大口屋銀兵衛を殺害した秋月大八郎は、宇都宮城下へ戻りはしたが、直ぐに大口屋へは帰らずに、城下行き付けの居酒屋『八起』で繋ぎをして、懐中に紙入れが無いと此処で気付ます。
何処で落としたんだ?紙入れ。
取り敢えず、紙入れには一両二分しかなく、胴巻の三十両は手付かずだから、リスクを犯してまで、現場に戻る事はせず、城下で暫く様子を伺います。
一方、大口屋ではお鶴が、『上手く秋月大八郎が銀兵衛を殺してくれたやら?』と、ヤキモキ、そわそわしながら、その帰りを待っておりますが、
先に申した通り、秋月は秋月で紙入れを落としたが為、大口屋へは帰るに帰れぬまま、居酒屋で繋いでおりました。
すると、大口屋に鍬を担いで、百姓の耕作が血相を変えて飛び込んで参ります。
耕作「番頭ドン!甚兵衛ドン!いなさるかぁ?大変な事になった。」
是を見た小僧が、直ぐに奥で帳面を付けていた番頭の甚兵衛を呼びに走りました。
甚兵衛「どうしました?耕作ドン。」
耕作「今、畑から帰る途中で、八幡様の前の竹藪に出る道さぁ、通っていたら、お前さん所の銀兵衛さんが、血塗れで倒れていて、おっ死んでるでねぇ〜かぁ。
もう、慌てて番屋に知らせて、そのまま、二の足で此方へ伺ったッて訳なんです、番頭さん。」
甚兵衛「エッ!旦那様が、殺された?人違いじゃないのかい? 耕作ドン、本当に旦那様が?」
耕作「番頭さん、お気持ちは分かります。オイラも、何度となく確かめたんだ。釣竿下げて、あの無意味に大きな魚籠を持っていなさるのは、世間広しと言えど銀兵衛さんだけだ。」
周りで聞いていた奉公人全員が一斉に泣いた。すると、奥に居たお鶴が、この騒がしい気配を感じ取り、店先に様子を見にやって参ります。
そして、番頭から「ご主人、銀兵衛様が殺されました!」と、知らされて、『ヨシ!』と思う喜びを押し殺し、その場で放心からの泣き崩れて見せるのでした。
甚兵衛「お内儀様、お気を確かに。兎に角、まずは、総領の波次郎さんに、旦那様が亡くなられた事を、手紙に致します。
文面は、私が書きますから、署名だけは、ご内儀の名前でお願いします。まだ、今すぐに出せば、早馬で明日の五ツまでには馬喰町の梅屋に届きます。」
お鶴「分かりました。番頭さん!宜しくお願いします。」
一方、番屋から早馬で町奉行、奥平大學の屋敷にもこの知らせが届き、大學は直ぐ様、検死の役人を連れて殺害現場に向かいます。
すると、殺しの手口が、刀で深く袈裟掛けに斬られ、喉を繰り抜く様に留めを刺している事から、物取りの犯行ではなく、怨恨だと直ぐに分かります。
又、遺体が仰向け大の字に倒れながら、身体下に隠す様に仕舞い込んでいた紙入れを調べると、『新発田藩浪人 秋月大八郎』の書付が出て来て、この秋月が大口屋で居候している事も、直ぐに分かってしまいます。
一刀流の免許皆伝、浪人者である秋月大八郎が重要参考人!と、なりまして、二十五人からなる取方が編成されて、大口屋へ秋月大八郎の捕縛に向かいます。
しかし、秋月は八ツ過ぎに外出したまんま、まだ、帰らぬと分かりますから、十五人を大口屋に埋伏させて、十人は、城下の探索へと捜索に走ります。
この気配を城下で繋ぎをしていた秋月大八郎は、当然分かりますから、六ツ過ぎて辺りが闇に支配されるまで待って、街道筋は避け、畑ん中を通り、城下北に在る蒲生神社を抜けて、その裏手にある八幡山へと逃げ込みます。
