鹽濱ノ吉五郎から、安濃徳の本当の狙いが荒神山の御會式博打の権利であり、既に、回状を廻して委任を、伊勢の親分衆から取付ていると教えられた神戸ノ長吉。
喧嘩をしたいが、一人じゃぁ〜どうにもならない。喩え、安濃徳を闇討ちして、首を取るにしても、
あの角井門之助が用心棒に付いているからには、一人で襲えば間違いなく犬死にになる。
誰か、助(スケ)て呉れる旅人、侠客を探して来ないと噺にならないと長吉は考えます。
そこで、神戸ノ長吉が思い付いたのが、アレは三年前。藤枝の貸元、長楽寺清兵衛が言い出した。『吉三の兄弟盃』の事で御座います。
御油の玉屋ノ玉吉、伊勢の神戸ノ長吉、そして三州の吉良ノ仁吉。この三人は、義侠中の義侠と言っても宜い三人である。
之を三人五分で盃を交わすと、『吉が三つ揃う、三人吉三のめでたい兄弟が誕生する!』と言って、長楽寺の仲人となり、盃が交わされたのである。
以後、三人は盆暮の付け届けの遣り取りは勿論、互いの客人旅人を受け入れて、兄弟付き合いを始めている。
ヨシ、ならば此の三州吉良ノ仁吉に、今回の荒神山の一件を話して、是非助っ人になって貰おうと致します。
仁吉の家が見えて参りまして、その二階で、十人以上の旅人達が、ワイワイ騒いで活気が有る姿が見て取れます。
此の光景を見て、長吉は『仁吉も宜い顔の親分に成りやがった!』と、思いながら家に入ります。
そして、「御免なさいよぉ!」と、声を掛けてから、大変な事を思い出して仕舞います。
長吉「いけねぇ〜、俺は何んてドジなんだぁ!仁吉の内儀(にょうぼう)は、安濃徳の妹だぁ。
気が付いて居たら、海を越えて三州くんだりまで来るんじゃなかった。
相手とは血の繋がった親戚で、コッチは口約束の兄弟分、こりゃぁ命を貸して呉れとは言い出せねぇ。其れなら一層、逢わずに帰ろうかぁ?!」
と、考えた長吉でしたが、安濃徳の味方に成られて敵同士になるのは、忍びない。
せめて、安濃徳の味方にだけは成らないで呉れと頼む決心をして、玄関の格子戸を開けて再び呼び声を掛けます。
長吉「今日はぁ!いらっしゃいますかぁ?」
取次「へぇ〜い。誰ですかぁ?! ッて、失礼しました。之は之は、神戸の貸元じゃないですか?!」
と、応対に出て来たのは、立川慶之助成政と言う賭博打で、是が大変な賭博打で御座いまして、
元は武家上がり、吉良ノ仁吉が次郎長に盃を貰う前に世話になっていた寺津ノ間之助の子分でしたが、
仁吉が一家を構えて、三州で漢を売り出すと、是に付いて来て、もう今では子分同様の懐中刀的な存在で御座います。
慶之助「之は神戸の貸元。先立てはうちの親分の婚礼に、お母上と加納屋利三郎ドンと三人で来て頂いて、誠に有難う存じます。
仁吉も姐さんも、本当に喜んでおりまして、毎日の様に、長吉ドン!長吉ドンと噂をしておりました。
それにしても、親分!本当に宜い頃合いで参られました。実は、仁吉は今しがたから、出掛ける準備をしていた所だったんです。」
長吉「そうかい、行き違いに成るところだぁ。でぇ、仁吉ドンは何方へ出掛ける所だったんだい?!」
慶之助「へぃ、清水湊の次郎長親分の所へです。」
長吉「次郎長さんの所へ?!何か急用かい?」
慶之助「いえね、実は今、次郎長二十八人衆の内、主だった十七人が見えて居て、二階に居るんですよ、之がぁ!」
