二月は、二回目の墨亭です。正月三日以来の田辺いちかさんの会に来ました。
朝11時からの講談会って、日本橋亭で開催されていた朝練講談会に比べたら、ゆっくりですが、なかなか痺れる時間に始まる会です。
さて、そんな墨亭での「田辺いちかの会」、こんな内容です。
1.太閤記『曾呂利と秀吉』〜 柿のご意見 〜
ご本人は、三年ぶりくらいに掛けると言っておられました。私は、2016年4月に『朝練講談会』の二扇会、月亭天使さんといちかさんの会で聴いて、
2018年8月の国立演芸場での三扇会『一龍斎貞寿真打昇進祝い』の開口一番で、二回目を聴いていて、其れ以来の『曾呂利と秀吉』でした。
曾呂利新左衛門
頓知噸才に優れユーモアに飛んだ、落語の開祖とも言われている秀吉のお気に入りの小姓であり、学者・知恵者として太閤に抱えられていた人物です。
この変わった『曾呂利/そろり』と言う名前は、刀の鞘を作るのが得意で、新左衛門に鞘を頼むと、ピッタリフィットする、
つまり、そろりと収まる鞘を作ると言うので、杉本が元々の苗字でありながら、杉本新左衛門とは呼ばれず、曾呂利新左衛門と呼ばれる様になります。
その曾呂利新左衛門の頓知噸才のエピソードを、三つ集めた講談が、この『曾呂利と秀吉』です。
まず、一つ目のエピソードは。或る日、太閤秀吉に呼ばれた新左衛門、「そちの禄高を、今日から三百石にしてやる!」と、言われる。
さぞ、曾呂利の奴喜ぶだろうと、秀吉は思ったが、曾呂利新左衛門は、首を傾げて、三百石は要らない代わりに、欲しい物があると言い出します。
そして、太閤秀吉が、「何が望みだ?何んでも望みのまま、叶えて進ぜよう!」と言うと、ニヤっと笑って、「ならば、殿下の耳の臭いを嗅がせて頂きたい!」と申し出ます。
此処で、特にいちかさんは、振りませんでしたが、曾呂利は、ただし三百石の代わりなので、拙者が嗅ぎたい時に、お構い無しで殿下の耳の臭いが嗅ぎたい!と、言う。
変わった条件を付けるとは思いますが、「宜かろう!」と、之の曾呂利の申し出を太閤秀吉は受け入れるのです。
そして。。。
数日後、大坂城へ、仙台藩主伊達陸奥守政宗が登城して、太閤殿下のご機嫌伺いに現れます。大坂城天守閣、三十畳はあろう広い接見の間に通された伊達政宗!
一段高い太閤秀吉からは、かなり離れた下座にひれ伏して控えて居ると、突然、次の間の襖戸を開けて、曾呂利新左衛門が入って来たかと思うと、秀吉にだけ聞こえる小さな声で、
曾呂利「殿下!耳の臭い、嗅ぎとう存じます。」と言う。
秀吉「今であるかぁ?! 今はまずいであろう?政宗が来ておる。跡にして呉れ。」
曾呂利「いいえ、今でしょう。政宗だろうと、剣菱だろうと、たとえ八海山でも、三百石の代わりです。今でしょう!」
と、強引に学者らしく塾講師の口調で、『今でしょう!』と押し切ります。(因みに、剣菱と八海山は、いちかさんオリジナルのボケです。)
秀吉「分かった!分かった。嗅がせてやる。」
と、許しが出たので、早速、曾呂利新左衛門、太閤の耳の臭いを嗅ぎます。
是を見た伊達政宗、二軒半/4.5メートルくらい離れておりますから、耳の臭いを嗅ぐ曾呂利が、太閤殿下に何やら耳打ちしているように写ります。
疑心暗鬼
是は、新左衛門の奴、下心を察して大枚の付け届けしないと、いつでも太閤様にお前の悪行を告げ口できるぞ!と、脅されているモノと勝手に勘違いを致します。
翌日、伊達家から米百俵と黄金が台八俥に山積みにされて、曾呂利新左衛門屋敷へと届けられて、三百石どころの儲けでは御座いません。
翌日は、加賀百万石の前田家が、更に、翌々日には会津若松の四十二万石蒲生氏郷が、更には五日後にも、黒田五十二万石の官兵衛が現れまして、
皆一様に、曾呂利新左衛門の耳の臭い嗅ぎを勘違いして、新左衛門へと貢物を贈ります。しかし、此の曾呂利新左衛門と言う人は、
決して、此の金銀財宝の貢物を、私するのではなく、世の恵まれない人々の為に奉仕したと申します。
次のエピソードは、ある時、日本中が大飢饉に見舞われて、西国のあらゆる國で領民が餓死して、町は地獄絵図の如くと成りました。
そんな折、曾呂利新左衛門が、太閤秀吉に願い出ます。袋一杯の米が欲しい!恵んで下さい、太閤殿下と。
この申し出に秀吉、可愛い曾呂利が米にも不自由するぐらい困窮しているとは!と、心をお痛めに成り、「分かった!分かった!袋一杯の米、許す。」と仰います。