また、お鶴の方も、秋月大八郎に追手が掛かった事は、大口屋に居ながらにして分かりますから、波次郎への手紙や、番屋に銀兵衛の亡骸を取りに行く辺りまで、悲劇の未亡人を演じてはいたものの、
波次郎が、帰って来る前に、自からも江戸表に逃げる算段を致します。兎に角、家中の金子を集めて胴巻に隠し、衣装(なり)は行商の婆さんに化け、
大きな背負い葛籠には、お気に入りの着物や櫛、簪を入れて、顔は炭と泥を塗りたくってから、笠と布巾で顔を隠す念の入れ様です。
こうして、通夜の晩のどさくさに紛れて、変装したお鶴も、大口屋から逃げて何処かへ消えて仕舞いました。
さて一方、江戸は馬喰町梅屋に居ります、波次郎はと見てやれば、日本橋から人形町界隈で商談を済ませて、梅屋へに戻りますと、
早馬で宇都宮から手紙が来ていると、梅屋の主人治兵衛から直々に其れを渡されます。宛名を見ると、継母のお鶴からになっており、何事かと開けて見ますと、父の訃報で御座います。
文面は、覚えのある番頭甚兵衛の手ですから、是は偽りなき誠の事だと、漸く父の死を受け入れる波次
ですが暫くは放心のまま、泪も出ずにただ、ただ、呆然としておりました。しかし!殺害の二文字に怒りが込み上げて、怒りが嗚咽に変わります。
もう此れは一大事、商売どころでは在りません。翌日以降の江戸での約束を、全てキャンセルして、
翌朝は江戸馬喰町を七ツ立ちで、早駕籠を乗り継いで、乗り継いで銀兵衛が殺されてから、四日目の昼には宇都宮城下に入り、菩提寺である九遠山法華寺に直行致します。
甚兵衛「若旦那!此方へ、荼毘に伏す前に、旦那様を一眼、一眼最後の暇乞いを!」
波次郎「おぉ、お父ッつぁん!!」
早桶に入れられた、父の亡骸を見て、崩れ落ちる様にさめざめと泣く波次郎。
波次郎「甚兵衛さん、義母さんの姿が見えない様だが?喪主は、義母さんじゃないのか?」
甚兵衛「それが。。。」
此処で初めて、父銀兵衛を殺した相手があの秋月大八郎であると、波次郎は番頭甚兵衛の口から知らされます。
又、お鶴は、この銀兵衛殺害のどさくさん中、事もあろうに通夜の晩、深夜に、家ん中から二百五十両ばかりの金子を盗んで逐電した、と聞かされます。
だから、どっちも!初めて来た日に、『厭な奴』『我が家の元凶になる!』『家に祟る奴』そう直感したのに。。。と、後悔しますが、由良助に御座います。
そして、留守中、色々と世話になった親戚、奉公人に礼を述べた後、「私は、父銀兵衛の無念を晴らす為に、必ずや、秋月大八郎を討ち取ります。」と宣言するのですが、
是を聞いた親戚、奉公人たちは、一同に馬鹿な考えは捨てて、商売に励み、店の繁栄に努めるべきだと意見を致しますが、波次郎は、「私には考えがある!」と言って、仇討ちを諦めません。
そんな波次郎を見かねた、銀兵衛の実弟、叔父の喜右衛門と言う、宇都宮城下でも有名な名主が、波次郎の元を訪ねて、仇討ちに拘る真意を確かめるのでした。
喜右衛門「波次郎、お前が親思いの息子なのは、叔父の私が見ていても、宜く分かるが、相手が悪る過ぎる。
お前まで、あの秋月大八郎とか言う浪人に殺されては、叔父の私は、天国で兄さんに逢わせる顔が無いぞ!、どうか、諦めてくれ!波次郎。」
