荒神山は、登り八丁の最後の坂に掛かって参りました二十九人は、最後の山道を登り頂上の釈迦堂を目指します。
大きな喧嘩を控えた血の雨降らんとする荒神山は、もう九合目まで登ってみると、
返って下界よりは異様な静けさに包まれて居て、針を一本落としても音が聴こえそうなぁ、そんな張り詰めた空気が漂います。
祭縁日に備えて三日、四日前から所場代を払って場所割に望み、出店の小屋を組んで商売を楽しみにしていた露天の神農(テキ屋)、商人たちは、
寝耳に水の大喧嘩の噂と、仲人が現れる度に一喜一憂して、
結局、調停は不調に終わり、参拝客も来る気配が有りませんから、出店小屋を残したまんま、
喧嘩に巻き込まれるのは厭ですから、恨み節の愚痴を溢しながら、トボトボと山を降り始めておりました。
商人A「ねぇ、藤さん?」
商人B「ハイ、喜多さん」
喜多八「何んだぁねぇ、渡世人、賭博打(ばくちうち)の事を『無頼漢』(ヤクザモン)とは宜く言ったもんです。
四月八日は、お釈迦様のお誕生日。この荒神山で山頂にある釈迦堂では大祭が開催される。
その祭の前夜祭と二日間の本祭での商いが、莫大な売上になるから、大枚叩いて所場代払ったのに。。。
商人の生き甲斐なんぞに奴等は全く興味ないのかぁ?!」
藤兵衛「無職渡世と言って人別帳に載ってない輩ですから、穢多や非人と変わりません。
コッチが額に汗して、二十里、三十里って距離をドデカい荷物を台八俥で引いて、商いしに来ているの何んて、理解(わから)ないって!」
喜多八「オイラは、親方と子分の関係や、義理と人情何んで、似た様な渡世かと思っていた時期も有ったんです。神農(テキ屋)も博徒も。」
藤兵衛「そりゃぁ違いますよ。面子が立つ、立たないで、他人や堅気を泣かすのは平気なんですよ、奴等は。」
喜多八「あぁ、飛んだ負債の背負い込みです。」
そう愚痴を溢して、トボトボと下山する商人二人に、喧嘩支度の仁吉が声を掛けます。
仁吉「アのぉ〜、モシ、商売人のお二人さん!!」
明らかに喧嘩支度の屈強な野郎が二十九人。その先頭を行く仁吉から声を掛けられて、
さっきまで、『穢多、非人と同じだぁ!』などと悪口を言っていた二人ですから、一瞬、ドキっと致します。
藤兵衛「へぇ!」
喜多八「ホラ、言わんコッちゃねぇ〜、人別帳に無い職業だとか、所詮、無職渡世だなんて、言わないで於けば宜かった。早く謝ろう!」
藤兵衛「どうも相済いません、親分たちの事じゃぁ〜、有りません。山に居る、無頼漢(ヤクザモン)の奴等の事です。
貴方がた、御渡世人様(おヤクザサマ)じゃぁ在りませんから。」
仁吉「御の字付けて奉等ないで下さい。商売往来の外にはみ出す身分で御座んす。
賭博打(ばくちうち)何んて稼業を致しております、大馬鹿野郎で御座います。
さて、皆さんもご存知の通り、此処荒神山は、此処に居ります神戸ノ長吉の父親、傳左衛門の代から、此処荒神山の盆割りをするのは決まって居ります。
ハイ、此処はこの漢、長吉の火場所で御座いまして、大きい事を言っては相済ませんが、
喩えば、縄張り/火場所と申しますものは、殿様・大名の所領と同じで御座います。
其れを他国に取られたと有っては、黙っては居られません。
万一、黙ってしまうと其れは取られた事を認めた事になり、其れだけでなく、芋を引いたとみなされて、此の無職渡世では生きて行けません。
