深見ノ長兵衛が、代官竹恒三郎兵衛と保下田ノ久六に寄って殺された事を、長兵衛の内儀、お瓊衣の口から知った清水次郎長は、長兵衛の仇討を決意します。

間之助「俺と子分四、五人連れて、その仇討の助っ人になる。明日にでも、長兵衛の仇を取りに亀崎に殴り込もうぜぇ!」

次郎長「待って呉れ兄弟。保下田ノ久六を一匹斬るだけなら、お前さんの手も借り無ぇ〜で、俺と石松二人で十分だが、今回の仇討は、代官の竹恒三郎兵衛も一緒に斬らねばならねぇ。

だから、此処は一つ、清水の身内も集めて、念入りに策を練らずばなるめぇ〜。だから、暫く、此処に居させて貰うぜ!兄弟。」

間之助「判った!十日でも二十日でも俺は構わねぇ〜。身内を集めて作戦が練り上がるまで、ゆっくりしていきなぁ。」

次郎長「あぁ、済まない、兄弟。」

こうして、まず次郎長は清水を任せて居る代貸の大政宛に手紙を書くのでした。街道筋を三人、海から船を使って三人の精鋭の子分、六人が此処、三州寺津を目指して集まります。

さて、集まりました面々は、先ずは代貸の槍術に長けた大政、そして居合の達人小政。仇討なら甥の枡川屋仙右衛門、大瀬ノ半五郎、奇妙院常五郎、其れに法印大五郎の六人で御座います。

是に次郎長と、石松を加えた八人で、知多亀崎の代官所と、保下田ノ久六の屋敷を同時に襲い、代官竹恒三郎兵衛と久六の首を取ろうと言うのですから、流石の次郎長も、正面突破と言う訳には参りません。

二日ほど、八人で綿密な計略を練り上げまして、いよいよ、世話になった寺津ノ間之助の家を旅たつ前夜、次郎長、間之助にこんな事を伝えて去って行きます。

次郎長「兄弟、悪いが百両ばかり銭を借りて行きたい。」

間之助「あぁ、構わない。百両でいいのかい?」

次郎長「俺もある程度は持ち合わせが在るし、遊山旅じゃ無ぇ〜から、百両で十分だ。有難うよ。其れから、肝心な言伝をして於くが、俺に関してどんなに悪い噂が立っても信じちゃいけねぇ。笑って聴き流して呉れ。

必ず後日、この大政が手紙でお前さんには知らせる。だから、其れを読むまで、迂闊に動いちゃなんねぇ〜ぜぇ、宜しく頼む、兄弟。」

間之助「判った!次郎長、気を付けて行け。お瓊衣さんや長次坊の分も、きっちり仇を取って呉れ!頼んだぜぇ。」

次郎長「おうよ、お瓊衣さんと長次坊は、お前に任せるから、宜しく頼む。じゃぁ行って来らぁ〜」


間之助の内儀のお定が、縁起を担いで火打をカチカチ言わせて、『勝ち』を祈願して送り出した。

そして、十日ばかりが過ぎると、伊勢で盛大な『次郎長の葬儀』が行われ、之を見て来たと言う渡世人が、間之助ん所に草鞋を脱ぎます。

何んでも、その野郎が言うには、小幡の武蔵屋周太郎が喪主で、長い行列が出来て寺まで棺桶を運んで行ったそうである。

この食客が現れてから、三州では賭博打(ばくちうち)の間に、『清水次郎長が死んだ』『葬式を見た』『甲州からの刺客に斬り殺された』と、講釈師見て来た様な噂が駆け巡ります。