波次郎「喜右衛門叔父さん、私は正面から剣で挑んで、秋月大八郎を討てるとは、思っておりません。」
喜右衛門「エッ!まさか、鉄砲でも手に入れて撃ち殺す気か?」
波次郎「違います。」
喜右衛門「分かった!仕置き人だなぁ?金子で仇を殺してくれる。仕置き人を雇うのか?!」
波次郎「まっ、当たらずとも、遠からずです、叔父上。今は江戸勤番となられた、仲子町の筑紫市兵衛先生に、仇討ちの相談をする所存です。
例えば私が秋月の行方を探し、市兵衛先生に仇討ちをお頼みしようと考えております。万一、先生がならぬと申されるならば、仇討ちは諦めて、商いの道を極める所存で御座います。」
喜右衛門「ヨシ、判った!安心して江戸表へ参り、筑紫市兵衛先生にお頼みして来い。そうだ!出掛ける前に、儂から大學様に頼んで、筑紫先生への書状を書いて貰ってやる。
そして大口屋の方は、私が番頭たちに商いさせて、しっかり切り盛りしてやる。安心して、江戸表へ行って来なさい。」
波次郎「有難う御座います、叔父上。」
翌日、奉公人には何処へ行くとも告げずに、叔父喜右衛門と各店の三人の番頭に商売を任せて、波次郎は親の仇を討つ為に、奥平藩の江戸上屋敷を目指し出発します。
馬喰町梅屋へ今回も一旦宿を取り、直ぐに丸の内へと出掛けて行きます。そして、奥平藩上屋敷、その門の前に立ちますと、当然、門番に止められます。
門番「何んだ?貴様は。」
波次郎「ハイ、手前は同藩所領地、宇都宮城下池上町にて、酒屋など営んでおる大口屋波次郎と申す商人に御座います。」
門番「おう!ご領地の商人かぁ。その商人が何用である?!」
波次郎「ハイ、此方にいらっしゃる、武芸指南番の筑紫市兵衛先生に、面会を希望いたします。」
門番「筑紫殿に? お知り合いで御座るか?」
波次郎「ハイ、大口屋波次郎と申します。奥平大學様よりの書状が御座います。之を筑紫先生にお読み頂いてからで結構です。宜しくお願い致します。」
奉行大學の書状を持参していると聞いて、上から目線だった門番の態度が急変します。
門番「何んの、お奉行様ともお知り合いなら、問題は御座らん!早く言って下され、お人が悪い。お主、若いのに顔が広いのぉ〜、お見それ致した。この帳面に、名前と住所を書きなさい。直ぐに、筑紫市兵衛殿の小屋に案内致す。」
言われた、波次郎は『宇都宮城下池上町 大口屋波次郎』と記帳すると、門番が筑紫市兵衛の小屋に案内してくれた。
さて、江戸時代、江戸藩邸内に、どんなに立派な屋敷を与えられても、藩士たちは是を必ず『小屋』と呼び、領内城下の家だけを、唯一『屋敷』と称した様である。
市兵衛「之は之は、波次郎殿。久しぶりで御座る。江戸へは商いですか?お会いするのは二年ぶりですかなぁ?すっかり立派に成られて、お父様、銀兵衛殿は元気にしておられますかなぁ?」
ッと、言われた瞬間、感極まり波次郎が突然、ポロリポロリと大粒の泪を落とし始めます。
市兵衛「どうしました?何故、お父様の名前を出した途端に泣くんですか?波次郎さん!」
波次郎「其れは。。。ウッ、ウッ、ウッ。。。」
波次郎、嗚咽ばかりで、言葉になりません。
市兵衛「分かった!皆まで言いなさんなぁ。アレですね。商用で江戸表に来て、まだ、商談が成立していないのに、吉原のお職に入れ揚げて、金子を使い果たしたんですね?!
