曲垣平九郎と井筒波次郎の二人は、信濃から甲州へ抜ける名代の難所、和田峠へと差し掛かっていた。
和田峠
中山道は、江戸幕府によって整備された街道であり、平均すると二里程度の間隔で宿場町が置かれていたが、
この和田峠は険しい山の中にあり、峠の江戸側の和田宿と京都側の下諏訪宿の間隔は実に五里半とその間隔は長い。
冬季の降雪も多く、中山道最大の難所とされていた。このため、途中に何箇所か旅人のための避難所として空地、辻堂やそして茶屋が設けられていたほどである。
これらの茶屋は「西餅屋(下諏訪宿側)」「東餅屋(和田宿側)」「接待(和田宿側)」などと呼ばれ、いまでも地名にその名を残している。
戦後1953年/昭和二十八年には和田峠を含む前後の区間が国道142号に指定された。和田峠トンネルは戦前戦後を通じ、坑口のコンクリート覆いを延伸するなどの対策で、
積雪等への対処が図られてきたが、幅員は自動車1台分強と狭いままで、現在は信号機を設置して交互通行するようにされている。
国道142号に昇格してからの和田峠は、対向ニ車線を確保できない狭隘ぶりから、年々増加する自動車交通を捌ききれなくなった。
そのため、代替路として大きくルートを変え、迂回コースの低い標高の新和田トンネルで貫通する。
此の新和田トンネル有料道路が1978年/昭和五十三年に開通したことで、旧道は幹線道路としての役割を終えた。
旧道の国道指定は解除されていないものの、現在の幹線自動車交通の大半は新トンネル経由の新道で賄われている。
また、尾根道のビーナスライン(旧霧ヶ峰有料道路)が旧中山道と交わるかたちで通っており、
旧道のトンネルの長和側出口付近で接続されている(ビーナスラインが有料だった頃は料金所が設置されていた)。この連絡もあって、旧道は観光道路としての性格が強くなっている。
そんな和田峠を、二人は黙々と反対側の甲州へと繋がる諏訪湖を目指して登り始めて一刻が過ぎた頃である。
波次郎「アッ!痛い。」と、言って波次郎が倒れてしまう。
平九郎「どうした?波次郎、大事ないか?!」
波次郎「その石に躓いて、足を負傷しました。」
平九郎「どーおれ!見せてみろ。 これは遺憾!生爪が剥がれておる。出血も酷いなぁ〜。この手拭いで足先を縛りなさい。」
波次郎「忝のう御座います。」
平九郎「兎に角、小川、清水を見付けて、綺麗に流して於ねば、破傷風に掛かるやもしれぬ。膿んだりしても大変だ!用心するのだぞ。」
波次郎「ハイ、分かりまして御座います。」
平九郎「この様な山中の獣道は、岩や木の根が付き物だ!其れを用心して、かつ、早く登ってこそ武士たる者。其れを不覚にも岩で生爪を剥がすとは、まだまだ、修行が足らぬなぁ!波次郎。」
波次郎「いえ、之しきの怪我、唾を付けたら直ぐに治りまする。先生の歩みに遅れは取りません由え、ご安心下さい。」
などと言って、一刻程歩いておりましたが、血は止まれど、痛みが激しく、足に熱を帯びて来て、何とか足を引き摺りながらの歩行になる波次郎。是を見た平九郎が声を掛けます。
平九郎「之は実にまずいなぁ、その足では此の峠を今日中に越えて旅籠のある諏訪の宿場までは、到底辿り着けぬ。
ヨシ、もうあと一刻半もすれば日が暮れてしまう、其れ由え、今夜の寝ぐらを探そうではないか?辻堂でも、百姓家でも構わぬ、波次郎、其方も四方を確かめながら、ゆっくり進みなさい。」
