くさて、池尻の遊廓『四ツ目楼』に深夜四ツ過ぎ、お引けと言う直前に着きまして、流石に表からは具合が悪いと思いました次郎長、裏へ回り勝手口を探して声を掛けます。


次郎長「今晩は?夜分すいません。」

取次「ヘイ、どちら様で?」

次郎長「坂本の長五郎で御座います。親分さんは?」

取次「之は之は、次郎長ドン。何か有りましたか?」

次郎長「直接親分の耳に入れたい事が。大事な噺で御座いまして、宜しくお頼み申します。」

もうお引けと言う時分に、勝手口がゴソゴソしておりますから、此処、四ツ目楼の女将、太左衛門の妾のお勝が出て参ります。

お勝「何んたい店ッ先で、煩いねぇ〜 何んだ!何処の色男かと思ったら、長さん!お久しぶり、客じゃないのかい?何か用かい?」

次郎長「ハイ、ちょっとばかり、和田島の貸元にご相談が有りまして。。。」

お勝「宜く家の人が、コッチだって分かったね。」

次郎長「分かりますよ、親分は姐さんにぞっこんですから、本家よりも此方じゃないか?と、察して参りました。親分は?」

お勝「居ますよ、奥の離れに。 もう、アンタはいいよ、アッチお行き。 次郎長さんは、アタイが親分ん所に案内するから。」

次郎長「すいません、若衆さんご苦労さんでした。」

と、言って取次に出た若衆に、「蕎麦でも皆さんで手繰ッて呉れ」と、一分を渡しますと、若衆はニッコリ笑って消えてしまいます。

お勝に連れられ、奥の離れにある座敷に通されますと、歳の頃なら五十二、三。でっぷりと大貫禄の和田島ノ太左衛門が、団扇を使いながら直しで、青魚のヌタなんぞを肴に一杯やっております。

お勝「アンタ?長さんが顔を出したから、連れて来たよ。」

次郎長「親分、ご無沙汰しております。長五郎です。其れにしても、今年は暑さが続きますねぇ〜」

太左衛門「本当だ、もうこの時間になると、幾らかましだが、昼間は、暑くて年寄りには毒だ。ささぁ、次郎長!一杯やれ、直しだ!スッキリと、宜い喉ごしだぜ。」

次郎長「柳影!粋なモン呑んでますね、親分。へいへい、頂戴します。」

太左衛門「時に、お前さん、女房貰って堅気で頑張っていなさったのに、店を畳んだんだって?こいつはどう言う料簡なんだい?」

次郎長「アレアレ耳に入りましたかぁ〜。和田島の親分だから言いますが、托鉢の禅宗の出家から、長くてあと三年の命だと宣告されまして、三年で死ぬんだと商売続けてちゃ塩梅悪い。取引先、奉公人に迷惑が掛かるし、何より女房が大迷惑するんで、堅気の商人は辞めたんです。」

太左衛門「へぇ〜、そんな事が有ったのか?聞いてみないと、世間の噂だけじゃ、分からないもんだ。」

次郎長「世間は何んて言ってます?親分。」

太左衛門「まぁ、悪口の類だ。義理の悪い借金が有って、伊勢屋に米の鑑札を売ったとか、五年前に調子に乗って、分不相応な施しなんてやるから、今に成って商売な左舞いだとか、

挙句には、お前が追い出した継母の祟りじゃないか?何んて、根も歯も無い噂をしょっちゅう耳にするよ。」

次郎長「そうですかい、言いたい奴には言わせて置きますよ。三年経って寿命に白黒着かないと、アッシは、なかなか料簡が定まりません。」

太左衛門「どうせ、賭場通いなんだろう?派手にはやらないだろうが、もう腹を括って、賭博打(ばくちうち)になっちまいなぁよぉ?!