其れで旅籠にも居られなくなり、私の所に、助けを求めて来た!そんな所でしょう。若い時には有りがちな過ちです。
分かりました!分かりました!泣かないで下さい。私の小屋で良ければ、何日、いや一月、二月でも好きなだけ居て下さい。
そして、百両、二百両は無理ですが、十両、二十両の金子なら都合しますから、商いは続けて下さい。
あと、なんなら、親父殿に謝罪するのも手伝わさせて頂きます。筑紫市兵衛!お口添えさせて、頂きますから、大船に乗った気持ちで。。。」
波次郎「違います!そんな吉原だなんて、浮いた噺では御座いません。」
市兵衛「まさか、博打か?」
波次郎「私は賭け事は致しません。」
市兵衛「其れでは、何んだ?」
波次郎「先ずは、この大學様の書付を!この書付を!読んで下さい。」
波次郎が差し出した書状を読んで、市兵衛の顔色が変わります。
市兵衛「誠、この書状に書かれてあるとおり、銀兵衛殿は、越後新発田藩浪人、秋月大八郎なる侍に、斬られて亡くられたのですか?」
波次郎「誠に御座います。私が、江戸表に商用で家を留守にしていた時を狙って、恐らくは義母のお鶴が手引きを致し、父銀兵衛を雀ノ宮の八幡宮近くで待伏せして、斬り殺したに相違御座いません。」
市兵衛「拙者も一度だけ、其方の義母を、銀兵衛殿に紹介されたが、派手な如何にも水商売上がりの、ハスッぱな女子(おなごし)であった。
アレは、宇都宮へ連れて帰り後添にすると言う、まだ、正式な夫婦になる直前で、『およしなさい』と、言いたくなる女だったが、
銀兵衛殿が惚れているのが判った由え、喉まで出掛かったのを飲み込みました。銀兵衛殿が好いて一緒になるのだと、蓼食う虫も好き好き、そう思ってしまいました。」
波次郎「喩え、市兵衛先生が止めても、あの時の父は、お鶴に入れ揚げていましたから、親子程の歳の差のあの女と、別れはしなかったと思います。」
市兵衛「其れで、この書状に在る『新発田藩浪人、秋月大八郎』なる男を、波次郎殿はご存知なんですか?」
波次郎「勿論です。父が商用で参った旅先の越後より、命の恩人だと連れ帰った浪人者で、私は初めて見た時から、怪しい輩と心配しておりました。
最初(ハナ)は、日光へ参詣の途中、大口屋へ立ち寄ったなどと申して十日、十五日滞在する予定でしたが、ずるずると半年の居候。
其れで、恐らくお鶴に間男をして、父を殺してバレなければ、私も殺して大口屋を乗っ取る算段をしていたに相違御座いません。」
市兵衛「其れにしても、銀兵衛殿を殺した下手人が、こうも早く宜く露見いたしたもんだなぁ〜」
波次郎「其れは、何んと言っても町奉行の大學様のお力で御座います。秋月大八郎が犯行現場に落とした紙入れを見逃さず、直ちに追手を掛けて下さった由え、今私の命があるのだと考えております。
確かに、秋月大八郎とお鶴を逃がした事は残念ですが、必ず、父を殺した秋月大八郎の奴は、この手で仇を討ちたいと、思っておる次第です。」
市兵衛「で、此の書状には『ご助成頂きたい』と在るのだが、拙者に何を望まれる?波次郎殿。拙者、大口屋銀兵衛殿には、宇都宮へ参ってから並々ならぬ御恩が御座る。
今日只今の筑紫市兵衛が在るのは、母の事も含めて、銀兵衛殿のお陰である!と、思って御座る。その大恩人の銀兵衛殿の仇討ちだ、波次郎殿、お考えを、ざっくばらんに述べられよ。」
波次郎「宇都宮を出る際、親戚や奉公人からは、仇討ちなどと、大層反対されました。返り討ちに合うだけだと。
しかし、この無念は私が晴らさねば、誰が晴らしてくれましょう。最初(ハナ)から私が商人を捨てて、仇討ちの為に武士になると言い出したら、猛反対されますから、
