秋月大八郎は、数奇な縁で長脇差、一の木戸ノ澤右衛門一家に拾われて、澤右衛門の養子となり、名を大八に変えて侠客の道を歩み始めていた頃、
この一の木戸ノ大八を親の仇と探しております井筒波次郎は、未だ江戸表は、奥平大膳大夫の家臣、筑紫市兵衛定雄によって厳しい武芸の指導を受けていた。
波次郎「先生、江戸に居りましても、秋月大八郎の行方は杳として知れず。このまま、時を過ごすくらいならば、思い切って、秋月大八郎を探す仇討ちの旅に出とう御座います。」
市兵衛「波次郎、其方の早る気持ちは分かるが、まだ、修行中の身であるぞ。相手の秋月は一刀流の免許皆伝、もう二年は修行してからにしなさい。」
波次郎「お言葉ですが、仇を見付け出さない事には、我が本懐遂げられませぬ。何卒、仇討ちの旅に出る事をお許し下さい。」
市兵衛「分かった。ならば、二つ。波次郎、其方に試練を与える。この試練を見事跳ね退けて、其方が共に一番となる様なら、拙者、其方の旅を許そう。」
波次郎「何んでしょうか?二つの試練とは。」
市兵衛「まず、一つは。来月十五日に予定されている奥平家の御前試合で、見事一番となること。この御前試合、藩内の強者だけでなく、江戸の名だたる道場からも招待の剣士が多数参加致す。
燃し、之に勝ち進み、見事、一番に成るようであれば、お前の剣の腕前を認めて、秋月大八郎を討つに足りる技量があると認めよう。
そして今一つの条件は、御前試合の十日後に予定されている『第八回 曲垣平九郎杯』の優勝だ。
私の弟子だと言うからには、江戸中の馬術の猛者が集まる大会に優勝し、馬術で名人と呼ばれてからでないと、仇討ちを許す訳に参らぬ。」
と、師である筑紫市兵衛は、かなり高いハードルの試練を井筒波次郎に科したが、波次郎は、これを見事に跳ね退けて、御前試合の一番と、曲垣平九郎杯の優勝の座を勝ち取るのだった。
そして、いよいよ、仇討ちの旅に出る準備が整った井筒波次郎は、出発の挨拶を、師匠筑紫市兵衛にする為、師匠の部屋を訪ねた。
市兵衛「いよいよ出発か?」
波次郎「ハイ、先生。行って参ります。」
市兵衛「今のその方の腕前であれば、間違いなく仇・秋月大八郎の首を討ち取る事が出来る!決して、諦めず。強い気持ちで行って来なさい。」
波次郎「ハイ、必ずや仇・秋月大八郎の首を取って参ります。」
市兵衛「其れで、どの様に仇を探すつもりだ?」
波次郎「先ずは、宇都宮へ参り父母が眠る法華寺へ参り、墓前に仇討ちの旅に出る報告を致します。
そして、宇都宮から越後國を目指しまして、我家の宗旨であります、法華、藤葉法華の総本山が御座います南蒲原郡、本成寺村の本成寺へ参り仇討ちの願掛けを致し、
そこから秋月大八郎の故郷である新発田を訪ね、秋月に関する話を聞いて廻った上で、秋月が潜んで居そうな場所を推量し、根気強く探索致す所存に御座います。」
市兵衛「長い旅になるかと思う。道中気を付けて参られよ。護摩の灰や山賊の類は、ソチの腕前なら心配なかろうが、疫病や生水、食べ物には十分注意するのだぞ。」
波次郎「色々と、ご心配頂き感謝いたします。」
市兵衛「そして、之は少ないが餞別だ。そうだ!宇都宮までは、儂の馬を使え。馬は仲間頭の兵堂助右衛門殿に預けてくれれば良い。」
波次郎「忝のう御座いまする。」
と、筑紫市兵衛から餞別に二十五両を頂戴し、馬まで借りて、井筒波次郎は、翌日夜明け前の七ツ、宇都宮を目指し出発した。
宇都宮に着いた波次郎は、両親の墓を法華寺に詣りまして「一日も早く、父の仇、秋月大八郎を討ち取る所存です。」と、両親の墓前に誓いを立てるのでした。
そして、墓を見ておりますと、意外にも掃除されていて、然も、可憐な竜胆(りんどう)の花が手向けて御座います。
波次郎「和尚、ちと尋ねたき儀が御座る。」
和尚「何んで御座いましょう?」
波次郎「大口屋の者が、墓に来て綺麗にして行きますか?」