長吉「そうかい、さっき玄関へ入る際に見えた二階の皆さんは、清水のお身内かい?どうりで、顔に見覚えが有ると思うハズだぁ。」
そう玄関で、立川慶之助と神戸ノ長吉が話していると、奥から山根ノ三蔵と言う仁吉の子分が出て参ります。
三蔵「神戸の貸元じゃありませんかぁ?親分はもう出掛けなさる支度が出来たから、早く上がって下さい。」
長吉「仁吉ドンは、次郎長親分にどんなぁ、急用が在るッてんだぃ?!」
三蔵「何んかぁ、詳しい噺は知りませんが、神社へ奉納に使う銭と、相撲の興行に使う銭を、子分さん達が使い込んで、
祭の前に返せば分からないと、タカを括っていたら、其れがドジな小僧が口を滑らして、次郎長親分に知れてしまって、
神社に渡す神聖な金子を、勝手に博打に使うとは、何んて不心得な料簡だぁ!!ってんで、次郎長親分が全員叩き斬る!と、言い出した。
其れで、使い込みがバレた十七人が、うちの親分に謝りの口利きを頼みに来たって訳なんですよ。」
長吉「そいつは、大変な役目だなぁ〜。」
そんな噺を三蔵としていると、すっかり旅支度の整った、吉良ノ仁吉が現れます。
仁吉「宜く来た兄弟!久しぶりだなぁ〜。」
長吉「済まないなぁ、突然、旅のついでに寄ったりして。。。清水へ行くんだって?慶之助と三蔵から事情は聞いたぜぇ。」
仁吉「困ったもんだぁ。恐ろしく真っ直ぐな親分だから、本当に十七人の首を跳ねてしまう勢いでカンカンに怒っているらしい。
俺を頼って来て呉れたからには、詫び言をいって頭を下げ、赦しを乞うつもりだが、
『仁吉!貴様のような青二才が出しゃ張るなぁ!』と、
二、三発殴られる事は、覚悟の上だが、あの次郎長親分の拳骨は、気を失うくらい利くらしいから。。。往生するぜぇ。
そんな用向きだから、一日や二日遅れても、誰にも文句は言われる心配はない。兄弟!ゆっくりして行きなぁ。」
長吉「折角、清水へ出掛ける所を俺が足止めしたんじゃぁ、忝い。
兄弟!草鞋を履きねぇ〜、俺も街道筋へ出る所なんだ、一緒に途中まで歩いて、道中、俺の愚痴を聴いて呉れ。」
仁吉「仇が来たって、口を濡らす事無く帰すのは、渡世の仁義に反すと言うぜぇ。
其れが兄弟分が来て、草鞋を脱がずに帰す何んて出来るもんなかぁ!早く上がりねぇ〜兄弟。」
玄関が騒がしいってんで、仁吉の内儀(にょうぼう)のお禧久が顔を出して参ります。
禧久「之は!神戸の貸元。早く上がって下さい。お待ちしておりました。」
仁吉「ホラ、お禧久もお前さんと、お前のお母さんの噺ばっかりして居るんだ!早く上がって呉れ。」
長吉「判った!判った。上がらせて貰うよぉ。」
奥の客間に通された長吉、直ぐにお禧久が茶を入れて持って来た。
お禧久「本当に、婚礼の際には、色んな作法や挨拶のやり方を、貴方のお母さんに手取り足取り口移しで教えて頂き、
恥をかかずに済んで、大変、感謝しています。正に、四歳の時に死に別れた母が、蘇って指南下さった様で。
御礼の言葉も御座いません。お母上は、達者になさっておりますか?」
と、お禧久は深く頭を下げて、礼を申します。しかし、これには長吉、些か複雑な気持ちで言葉を返します。
長吉「有難う存じます。母は元気にいたしております。ささぁ、頭を上げて下さい。コッチが恐縮しますから。」
と、口では申しますが、内心では。。。
『エぇい、この女郎の兄貴のせいで、今の俺はこう言う苦しみん中に居る。
可愛い子分の加納屋利三郎を死なせてしまった!!