嘘も方便で、私は秋月大八郎の行方を探索するだけで、仇討ちは筑紫市兵衛先生にお頼みすると、叔父の喜右衛門を説得して、江戸へ出て参りました。
ですが、私は先生に改めて弟子入りし、剣の修行をして、この手で父の仇を討ちとう御座います。どうか!私の我儘を、先生!どうか聞いておくんなさい。」
畳に頭を擦り付けて懇願する波次郎の一途な目に打たれた市兵衛、自らの内弟子として小屋に留置、近習の家来として雑用を申し付けながら、厳しく武芸全般の修行を課す事を決めた。
市兵衛「之より、波次郎、貴様は武士になる。つまり実践だけでなく、戦術、兵法と言う学問も一緒に学び、文武両道、真の武士に儂が育ててやる。」
波次郎「ハイ、宜しく頼み申します。」
市兵衛「まずは、形から。言葉使いや、所作、そして名前も武士らしくせねばならん。其処で、其方の姓を決めたいのだが、大口屋を名乗る訳には行かぬので、何か宜い案はないか?」
波次郎「それでは、先生。拙者の母方の商売の屋号が、『井筒屋』に御座います。然すれば、井筒を姓にするのは、如何でしょうや?」
市兵衛「井筒波次郎か、宜い!武士らしく宜い名前である。今日より、お前は井筒波次郎だ!励め波次郎。」
こうして、大口屋波次郎 改め 井筒波次郎が誕生し、筑紫市兵衛の指導元、朝から役回りの雑用をして、昼過ぎに小屋へ戻ると剣術、馬術、柔術、弓術、槍術、鎖鎌術、鉄砲術、そして忍術などなど、武芸十八般の実践訓練稽古、稽古、また稽古です。
更に暮れ六ツ過ぎると、兵法の講義を市兵衛先生から指導されて、こちらは元々、学問に明るい波次郎、水を得た魚の如く、筑紫市兵衛の知識全てを吸収致します。
そして、一年が過ぎた頃には、出稽古が許されて、柳生新陰流、小笠原流槍術、宍戸流鎖鎌術、そして曲垣流馬術など、江戸で吸収できるあらゆる武芸を、貪欲に吸収する波次郎で御座います。
やがて修行から三年。もうこの頃になると、奥平家の馬術の名人、筑紫市兵衛の弟子に、井筒波次郎と言う凄い奴が居ると、江戸では評判になり、
筑紫市兵衛殿には、流石に敷居が高く稽古は頼めぬが、弟子の井筒の若先生になら、稽古が頼み易いと、近頃では、名指しで『若先生、波次郎殿に稽古を!』と、声が掛かる。
こうして、波次郎武士となり四回目の正月を迎えております。
市兵衛「波次郎!新年、おめでとう。」
波次郎「先生、おめでとう存じます。」
市兵衛「さて、なかなか貴殿の親の仇、秋月大八郎の消息を、事あるごと八方聞いては見ているが、なかなか知れぬは残念だが、
其れに付けても、其方の武芸の上達には目を見張る。もう、あと一、ニ年で、拙者を追い抜く勢いである。誠に天晴れ!天晴れ!」
波次郎「何を申されます。拙者、まだまだ未熟。先生や、曲垣殿、向井殿から、学ぶ所多く、薩摩の宍戸様ともお話し致しますが、お三人のように成れるのは、いつの日だろう?と。」
市兵衛「おう、小三郎も薩摩から江戸に来ておるのか?」
波次郎「ハイ、四月の参勤交代前の赴任だと、師走に江戸に入られて、先生の留守中挨拶に来られました。年が明けたらゆっくり、先生にご挨拶なさると、申しておられました。」
市兵衛「小三郎は、拙者の一番弟子だ。其方とは歳も近い、切磋琢磨して二人とも良い武士に育ちなさい。
さて、今日は一つ拙者の名代で、四ツ谷伊賀町の松平摂津守様のお屋敷に出向いて、この書状を家中の田宮伊右衛門殿に渡してもらいたい。
返事の必要な書状では無いので、特にかしこばった口上など不要である、先方では年始の挨拶だけしたら、帰って来なさい。」