和尚「いいえ、彼岸と、お盆、それとご命日には番頭の甚兵衛さんが、小僧さんを連れて墓参り墓掃除をして行かれますが、之は、ご内儀のお鶴殿が見えてなさりました。
病が重く、治療に草津へと湯治に行く前に、銀兵衛殿に挨拶をと見えられて、辛そうな身体を押して、掃除をし旦那が好きだったからと、竜胆の花を手向けて行かれました。」
波次郎「左様でしたか、お鶴殿が。あの義母も哀れな方だ。治って戻られると良いのだが。。。」
もう一度手を合わせ、波次郎は、越後國は南蒲原郡本成寺村を目指して、旅に出ます。
この本成寺を総本山と致します、藤葉法華の江戸での出先寺には、丸山の本妙寺が御座います。
この丸山本妙寺と言うのが、又々、お鶴には因縁の寺で御座いまして、1657年(明暦3年)、本郷丸山の本妙寺(ほんみょうじ、法華宗)から出火した明暦の大火は江戸時代最大の火災で、
江戸の町を大改造するきっかけとなりました。 また、本郷丸山の本妙寺は、囲碁の名門、本因坊家の菩提寺でもあり、1908年(明治41年)、豊島巣鴨に移り再建されるのであります。
この再建に辺り、本妙寺は、火事の戒めに本堂の正面に通常設けられる大門を、本堂ではなく火事の死者の慰霊塔が建てられています。
そして、本堂はその慰霊塔を左に曲がった先に建てられているらしいのです。
この火事の様子を時系列で追うと、明暦3年1月18日に江戸の本郷丸山の本妙寺(藤葉法華宗)の失火から発し、翌日まで丸二日燃え続いた。
振袖火事・丸山火事。丁酉火事とも呼ばれるこの火事。1月18日は、所謂春一番季節で、空気が乾燥し、北西風が強いときで、この火事により、北は柳原から、南は京橋、東は佃島・深川・牛島新田まで延焼しています。
このとき吉原も全焼しました。1月19日には、小石川鷹匠町から出火し、大名屋敷などを焼き、ついで江戸城本丸・二丸・三丸もも炎上しました。
さらに麹町からも出火し、桜田一帯を焼き、火はそれから二手に分かれ、一手は通町に、一手は愛宕下を経て芝浦に至りました。
これによって江戸の町の60%が灰となり、大名屋敷160、旗本屋敷770余、寺社350余、橋60,町屋は両町で400町が焼失し、死者は五万人とも十万人とも言われます。
ですから、お鶴の二百五十両を盗んだと思われる初五郎も、生きているのか?灰になっているやもしれません。
さて、井筒波次郎は南蒲原郡、本成寺村の本成寺で、秋月大八郎の行方を見付け出せますように!と、見事に父の仇を討てますように!の二つを強く、強く祈願いたしたして、秋月大八郎の故郷である新発田を目指し、再び歩き始めます。
然し、三条に入った辺りから、脇腹に差し込む様な激しい痛みを感じ始めて、一の木戸の地蔵堂の前でとうとう歩けなくなります。
是を見付けた、往来の町人、百姓、二、三人が波次郎の周りに、心配して駆け寄ります。
町人「お武家様、しっかりしなされ、どうなさいました?!」
波次郎「忝い、俄かに腹痛で御座る。疝気が暴れて横ッ腹が痛い。」
町人「悪い脂汗が出ています。医者に早く見せぬと大変だが、誰か?医者に連れて行ってあげられる方は有りませんか?!」
百姓A「この辺りには、そんな気の利いた医者などおりゃぁ〜せんぞ!」
百姓B「八幡宮の宮司なら、医者の知り合いが居るやもしれぬぞ!お武家様、しっかりしなさい。」
と、蹲って苦しむ波次郎の周りに次第に、野次馬が大勢集まり始めておりますと、そこに、五十絡みの体格の宜い親分風の長脇差が、子分衆を四、五人伴に連れて通り掛かります。
百姓A「之は!澤右衛門親分、丁度良かった。親分、このお武家様が、地蔵堂の前で、腹が痛いと言って動けなくなってんです。どうか?お助け願います。」
澤右衛門「そうなのかい。そいつは気の毒だ。旦那、少し辛抱して下さい。オイ!松公に留!二人で、八幡様の宮司に言って台八俥を借りて来い!