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。この妹の首を絞めてしまいたいが、仁吉の前だ!我慢、我慢。。。』
そんな思いが顔色に出るからか?苦い顔の長吉である。
仁吉「長吉ドン、お前さん、腹に大きな心配事が在りなさるなぁ。
その顔色は、生き死に係る心配事だと直ぐに判るぜぇ。腹に抱えてないで、俺に話してみねぇ〜。」
長吉「ウぅ〜ん」
仁吉「どうだい、俺の推量通りだろう?命の掛かった大きな悩みと、その顔に書いてあるぜぇ!」
そう言うと、鼻先同士が当たる位に顔を近付けて、長吉を睨むように見る、仁吉でした。
仁吉「長吉ドン、その合羽や笠、それに脇差は奥に仕舞って於きねぇ〜。
何も、博打に興じて、酒を呑んだり、女を買うばっかりが、兄弟分じゃねぇ〜んだぜぇ。
困った時に助け合う。悩み事や相談事を互いに分かち合うのも、兄弟分だぁ。
その腹に貯めている『膿』を遠慮しねぇ〜でぇ、吐き出しちまいなぁ?!」
長吉「有難う!兄弟。其れじゃぁ〜、遠慮なく喋らせて貰おう。」
と、長吉が言いますが、奥の客間には、お禧久も三蔵も、そして、慶之助も跡からやって来ています。
仁吉「喋る前に、兄弟!口を茶で潤すと宜いぜぇ。酒は後廻しだぁ。先に、腹ん中を空っぽにして呉れ。」
長吉「判った。腹を割って先ずは、噺をしょう。でも、一つだけ、一つだけ我儘を言わせて呉れ。」
仁吉「何んだ!兄弟?」
長吉「お禧久さん、お前さんだけ、済まないが次の間へ下がって居て呉れ。塩梅が悪いんだぁ。」
仁吉「お禧久、漢同士の命の遣り取りに係る噺だぁ、次の間へ下がって居て呉れ!」
お禧久「何故です?アタイは、この家に嫁いでまだ、三ヶ月ですが、吉良ノ仁吉の内儀(にょうぼう)です。
子分達の姐さん、母親代わりのつもりです。そんなアタイが、何故、『村八分/ハブンチョ』にされなきゃいけないんです。」
仁吉「之は漢と漢の噺合い、女のお前には、長吉ドンが聴かせてたくない。いや!聴かせられない!と、仰っている。
其れに女のお前が、仁吉の内儀で御座いますから、私にも聴く資格が御座います!聴く権利が御座います!と言って、
しゃしゃり出るのは、此の俺も、関心しない。此処はグッと堪えて、次の間で、噺が終わるまで大人しく待って居て呉れ。」
お禧久「判りました。漢の貴方がそうまで仰るのなら、内儀(にょうぼう)の私は、次の間に下がって居ます。」
仁吉「判って呉れて有難うよぉ。噺が済んで、お前を呼ぶ時には、柏手を鳴らす。だから次の間に居て呉れ。
ただし、唐紙はあえて閉めるなぁ。立ち聴きされるといけねぇ〜からなぁ、お前さんも、聴こえない位置に下がって居て呉れ。」
お禧久「判りました。旦那様。」
LGBTに煩い昨今、田島陽子女史のようなフェミニストがお禧久だったなら、まぁ、激しく抵抗されて、次の間へ何んて下がらないに違いないが、
吉良ノ仁吉の内儀、お禧久は幕末を生きた、貞女淑女の鏡ですから、大人しく次の間へと下がります。
そして、この様子を見ていた慶之助と三蔵が、こそこそ噺をして、仁吉に申します。
三蔵「姐さんをお人払いになるくらいの大切な噺ですから、アッシと慶之助も、次の間へ下がらせて頂きます。」
慶之助「どうかぁ、兄弟分同士、サシで心行く迄、語り合って下さい。」
仁吉「長吉ドン、この二人も人払するのかい?!」
長吉「いいやぁ、一層、二人には聴いて居て欲しい。二人を漢と見込んで、是非、俺の噺を訊いてもらいてぇ〜。」
仁吉「責任重大だぞ、三蔵、慶之助!、漢と見込まれちまったぞ?!