するとその翌日。大坂城の勘定方、米奉行が血相を変えて、秀吉の元に訪れます。
米奉行「殿下!大変です。あの曾呂利の奴が。。。」
秀吉「どうした?今度は、何をした?!」
米奉行「其れが、殿下の許しは得たと申して、袋一杯の米を貰い受けると言って、蔵に参りまして。。。」
秀吉「確かに、曾呂利に許した。袋一杯の米の件。予が許したが、そんなに慌てる事であるか?」
米奉行「それが、袋の大きさが、あまりに大きゆう御座いまして。。。蔵、七戸前の大きさ御座いまして、一万石相当持って行かれました。」
秀吉「誠かぁ?!アッパレな奴。」
と、あまりの規格外な曾呂利新左衛門のスケールのデカさに、太閤秀吉は、笑うしかなかったそうです。
そして、勿論、大坂城の備蓄米は、飢餓に苦しむ人々へ、曾呂利新左衛門から振る舞われたのです。
そして、最後のエピソードが、この噺のサブタイトルでもある。『柿のご意見』です。もう、太閤秀吉晩年のお噺。
秀吉も、老いると暴君と化して、甥の秀次、千利休なと、側近中の側近を、切腹!させて理不尽に粛清して行きます。
そんな秀吉が、晩年、権力を誇示し贅を尽くして建てたのが聚楽第。その庭に植えられた、柿の木に、柿の実がみのり始めます。
すると、太閤秀吉は、『この柿の実を落としたる者、故意、過失を問わず、打首に処す!』と、柿の木の脇に立札を建てます。
十三個なった柿を、天下人が独り占め宣言です。是に曾呂利新左衛門がお灸を据えるのです。
或る夜、この柿を、曾呂利新左衛門が食べてしまいます。ただし、『半分だけ』と秀吉に許しを請い、実は地面に落としていないと言うので、秀吉は新左衛門を許します。
ところが?!
さて、曾呂利新左衛門は、どう半分食べたでしょうか?そして、やられた秀吉は、ちょっとだけ自身の暴君ぶりを反省したと言うお噺。
2.耳なし芳一
宝井琴嶺先生から、稽古を付けて頂いた噺だそうです。御歳89歳の琴嶺先生。銀嶺はロック、琴嶺は講釈で御座います!と、広瀬和雄かぁ!?と、自身に突っ込みながら思ったりしました。
勿論、原作は小泉八雲作で、いちかさんは、ラフカデェオ・ハーンの大ファンらしく記念館に行った噺で、テンションが上がっておられました。
そうだ、全然関係ない噺で恐縮ですが、『アウンサンスーチー』を「アウンサン・スー・チー」と書くのは正しくないと聞きました。
ビルマ/ミャンマーでは、苗字が無く名前・ファーストネームだけなんで、アウンサンスーチーと、在日のミャンマー人が話してました。
あと、欧州の国々は、ミャンマーと発音が難しい様子で、ビルマと呼んでいる国がたくさん有りますね。まぁ、日本も日本とは呼んで貰えないから、ミャンマーも仕方ないのか?
さて、『耳なし芳一』。私は琴嶺先生のは、渋谷の渋谷金王町講談会(渋谷東福寺涅槃堂)で2014年10月に聞いています。
まぁ、声の出し方が独特で、女性にしては低い野太い通る声で、詩吟のような独特の節回しでの語りがとても印象的でした。
ただ、噺が『耳なし芳一』ですから、底抜けに暗くて。。。結構、苦しい思いをした記憶が御座います。怪談にしては格調が高過ぎて、恐さより暗さを強めに感じました。
あと、『耳なし芳一』と言うと、一龍斎貞鏡さんでも聴いていて、三回聴いておりますが、琴嶺先生のとは、真逆な感じで、恐さをおどろおどろしく行く講談で、この方が一般受けはすると感じました。
そんな二つの『耳なし芳一』しか知らない私ですが、いちかさんのは、どちらかと言うと貞鏡タッチで、芳一の『平家物語』の語りに、琴嶺先生の詩吟調のテーストを入れて来るやり方でした。
まだ、ネタ卸しで十分練れてはないと思いますが、流石、伝承の会二十日前を切っているだけあり、完成度の高いネタ卸しでした。
更に練れて、琴嶺先生調に磨きが掛かり、全体として、いちかさんらしいキレと言うのが加わると、得意ネタ、代表作になる『耳なし芳一』だと思います。
夏に、必ず怪談噺として披露できる作品に、仕上げて欲しいですね。楽しみにしています。安徳天皇の墓の描写と、
幽霊武者、特に芳一が耳を取られる場面は、もっともっと怪談ぽくやれると、よくなると思います。
そうだ!最後に一つ。小泉八雲の原作から、芳一が盲人だと言う振りは、要らないとは思いますが、
『耳なし芳一』がお初な人には、芳一が盲人・めくらだと言う振りは、はっきりやった方がいいと思いました。
また、此の夏に練れたいちかさんの『耳なし芳一』が、聞きたいです。