安濃徳次郎との手打ちが済んだ次郎長は、比較的平穏な日々を過ごしていたが、相変わらず多忙な毎日を送っていた。
そして、世間では倒幕の動きが加速して、迎えた慶應四年の四月の事でした。
次郎長「お蝶、大政、ちょっとコッチへ来て呉れ!?」
大政「親分、お呼びですか?」
お蝶「お前さん、何んだい?」
次郎長「三河で、小松ノ七五郎が一本立ちをするそうだぁ。」
大政「そいつはめでてぇ~、女房のお民さんも喜んでいる事でしょう。」
次郎長「あぁ、それで仁吉の所に居た、立川ノ慶之助と山根ノ三蔵を五分の三兄弟にして、七五郎のに預けるつもりだ。」
お蝶「宜かった!これであの二人も宙ぶらりんじゃ、無くなるんだねぇ?」
次郎長「そう言う事だぁ。だから、明日から暫く三河に行く。寺津ノ間之助と西尾ノ治助も助けて呉れるんで、
二月ばかりの長旅になると思うが、留守中は、二人に任せるんで、店を宜しく頼まぁ。」
大政「ヘイ、ただ道中は気を付けて下さい。黒駒ノ勝蔵の野郎がまだ街道筋を荒らし廻っておりますから。
野郎、攘夷だの尊皇だのと言いながら、結局やっている事は追い剥ぎ、盗賊と変わらないんですから、タチが悪い。」
次郎長「確かに、勝蔵の野郎、安濃徳と俺が手打ちになった事を、逆恨みして何をして来るか判らねぇ~。
まさか、この清水一家にカチ込んで来る心配は無ぇ~と思うが、こっちも十分用心して呉れ。」
大政「へい、では気を付けて行ってらっしゃい。」
お蝶「七五郎さんとお民さんには、くれぐれも宜しく伝えて下さいねぇ。」
次郎長「あぁ、じゃぁ~行って来る。」
こうして、清水次郎長は、滑栗ノ初五郎と奇妙院大五郎を連れて、三河の小松ノ七五郎の元を訪ねて行った。
そして、三月湊まつりのご祝儀返しの挨拶廻りに大政が出て留守にした、その日。
お蝶の元には、甲州の絹商人の友次郎が来ていて、反物を見せながら商いをしていた。
友次郎「どうです姐さん、薄くて軽いでしょう。染もしっかりしていて、半軒物は二朱と二百で、一軒物は一分です。」
お蝶「確かに、軽くて単衣なのに絽か紗のようだねぇ。ただ、この染は鮮やかだけど、アタイには派手過ぎないかい?」
友次郎「何を仰る、兎さん。姐さんくらいに若くて華のあるお人なら、これくらい彩な着物でないと!!」
お蝶「相変わらず口が上手いね、友さんは!じゃぁ、この柿色と、そっちの紫を貰います、一軒物二つ、一両からでいいのかい?」
友次郎「へい、毎度有難う御座います。二分のお釣りです。」
二人が、店先でそんなやりとりをしていると、玄関先で、小僧の慌てる声が致します。
小僧「困りますお武家様。勝手に入られると、私が𠮟られます。困ります!お武家様!!」
浪人「黙れ下郎。触るな!小僧、富士山形に長の字、清水次郎長は居るかぁ?!」
そう言いながら、暖簾を潜って、押し入る様に入って参りました浪人風の男。
身の丈は、六尺を越えて月代は伸び放題で、髭ボウボウの山賊風。
元は右近木綿だったと思いますが、垢と汚れでドス黒い黄土色!!
普段の袴を通り越した、ヨレヨレで飛騨の無い、裾がボロボロの奴を履いております。
この侍、店ん中に入ると、いきなり鞘を払って抜き身を見せて、ノソノソと物色を始めます。
浪人「おい、清水次郎長は居るか? 俺は黒駒ノ勝蔵の食客で、橘源兵衛と申します。
渡世の義理で、黒駒の恩義を感じている者だ!次郎長、出て来い!!」
そう叫んで、下駄のまんま家ん中へと入って来て、そこで反物を広げて居た友次郎に、いきなり斬り掛かります。
ひえぇ~
そう叫んで、その場で腰を抜かす友次郎。橘源兵衛というその侍は、傍らに居たお蝶に気付きます。
源兵衛「やい!貴様は、誰だぁ?次郎長は何処だぁ?!」
お蝶「アタイは、次郎長の女房だぁ。此処に居るお方は、堅気の衆だから手出しは止めてお呉れ!」
源兵衛「オイ、女(アマぁ)、次郎長は何処だぁ?!」
お蝶「次郎長は、留守だよ。一昨日来やがれ!ベラ棒めぇ」
源兵衛「元気の宜い女(アマぁ)だぁ、死ねぇ~ 天誅。 エイ!!」
ギャァ~
小僧「姐さんが!姐さんが、斬られた!姐さんが斬られました!」
お蝶は、此の浪人者にいきなり斬られて、肩から背中に掛けて血を流して苦しそうにしています。
小僧がお蝶の斬られた姿を見て叫びますから、奥から若衆が四、五人飛び出して参ります。
ヤバい!そう思った橘源兵衛は、慌てて、外へと逃げ出してしまいます。
奥から出て来た連中の中に、大野ノ鶴吉がおりまして、若衆に素早く指図を致します。
鶴吉「直ぐに姐さんの傷を、サラシでグルグル巻きにして固めろ!血が止まるまで強く巻くんだ!