二人がそんな噺をしながら、太陽が西に傾きかけた峠道で、雑木林から出て来た二十四、五になる百姓女と出会います。
平九郎「おぉ、貴方は?この峠の近くのお百姓ですか?」
女「ハイ、この上に畑を持っておる百姓の娘で御座います。お武家様は、お二人なんですか?」
平九郎「左様です。上田の方より参って諏訪に抜けて、甲州を目指しておりましたが、和田峠の獣道で、この未熟者が石に躓いて生爪を剥がしてしまい、足取りが覚束なくなり、此処で難儀をしておりました。」
女「そうですかぁ、其れは其れは、お気の毒に。」
平九郎「済まぬが、お主の家に泊めて貰う訳には参らぬだろうか?礼ならば、この怪我をした波次郎が致す由え、どうかぁ、一夜の宿をお願い申したい。」
女「分かりました。私は父と二人暮らしで御座います。ただ、汚い家で御座いますが、其れでも構いませんか?」
平九郎「勿論、構わぬ。このまま峠で野宿をする思いなら、どんなに汚い荒家でも構わぬ!構わぬ。」
女「其れならば私が、父に噺を致しましょう、あなた方を、お泊めする様にと。」
平九郎「其れは忝い。一つ宜しくお願い申す。」
波次郎「私からも、重ねてるお願い申し上げます。」
女「では、私に付いて来て下さい。」
女は、見すぼらしい百姓の服装(ナリ)をしては御座いますが、何より色が抜ける様に白く、ハッキリした彫りの深い美しい目鼻立ちをしております。
女は、慣れた様子で身軽に獣道を上の方へと進んで行きますが、慣れない平九郎と怪我人の波次郎は、必死に遅れない様に付いて行きます。
実に不思議な女であると、平九郎は思い始めますが、それより何より、野宿せずに済む事を、助かった!と、思いまして、女に従い山道を登って参ります。
女「父さん!フジで御座います。今、帰りましたが、道中、怪我をされたお武家様お二人と、雑木林の手前で出会いました。
このお二人が、難儀をなさって御座いまする。どうか、一晩、お泊め申しても構いませんか?」
父親「おぉ〜、おフジ。ご苦労でした。お武家様を、お二人お連れしたのか?うんうん、構わぬ構わぬ、お泊めして差し上げなさい。
ささぁ、お武家様、どうぞ!どうぞ!大変汚い所ですが、遠慮なさらずに、中へとお入り下さい。」
平九郎「御免下さい。お邪魔致す。確かに!汚い。」
波次郎「先生!何を申されます。失礼に御座いますよ。忝のう御座います、申し訳御座いませんねぇ、連れの爺の口が悪くて、お邪魔致します。」
平九郎「何を言う!この様子を見て、拙者は正直に申したまでだ。男ヤモメならば、この汚さで不思議ないが、親子で娘が有りながら、この汚さは少し異常だぞ、波次郎。お主はそうは思わぬか?!」
波次郎「其れでも、我々は世話になる身です。遠慮と言うものが、先生にはないのですか?」
父親「まぁまぁ、お武家様、汚い所ですから、汚い!と、申されても一向に構いません。ささぁ、中へどうぞ!ただし、汚いですが、草鞋は脱いで下さい。土足は厳禁です。」
平九郎「では、遠慮なくお邪魔致します。」
波次郎「お邪魔します。」
迎え入れてくれた娘の父親は、まだ、五十になるだろうか?意外と若い印象の父親である。ただ、早くに嫁を貰って二十歳過ぎに出来た娘なれば、年格好に不足は無いのだが。
