にするようにして陣中から姉川の堤(ドテ)をテクテクと歩き始めます。

彌八「なぜ、俺はこんな臆病に生まれたんだ?!親方様に手打ちにすると言われて。。。不忠は家の恥と戦場へと出て来たが。。。」

そんな事をぶつぶつ呟いていると、堤を歩いていると、敵に丸見えで鉄砲、弓矢の餌食になる所です。

其れに気付くと、途端に足がすくんで、杖の槍を構えてキョロキョロしている彌八に、鉄砲の発射音がドン!ドン!と、聴こえて来るもんで、堤から転げ落ちてしまいます。

そして、落ちた先は、長い葦が生い茂る草原で御座います。背がスッポリ見えないくらい隠れてしまいます。

是を、彌八は幸いに、葦を掻き分けながら、槍を杖にして前へと足を進めて行きます、すると、葦の草むらの先に、武者の姿を見付けます。


彌八「アレは?誰だ。私と同じで臆病野郎に違いない。此の草むらに隠れて戦をやり過ごすつもりなのか?

ヨシ、後ろからゆっくり近付いて、この槍で仕留めてやろう!!イザ、初手柄だ。」

そう心で呟いて、遠くに見えた敵武者にゆっくり近付いて行く本多彌八ですが、この武者が浅倉方の闘将、

黒幌衆の一人、植原伍八郎で御座います。近付いて行くと、その立派な鎧揃えにビビッて仕舞い臆病風に吹かれて足が竦みます。

すると、百戦錬磨の植原伍八郎ですから、後ろから近付いて来た、本多彌八に気付かぬはずが御座いません。

植原「やぁ!やぁ!我こそは、朝倉義景の家臣、浅倉黒幌衆の一人、植原伍八郎なり、イザ名を、名を、名乗れ!!」

そう言って、二尺五寸はあろう大太刀をギラりと抜いて、正眼に構えて、摺足でゆっくりと草を分け入る様に、彌八へと迫り来ます。


一方、本多彌八は名乗ろうとは思いますが、植原伍八郎の雷鳴の様な声に恐怖して、舌は釣り喉がカラカラで張り付いて声が出せません。

『うむうむ』『モグモグ』言っているうちに、伍八郎がすぐ傍まで近付いて参りますから、もう、眼を瞑って一か八か!!

槍を脇に構えて、無言で突いて出ます。しかし、相手は朝倉黒幌衆、百戦錬磨の強者です、軽くいなして槍を受け止めて、

片手一本で、槍を彌八ごと持ち上げて、葦の草原に叩き付けて仕舞います。ドサっと腰から落ち槍を手放した彌八。

大上段に構えて斬り掛かって来る植原伍八郎に対して、何を思ったか、自ら相手の懐中に飛び込んで、

『子泣き爺』の反対風に、胸に縋り付いて、手足で是に抱き付きます。そして、


人殺し!誰かぁ〜 人殺し!!


