伏見に着いた石松、直ぐに行った先は、伏見稲荷の東側にある。今は、トンネルが御座いますから直ぐですが、
この幕末の頃は、深草鞍ケ谷から西野山の麓を迂回して、山科へと向かいますと、其処には、あの忠義の漢!大石内蔵助良雄が祀られた神社が御座います。
この大石神社には、名代の垂れ桜が御座いまして、提灯櫓の前に見事に垂れた桜が誠に見事で、その前に白馬が一頭繋がれていて、如何にも赤穂浪士の総大将が祀られるにふさわしい光景で御座います。
ここ山科から、東福寺へと出て賀茂川沿いを五条まで上がり、弁慶と牛若丸が出会う大橋の近くにある『だるま亭』と言う旅籠に泊まります。
翌日は、清水寺へと向かい音羽の滝で、茶なんぞ頂いて、その茶碗をお天道様に『はてな?』と翳して戯けて見せる石松でした。
更に賀茂川沿いに上がりますと、四条通りに当たりまして、祇園、八坂神社へと出て参ります。都踊りの置屋街を抜けて、円山公園、更に少し上がりますと知恩院が御座います。
又、川端へと戻りまして三条、丸太町と上りますと南禅寺が御座います。更に此処からやや東北へと進むと、足利義政公が建てた慈照寺、銀閣が見えて参ります。
二日目は、この銀閣寺に近い吉田は百万遍に御座います。『青龍庵』と言う旅籠に泊まります。
此処よりも丸太町、三条が本来は京の旅籠街なのですが、初日に泊まった『だるま亭』に差し宿されての紹介が『青龍庵』で御座いました。
さて翌三日目は、朝からあいにくの雨。賀茂川がY字に分かれる分岐点になります。出町柳から東に折れて、元田中から白河通りを上に進むと北大路と交差して、更に白河を上りますと、其処は一乗寺で御座います。
此処は、かの宮本武蔵が吉岡一門を相手に決闘した場所、『一乗寺下り松』が御座います。更に、上へと進むと修学院、そして小高い丘が御座いまして、その頂には宝ヶ池が御座います。
この宝ヶ池、戦後間もなくに競輪場が出来まして、あの松本勝明が黒いパンツを履いて活躍した主戦場で御座いました。
この夜は、宝ヶ池の外れにある『堤屋』と言う旅籠に泊まり、翌朝は早く起きて、七ツ立ちで西へ。琵琶湖北西部、近江の唐崎(辛崎)を目指します。ここ辛崎は万葉集にも詠われた古より由緒ある町で、
「さざなみの志賀の辛崎幸あれど大宮人の船待ちかねつ」
『蜻蛉日記』では、都人がこの地に詣でて、『祓』の儀式をする様子が詳しく書かれていたり、又『枕草子』では「崎は辛崎、三保ヶ崎」と○○崎の代表とまで書いております。
更に、奈良・平安の頃は、日吉大社へ向かう神輿が集合する神輿旅所になっていたのが、此処、辛崎だったんだそうです。
その後、近江八景の一つに『唐崎の松』は数えられていますし、その松は、松尾芭蕉の『野ざらし紀行』の中に「唐崎の松は花より朧にて」の句として残されています。
そんな唐崎の松ん中を通り琵琶湖の湖畔を南へと下り石松は近江國、最大の都市、大津に到着します。
此処、大津では『元祖・近江屋』と言う旅籠に泊まり、明日は、いよいよ草津の見受山に行って、鎌太郎と言う親分に会うぞ!と、意気込んでおります。
そんな森ノ石松は、この日も朝まだ暗い七ツに大津を立って、琵琶湖湖畔を左手に見て西へ、石山寺を越えて、いよいよ草津へと入って参ります。
更に、現在は競馬の競走馬を調教するトレーニングセンターが御座います『栗東』の手前に御座います、見受山へと参りますと、
その見受山では、一際目立つ、大きくて立派な松が三本!庭に植えられた屋敷が御座いまして、其れが教えられた『見受山鎌太郎』と言う貸元の住まいで御座います。
石松「えらく立派な屋敷だ。三十四、五の親分が住む家にしては、立派過ぎるぜぇ。さて、どんな野郎が、出て来るか?楽しみだ。 おーい!御免なすって、御免なすって!!」
取次「へぇ、何方さんですか?」
石松「お控えなすって!」
取次「…」