間之助「お定、次郎長ドンが死んだとさぁ。めでてぇ〜なぁ〜。」

お定「お前さん!馬鹿な事を言うもんじゃないよ、人が死んでめでたい事なんて、在るもんかい!」


一方、次郎長の方はと見てやれば、間之助の寺津村を出て、伊勢小幡の武蔵屋周太郎の元を訪ねて、カクカクしかじかと、次郎長自身の葬いを出して呉れろと頼みます。

そして、勿論自身の葬儀には出ませんで、小幡を密かに立った次郎長は、熱りを冷ます間、衣装(なり)を巡礼に変えて、先ずは伊勢詣を致しまして、

伊勢神宮から一旦、拓殖へ出てそこから西へ四十二里、着いた所は忍者の故郷!ニンニンと手裏剣飛ばして伊賀上野。

この御領主は、藤堂様。しかも今は伊賀上野だけでなく伊勢・津藩三十二万石の大大名で御座います。

城下の銀杏と柳の並木を抜けて、ダラダラ続く坂を上がったその先は片原町。更に先には天満宮から伊賀上野城下へ入ります。

大手空堀、袋町、高砂町、扇町、紺屋町、呉服町、刀町、京町などと言って、実にどうも、素晴らしき城下町に御座います。

この城下町から南へ二里と十丁。此処が大和の茶所として有名で、鶯が日本で初めて『ホーホケキョ』と鳴いたと自慢する月ヶ瀬で御座います。


月ヶ瀬川と言う川に、月ヶ瀬橋と言う橋が掛かっておりまして、何の捻りも御座いません。その月ヶ瀬から大和國ん中を七里。

七里進みますと正面に、阿倍仲麻呂の歌『天の原 ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも』で有名な三笠山が見えて参ります。

この三笠山の麓を通りまして、

此処を過ぎた所には、名刀名工三条の小鍛冶宗近の工房が御座います。この工房から二丁離れた五条には、宗近の生家が今も残っていると言う。

奈良の大佛様、春日神社の南園堂、此方は藤原冬嗣がの父内麻呂が建立した物で西の三十三ヶ所に数えられております。

次はお水取りで有名な東大寺二月堂、この『お水取り』は正式には修二会といい、千年以上の昔から連綿と継続されている宗教行事に御座います。

そして、猿澤ノ池、興福寺五重塔が周囲の柳と一緒に水面に映る風景はとても美しく、『猿澤池月』は南都八景のひとつとなっております。

最後に五重塔と、奈良を満喫する次郎長ご一行、この時代の長脇差が見る古都奈良の光景は、どんな風に映っていたのでしょうか?

だだ、最後に次郎長が『お蝶にも見してやりたかったぜぇ。』と、呟いたのを、背後で聴いた石松だけは、忘れまいと思うのでした。

そして、次郎長ご一行は、この日魚佐の魚佐旅館と言う真新しい旅籠に泊まりまして、朝七ツの早立ちで奈良郡山を訪れます。

(創業百五十年以上とかで、魚佐旅館はごく最近廃業されました。)


此処ではまず、法隆寺にて干柿を食べながら鐘の音に耳を傾け、五代綱吉公の生母桂昌院が修復させた本堂と、その際に桂昌院が奉納したとされる金燈篭を見て廻ります。

また、法隆寺は聖徳太子にゆかりの物が多数御座いまして、その誕生から御隠れになる迄の御木像に、次郎長はいたく感動したと申します。

此処に、峰の薬師と申しますお堂が御座います。是は遠州、相州の『峰の薬師』が移った訳では御座いません。

聖徳太子の息子、山背大兄王と言う方があり、蘇我入鹿と争いとなり、此処法隆寺にて滅びます。一方の入鹿は朝敵となりますが、朝廷内で権力は暫く続きます。

この入鹿が、乙巳の変で中大兄皇子と中臣鎌足らに討たれて亡くなった後、この峰の薬師が建てられたんだそうです。

次郎長は、この峰の薬師にも参拝して、龍田へと出ます。そして、在原業平の歌、落語『千早ふる』でも有名な龍田川を渡り、大都河原を伝わって、信貴山の毘沙門へと参ります。

この山を越えてますと、柏原、八尾と続き、玉手山の圓福寺が見えて参ります。此処を参詣した次郎長は、更に西へと進み、

西國三十三ヶ所の五番目の札所、藤井寺観音を参拝致します。更にお隣の道明寺へも参りまして道真公お手植え『常生の梅』を見て、あぁ〜天神様の有る所に梅在りを実感致します。