お前さんの度胸と貫禄なら、不足は無いさぁ。時期に兄弟分や子分が出来て一家を構える様になる。賭場の看板上げて長脇差を気取るのが厭なら、湊の人足の手配師に成れば宜い。

お前さんぐらいの貫目で、頭が切れて、商売上手なら、任せてくれる貸元が、直ぐに現れるさぁ。どうだ?次郎長、俺がケツ持ちしてやるから、そろそろ漢にならねぇ〜かぁ?」

次郎長「そうですね。正直、考えねぇ〜と言ったら嘘になりますが、どうも東龍ッて坊主に予言された呪縛が解けてくれないと、やる気が出ません。また、その気になった時は、必ず、ご相談に上がりますから、その節は宜しくお頼み申します。

所で、今、庭を見ていて、あの蔵が目に留まりましたが、三棟前(みとまえ)共、凄く立派な造りの蔵ですね。素人アッシが見ても惚れ惚れします。」

太左衛門「おー、嬉しい所を褒めてくれるじゃないか?なかなか、お前さん!目利きだなぁ〜。あれは俺の一番の自慢なんだ。『およねぐら』ッて呼んでいる。

江戸の職人名人で、左官の長兵衛と言ったら知らない者は無い。本所だるま横丁の棟梁だ。野郎が塗り上げた壁は、落雁肌、と呼ばれて大層有り難がられる代物よ!

その長兵衛を駿府にわざわざ呼んで拵えさせた蔵が三棟前だ。江戸だって、長兵衛が仕上げた蔵を三つも持っているのは、吉原の佐野槌と、日本橋鼈甲問屋の近江屋卯兵衛ぐらいだろう。」

次郎長「へぇ〜そいつは豪気なもんですね親分。ところで、『およねぐら』と言う名前の由来は何んなんです?単に米を『よね』と言うからなんですか?」

お勝「違うよ、長さん。あの蔵は、うちの看板女郎のお米が、板頭を張るようになってからの四年間で、三棟前の『およねぐら』を建ててくれたのさぁ。」

太左衛門「あのお米は、十でうちに売られて来た。女中みたいな事を、最初はやらせていたが、御座敷から聴こえて来る唄や踊りを、目と耳だけで、芸者顔負けに真似て見せた。頭は良くて、稽古事、唄、踊りが達者だった。

だから、三島の芸者衆に預けて女を磨かせた。そして、店に上げて客を取らせたのは、十七だった。それから、直ぐに板頭に成って、十七、十八、十九、二十歳で蔵を三つ建ててくれた。

そのお米への感謝を込めて、俺もお勝も、お米が大好きだから、あの蔵をそう呼ぶんだ。だが、そのお米が、今日突然居なく成った。

六ツ過ぎに、身一つで、長襦袢に掻巻姿で居なくなりやがった。駆落じゃねぇ〜よ。逃げて男と手に手を取って逃げるんなら、お勝の着物か、遣手の婆さんの着物を盗んで逃げるくらいの知恵が働くさぁ。

恐らく心中だ。そう思ったから、奉公人や子分に近所を探させたが、行方が全く分からねぇ〜。らしい人影が、堤の方へ行くのを見たって駕籠カキが居たと言うが、お米は見付からずだ。

なぜ、そこまで思い詰めていたんなら、俺やお勝に相談してくれないんだ?水臭いぜ。俺は、お米が好きだッて野郎となら、貸証文なんて何時だって巻いて、所帯を持たせてやったのに。

それに、箪笥の二竿と、着物の五、六反と、十両も持参金を付けて送り出したのに。。。

心中者んに成って、海や川に浮かんだり、松林で首吊りで見付かったりしたら、本当に悔しいぜ!次郎長。」

次郎長「本当ですか?親分。その貸証文巻いて、持参金の十両持たせて嫁に出す噺は?心中じゃなく、お米さんが、此処へ戻って来たら、ニッコリ笑って送り出して呉れますか?」

太左衛門「何んだ!次郎長、お前さん、お米の居所を知っているのか?お米は、お米は無事なのか?、次郎長!アンタ、お米の何んなのさぁ?!」

次郎長「親分まで、宇崎竜童気取りですか?!ええ、無事ですよお米さん。親分の仰る通り、堤の先で、ドカンボコン!川に身投げしようと、相手の男と細引きで、二人の身体を縛り合って、正に石を抱いて飛び込む寸前、アッシが通り掛かって助けてやりました。