石松「お控えなすッて、お控えなすッて。其れでは挨拶に成りません、まずは、アンさんからお控えなすッて!」
取次「済みません。お控えなすって!お控えなすって!」
と、互いに、仁義を切る態勢が整い、石松が見受山鎌太郎一家の若衆に向かって仁義を切る。
早速のお控え有難う御座んす。
釈迦も経の読み違い、河童の川流れ、猿も木から落ちるなどの喩え通り、
この仁義申し上げますこと、言語、所作、万一間違え有りますれば、さて真っ平知らざぁに御座んす。
さて手前、生国と発します所遠州に御座んす。
遠州、遠州と申しましても、些か広う御座んす。
その遠州は森村、徳川家(とくせんけ)のお膝元より推参仕る、清水一家従います、手前親分、親方、山本長五郎、通称・清水次郎長に従いまする若いモンで、通称、森ノ石松と発します。
未だ世間知らずの若輩者、以後面体お見知り於き頂き、恐惶万端!宜しう引き回しの上、宜しうお頼申します。
取次「アッシは、鎌太郎の身内の若い者で、初五郎と申します。清水湊の貸元のお身内で『森ノ石松』さん。
お噂は兼ね兼ね耳に致しておりやす。あいにく、親分が今、町役の皆さんと寄合に出ております。しかし、時期に戻ります。二階にお部屋を用意しますんで、暫くお待ち下さい。
先ずは、足の濯ぎを用意しますから、草鞋を脱いで楽にして下さい。おーい!お客人だ、濯ぎを用意しろ!」
と、初五郎が号令を掛けると、駆け出しの小僧が出て来て、石松の足を洗う。「此方は次郎長一家の森ノ石松さんだ!」と初五郎が言うと、
足を洗っている若衆の目が、明らかにキラキラして、尊敬の眼差しを石松に向けている。そして、荷物、笠と合羽を持って二階へと案内される。是は実にどうも!悪い気は致しません。
暫く案内された二階の部屋で、煙草を一服付けて、待っていると、「退屈でしょう、石松さん」と、
初五郎、待つ間に碁か将棋でもと、石松に水を向けますが、石松は囲碁も将棋もやりませんから、お構いなくと返すと、
ならばと、酒と肴を乗せた膳部が「清水湊のような海の幸は御座いませんが。。。」と言って出て来ます。
石松「之は何ですか?」
初五郎「鱧です。」
石松「鱧?なかなか淡白だが酒に合います!」
初五郎「気に入って頂けて光栄です。」
と、石松の金比羅代参の旅の噺を、上手く初五郎が聴きながら、一刻ほど相手をしておりますと、親分の鎌太郎が帰って参ります。
初五郎「親分!清水湊の貸元、次郎長親分のお身内で、遠州森ノ石松さんが草鞋を脱いで下さっております。」
鎌太郎「其れはどうも!石松さんよく来て下さった。今、帰って直ぐに子分から聴きました、ご丁寧に仁義を切って下さったとか。」
石松「いえ、未熟者ですが、親分次郎長から仁義の一つも切れねぇ〜ようじゃぁ、侠客とは言えねぇ〜と、日頃から口酸っぱく言われておりまして、少し真似事ぐらいは出来る様になりやした、お恥ずかしい。」
鎌太郎「何の!ウチも若衆には、礼儀作法は厳しく躾けておりますが、正式な仁義の切り方を教える手本が御座いません。
石松さん!是非、ウチの若衆にも、次郎長一家の型で仁義の切り方を教えてやって下さい。宜しく頼み申します。」
石松「お易い御用だ。止めて呉れ!親分、俺みたいな三下に頭を下げるのは、勘弁して呉れ、恥ずかしいぜぇ。」
鎌太郎「いいえ、此方が貴方にお頼み事をしているんだから、頭を下げて当然です。さて、石松さん、今日はどちらから、わざわざ草津に来られたんです?」
石松「いえね、この度は、親分次郎長の代参で、金比羅さんに願解きの御礼詣りに行ったんです、親分の代わりにアッシが。
その帰り道。京・大坂見物の折、たまたま乗った三十石舟に、江戸の宮大工の棟梁が居て、此の野郎が無職渡世に詳しくて!詳しくて!
丸で講釈師みてぇ〜に、パーパー!パーパー!舟ん中で能書きを垂れ捲っていて、そん中で野郎が五年経ったら、次郎長親分と肩を並べる凄い奴が居る!!