そして、雅吉、お前は玄斎先生を急いで呼んで来い!姐さんを診せるんだ、大至急なぁ?
あぁと、亀次、お前は小政の兄貴と、大政の兄貴を呼びに行け、
小政の兄ぃは家に居る。大政の兄貴は、町役人の甚兵衛さんの所か、香具師の玉五郎親分の所だぁ!!
残りの野郎は、俺に付いて来い!あの逃げた浪人者を追い掛ける。」
素早く鶴吉が気転を働かせて手配り致しましたので、お蝶の方も予断を許さない状況ですが、大事には至りません。
そして、直ぐに四、五人の若衆を連れて、お蝶を斬って逃げた橘源兵衛を追跡致します。
非常に特徴のある風態なので、直ぐに目撃者が現れて、橘源兵衛は湊ではなく北東の山の方へ逃げたと判ります。
そして、聴き込みの山の方へ鶴吉たちが追手を掛けようとしている場面で、大政、小政の二人が追い付いて駆けて来ます。
大政「鶴吉、姐さんを斬った野郎は?!」
鶴吉「黒駒の食客で、橘源兵衛と名乗ったそうです。」
小政「でぇ、その野郎は何処へ逃げたんだ!」
鶴吉「北東の山の方へ逃げたのを、行商人の婆さんが見ています。
顔中髭で、背がえらくデカい野郎のようですから、この辺りで聴いてみると、直ぐに判るはずです。」
そう言って聴き込みを始めると、畑仕事をしていた百姓が、右近木綿でヨレヨレの袴履き髭だらけの浪人の
地蔵堂から長閑寺(ちょうかんじ)の方へ逃げて行く姿を見ておりました。
大政「ヨシ、この道を逃げたんなら、一本道だから寺へ逃げ込んだに決まっている。
俺が寺に談判して来るからお前たちは門の前で待っていて呉れ。」
小政「大政のぉ、俺と常の二人は、寺の裏口の方を見張っているぜぇ。正面から踏み込むと裏へ逃げ出すかも知れねぇ~」
大政「判った!小政と常は裏を見張って呉れ。」
鶴吉「大政の兄貴、寺へは俺も付いて行くぜぇ、ここの和尚は、中々口が達者で頑固者だから。」
大政「判った、鶴吉も一緒に来て呉れ。」
そう言って、大政と鶴吉の二人で、長閑寺の中へと門を潜った。
大政「御免なさい!」
寺男「ヘイ、何んで御座いますか?」
大政「今、この中に入って行った浪人者に用がある。出来るだけ早く、此処に連れて来て欲しい。」
寺男「少々お待ちください。そのような者が逃げ込んだか?奥に確認して参ります。」
鶴吉「確認も何も、入って行ったんだ!!直ぐに出しやがれ、ベラ棒めぇ~!」
寺男「そう言われましても、和尚様が何んと申されるか?兎に角、聴いて参ります。」
そう言って、玄関で雑用をしていた寺男は、寺の奥へと消えてしまった。
そして、暫くすると、奥から五十を過ぎた年格好の、和尚「雲徳」がゆっくり歩いて出て参ります。
雲徳「当寺の住持、雲徳と申します。下男より伝え聞きますと、当寺へ逃げ込んだ賊の引き渡しをご希望とか?」
大政「そうです、和尚さん。此処へ逃げ込んだ野郎を引き渡して下さい。」
雲徳「それは、出来かねますなぁ。お引き取り下さい。」
大政「どうしてです?」
雲徳「寺方では、佛様の慈悲にお縋りに参った者を、無暗に追い出す事は許されません、お引き取り下さい。」
大政「佛の慈悲に縋るような野郎じゃありません、人殺しなんです。」
雲徳「例えそのような凶賊でも、寺に逃げ込んだ者は、寺方がお守りするのが仕事で御座います。
これが、町役人、町奉行の配下でも、引き渡しは出来ませんから、お引き取り下さい。」
明らかに、この寺に逃げ込んだと思われるのに、雲徳和尚は聞き入れては呉れません。
この大政と雲徳の押し問答を脇で見ていた鶴吉が、痺れを切らして雲徳に喰って掛かります。
鶴吉「ヤイ!糞坊主、貴様、さては黒駒ノ勝蔵とグルだなぁ~」
雲徳「誰ですか?それは。。。私は知りません。」
鶴吉「エイ、じれったい! 南無阿弥陀仏!南無阿弥陀仏!」
と、言って鶴吉は、雲徳和尚を蹴飛ばして、勝手に中へと踏み入りますと、居ました!橘源兵衛。
鶴吉が飛び掛かろうとするのを、柔の心得が御座います源兵衛、ひらりと体を交わして、裏から外へと逃げ出します。
しかし、そこには相撲ノ常と小政が待ち構えていて、常の得意の毒の竹槍が源兵衛の脇腹に突き刺さります。
うっ!