汝達(てめぇら)一人前の渡世人だと、長吉親分のお見立てだぁ!
漢ならッて噺に成るから、耳の垢、カッ穿って聴いていろよぉ!」
三蔵、慶之助「判りました。ささぁ、神戸の貸元!胸筋を開いて下さい、じっくり聴かせて頂きヤス。」
こうして、部屋の中央で胡座をかいた神戸ノ長吉が、三人に対して安濃徳との是迄の経緯を、丁寧に一伍一什(一部始終)を語ります。
最初(ハナ)は、腕組みをして長吉の顔を観ながら聴いていた仁吉が、
段々と頭を下へさげる様になり、泪を目一杯に貯めて悔しさに声を振るわせる長吉の顔が見ては居られなく成ります。
其れでも、長吉は、振り絞る様に声を出しながら、鹽濱ノ吉五郎から聴いた噺も含め、スッカリ聴かせるのだった。
驚いた仁吉は、一拍於いて、握り拳を掴んだまんま、大きく息を吐いて、長吉に問い掛けたぁ。
仁吉「それじゃぁ〜、何かい?お前さん、荒神山を取られたのかい? あぁ〜、荒神山を取られちまったのかい?!」
長吉「面目無ぇ〜、そう言う訳だから、このまんまじゃぁ、俺の漢が立たねぇ。
何んとか、加納屋利三郎の仇を!そうは思っちゃ居るんだが、伊勢の國中の親分衆は安濃徳の味方か、宜くても中立だぁ。
それに俺の身内、かつての食客達は、命を掛けて味方に成って呉れる面々は数少ない。
だから、頼める相手は、仁吉ドン!お前さん位だと、伊勢から上府へ出て、
上府からは船に乗って三州に入り、吉良のお前さんの家にやっては来たが、
俺は間抜けだぁ、お前さんの内儀(にょうぼう)が安濃徳の妹だったッて事をスッカリ忘れてて、
お前の家の前に立って思い出すんだから情け無ぇ〜。其処でだぁ、義兄の安濃徳に弓を引く訳には行くまいから、
せめて、敵同士には成りたくなちんで、もし、伊勢桑名から加勢にと、声を掛けて来ても、知らぬふりをして呉れめぇ〜かぁ。
お前が安濃徳に加わると、俺の鋒が鈍る。だから頼む兄弟!中立の立場でお願いしたい!」
長吉は、恥も外聞も捨てて涙ながらに仁吉に懇願するのだった。
仁吉「フム、そうかい兄弟。よもや、その言葉に間違いは無かろうなぁ?!」
長吉「間違い?!俺が嘘、芝居を打っているとでも言うのかい?!」
仁吉「そうじゃねぇ〜、念には念をなぁ〜。押したくなったダケさぁ。」
長吉「間違いなんて、無ぇ〜よぉ。歯に絹着せて、兄弟!お前に煮湯を飲ませたりはしねぇ〜よぉ。」
仁吉「判った。もう何も言わなくて宜い。まぁ、ゆっくり羽を伸ばして行きなぁ。
アァ〜其れから、お禧久!お禧久!ちょいと、来て呉れ!お前に、今度は噺が在る。」
パンパンと、仁吉が柏手を打つと、待ってました!とばかりに、お禧久が次の間から飛んで参ります。
お禧久「お前さん、噺は済んだのかい?!」
仁吉「あぁ。ただ、お前は立ち働く必要は無ぇ〜。動かなくて宜いから、サッ!此処へ、一寸此処に座って呉れ。」
お禧久「ハイ。 厭だよぉ〜 どうしたんだい、気味が悪い。」
仁吉「三蔵!」
三蔵「ヘイ、親分!何かぁ?御用でぇ?」
仁吉「オイ、隣の部屋の床の間にある硯箱を、一寸と!持って来て呉れ。」
三蔵、『ハテ?硯箱何んて。。。?』と不思議そうに感じつつ、持って参ります。
仁吉「何を、首何んかぁ傾げてやがる?三蔵、早く渡せぇ!」
三蔵「ヘイ。」
と、三蔵、親分は硯箱何んて、どうするんだろう?、そう思いながら、答えが分からぬまま、硯箱を仁吉に渡します。