次郎長「大政!梅が、桜散る此の季節に、梅が一輪咲いているぜぇ。」

大政「この梅は、正月から大晦日まで、常に一輪咲いているから、『常生の梅』。至極、当然に御座います、親分!」

次郎長「東風吹かば、って気持ちになるなぁ〜」

大政「正しく、清水湊が恋しくなります。」


其処から平野の地蔵堂へ出て、河内のこぼれ江と言う所を越えて参りますと、もうその先は、大坂で御座います。

大坂へは、四天王寺の東門から入って参ります次郎長ご一行。此の四天王寺には、『四天王寺の七不思議』と言うのが在ります。


・聖霊院の猫の門

・古墳時代の長持形石棺蓋

・極楽浄土の東門

・ぽんぽん石

・龍の井戸

・五重塔の三面大黒天鬼瓦

・引導の鐘 北鐘堂


是には、諸説ありまして、他の不思議を言う方も御座いましょうが、神田伯山は、此の七不思議をご紹介致します。

尚、此の四天王寺は、唯一、お寺に鳥居の在る寺として知られて御座います。


四天王寺、西門から出てダラダラ下ると今宮戎、其処を左に曲ると一心寺が御座います。取って返して谷町筋、その先は下寺町へと出て、

落語でお馴染み高津さんのまん前に御座います、名物の黒焼屋で良い薬なども御座いましょうが、次郎長ご一行には、用は御座いませんで、高津神社の方へ。

此処、高津神社は仁徳天皇が祀られて御座います。大坂の人々には『高津さん!高津さん!』と親しまれる神社で御座います。

そして、高津さんから南へダラダラ降る、此の坂はと申しますと、此れが名代の『離縁坂』、三下り半ごさいますから、この名が付いた又の名を閻魔坂、大坂らしい判じ物の名所で、御座います。

其処から先は大坂の繁華街、道頓堀。大和橋、日本橋(ニッポンバシ)と渡りますと、今日のお宿で御座います旅籠の松屋に到着です。

大坂に、二日ばかり居て、食い道楽の次郎長ご一行。三日目に川口から船に乗って兵庫の『北風』と言う屋号の廻船問屋を訪ねます。

廻船問屋『北風』からは、徳神丸という船に乗り込みまして、長田の沖、高島山の下、須磨舞子の濱を前に見て、彼方は方圓三十六里!!


阿波の鼻先、淡路島。更にこの六里先は鳴門の渦潮が地獄の蓋を開けて待っている。その脇、スレスレの所を船を通す船頭の度胸と腕に次郎長は惚れ惚れ致します。

一方、渦潮の反対側へと見てやれば、其処には明石の人麿山、お城の天守が雲に届くような高さに御座います。

そして、島々連なる播磨灘、その島と島の間を縫うように船を操る船頭ですが、次郎長、先程、鳴門の渦を平気で擦り抜けた船頭の技量を見ておりますから、正に大船に乗っている心地で、安心し切っております。

そして、途中小豆島で積荷の上げ下ろしが有りまして、かの有名な馬術の名手曲垣平九郎を生んだ丸亀へと船は到着致します。

丸亀から金比羅までは、南に一里。先ずは、この日のお宿、山下町の旅籠『虎屋』へと参ります。さて、小さな旅籠『ねずみ屋』は前に在ったのか?!

翌朝早く、虎屋の目前の山、魚頭山(飯野山)へと登る次郎長ご一行。この山は讃岐富士として有名な実に美しい形の山で、清水湊から来た連中には、登らずには居られない山だったのかもしれません。

そして、翌日。『尾張亀崎代官竹恒三郎兵衛、並びに、保下田ノ久六の両名を無事討ち取る事叶いますれば、我が命は惜しむ物に有らず。』と書いた祈願書に、五十両の金子を添えて、次郎長は金比羅様に奉納致します。


次郎長「野郎ども!いよいよ時節到来、亀崎へ、代官と久六の首を頂戴しに出掛けようぜ!勝鬨だ!」

全員「えい、えい、おう!えい、えい、おう!えい、えい、おう!」


安政三年五月二十八日。やって参りました次郎長以下八人は、尾張知多郡亀崎の小高い峠口にズラリ居並びます。



つづく