親分!安心しなせぇ〜、俺の家に連れて行って、アッシの内儀(かみさん)に面倒みさせてますから、元気に生きて居なさるよ。」

太左衛門「本当か?次郎長、恩に着るぜ。」

次郎長「親分、念のための確認だが、本当にお米は、この廓から足を抜いて、心中仕損なった野郎と、夫婦に成っても異存は御座いませんね?」

太左衛門「阿多棒よ!俺も和田島ノ太左衛門と二つ名で呼ばれる貸元だ。五十人からの子分を抱える任侠だぞ。

それが一度口に出した事を、漢に二言はねぇ〜よ、次郎長。吐いた唾飲み込むような、芋引く真似はしねぇ〜よ。」


そう言うと太左衛門は、お勝にお米の証文を取りに行かせて、十両の金子を其の証文と一緒に次郎長に渡した。

太左衛門「どうだい、長さん。持って行ってお米を安心させてやってくれ。そして、俺が頼むから、お前とお蝶さんが仲人で、立派な祝言を挙げてやってくれ。

俺とお勝は、親代りで式に出る。花嫁衣装と箪笥、長持、反物は、後日必ず用意するから、次郎長!頼む、お米を、お米を幸せにしてやって呉れ。」

次郎長「親分、頭を上げて呉れ。そうまでされると、この次郎長、二人を死なせずに助けた甲斐が御座いました。」

太左衛門「それで、お米が死ぬほど惚れた相手の野郎って言うのは、何処のどいつだい?!」

次郎長「ヘイ、其れが府中の七間町の呉服屋、奈良屋勘兵衛ん所の荷背負商人で、幸助さんと言う、オイラと同年(タメ)の良い男だ。」

太左衛門「それで、奈良屋さんは承知の上かい?」

次郎長「それが、そうじゃねぇ〜。カクカクしかじか、お米に入れ揚げて、店の銭に手を付けて、昨日横領したのがバレて、店から逃げ出して、死ぬ前に、一目お米さんをと逢いに来たそうだ。」

太左衛門「ははぁ〜、其れで悪い料簡起こして、心中なんてやろうとしたのかい?」

次郎長「そう思うでしょう?其れが素人の浅はかさ!幸助さんは一人で死ぬつもりだったのを、お米さんが、私も一緒にと、道連れを志願したんだそうです。」

太左衛門「成る程。それで、奈良屋の方は、どうするつもりだね、長さん。」

次郎長「奈良屋勘兵衛と言えば、なかなか人徳のある大店の主人だって噂だ。其れなら変に駆け引きなんか止めて、正面から腹を割って噺をしてみるつもりです。」

太左衛門「それで、その幸助ッて奴は、幾ら店の金子に手を付けているんだい?」

次郎長「それが、半年もあのお米に入れ揚げたんだ、二百両からの金子を誤魔化したそうです。」

太左衛門「二百両かぁ〜、そいつは大金だぁなぁ。おいお勝、店の金子をそっくり出せば、二百両になるか?」

お勝「アイよ、お米の幸せの為なら、出して見せますよ、お前さん。」

次郎長「いや、折角のお申し出ですが、此処は全てアッシに任せてちゃ貰えませんか?親分。二百両の銭を、ポン!と出して、奈良屋を黙らせたら、噺は簡単だ。其れに親分の株は上がる。

だけど、相手は堅気だが、奈良屋勘兵衛にも意地はあると思います。出たとこ勝負では御座いますが、この次郎長に、下駄を預けておくんなせぇ〜。」

太左衛門「分かったよ、長さん。お米の命の恩人の、お前さんに此の場は全て任せよう。」

次郎長「有難う御座んす!」


と、言って次郎長は、お米の証文と持参金の十両を持って一旦家に帰り、二人に此の事を知らせて、和田島ノ太左衛門が、快く二人の門出を祝ってくれたと伝えると、

お米は、声に出して周りを憚らず咽び泣き、其れを庇う仕草の幸助も、一緒に嗚咽が聞こえるくらいに男泣き致します。

是を見た、お蝶も貰い泣き致しまして、次郎長に向かって、「明日は、奈良屋さんが、首を縦に振るまで、帰るんじゃないよ、お前さん!」と、気合いを入れられます。


烏かぁ〜で、夜が明けて、明け六ツに清水湊のを出た次郎長は、駿府城の城下町、府中七間町を目指して裏街道を歩きます。

日本平の裏山を越えて、海岸線を防風の松林が続く中を、安倍川の二里ぐらい手前に位置します、府中七間町。この町名は今でも残っておりまして、静岡市内の一等地で御座います。