そんな渡世で、荒神山を取り返す為に、アッシらは、喧嘩を辞さず掛け合いに行く所存で御座います。
安濃徳が素直に山を、この長吉に返して呉れれば御の字ですが、燃し、返さないと言うならば、
四百三十人相手に、此の二十九人で喧嘩するしか御座いません。
アッシらは、洒落や酔狂で荒神山まで命を捨てに来た訳じゃありません。
アッシらは、決して神農の皆さんや堅気の衆に嫌がらせしょうと山へと参った訳じゃ在りません。
相手、安濃徳が横車を押しますんでぇ、万やもうえず、この騒ぎに巻き込まれて御座います。
どうか、皆さん!お汲み取り頂いて、宜しくお考え願います。」
吉良ノ仁吉は、珍しく冷静にコンコンと、理屈を述べて聞かせます。
喜多八「ヘイヘイ、ども恐れ入ります。何んにも理屈を分からずに、勝手に渡世人は無頼漢でかなわいと、
あなた方と、山の安濃徳とを、味噌も糞も一緒に物申しまして、失礼さんに御座います。どうかぁ、ご勘弁願います。」
仁吉「どう致しまして、ご理解頂きまして、有難う存じます。アッシらの不憫な奴と、お思い下さい。」
藤兵衛「ご丁寧様で御座います。お気を付けて山頂へおいで下さい。」
喜多八「お大切に行って下さい。神農仲間には、アッシら二人が言って聴かせます。」
仁吉に、喧嘩の経緯を説明された神農(テキ屋)の二人は、喜んで山を降りて行きます。
仁吉「まぁまぁ、是で神農連中にも、仇は山の連中安濃徳で、其れを次郎長一家が退治にノリ出して来たと理解させる事が出来た。」
そう言って仁吉は、足取りをやや早めて、山の頂上へと繋がる石段の前に立ちました。
さて、いよいよ此の十数段の石の階段を登ると、釈迦堂と観音堂が在り、
其処には安濃徳と其れを応援する伊勢の渡世人達、四百三十人が待ち受けていると思うと、
流石の吉良ノ仁吉も、武者振るいを感じて、心の臓の鼓動が聴こえて参ります。
そんな仁吉が、ふと傍に居る神戸ノ長吉はと見てやれば、長吉は顔面蒼白で、唇の色が紫に変わり、葉の根が合わない感じで、ガタガタ音をさせています。
更に目は泳いで一点を見詰める事すら出来ない状態で、宜く此の石段前まで付いて来たのが不思議な位に思えます。
そして是を見た仁吉は思います。『人間の本当の料簡ってもんは、極限まで追い込まれないと正体が見えない。
この長吉の奴が、此処まで意気地無しの弱い野郎だとは。。。お袋のお藤さん、仲人の稲木ノ文蔵に乗って、威を借る狐だったダケだったのか?!』
否!?
『長吉の奴は、自分一人の荒神山、その火場所を守る為に、此処に集まった二十八人の命を散らす事に、
漸く現実となりつつ有る今になって、実感が湧き怖気付いてやがるのでは?!』
そんな事を思いながら、もう『賽は投げられた!』『ルビコンは遠の昔に渡った!』
だから、首に縄を付けて、長吉は尻を叩いて連れて行くしかありません。
一方、他の連中はと見てやれば、大政、小政、枡川ノ仙右衛門、大瀬ノ半五郎、法印大五郎、鳥羽熊、大谷部ノ平吉、
桶屋ノ鬼吉、追分三五郎、大野鶴吉、三保ノ豚松、関東綱五郎、問屋場ノ大熊、
相撲ノ常、辻の勝五郎、舞坂の富五郎、田中ノ敬太郎、そして滑栗ノ初五郎と子分の九人は、キリッと口を真一文字に噤んで、力強い目力で前を睨んでおります。
良かった!ビビッているのは長吉だけ!