二人が、この汚い小さな荒家に上がると、先に入った娘が、お茶を入れてくれた。親子と平九郎、波次郎の四人は、囲炉裏を囲むように座り、茶を啜りながら噺を始めた。
平九郎「拙者は、武芸浪人で曲垣平九郎と申す。之なる青年は、我が門弟で井筒波次郎。二人修行をしながらの旅で、この波次郎の父の仇を探しておる。
カクカクしかじか、この様な侍を見掛けた事は御座らぬか?秋月大八郎と申して、この波次郎の親を殺した仇なのだが。」
父親「左様で御座いますかぁ、其れは其れは、私は九枚笹の浪人は見た事が御座いません。おフジ、お前は見た事が有るか?」
フジ「いいえ、残念ながら、此の和田峠では見た事が御座いません。」
平九郎「ところで、お主たち親子は、此処和田峠の近くの生まれであるか?」
父親「娘は、正に此処、和田峠で生まれましたが、私は勘十といいまして高遠の生まれで御座います。この土地には三十年ばかり昔に、このフジの母親と駆け落ち同然で逃げて参りました。
私は生まれながらの百姓で、諏訪に根を下ろしたのは、先程申した通り三十年前で、七年前、娘が十七ん時に、婿を貰いまして、和田峠の段々畑で親子三人に婿を加えた、四人で暮らしをしておりましたが、
三年程前に流行り病が有りまして、女房と婿を立て続けに亡くして、今は娘と二人。畑も二人では作付が回らず、その日暮らしの水飲み百姓に落ちぶれて御座います。」
平九郎「其れはお気の毒に。」
勘十「さて、旦那様方は、腹がお空きでしょう。また、娘に聞きますれば、若い方のお侍様は足を怪我なさっているとか?
先ずは、娘に井戸水で足を洗い、粗末な薬では御座いますが、蝦蟇の油が御座いますから、傷にお使い下さい。
そして、囲炉裏に掛けた雑炊が時期に出来上がります。大した具は入っておりませんが、量だけは仕込みました。腹一杯、食べて下さい。遠慮は要りません由え。」
言われて、おフジと波次郎は井戸端で、足を洗い綺麗に拭いた後、蝦蟇の油を塗った半紙を剥がれた足の親指に巻き、その上から新しい手拭いで包んで貰った。
平九郎「波次郎、足の熱はどうだ?」
波次郎「熱はもう有りませんし、化膿してもおらず、明日には普通に歩く事が出来ると思いまする。」
平九郎「其れは良かった。そうだ、先に勘十殿とおフジさんに、礼金を払いなさい。」
波次郎「左様ですね。では、之を。」
と、波次郎が胴巻から三両を取り、裸銭を勘十に手渡すと、「遠慮なく頂戴します。」と是を素直に受け取ります。
勘十「では、まずは囲炉裏の雑炊が炊けたようで御座います。米五分に麦三、粟ニの合わせで御座いますが、具の山菜とキノコはこの峠の宝に御座います。
お二人の疲れた身体には何よりの滋養かと思います由え、沢山!沢山!召し上がって下さい。そして、後から地酒では御座いますが、厳選した物をご馳走致します。」
平九郎「勘十殿、その様にお気を使いますなぁ。本当に私は蟒蛇(ウワバミ)で御座れば、出された酒は、みな呑み干してしまいまする。」
勘十「構いません!構いません!存分にお楽しみ下さい。遠慮は無用に存じます。」
三両の前金が利いたなぁ?と、思う平九郎でしたが、この酒は普段、百姓が嗜む酒にしては、奢っている。
酒の卸しを営む大口屋の若旦那、波次郎が嫌な顔一つ見せず、平気で飲める酒が、なぜ、こんな汚い荒家で振舞われるのか?