さて、次郎長が七間町へと着いたのは、お昼過ぎ八ツ半過ぎて、もうすぐ七ツになろうとする時分。残暑厳しく西に傾く太陽の照り返しが強く次郎長を襲う!そんな午後でした。

次郎長「御免なスッて。」

手代「ハイ、御出なさいまし。」

次郎長「私、清水ノ長五郎と申します。ご主人、勘兵衛さんはいらっしゃいますか?」

と、次郎長が張った通る大きな声で申しますと、帳場格子の中から、太い黒縁メガネを付けた、支配人の伝次郎が出て参ります。

伝次郎「番頭の伝次郎と申します。主人勘兵衛にどの様な御用件で、御座いましょう?主人は、奥に居りますが、店の大抵の事は、私で分かります。どうぞ、お尋ねの儀、お話下さいませ。」

次郎長「左様で御座いますかぁ。実は、お噺と申しますのは、当家奉公人、荷背負の幸助さんの事でして、ご支配人の手には余ると思いますので、一ツご主人勘兵衛さんにお目に掛かりとう存じます。」

伝次郎「イヤぁ、奉公人ですので、幸助の事でしたら私が承ります。」

次郎長「じゃぁ〜、申しますが、昨晩、心中を。。。女は、遊女で。。。」

伝次郎「イヤぁ!暫く、暫く!其れは主人の耳に入れねばなりません。少し、少しお待ち下さい。」


番頭の伝次郎、顔色を変えて奥に、スッ飛んで行って主人の勘兵衛に、幸助が遊女と心中をと話しに消えて行く。

次郎長の脅しが利きまして、奥から取次の小僧が次郎長を呼びに参りまして、奥の客間へと案内されます。

旦那の勘兵衛、歳は五十を少し過ぎた初老の白髪混じりで、結城紬に黒い筒状の莨入れを脇に置いて、正座して御座います。

勘兵衛「幸助が心中をしたとかで、昨晩、小言を申しますと、飛び出したまんま、帰りませんもんで心配しておったのですが、飛んだ事に成りまして、それで、お宅様に何ぞ、ご迷惑をお掛けしたのでしょうか?」

次郎長「其れが、誠に運の良い事に、カクカクしかじかでして、済んでの所を、アッシがお助け申したと、こう言う訳で御座います。」

と、次郎長が少し前の経緯から、丁寧に説明しますと、奈良屋勘兵衛も黙って腕組みをして聞いております。

次郎長「骨折りついでにアッシが聴いて見ますと、幸助さん、四ツ目楼側の噺が済んだからと言って、大手を振ってお米さんと夫婦には成れないと申します。

料簡違いをして、奈良屋さんから金子を横領して於ながら、今更、どの口が物申すか?と、言われるのを承知で続けますが、

本来ならば、幸助さん当人がアッシと並んで、旦那様に直接謝るのが筋では御座ましょうが、当人決まりが悪く、当家の敷居が高こう御座んすので、今日の所は、アッシが代参した次第で御座います。」

勘兵衛「成る程、用向きはよーく判りました。其れでぇ?!」

次郎長「ハイ、何より幸助が横領した二百両の事ですが、アッシが先ずは百両の銭を野郎に成り代わってお支払い致します。

その上で、月々一両、是を持って残金を月賦で返済致します。万一、一両の返済が滞る時は、アッシが連帯保証人だ、

野郎に代わってアッシが一両払いますので、どうかお聴き届け頂けませんか?宜しくお頼み申します。」

目を閉じて聞いていた、温和な奈良屋勘兵衛が、ゆっくり目を開き、莨入れに手を伸ばし、ゆっくりキセルに詰めて火を点けて、ポン!と、灰吹の音をさせてから、口を開いた。

勘兵衛「ところで、長五郎さんとやら、貴方は、お幾つになられますか?」

次郎長「ハイ、歳ですか?二十六に成ります。」

勘兵衛「はぁ、幸助の奴と同じ歳でいらっしゃる。。。よーく判りました。貴方の前で、何んなのですが、犬や猫でも三日飼えば情が移ると申します。

ましてや、幸助は十二の時に参りましたから、もう足掛け十四年当家に奉公しております。他の奉公人の前では甘い顔も出来ませんし、

一時の気の迷いだと判り、当人が重々反省しておっても、安易に店に戻したのでは、奈良屋勘兵衛の面子が立ちません。

だから、店に戻してこれまで通りとは行きませんが、逆に奴が立ち直るのを、邪魔してやろうと言うような料簡にも成りません。

長五郎さん!貴方の目から見て、幸助の奴は、清水湊か池尻かで所帯を持たせてやれば、商人として一本立ちできる漢に成りますでしょうか?貴方の意見、忌憚なく聞かせて下さい。」