仁吉「慶之助!」
慶之助「ヘイ!」
仁吉「お前の背中に在る箪笥。其の上から二段目、オウ!其の左側の戸棚だぁ。
開けて見ろ!半紙が入って居るだろう?そん中から皺の無い奴を一枚、出して呉れ。」
慶之助「ハテなぁ?!」
仁吉「お前は京都の茶金さんかぁ?! お前といい三蔵といい、首を傾げてばかり居やがって。。。
困ったモンだぁ、変な仕草が流行ってやがる、早くコッチに持って来い!」
慶之助「親分、之で宜しいでしょうか?」
仁吉「あぁ、之で宜い。 さて、長吉ドン。今夜は酒を呑みながら、ゆっくりと話し合う事にしようぜぇ!」
そう言うと仁吉は、硯を取り出して、飲み残したお茶を其処に注いで、墨を擦り始めます。
ご存知の通り、茶で墨を擦るのは『不祝儀』と決まっております。
この渡世では、出入り、喧嘩の跡で『忌中』と書く貼り紙くらいしか、半紙を出して茶で墨を擦る事何て有りません。
だから、硯箱と半紙を渡した二人の子分が血相変えて、仁吉へご注進です。
慶之助「親分!馬鹿な真似は止めて下さい。縁起でもない。何んか悪い事が起こります。
三蔵!貴様が悪い。硯と言えば水を入れて来るのが常識だぁ。
しかも、お前が墨を擦らないから、怒った親分が不祝儀に擬えて、茶なんぞで墨を擦る事になるんだ!お前が悪い、三蔵。」
三蔵「お前は、『抜け雀』の絵師気取りかぁ?! 親分、止めて下さい。水を入れて来なかったアッシが悪いんなら謝ります。
葬式の會葬人の名前を書くみたいな真似は、縁起でもない!辞めて下さい。」
そう言って、二人は仁吉の袖に縋って、お茶で墨を擦るのを止めさせようと致します。
仁吉「離せ!汝達(てめぇ〜たち)あっちに行って居ろ。汝達は俺の子分だろう!
俺が烏は白だと言ったら、黙って白だと従うモンだぁ。脇から判った風な事を言うなぁ!馬鹿野郎。」
三蔵「へぇ、判りました。好きにして下さい。」
不服そうにはしている二人ですが、墨を擦り終えて半紙に何やら書き始める仁吉を覗き込もうと致します。
仁吉「人が手紙を書いたり、読んだりしている時は、傍から覗きに来るもんじゃねぇ〜!アッチに行け!ッたく。」
三蔵・慶之助「ヘイ。。。」
仁吉「アッチを向け!」
書き終えた仁吉は、その半紙に印形を押して、膝の上に、伏せて置きます。
仁吉「さて、お禧久!近くに来なさい。」
お禧久「ハイ」
仁吉「もっと前だぁ、膝が当たるくらい前に来て呉れ。」
お禧久「之でどうだい?」
仁吉「あぁ、宜い。俺とお前は絹糸より細い赤い糸で結ばれて居た。
だから、この薄い半紙一枚で、切れちまう儚い縁だった。」
三蔵「アラまぁ〜?!」
仁吉「別れようとは、夢にも思わなかったが、お前を女房にして於くと、俺の漢が立たないんだぁ。
俺達は縁が無かった、結ばれていた糸が細かったんだと諦めて、此の離縁状を持って伊勢桑名に帰って呉れ。
もう、女房じゃないんだ。三月前にお前が持って来た箪笥、長持など嫁入道具は勿論、
うちに来て造った日傘から駒下駄まで、お前が使っている物は、全部持って出て行け。
今、弥右衛門船を頼んで、年寄も三人お伴に付けてやるから、さぁ!行きねぇ、もう女房じゃねぇ、直ぐに支度して、去りねぇ〜!」
お禧久「何を漢同士で話されたのかは知りませんが、突然、藪から棒に『離縁だ!』と、