さて、そんな中、小政と桶屋ノ鬼吉、そして、法印大五郎の三人は笑いながら、冗談混じりに話します。
小政「だから、桶屋のぉ、あの油屋の色白のポチャポチャの女中、アレは俺に気があるッて!」
鬼吉「何を根拠に、言うんだぁ?!」
小政「朝の飯と丸干の盛が、他の野郎とは全然違っていて、大盛どころか、特盛だった。
だから、あの白ポチャは、俺の事が好きに決まっている!!」
法印「相変わらず、めでたい野郎だぁ。」
小政「焼くな!焼くな!法印。ヨシ、喧嘩が済んだら、あの白ポチャに土産を買って帰ろ!」
鬼吉「荒神山の山頂には、土産屋が有るのか?」
小政「有らいでかぁ。休んでやがったら、叩き起こして買って帰る。」
法印「本当に、ノー天気で宜いなぁ、小政は。」
小政「さぁ、早く喧嘩を済ませて、油屋へ行くぞ!俺を可愛い白ポチャが待っている。」
仁吉は、驚いた。是から命のやり取りをしに行くと言うのに、笑いながら女の噺を三人でやっている。
いよいよ、二十九人は石段を昇り切った。山頂には釈迦堂が見えて来て、その脇には観音堂が御座います。
其れッ!来たぁ
四百三十人が、釈迦堂の周囲にザワザワッと広がっております。
そして、釈迦堂の前に、酒樽が置かれて、其れにドッカと座っておりますのが、安濃徳次郎、安濃徳で御座います。
安濃徳、年齢四十三歳。木綿のめくら縞の着物に襷掛け、胴中を濡れた手拭いで腰に結わいて、
藍染の後ろ鉢巻して、黒の脚絆に素足に草鞋履きに致しております。
その安濃徳の隣にも、もう一つ樽が置かれていて、其処には、信州松本浪人、角井門之助が座り、
更に二人の周りには、三十人程の竹槍を持った長脇差が立って、護衛を固めておりました。
更に更に獣のチャンチャンコを身に付けた、マタギ衣装の十人が、火縄に火を点けまして、その後ろから構えて御座います。
その敵を前にしても、吉良ノ長吉は、一切怯む様子はなく、ゆっくりと神戸ノ長吉を抱える様に連れて前に進むと、
其の両脇に、左には大政と枡川ノ仙右衛門が、右には滑栗ノ初五郎と大瀬ノ半五郎が広がって、
樽に座った二人の前へと歩み寄って行きますと、六人の後ろからは二十三人の仲間が、ピッタリとくっ付いて進みます。
安濃徳「ヤイ!汝(おめぇ)は、仁吉だなぁ?!何をしにオメオメと、俺の前に出失せったなぁ。
三月前に嫁にやった妹のお禧久を突然、離縁しやがって!貴様、どう言う料簡だぁ。
お禧久は、何も悪い事はしていないのに、見下り半を突き付けて、捨てやがって!太てぇ〜野郎だぁ!
俺ん所に、言い訳に来るかと思えば、其れもしないで、鹿十決め込んで無しの礫!挙句に見たら、
長吉なんぞを一緒に連れて来やがって、巫山戯るにも程があるぞ!馬鹿野郎。
まぁ、そんな仁吉お前だが、今すぐ山を降りて呉れるんなら、全て水に流して、お前一人だけなら命を助けてやろう。どうだ?直ぐに下山するかぁ?!」
安濃徳は、出鼻を挫く様に、勢いを付けて、決死の覚悟の仁吉達二十九人に対して、強い言葉で脅しに掛かり、山から追い返そうと致しますが、
吉良ノ仁吉も、二十七人の助っ人達も、何を今更、寝言は寝て言え!と、平然としておりますが、
だった一人、長吉だけは、もうションベンをちびる寸前でして、目すら開けておれません。此処に立って居るのが不思議な位で御座います。
仁吉「オイ!徳さん、笑わかさないで呉れ。一度舎弟にした義理で、汝だけは助けてやると言われて、俺が喜ぶとでも思ったかぁ。
この四百三十人対二十九人の喧嘩を承知したそん時に、手前ぇ〜の命が無い事ぐらい、既に覚悟した面々が此処には集まって来ているんだぁ!
だから、お前さんの甘い言葉に乗って、山を降りて自分だけ命が助かろう!そんな吝な料簡の野郎は一人も居ないんだぁ。
太平の世にぬくぬくと、義理人情を忘れて過ごせるんなら、態々こんな山に最初(ハナ)から登って来ないぜぇ!
汝たちは、数が多ければ、俺たちがビビッて逃げ出すとでも、思って居るのかぁ?