次郎長「貴方が見て、幸助さんの商売の腕前はどうなんです?」

勘兵衛「其れは十四年、手塩に掛けた私が保証します。一流です。」

次郎長「今回ばかりは、心機一転。生まれ変わった料簡で、身を粉にすると誓っての船出ですから、間違いないと存じます。」

勘兵衛「判りました。ではこう致しましょう。貴方が出すと言う半金の百両は要りません。毎月一両ずつの返済だけで二百両、貸した態に致しましょう。

番頭さん!伝次郎さん、借用書を作って下さい。元金二百両だ、返済の条件は、無利子の月賦で一両二百回、十六年と八ヶ月払いです。」

次郎長「有難う御座います、旦那。本人が聞いたらさぞ喜びます。」

勘兵衛「証文が出来るまで、お一つ、行ける口でしょう?仇が来ても口を濡らさないで帰すのは恥と申します。

しかも、貴方は奉公人の命の恩人です。是非、一杯召し上がってから、駕籠を用意しますから、呑んでって下さい。長五郎さん!」

そう言われ断わる道理などなく、奈良屋に大いに馳走になり、奈良屋勘兵衛と次郎長は、深い絆が生まれたのでした。


さて、駕籠に揺られて七間町の奈良屋から池尻の四ツ目楼まで戻った次郎長は、早速、首尾を和田島ノ太左衛門に報告致します。

次郎長「親分、只今戻りました。」

太左衛門「どうだった、次郎長。お前の事だ、万事上手く行ったとは思うが、お前も、まだ若いから、相手が因業な野郎だと、怒りに任せて尻(ケツ)捲るんじゃねぇ〜かって心配してたんだが、その顔は大丈夫そうだなぁ?」

次郎長「いやぁ〜、親分。因業だなんて奈良屋の旦那に失礼ですよ。それにしても、堅気の商人にも、あんな感じの良い、漢が居るとは、お見それしましたよ。オイラ、大好きになりやした、奈良屋勘兵衛!」

太左衛門「其れで、何んだって?」

次郎長「いやねぇ、俺が半金の百両は出すって言うのを、『引いて下さい!』ッて言って、ホレ貸証文見て下さいよ、月賦の一両払い、二百回払いだから十六年と八ヶ月ですよ。」

太左衛門「何だぁ〜そりゃ?!ただで棒引きしてくれた様なもんじゃないか?しかも、貸した事にして、幸助とお米夫婦が高井麻巳子と岩井由紀子にならない様に、じゃなく、後ろ指差されない様に、ちゃんと考え下さって。。。太い野郎だ!奈良屋勘兵衛。」

次郎長「でしょう?いっぺんで好きになりましたよ、アッシは。漢が漢に惚れました。」

太左衛門「ヨシ、畜生!俺も、奈良屋に行く、二百両持って、お米がお世話に成りましたと、借金を、その証文持って返しに行く。

だから、まだ、その証文、幸助とお米には内緒にしとけよ。明日、朝一番で二百両持って、七間町に談判しに行く!」

次郎長「狡いよ、親分!一人で行くなんて、俺が先に、奈良屋さんとは馴染みになったんだから、一人で二百両出すのは、料簡が良くないよ。ここは、折半!百両ずつにしましょう。」