それから、安と梅公は近所の小川で、この竹筒に綺麗な水を汲んで来て、お侍さんに飲ませてやれ!いいかぁ、急いで頼むぜ。」
全員「ハイ、ガッテンです。」
言われた子分衆が、直ぐに動いて、水を飲ませて台八俥に乗せて、澤右衛門の家へ運んで、直ぐ床を敷いて寝かせます。
その上で医者を呼んで診せますと、疲労で胃腸が弱っている所に、何か腐敗物(いたんだもの)を口にしたせいで、食あたりを起こしたのだと、胃腸薬と解熱剤を処方されます。
まだ、その日は熱と下痢が酷かったのですが、二日、三日と経つうちに、徐々に回復し、下痢が治まった所で、お粥が食べられるまでに回復致します。
波次郎「親分さん、本当に危ない所をお助け頂き感謝の言葉もありません。見ず知らずの拙者に、こんなに親切にして頂き、この恩は一生忘れません。そして、せめて医者の費用と宿泊代などをお支払いしたいのですが、おいくらぐらい払えば宜しいでしょうか?」
澤右衛門「いえいえ、代金や礼金欲しさに助けた訳じゃ御座んせん。アッシら無職渡世の者は、手前(てめぇー)も旅をしますから、情けは人の為ならず、と、重々弁えて(わきまえて)おります。
それに、まだ、病み上がりで寝てないとダメですよ。医者も言っておりました。治りかけに無理するのが、一番良くないと。ですから、完治するまで、遠慮なく十日でも、二十日でも、この家で療養して下さい。
遠慮は要りませんから、若衆が常に三十人から居る家だ。旦那の一人や二人、どーって事ありませんから、不都合が有れば、アッシか妾(にょうぼう)に何んでも言って下さい。微力ながら相談に乗ります。ところで、旦那は、どちらから来られたんですか?」
波次郎「私は、宇都宮城下奥平藩の筑紫市兵衛先生の門弟で。。。ただ訳あって、名前は勘弁願います。」
澤右衛門「と言うと、奥平大膳大夫様のご家中ですか?」
波次郎「それが、そうでは御座いません。拙者はご家中である筑紫先生の弟子では御座いますが、藩の人間ではなく、城下の商人の倅で御座います。
話せば、長くなりまして、かくかくしかじか、そう言う訳で、親の仇を討つ為だけに、侍となり四年間修行を続けて参りました。」
澤右衛門「それで、その仇を探す為の旅の道中に、この三条に来て病に倒れられた。そう言う訳なんですねぇ〜、それでその仇と言うのは、どう言う輩なんです?」
波次郎「それは、元は新発田藩で伯耆守様の家来で二百石取りの剣術指南役だった男で、名を秋月大八郎と申します。」
澤右衛門「其れで、そいつの年齢は?」
波次郎「ハイ、三十七、八になろうかと思います。
澤右衛門「そうですかい。で、どん背格好、身体つき、容姿なんです?」
波次郎「背は五尺五寸ぐらい、中肉で骨太のがっしりした体型で、眉が太く目がパッチリしたやや色黒のなかなか男前に御座います。」
澤右衛門「そうですか。。。そんな野郎が。。。アッシも気に掛けては於きます。だが、旦那、まず今は身体を治す事に専念下さい。」
波次郎「ハイ、忝のう御座る。」
と、言っ部屋を出た澤右衛門だが、波次郎の話の仇とは、間違いなく自分が養子にし、一家の跡目に決めた大八の野郎だ!と確信します。それで深く考え込んでしまいます。
良かれと思って助けた侍が。。。後悔しても始まりません。兎に角、大八が帰るのを、今か?今か?と、待つ澤右衛門で有りました。
そして其処へ、漸く五ツの鐘が鳴る頃に、大八が十日ぶりに、我が家へと帰って参りました。
若!お帰りなさいまし。若!お帰りなさいまし。
と、住み込みの若衆が出迎える声を聞いて、澤右衛門は、奥から玄関へ飛んで参ります。
大八「親分!どうしました?」
澤右衛門「帰って早々に悪いが、着替えたら、ちょっとばかり、大事な用が有る、奥の座敷に直ぐ来てくれ!