と、倒れた拍子に、喉が剥がれて声が出せる様で、『人殺し!』を連呼して泣き叫びます。


是には、流石の植原伍八郎もびっくりして、何んとか自分の前に張り付いた子泣き爺みたいな彌八を剥がしに掛かりますが、

彌八の方は、死物狂いで是に抵抗し、『人殺し!誰かぁ〜!』と叫び続けます。

まぁ、戦場で、まさか人殺し呼ばわりされるとは思いもしない植原伍八郎、是には、恥ずかしいやら驚くやら、普段の力が入りません。


そうこうしていると、堤(ドテ)へ物見に出ていた徳川方の武将、秋元甚兵衛が、この『人殺し!』と泣き叫ぶ彌八と、

それに、纏わり着かれて難儀をしている植原伍八郎を見付けます。

そして、「戦場に、この臆病者を留め置くと、徳川方の恥になる」そう思って、横からいきなり、植原伍八郎を持っていた槍で突き殺します。

すると、だくだくと流れ出た植原伍八郎の血を浴びた本多彌八は、いよいよ、奇声を上げて、『人殺し!』と叫び発狂寸前の様子になります。

甚兵衛「其方は、足軽組頭の本多さんですね?河原の闘いは、真柄十郎左衛門以下、浅井、朝倉の重だった武将は討死に御座る。

よって、時期に勝鬨が上がります。此の朝倉の黒幌衆の首は貴方の手柄にしなさい。私は、本陣に一足お先に戻ります。」

彌八「左様ですかぁ、誠に、忝い。」


そう言って、この秋元甚兵衛は、親切にも朝倉黒幌衆の首を残して、本陣へと去って行きます。

そして、暫くすると秋元甚兵衛が言った通りで、あちらこちらから、勝鬨の声が聴こえて参ります。

彌八は、自身の小刀を出して植原伍八郎の首を斬り落としに掛かりますが、慣れない彌八、ビクビクしながら、刃こぼれさせながら、何んとか切り落とします。


その首を手拭いに包み下げて、ヨシこの首が有れば、私の命も助かるだろう。何んと優しい人だぁ、秋元氏に感謝、感謝と手を合わせます。

堤(ドテ)に再び上がり、首を持って自陣に戻りますと、騎馬隊が其々の馬印の旗を差して戻り、家康公の前に列を作り戦果を報告しています。

その列のしんがりに、彌八も並びまして、秋元甚兵衛に譲り受けた『植原伍八郎』の首を、下げております。

家康「今日の戦は、本当に激戦だった。見ろ!あの臆病者の彌八が、血塗れになりながら、首を下げて戻って来たぞ!!」

家康公、床几に腰掛けて、いつもよりニコやかに、軍監の褒賞奉行が、其々の武将が持ち帰って来た首の検分をして、家康公のお言葉を頂戴しながら、褒賞の金額を決めております。

そして、最後に彌八の順番になりました。

軍監「之れは、本多氏。お主が取った首で御座るか?」

彌八「ハイ、拙者が切り取りました首に御座います。」

そう言って手拭いから、首を出すと、検分役の軍監が驚きます。

軍監「こっ、之れは。。。朝倉黒幌の大将格、植原伍八郎高恒の首!!間違いないか?」

彌八「間違い御座いません。」

軍監「書記、書記役は、巻紙持参で、此方へ参られい!!」

そう言うと、軍監は書記役の役人を呼んで、植原伍八郎を討ち取る様子を、彌八の口から聴き取りをして、『三河軍記』に記録を残す為で御座います。


軍監「さて、本多氏。勝負の様子をお語り下さい。」

彌八「其れは、今でなくてはなりませんか?後日では駄目ですか?」

軍監「イヤイヤ、之れ程の豪傑を討つと、記憶が鮮明なうちに、武勇を書き留めるのが習わしに御座います。さぁ、お語り下さい。」

彌八「アレは、堤(ドテ)の向こう側。。。葦が生い茂る草原で御座いました。」

軍監「葦の草原?なぜ、お主はそんな所に?!」

彌八「ハイ、何んとなく、葦の原中から敵が油断を付いて現れる予感がして、あえて、原中へと踏み入りました。」

軍監「尊公は、先見の明がお有りですなぁ。其れで、植原伍八郎の得物は?」

彌八「抜き身が二尺五寸はあろうかと言う大太刀で御座います。」

軍監「ホー、二尺五寸の大太刀。でぇ、尊公は?」

彌八「拙者は、槍を取り申した。」

軍監「二尺五寸の大太刀と槍で対峙して、どの様な闘いになりましたか?!」

彌八「まぁ、無我夢中で。。。適当に書き留めて下さい。」

軍監「そうは参りません。槍で、相手の太刀筋をどう、払われましたか?」

彌八「実は。。。槍を相手に取られて。天宙高く飛ばされて。。。大上段に斬り掛かられて。」

軍監「ホウ、そこからどう反撃して、討取られました?!」

彌八「いえ、実は。。。斬られそうになり、咄嗟に相手の腹中に抱きついて、『人殺し!人殺し!』と叫びました。」

軍監「何んですと?!そっ、そっ、それで、植原伍八郎は、誰が討ち取ったんですか?!」

彌八「其れは、私の『人殺し!』の声を聴いて、堤(ドテ)に見張りに出た秋元甚兵衛氏が、拙者の苦戦を見かねて、槍で敵の脇腹を刺し殺したのです。」

軍監「何んと?!植原伍八郎高恒を討ち取ったのは、秋元氏なのですか?!」

彌八「御意に御座います。」


是を聴いて軍監は、直ぐに秋元甚兵衛を呼び噺を聴きますと、『人殺し!人殺し!』と戦場で叫ぶので、

是は徳川の恥になってはと思い助けに出た事を、少し遠慮気味に語る秋元甚兵衛で御座います。

さて、この一連のやり取りを傍で見ていた家康公。本多彌八と秋元甚兵衛の二人の働きを聞いて、軍監からそれぞれの恩賞に付いての裁定を求められました。

家康「恩賞は、秋元に銀三十枚、本多彌八には銀五枚と致す。」

軍監「殿、お言葉ですが、『人殺し!』と叫び、徳川の恥を晒した本多彌八に、恩賞は如何なものか?!」

家康「違うぞ!『人殺し!』と声が出たから、仲間は強敵を討てたと思うべきである。生き残った本多彌八は、敵が草むらを進んで来る事に気付き、是を食い止めるキッカケとしたのだぞ。