って言うんです。ハイ、其れが誰あろう、お前さんだ。見受山鎌太郎。五年すると東海道で東の次郎長、西の鎌太郎って言われると聞いたんだ。
之は放っては於けねぇ〜!この目で見てやろう!と、思った訳。俺は片目だけどね。だから、態々、米原通って岐阜には抜けず、草津へ寄らせて貰いました。」
鎌太郎「其れは嬉しい噺だ!と、言いたいが、石松さん!人の噂何んてモンは恐ろしい。買い被り過ぎですよ。
しかし、それにしても石松さん。貴方と言う人は正直なお人だ。腹ん中を全部見せて呉れる。
でもねぇ、五年後に私が今の次郎長親分のようになっているか?は、かなり懐疑的ですが、間違いなく次郎長親分は、五年経つと、
大前田英五郎、丹波屋善兵衛、信夫ノ常吉と肩を並べる大親分になっている。即ち、喩えアッシが今の次郎長親分に成ったとしても、次郎長親分は、更に遙か先の範疇の親分に進化しています。」
石松「お前さん!あの舟に乗っていなすったのかい?その宮大工の棟梁も言っていたぜ、大前田、丹波屋、信夫と、親分次郎長が肩を並べると!嬉しいねぇ〜、鎌太郎親分!ウチの親分贔屓が世間には沢山居る。」
鎌太郎「まぁ、兎に角、ゆっくりしていって下さい。半年、一年になる様なら、清水湊にアッシが手紙を書きます。
ウチの身内、兄弟分は、もう七、八人が清水湊の次郎長一家に草鞋を脱いで世話に成っていますから、石松さん!貴方は初めての鎌太郎一家の、清水からの客分だ!せいぜい大切にさせて貰いますよ。」
石松「有難う御座んす!ゴチに成ります。」
と、言って遠州森ノ石松が、草津は見受山鎌太郎一家に草鞋を脱きます。鎌太郎からのたってのお願いで、
鎌太郎一家の若衆は、石松から侠客のイロハを丁寧に丁寧に教わります。仁義を切る!喧嘩のやり方!無職渡世の漢の価値!
そして、何より鎌太郎が驚いたのは、石松が事ある毎に、堅気衆在っての渡世人(ヤクザもん)だからと言う事です。
堅気の皆さんが、幸せに暮らせるように縁の下で支えて見せる事が、一番の誇りで、だから俺たちは『義』を真っ先に大切にするんだ!
そう言う、次郎長イズムが、骨身に染みている森ノ石松と言う漢が、生きた教科書だ!と、思いますから、益々、石松を此処、草津は見受山に止めようと致しますが、
流石に、三ヶ月が過ぎて秋の訪れを感じ始めた石松は、此処!見受山を跡にして、東海道を東へ下り、清水湊を目指します。
其処で見受山鎌太郎が出した森ノ石松への条件と言うかぁ、お願いが、石松との兄弟盃。最初、鎌太郎は4:6で自分が弟分になる提案をしますが、せめて五分だ!と言う石松に押し切られて五分の兄弟と成ります。
鎌太郎「どうしても、行くのか?兄弟。まだ、あと一月ぐはい宜いだろう?また、次郎長親分へは俺が手紙を書くから。」
石松「そうもいかねぇ〜。金比羅さんに奉納した刀と金子の受け取りを、親分に見せないまんま、半年が過ぎた。流石に、此れを渡してからだ。又、又来るから見受山!」
初五郎「絶対にですよ、石松さん!若衆も皆んな貴方に惚れている。必ず、戻って来て下さいよ。」
石松「あぁ、世話になったなぁ、初五郎。又、琵琶湖の幸を喰いに必ず戻るから、そん時は頼む。」
鎌太郎「其れで、兄弟には一つ、清水湊へ帰るに際して頼みがある。」
石松「何んだい?何んでも聴くぜぇ、鎌太郎ドン。」
鎌太郎「俺は、七年前。次郎長親分が尾張でお蝶さんを亡くした時。まだ、駆け出しで、伊勢の武蔵屋周太郎からの本葬への回状を頂くような身分じゃなかった。
でも、今ではこうして七回忌のお知らせを次郎長親分から頂けて、本当に嬉しい。年末の七回忌には俺自身が出向くつもりだが、
七年遅れになるが、香典を出すから、兄弟!之を清水湊の次郎長親分に届けて呉れ!宜しく頼む。」
石松「あぁ、お易い御用だ! おいおい、切り餅がひい・ふう・みいで四つ?!百両。こいつはすげぇ〜。」
鎌太郎「そして、こいつは兄弟!お前さんへのご苦労賃と餞別だ。五十両にしたかったが、すまねぇ、三十両がやっとだ、勘弁して呉れ。」
石松「何のぉ〜、有難う!済まねぇ〜。」
初五郎「今日は、細やかな宴会も御座います。お名残り惜しい晩ですが、ゆっくり呑んで、楽しい気分になって、草津を旅立って下さい、石松さん。」
こうして、初めて逢った、ただ貫目を秤に行った見受山鎌太郎から、お蝶の香典にと預かった百両と、別に三十両の路銀を貰った石松。
この百三十両の金子が、この後起こります、都鳥三兄弟との事件で、石松の身に思わぬ不幸が訪れるのですが、その辺りは次回以降のお楽しみで御座います。
つづく