そして、酒の相手をするこの娘!百姓の娘の酌では決してない!と、訝しそうな目で見る平九郎。
そんな不思議な疑念が湧いて来ると、勘十の言葉使いまでもが、百姓にしては?と、思えて来ます。
しかし、
薦め上手な勘十とおフジに、「怪我しているから、酒は毒です!」とか言いながら、井筒波次郎は一升五合。
一方、元より酒大好きの曲垣平九郎は、二升の酒を喰らいまして、この上等の酒ならば、半分は三両の元は取った!と、いい気分になっております。
勘十「旦那!そろそろ、お開きにして、奥に娘に床を用意させました。明日は、朝六ツ半過ぎにはお起こしして、朝食を用意致します由え、お休みなさいませ!」
平九郎「何から何まで、忝ない。娘子も、誠にお世話に成り申した。其れでは、波次郎!次の間へ参るぞ!!」
波次郎「次の間ったって、唐紙も何も有りませんよ!汚い荒家ですから。」
平九郎「最前は身共が『汚い荒家!』と申すと、その方、度々平が如く、儂に下僕の分際で意見しおったくせに。。。どの口が申すかぁ!『汚い荒家』なんぞと!」
波次郎「誰ですか?その度々平って?」
平九郎「知らぬのか?貴様。柳川藩の馬術指南、度々平こと、向井蔵人を!築紫市兵衛の家来なれば、向井蔵人を知らずして、如何致す!まだまだ、修行がたらぬなぁ!波次郎。」
波次郎「向井蔵人殿は、勿論、存じております。其れを『度々平』などとは。無礼千万に御座いますよ。」
平九郎「馬鹿を言え、儂が付けた名では無い。奴が『度々平』と呼んでくれと申すから、呼んだまでだ。其れに奴は、拙者を『和田平』と名付け『和田平』と呼ぶのだから、度々平でいいのだ!」
波次郎「ならば、和田平が和田峠に参ったと言う訳ですね。之は実にめでたい。」
平九郎「上手い事を申すなぁ、波次郎。貴様、今日から儂が新しい名前を授ける。度々平、和田平に連なるなで、其方は『波平』である。」
波次郎「厭で御座います。その名前には悪意が御座います。拙者は、サザエさんのハゲオヤジでは御座いません。」
平九郎「さて、座興は之くらいにして、娘さん!おフジ殿、流石に丸見えは恥ずかしい!筵で構わぬ由え、衝立を置いて下され。」
おフジ「畏まりまして御座います。」
そう言うと、おフジが仕切りの筵を立てて、二つの部屋を分けて、囲炉裏の在る入口に近い部屋に親子が寝て、曲垣平九郎と井筒波次郎の二人は、奥の部屋に寝る事になる。
そして布団に入ると、隣の親子が何やらヒソヒソ噺を始めたが、酒をたっぷり呑んだ二人は、昼間の疲れがドッと出て!白川夜船で、イビキをかいて深い眠りに着いてしまう。
やがて、九ツ、そして八ツ。所謂、丑三時になると、この荒家の戸口を、其れでも遠慮がちにトントン、トン!トントン、トン!と、叩く音が致します。
与作?!
と、思った名人曲垣平九郎は、一旦は熟睡していても、微かな異変、物音でも、敏感に瞬時に目が覚めます。
一方、まだまだ、未熟な井筒波次郎はと見てやれば、スースースー、ゴイゴイ、スー!っと、ダイアン津田の三流芸の様な寝息でまだまだ白川夜船で御座います。
平九郎は、物音を立てず、スッと手を伸ばして小刀を手にして、是を鞘払うと月灯りに反射させて手鏡と致し、入口から入って来たのが、二人の男である事を確かめます。
二人は髪は伸びて後ろに縛り、黒々とした髭を蓄えて獣の皮のチャンチャンコを着ている様子。正に、私は山賊で御座いますと、札付の様を呈しております。
勘十「よー来た。物音を立てるなぁ。酒を食らって死んだように寝ているが、一応、腐っても鯛、侍だ。」
手下A「其れにしても、馬鹿な奴らですね。大盗賊、高遠ノ勘十郎の家に迷い込むとは。季節外れの夏の虫ですか?」
手下B「仕方ないさぁ。おフジ姐さんの手練手管で騙されて、引き込まれては、浪人風情なんぞ、ひとたまりもないさぁ。」
おフジ「アタイが粉掛ける前に、怪我したとか言って、自分から泊めてくれと言い出したんだよ、このお二人さんは。」
勘十「それでだ!さっき胴巻を見たが、軽く百両からの金子を若い侍は持ってやがる。筵の影から一気に襲って、殺(や)っちまいなぁ!」
言われた手下二人は、忍足で筵の影に入ろうとしますが、酷い荒家ですから、軋むおとがギシギシ出てしまいます。
其れでも、波次郎のスヤスヤと聞こえる寝息に安心し、筵の側まで辿り着く山賊の手下二人。そして、一人は鉈を振り飾し、もう一人は宜く研いだ鎌を片手に、平九郎と波次郎の様子を伺っています。
そして、二人がよーく深い眠りにあると確信して、互いの呼吸を合わせて、一斉に襲い掛かって参ります。鉈は平九郎を、鎌は波次郎へと襲い掛かろうとする、その刹那!!