彌八、『人殺し!』と声が出た事を嬉しく思う。戦場に早く慣れて、活躍を期待しておるぞ、彌八。」

彌八「有難き、幸せ。励みまする。」


この姉川の一件以降、本多彌八は、秀吉との長久手の戦い、三成との関ヶ原、そして豊臣を滅ぼした大坂の陣、

いずれの戦いでも、家康公の懐中刀を務めた本多土左守正信は、臆病者だったからこそ、自軍の弱点を見抜く力に優れ、

相手の奇襲を防ぐ守りと、相手の弱点を突く攻撃の両面に優れる武将へと成長します。

中でも、本多彌左衛門の功績で有名なのは、大坂城の外堀、内掘を埋めて、あの城を丸腰にした功績は大きい。


さて、この本多佐渡守との会話で、二人の『徳川禍』を確認し終えた家康公、人払した面々を又、再び部屋に呼び入れて、

榊原内記の膝枕で、スヤスヤと眠りに付いておられましたら、突然、目を見開きになり、こう仰られます。

家康「あぁ、五月蠅いぞ!五月蠅い、内記、五月蠅い!!」

内記「大御所様、何が?五月蠅う御座いますか?!」

家康「イヤぁ、何がではない!蛙だぁ、あの蛙の声が耳障りである、五月蠅い!」

この家康公、生まれ付いての『蛙嫌い』で有名である。しかし是に関しても、本多彌左衛門から

『蛙ごとき小虫に頓着されては、天下の征夷大将軍が勤まりません!』と諫言されておりまして、

其れでも、雨の日に庭の青葉に着く、雨蛙ですら見ると怯えてしまう家康公で御座います。

内記「では殿、駿府の城の堀に泳ぐ蛙は、全て取り除かせますか?!」

家康「いやぁ、其れには及ばぬが、内記!肩を貸して呉れ。そして、儂を内堀に連れて参れ。」

こうして、内堀へと来た家康公、鳴く蛙を前に、こう言い放ちます。

家康「やい、蛙。儂は、生まれ付いて貴様たちが嫌いだぁ。だが弱いお前たちを駆除したりはせぬ。

だからと言う訳ではないが、儂の最後の願いだ、病の床に儂が居る間だけ、内堀で鳴くのを堪えて呉れぬか?」

ところが、蛙は、家康の家来では御座いませんから。。。

蛙「何をぬかしやがる!ベラ棒めぇ。俺の方から嫌って呉れとは頼んだ訳じゃなし。

鳴くな!と、言われたら、鳴いてやりたくなるぜぇ、ベラ棒めぇ。」

蛙のご機嫌を損ねた家康公、蛙は輪を掛けて大きな声で鳴くのでした。そして、俳諧師の句にこの様な句が御座います。


親分と 分かる上座で 鳴く蛙


一際大きな上座の蛙が喋ります。

親玉蛙「ヤイ、雑魚蛙ども、なぜ鳴くんだ!大御所様が、黙れと仰っているんだぞ。

此の方のお陰で、安穏とした城の内堀が有り、俺たちは、そこで蛙人生を謳歌している。

此の平和を創った人が、大御所様、家康公であり、その家康公が静かにして呉れ、死ぬまでで宜いから静寂を望まれて居るんだ。

それなら、束の間で宜いのなら、城の内堀では、鳴かないで居ようとお前たちは思わないのか?!」


そう、親分に諭された蛙たちは、一匹、また、一匹と駿府の城の内堀では、鳴く不心得が居なくなり、

外堀や田圃では、蛙は鳴くけれど、内堀で泳ぐ蛙は、家康公を慮り、鳴かなくなりました。

此れが、有名な『駿府の無声蛙の伝説』で、此の逸話を、本多佐渡守彌左衛門は、好んで家臣に語り聞かせたそうです。

やがて、家康公が蛙の声が聞こえない城中で、死期を迎えようとしていると、其処へ、大久保彦左衛門、南光坊天海大僧正、そして二代将軍秀忠が、駿府の城へと駆け付けて参ります。



つづく