其れから、龍次、馬五郎、俺と大八は大事な話が有るんで奥の座敷に籠る。万一、客が来ても俺たちが出て来る迄は待たせておけ。其れから、お前たち子分も、奥には近付くなぁ!いいなぁ。」
龍次・馬五郎「ヘイ、畏まりました。」
澤右衛門は奥の居間に入り、大八も直ぐに着替えたら、同じく奥へと消えて行った。そして、居間に居たお亜希にお茶を頼むと、このお亜希にも其処から出るよう指図して、二人きりになります。
澤右衛門「先に、旅の塩梅を聞こう。」
大八「銚子ノ五郎蔵親分とこの賭場は、大したもんですぜ。七つ八つ在る賭場が、連日、三、四十人の客で賑わっている。
客単価からみて、日に百五十から二百両は毎日動いている。儲けが一割二分だとしても、一月に七、八百両は儲けてますぜぇ。」
澤右衛門「兄弟ん所は、うちの四、五倍は稼いでいるのかぁ〜、まぁ、身内の数も三倍以上だからなが。」
大八「ヘイ、びっくり致しました。さて、今日は人払いなんかして、大事な話って、何んで御座います?」
澤右衛門「一つ、貴様に確認しておきたい事があるんだが。。。お前は、新発田藩を浪人になったと聞いちゃいるが、詳しい理由(わけ)までは聞いちゃいない。其れを、オイラに教えちゃ貰えないかい?」
大八「どうしたんですか?親分。急に、そんな昔の話はどうでもいいでしょう?何か有ったんですか?」
澤右衛門「お前は、新発田藩を何んでしくじったか教えて貰いたいんだ。」
大八「。。。」
澤右衛門「言えない様な事かい?言いたくないなら、無理には聞かずに、話を先に進めよう。お前が銚子に出掛けていた留守中。
一人のお侍をオイラ、拾ったんだ。地蔵堂前で疝気が出て青い顔して蹲り、油汗をダラダラ流して苦しんでいるのを医者に診せて助けたんだ。
ところが!この侍が言うには、親の仇を探して旅をしているんだそうなぁ。そして今は侍だが、五年前、父親が殺される前は、宇都宮の商人だと言うんだ。
話によるとその侍、宇都宮では一、二を争う豪商の倅で、秋月大八郎と言う新発田藩の浪人に、継母に間男された上、父親を斬り殺されたと言うんだ。
だがなぁ、自分の名前は勘弁してくれと言って一切語らないが、秋月大八郎って言うのは、大八!貴様の本名だろう!?どうなんだ?」
大八「分かりました。じゃぁ〜、喋ります。其の侍ってのは、宇都宮の大きな酒屋で、質両替商兼呉服屋の『大口屋銀兵衛』の倅、波次郎です。
アッシが藩の同役の内儀に間男して、その現場に同役の旦那に踏み込まれて、旦那と内儀を斬り殺して逐電し、逃げる最中の旅の空で、その大口屋銀兵衛と知り合いました。
たまたま、其の道中、穢多の猟師風の六人組に、俺が狐を捕まえた事で、縄張り荒らしと因縁付けられて、命のやり取りになり銀兵衛を助けたら、『貴方は命の恩人だ!宇都宮の家に是非来い。』って事になり、銀兵衛の家へ行ったんです。」
澤右衛門「それで?なぜ、その銀兵衛を殺したりしたんだ?」
大八「銀兵衛の家に行くと、元深川芸者の内儀が居て、此れが艶めかしい態度で粉掛けて来るから、又々間男する事になり、
その内儀に、『銀兵衛が邪魔!大口屋を乗っ取りましょう。』と唆されて、銀兵衛が川釣りに行った帰りを襲い殺害したんですが、
名前を書いた書付入りの紙入れを落として、殺害が露見して宇都宮からも逐電する羽目になり、凶状持ちとしてお尋ね者となりやした。」
澤右衛門「どおりで、砕けた喋りをする侍だと思ったら、お前は飛んだ悪党だったのかぁ。」
大八「親分、それで病で寝込んで居るんですか?波次郎は。」
澤右衛門「いやいやもう、八分は回復して、跡三、四日もすれば全快する。」
大八「流石に、今、寝込みを襲いこの家で殺すと一家に迷惑が掛かります。親分は、このまんま野郎を介抱し続けて、旅に送り出して下さい。
そうしてくれたらアッシが、何里か離れた人気の無い峠道で返り討ちにして始末しますから、宜しくお願いします。」
澤右衛門「分かった。今夜は二階に泊まって行け。そして、明日からは二丁目の旅籠屋、田島屋慶蔵に隠れて居ろ。あの侍が出発する段になったら知らせてやる。」
大八「分かりました。では、二階に参ります。」
こんな二人の遣り取りがあり、波次郎の命は風前の灯火!しかし、『壁に耳あり、障子に目あり』、此の二人の会話を唐紙越しに盗み聞きしていた奴が在りました。