先生、起きて下さい!
と、波次郎の叫ぶ声がして、手下二人か一瞬怯んだ隙に、鉈の方は平九郎が小刀の柄の部分で、鳩尾/水月(みぞおち)を突いて気絶させてしまい、
鎌の方はと見てやれば、此方は波次郎が、得意の蹴りを側頭部に喰らわせて、失神させてしまいました。
すると、おふじが一人外へ逃げ出そうとしますが、鉈を飛ばして柱に着物の袖ごと止めてしまいます。
更に、勘十には波次郎が飛び掛かり、手下の鎌を喉に当てて「動くな!容赦は致さぬぞ。」と、脅してみせます。
平九郎「何んだ、波次郎。貴様、狸寝入りが上手だなぁ〜。何時、気が付いた?!」
波次郎「ハイ、この二人の手下が、変な拍子で戸口を叩いた折に目覚めておりました。先生は?」
平九郎「儂も一緒だ、与作で目が覚めた。月灯りで目を闇に慣らしながら、機会を伺っていた。其れにしても、其方、腕を上げたなぁ〜」
波次郎「武士で御座いますから、之しき、造作も無い事に御座います。」
平九郎「言うねぇ〜、波次郎。さて、ヤイ勘十!貴様は飛んだ大悪党だなぁ?!」
勘十「違います!違います!之はただ、貧なる上の出来心で御座います。」
平九郎「田分け!貧なる上の出来心で、人を殺す奴があるか?!最後兵衛の家で羊羹を喰らい、盗み煙草で一服するのが関の山、馬鹿も休み休み言え。」
勘十「では、お言葉に甘えて暫く休みまする。」
平九郎「死ね!ボケておる場合かぁ。貴様、山賊の首領であるなぁ?」
勘十「首領?そんな大層な悪党では御座いません。其処の二人と、此の女は娘ですし、家内制手工業の様な、ほんの貧の上の悪党でして。。。」
平九郎「では、何人之までに人を殺めた?」
勘十「一人?。。。半殺し程度に御座います。」
平九郎「黙れ!嘘を付け。あの手際で、初めてのハズが無かろう?!もう、宜い。貴様は嘘しか言わぬ由え、手下を起こして、白状させる。」
勘十「エッ!此奴ら生きてるんですか?!」
平九郎「当たり前だ。ちょっと気絶させただけだ、喝を入れたれば、たちどころに息を吹き返す。 波次郎、縄で縛り上げたら、一人だけ喝を入れろ!拷問をし全て白状させる。」
波次郎「畏まって御座います。」
言われた、波次郎が鉈を持って襲って来た方の皆次と言う手下に喝を入れて正気に致します。
平九郎「之れ、皆次とやら。この勘十の子分になってどれくらいになる?有体に申せ!」
皆次「なんだかぁ、お奉行様気取りですね旦那。 イヤイヤ、もう痛いのは御免です。喋ります。 ハイ、もうかれこれ十四、五年になります。
勘十親分が、高遠藩を追い出されて、盗賊になる前の博徒『高遠ノ勘十』を名乗り始めた時分からの手下に御座んすから、この人、元は長脇差だったんですよ。」
平九郎「其れで、このおフジは娘なのか?」
皆次「こんな売女(あばずれ)が武家のお嬢様な訳ないでしょう。冗談は美子さんですよ。この女(あま)は、松本宿の女郎、飯盛女だったんです。
其れを、まだ、勘十親分が藩に籍がある時分、山岡勘十郎と名乗っていた頃に、借金して身請けした妾ですよ。まぁ、今では内儀同然ですがねぇ。」