俺たちは、女、子供とは違うんだぞぉ?!ちょいと脅せば芋引いて逃げ出す様な、
おあ兄ぃ〜さよとは、兄ぃ〜さんの出来が違うんだぁ!ベラ棒めぇ。
其れからなぁ、徳さん!お前、自分達に利が有って荒神山を手に入れた様に、
後ろで助てらっしゃる伊勢の親分衆には言い訳しとるらしちが、
この長吉の、何処に落ち度が有って、汝に荒神山を譲る羽目になったのかぁ?!
その因縁を、俺たちに分かるように、そして、助っ人に来た皆さんにも、改めて、分かるように、説明して貰いたいもんだなぁ!!」
安濃徳「そんな因縁を、今更話した所で、詮方ない。汝らぁ!つべこべ言わずに山を降りてしまえ!」
仁吉「さぁ〜!何故、荒神山を奪ったのか?その因縁を早く説明しろ!
言えないのかい?!徳さん。お前の口から言えないんなら、俺が代わりに言ってやる。
貴様は、この荒神山の博打の寺の上がり、千両とも二千両とも言われている銭が欲しくて奪ったんだ。
つまり、貴様はただの盗っ人だぁ。そして、伊勢の親分衆!アンタ達だって、その盗っ人を助てるんだから、盗っ人と同じだぁ!
腕を貸している旅人も含めて、皆んな盗っ人を助ける様な料簡ならば、アッシらは容赦なく、汝らにも死んで貰います。」
安濃徳「聞いてりゃぁ、好き勝手な理屈並べやがって、仁吉!汝こそ、妹のお禧久のケジメをどう着ける積もりだぁ!!」
仁吉「そんな噺は、この際関係ねぇ〜、荒神山の因縁に、そっちこそケジメを着けろ!!」
安濃徳「いやいや、妹、お禧久のケジメだ!」
仁吉「何を言う、荒神山のケジメだ!」
安濃徳「妹、お禧久だ!」
仁吉「荒神山だ!」
安濃徳「お禧久だ!」
仁吉「荒神山だ!」
この水掛け論にもならない掛け合いに、短気な小政がチャチャを入れます。
仁吉「何をしやがる!袂を引っ張るなぁ。」
小政「ヤイ!仁吉、堂々巡りは沢山だぁ!汝が口が上手いからッて言うから、俺たちは掛け合いを任せたハズだぁ。
それじゃぁ、余ッぽど俺の方が弁は立つし、駆け引きも上手くやれるぜぇ、まぁ、見てなぁ。」
そう言うと、小政。仁吉と長吉の間を割って、更に二、三歩前に進み、安濃徳と角井門之助の傍に居る竹槍四人の、
その首を、電光石火の早技で、スッポン!スッポン!スッポンポン、と、居合で斬り落として仕舞います。
首からは、四方から血の雨が降り、四人は声すら上げずにあの世行きです。
小政「さぁ〜て、汝達は、全員盗っ人だぁ、この遠州生まれの政吉、通称・清水ノ小政が、
清水湊にゃ鬼より恐い、大政、小政の声がする。
そう呼ばれているこの俺が、山を長吉に返さねぇ〜ッてんなら、仕方ねぇ。
盗っ人に情けを掛ける程、お人好しじゃねぇ〜から、片っ端から首を跳ねてやる!!覚悟しゃがれ、ベラ棒めぇ!!」
そう言っていきなり、小政が居合に構えますから、まず、安濃徳の周りを固めていた、三十人は、竹槍を投げ出し、
蜘蛛の子を散らす様にして、観音堂の方へ逃げ出します。
更に、この逃げ出す、安濃徳の精鋭の姿を見た四百人の助っ人が、ザワザワし始める。
先んずれば、人を制す
兵法の中にある有名な言葉が有りますが、是は、確か史記にある項羽の言葉まったと思いますが、
果たして、小政が史記や項羽を存じていたかは定かでは御座いませんが、あの掛け合いでは、埒が開かぬと見た小政の判断で、
先ずは、荒神山に初血の雨が降る結果となりまして、仁吉たち二十九人と安濃徳四百三十人の喧嘩の幕が開いたのでした。
つづく