それは、澤右衛門の子分の馬五郎で御座います。この馬五郎、実は宇都宮城下に近い鹿沼の生まれで、父親の権助は大口屋で飯炊きとして働き、二年前に他界しております。
そんな背景の馬五郎は、病で担ぎ込まれた時から、馬五郎は『あの侍は大口屋の若旦那では?』と、思っていた所に、親分と代貸が密談を始めたので、是を盗み聞きしておりました。
そうしたら、名乗った訳ではないが、どうやら病の侍は大口屋の若旦那らしく、二人が其の若旦那を殺す算段を始めたから、馬五郎は驚きました。
そして、家人が寝静まるのを待って馬五郎は、独り波次郎の寝ている部屋を訪れます。
馬五郎「旦那!起きて下さい。」
波次郎「ウーン、ウーン、ウーン。」
馬五郎「旦那、旦那、起きて!」
波次郎「ウッ、ウーン、貴方は?」
馬五郎「アッシは、鹿沼ノ馬五郎と申しまして、此の家の若衆で御座います。実は、私は大口屋で長年飯炊きをしていた権助の倅でして、
オヤジは、大口屋の旦那には並々ならぬ恩が御座いまして、貴方はその大口屋の若旦那、波次郎さんじゃ御座んせんか?」
波次郎「その通りだ。拙者はその波次郎だが、其方はあの権助爺の御子息かぁ?懐かしいなぁ、権助爺。拙者も大変世話になった爺さんだ。権助爺は健在かぁ?」
馬五郎「残念ながら、二年前に他界しました。死ぬ直前まで、大口屋の旦那様には、感謝しても感謝しきれないと、譫言(うわごと)の様に言っておりました。
アッシも幼い頃には何度も大口屋へ参りまして、旦那様にも可愛がって頂きましたが、十二、三歳になると、喧嘩と博打に明け暮れて、鹿沼を飛び出して越後國へ参りました。
そして跡はお決まりの、人別帳からは籍を抜かれて無職渡世に身を投じ、縁有って澤右衛門親分の身内となり、今は長脇差として生きております。」
波次郎「権助爺から聞いていたよ、やんちゃで勘当した息子さんが有ると。」
馬五郎「お恥ずかしい。ろくな親孝行もしない内に親父に死なれて、石に布団は着せられずです。
又、銀兵衛旦那も殺されたと聞いていましたから、若旦那が親の仇討ちをと、旅をされていたとは、今、初めて知りました。」
波次郎「拙者が江戸に行った留守中に、秋月大八郎と言う奴に、間男された上に父は斬り殺されたんだよ。」
馬五郎「その様ですね。と、申しますのは今し方、正に親分の澤右衛門と代貸の大八の二人の会話を盗み聞きし、アッシも知りました。」
波次郎「どう言う事だい?馬五郎。」
馬五郎「実は、その秋月大八郎は、この一家の代貸、大八なんです。」
波次郎「何んだと!誠か?」
馬五郎「誠です。親分も寝耳に水、さっき大八からの告白を聞いて初めて知った様子でした。だから、若旦那が大八を仇と狙っているとは夢にも思わず助けてしまった様です。
しかし、大八が親殺しの間男野郎と知りながら、養子にした親の引目で庇うと決めたようなんです。だから危ないんです、一刻も早くこの家から若旦那!逃げて下さい。」
波次郎「お前は、親分や代貸を裏切り、なぜ、拙者の見方を致す?」
馬五郎「オヤジは大口屋さんから、並々ならぬ大恩を受けておりますし、そのオヤジに孝行する前に死なれたアッシとしては、若旦那に恩返しするのが、何よりの親孝行だと思うからで、御座います。」
波次郎「情けは人の為ならず、父銀兵衛も草葉の陰で喜んでいるぞ!馬五郎。」
馬五郎「ハイ、澤右衛門一家よりアッシは大口屋です。さぁ、肩を貸しますから、早く逃げましょう。そして、其の足で代官所へ訴え出ましょう。」
波次郎「馬五郎!、拙者、今は商人ではなく武士で御座る。筑紫市兵衛先生に師事して、四年半、死に物狂いで腕を磨き、今年の奥平藩の御前試合では一番に輝いている自負もある。」
馬五郎「お言葉ですが、大八、秋月大八郎は、四年程度の付け焼き刃で勝てる相手では、正直ありませんよ。
それにまだ十分病が治り切っていませんから、此処は江戸町奉行所の出張役人の助けを借りて、銀兵衛さんの仇を確実に討ちましょう。」
波次郎「分かった。代官所へ急ぐぞ!馬五郎。」
思わぬ救世主が現れて波次郎は、その馬五郎を連れて澤右衛門の屋敷を飛び出して、代官所へ駆け込むのだった。
つづく