こんな穢らわしい離縁状を渡されて、実家に帰れと言われても、ハイそうですかぁ!とは従えません。
アタイは、犬猫じゃぁ〜ありません。飽きたんですか?悪い所が有るんなら、言って下さい直します。
また、私の兄や姉に気に入らない事が有り、其れが仁吉さん!貴方の勘に触るのなら、私が代わりに謝ります。」
と、三つ指着いて、畳を涙で濡らす、お禧久。
仁吉「ヤイ、お禧久!離縁状が穢らわしかろうが、無かろうがぁ、関係ねぇ〜。
俺がお前は離縁だと、三行半を書いたんだ!黙って、其れを持って伊勢桑名へ帰って呉れ。」
お禧久「仁吉さん!私は貴方に去れと言われるような、嫌われる所以に、心当たりが有りません!」
仁吉「うるせぇ〜、女が口ごたえするんじゃねぇ〜、早く行きやがれ!!」
と、仁吉はお禧久の頬を叩き、足蹴にしようと致します。
長吉「止めろ!兄弟。俺が馬鹿だった。いやぁ、俺が甘かった。
俺が二人に災難を持ち込んどきながら、自ら言うのは、愚の骨頂だとは百も承知だぁ。
だけど聴いて呉れ。俺はもう命は要らない。恥を晒すのも我慢する!
だから仁吉ドン、お前さんが恋内儀(にょうぼう)のお禧久さんと離別してでも、俺に味方する必要は無ぇ〜!
味方すると、そう言って呉れた、その漢気と、志丈(こころざしだけ)で俺は充分だぁ。
だから、二人は此のまま、鴛鴦みたいな夫婦で居て呉れ。頼む!兄弟。
俺は、このまんま三州吉良を跡にする。もう、忘れて呉れ、兄弟。」
今度は、神戸ノ長吉が土下座をし、畳を手前の泪で濡らして謝ります。
仁吉「喧しい!馬鹿言っちゃいけねぇ〜。お前さんは、なぜ、わざわざ船に乗って来た。
漢が漢に、義理を頼みに来たはずだ。そして、俺はもう、其の理由(ワケ)を聴いちまったんだぁ。
賽は投げられたんだぁ!!ルビコンを渡っちまったんだよぉ〜
一度、三行半を突き付けた女房と、撚りが戻せる訳がねぇ〜、俺はそんなぁ料簡の漢じゃねぇ〜。
それから、もうここまで来たから、之も言うがぁ、ヤイお禧久!なぜ、離縁されたかの答は、
お前の兄貴の安濃徳、安濃徳次郎に聴いてみろ!野郎が、一番宜く知ってやがる。
そして、俺からだ、吉良ノ仁吉からだと伝えて呉れ。
人の弱みに付け込んで、火事場泥棒みたいな真似をする野郎の妹を、女房に持って居ると世間に知れたら、吉良ノ仁吉の漢が廃る!!
俺は、お前の兄貴がそんな鬼畜とは知らずに、三ヶ月もお前を飼っていたが、知ってしまったからには、此の家に置いておく事は出来ないんだぁ!
サッ、早く荷物を纏めて出て行け!三蔵、慶之助、お前達までピィーピィー泣いてないで、此の女(アマ)を叩き出せぇ!
船と年寄は頼んでやるから、早く!早く!俺の視界から消えてしまえ!コン畜生。
慶之助「姐さん、もう親分が言い出したら、止められねぇ〜。
其れに、之だけは言えますが、親分はお前さんが嫌いになった訳じゃねぇ〜」
三蔵「恨むんなら、神戸の貸元や親分ではなく、兄さん、安濃徳にして下さい。ささぁ、支度をしましょう、次の間へ。」
そう言って、泣き崩れて動こうとしないお禧久の脇を抱えて、三蔵と慶之助が次の間へと連れて行き、桑名の実家へ帰る支度を始めます。
二人の子分が支度するガサツな物音に、啜り泣くお禧久の嗚咽が混じり、仁吉と長吉の耳に、何時迄もいつまでも、届き続けるのでした。
つづく