と、変な意地の張り合いが有って、それぞれが百両出し合って、二百両を持参して、この幸助とお米の証文を巻きたいと、和田島ノ太左衛門が談判致します。

すると、にっこり恵比寿顔の奈良屋勘兵衛、ゆっくりと、穏やかに語り始めます。

勘兵衛「親分、貴方は本当に偉い方だ。女郎のお米さんを、我が娘の様に可愛いがりなさる。その親心は、奉公人である幸助への私の気持ちも同様です。

しかし、ここで、二百両私が受け取り、月賦の払いを幸助がやらずに済んでは、其れは色んな意味で幸助の為には成りません。

特に、世間はどう思うか?二百両横領した奴だって目で見られ続けるに違いない。だから、料簡を見る意味でも、幸助には月賦の一両を続けて貰いたい。

それが在る限り、この店に気軽に来る事は出来るし、奈良屋とあいつは対等に商売も出来る。そうやって世間も奴を認める様になって貰いたいんです。」

太左衛門「こいつは、旦那に一本取られたなぁ?」

次郎長「ねっ、親分。奈良屋の旦那は、堅気にして於くのは勿体ないでしょう?」

太左衛門「確かに、次郎長!貴様の言う通りだ。堅気じゃなけりゃぁ、五分の兄弟の盃を交わしてらぁ。」

勘兵衛「さて、折角、親分が出しなすった金子の二百両だから、私が預からせて頂きます。そして、幸助とお米さんが立派な料簡になった時を見計らって、夫婦の為に使いましょう。

そして。。。おい!番頭さん、伝次郎さん、私の手文庫を持って来てお呉れ。 さぁ、改めて、結納と申しますか、親分の娘さんの様なお米さんを幸助に頂戴するんだから、持参金の百両を親分には進呈いたしましょう。

そして、長五郎さん!いや、次郎長さん。貴方にも百両。コッチは幸助の命の恩人であると同時に、媒酌人になって頂く手間だ。どうかお二人さん受け取って下さい。」

二人は「へい」と言って百両の包みを懐中に捻じ込んだ。胸がジーンと来て、目頭が熱くなった。

勘兵衛「兄弟には成れませんが、こんなにめでたい日は、飲まずにはいられないでしょう?お二人さん、初めてのご縁ですが、何んだか旧知の仲に思えます。」


奈良屋の宴は、夜更まで続き、次郎長を挟んで和田島ノ太左衛門と奈良屋勘兵衛は、無職渡世の任侠と、駿府一番の大店の主人が義兄弟のようになるのでした。

こうして、幸助とお米は晴れて夫婦に成ります。媒酌人が次郎長とお蝶夫婦、そしてそれぞれ親代わりの後見が、奈良屋勘兵衛夫婦と、和田島ノ太左衛門とお勝です。

高砂や!それから、三年の月日が流れます。次郎長は死ぬ気配は無く、東龍の予言から早四年で御座います。

そして、幸助、お米は行商の呉服屋を営み、古着から新調の着物まで、奈良屋からも仕入れたりも致しまして、漸く自分達の店を持とうかと考えていたところ、


奈良屋勘兵衛に呼ばれて、奈良屋の奥座敷に参りますと、和田島ノ太左衛門と次郎長も来ておりまして、二百両の金子を見せられて、

勘兵衛「よく、料簡を入れ替えて商売に励みました。夫婦力を合わせて、これからも頑張りなさい。そして、私からは奈良屋の暖簾を分けて上げます。

また、和田島の親分さんと仲人の次郎長さんから、お前たちに二百両と言う支度金が提供されます。兎に角、商売に励む事こそが、お二人へのご恩返しだと思って精進しなさい。

それから、この二百両の証文は、今日只今、百両棒引きしてあげます。ただし、あと残りの五年間は、変わらず、毎月一両届ける様に。」

幸助「有難う御座います!旦那様、そして親分と長さん、御三人の事は生涯忘れません。」

お米「親分!女将さん!奈良屋の旦那!そして、長さん、お米は幸せで御座います。」

次郎長「しかし、奈良屋の旦那!なぜ、証文は全部引いてやらないんですか?もう、料簡は見なくても。。。」

勘兵衛「いやぁ〜、和田島の親分と次郎長さんには百両損させて、私だけ半端に儲けたくないから、私も百両損させて貰ったんですよ。

之で、三方百両損に成る。あの町奉行大岡越前守の百倍ですよ!百倍。それぐらい豪気に、世間に伝われば、若夫婦の店も繁盛しましょう。」


そんな、奈良屋勘兵衛の言葉通りに、幸助とお米の店は、三方百両損の呉服屋として、益々、繁盛致します。



つづく