平九郎「其れで、この勘十には子分、手下は何人居る?」
皆次「そうですね、ハッキリ数えた事は有りませんが、三、四十人は御座います。」
平九郎「相分かった。皆次、貴様は役人に引き渡す際には、格別の配慮をと口添えしてやる。」
皆次「有難う御座います。御恩、生涯忘れません。」
平九郎「安心致せ、痛くせずに殺す様に、ちゃんと口添え致す。」
皆次「エッ!アッシは死罪なんですか?」
平九郎「当然だ。十両盗めば首は飛ぶ。ただし、錆びた槍ではなく、手練れに斬首して貰える様には口利き致す。武士に二言はない。」
皆次「。。。」
このやり取りを、ジッと見ていた山岡勘十郎こと高遠ノ勘十は、平九郎に向かってゆっくり、探り探り語り掛けます。
勘十「旦那!曲垣様、今頃思い出すアッシもドジですが、貴方、あの曲垣平九郎様なんですね。三代家光公をして、天下無双の馬術の名人と言わしめた、曲垣平九郎大先生だったとは。
戦いを挑んだ相手を、アッシは間違えてしまいました。降参致します。そして、降参ついでに、アッシが蓄えた銭、之を貴方に全て差し出す覚悟です。
だから、曲垣平九郎大先生!アッシと内儀のおフジだけは、逃して貰えませんか?之まて、和田峠で、山賊稼業をして足掛け十五年!
貯めに貯めた金子は全部で、三千両にはなるかと存じます。其れを全てお前さんに差し出す覚悟だ!どうです、命ばかりは助けて下さい。」
平九郎「ヤイ勘十、お前は本当に救いようのない田分けだ。俺が銭に転ぶ輩なら、吉原の花魁の如く、何処ぞの藩のお殿様に、とっくに身請けされて家来になっておるワぁ!
残念だが、拙者、天下の素浪人『曲垣平九郎』だ。銭なんぞで、魂を売り渡すような料簡は、金輪際、持ち合わせておらん!代官所に引き渡す由え、覚悟いたせ!勘十。」
勘十「分かりました。アッシの命は諦めます。でも、内儀のおフジだけは見逃して下さい。此奴はただの女、受け身の人生だ。
アッシに身請けされて命じられるまんま悪事に手を染めただけなんです。だから、おフジだけは逃してやって下さい。曲垣様!」
平九郎「ならん!聞き入れられん。拙者の思いや、匙加減で、天下の大罪人を目溢しなど、出来様ハズがない。全てはお上の御意向、法度により裁かれるべきだ。」
勘十「曲垣殿、お主に情けは御座らんのか?!」
平九郎「在るが、貴様には『漢』が見えぬ。さぁ、夜が明けた!波次郎、諏訪の代官所へ出向いて、此処に取方を連れて来なさい。」
こうして、和田峠の山賊、高遠ノ勘十こと、高遠藩浪人、山岡勘十郎は召し捕りとなり、諏訪代官所、代官、岡部順左衛門によって裁きを受ける事になる。
そして、井筒波次郎が駆け込んだ諏訪の代官所には、召捕り方の藤枝内膳と言う上役人が居て、和田峠の勘十一味を捕らえた後は、
波次郎の訴えを親身に聞いてくれて、親の仇、秋月大八郎の行方を、中山道の諏訪を中心とした宿場を巡り聞いて廻ってはくれたものの、大八郎の手掛かりは全く掴む事は出来なかった。
さて米山峠で消えた秋月大八郎、何処へ雲隠れしているのか?次回はその当たりを申し上げる所から物語を始めたいと思います。
つづく