短い呻き声を出して、寺の庭先でのたうち廻る橘源兵衛。そこに小政が長い脇腹を抜いて居合斬り!一閃。
源兵衛の首が落ちで、コロコロと転がります。橘源兵衛、抵抗する間も与えられず、あっさりと討ち取られます。
大政「和尚、ここの戸板を借りるぞ。」
雲徳「何んという事をなさいますか?あなた方は!」
鶴吉「糞坊主!余計なお世話だぁ、この野郎はなぁ、ウチの姐さんを斬って逃げたんだ!殺されて当然だぁ。」
大政「常、小政、手を貸せ。番屋に死体を運ぶぞ。和尚、この佛は番屋で検死したら、この寺に埋めてやる!
それから、鶴吉。店に戻って友次郎の奴を番屋に連れて行け。野郎、姐さんが斬られた所を見ているはずだから、
この橘源兵衛って野郎が姐さんを斬って脱げましたと、番屋で役人に証言させろ。」
こうして、橘源兵衛の死体は番屋に運ばれて、一通りの検死が行われ、友次郎の証言もあり大政たちの仕返しはお咎め無しとなる。
そして、源兵衛の死体は、長閑寺へと持ち込まれて、無縁佛として葬られたのである。
早飛脚で、この事件は三河の次郎長にも知らせが飛び、次郎長は翌日の夕刻に早駕籠で清水へ戻った。
そこで、意識のあるお蝶と、二言三言、会話をしたが、何んと!それが二人のこの世の最後の会話となり、
慶應四年、四月十五日、二代目お蝶は帰らぬ人となってしまうのである。享年二十七歳。早過ぎる一生である。
この事件で、次郎長は黒駒ノ勝蔵を心底憎み、初めて次郎長の方から、勝蔵に追手を掛けて討ち取ろう致します。
二代目お蝶の仇を狙う、鬼神と化す清水次郎長!愛する女房の仇、黒駒ノ勝蔵の行方を草の根分けても探します。
次郎長と勝蔵、二人は初めて出会った武井ノ安五郎と、法印大五郎、そして桝川仙右衛門の仇討ち、その時から二人は反目の関係です。
しかし、次郎長を嘲笑うかのように、勝蔵は東海道を荒らし廻り、神出鬼没!次郎長が五人一組で拵えた必殺の殺し屋軍団も、
六つの部隊に分かれて、東海道を隈なく探して廻りましたが、なかなか黒駒ノ勝蔵本人とは出会う事が出来ません。
そうこうしているうちに、黒駒ノ勝蔵は、熱ぼりが冷めた頃だというので、地元、甲州八代郡、黒駒村へと戻ります。
ここで、最後の決戦を挑むべく、次郎長も、勝蔵も、それぞれの身内や兄弟分から助っ人を集めます。
そして迎えた慶應四年九月。いよいよ両雄が再びあの天竜川で相見える事となり、
互いに喧嘩支度も万全に整えて、いざという所で、因果なもので、明治維新を迎えてしまいます。
ここに新政府が立ち上がり、次郎長に対しても、勝蔵に対しても特に厳しい目が光ります。
こんなご時世に、喧嘩など致しますと、両方とも喧嘩両成敗で一家は瞬時に潰されて仕舞います。
結局、日時を変えて同じ『天竜川』で、二度の出入りが予定されますが、いずれも明治新政府の横槍で流れ、
そうこうしているうちに、明治元年、師走の五日。黒駒ノ勝蔵は、明治新政府に対して、一家の解散を申し出ます。
これによって、次郎長たちは、二代目お蝶の仇討ちの大義名分を失い、このまま両雄が再び激突する事はありませんでした。
つづく