波次郎「四ツ谷の田宮伊右衛門様ですか?何んとも、幽霊が出そうな相手で、薄気味悪いですね。分かりました、行って参ります。」
市兵衛からの用を仰せ遣った市兵衛は、新しい仙台平の薄く青味掛かった袴を履いて、黒の五つ処紋付に、鬱金(ウコン)に染めた麻合羽を上から羽織り、雪のチラつく中を蛇目を差して出掛けました。
丸の内の奥平江戸藩邸を出て、千代田の城の外堀通りを、日比谷、桜田門、永田町へと来た辺りで、雪が本降りになり、景色が真っ白に変わります。
更に、赤坂見附から弁慶堀の脇を抜けて、四ツ谷へと差し掛かった頃には、雪が激しく舞う様になり、武士は刀の鞘の先が濡れる事を嫌いますので、
波次郎も、合羽から刀が飛び出さないように、落とし差しの大刀の角度がなるべく下になる様に気を使いながら歩いて、伊賀町の各藩の江戸屋敷、又旗本、御下人の組屋敷が軒を連ねる辺りへとやって参ります。
大名藩邸は、赤坂見附からほぼ近い所にありまして、松平摂津守の藩邸もこの辺りで御座います。用を済ませた、波次郎が、来た道を弁慶堀の方へと下って行くと、
そのangelica!もとい、道端に莚(コモ)を敷いて座り、前に三合升の投げ銭受を置いた、女乞食が、この雪が降りしきる寒空に、一人ポツンと商っております。
近くで宜く見ると、髪はザンバラで雪が積もり、そして梅毒(カサ)かいたのでしょう、頭と顔には無数の膏薬が貼られていて不気味な女乞食で御座います。
女乞食「旦那様、旦那様、一文!一文!お恵み下され。哀れな乞食に御座います。」
慈悲深い波次郎の事、傘を女にも掛かる様に差し出すと、袂を探り三十六文有った小銭を、全て前の三合升に投げ入れてやります。
そして、此の時、更に間近で上から見下ろす波次郎と、下から見上げる女乞食の目と目が合うて、互いに見合わす顔と顔。
ハッ、貴方は!お義母さん(オッカさん)
エッ、そう言うお前は、波次郎!!
そう!この女乞食は、秋月大八郎の父銀兵衛殺しに手を貸して、挙句に大口屋から二百五十両あまりの大金を盗み逐電した、継母お鶴の成れの果て!
波次郎「義母さん!どうしたんですか?」
お鶴「私は、銀兵衛さんを裏切り、秋月と不義密通の末に、あの人を殺す算段に手を貸して、剰え(あまつさえ)、店から二百五十両もの大金を盗み江戸へと逃げて参りました。罸(バチ)が当たったんです。自業自得で御座います。」
波次郎「義母さん、二百五十両もの金子を三年半で、使い果たしたんですか?」
お鶴「いいえ、ねぇ〜、噂でお前さんも聞いてないかい?寛永十六年のあの火事を。」
お鶴が言う火事とは、千代田の城、江戸城本丸まで焼いた大火で、江戸に常火消し、大名火消しが誕生するきっかけの大火である。
お鶴「最初は、深川に逃げて面白可笑しく暮らしてたんだが、初五郎って賭博打と良い仲になって、賭場の立つ仲間部屋が沢山ある神田に引越したのが運の尽きさ。
いきなり一月もしないうちに、あの大火で皆んな焼けて、アタイは浅草で芝居観ていて、命は助かったけど、初五郎の奴はその金持ってどっかへ居なくなっちまった。
挙句にアタイは、野郎から病気(みやげ)もらって梅毒(カサ)かく始末さぁ、このザマだ。もう、今日を食い繋ぐ為に乞食になって早二年。
何度も死のうとしたんだけれど、生地が無くて死に切れない。トドの詰まりが、無様な姿で生恥を晒してるって訳だ。
波次郎殿、波次郎さん、やさ、波次郎!馬鹿な女で御座んすと、笑ってやっておくんなせぇ〜。いっそ、アタイを殺して下さい。」
そう言うと、哀れなお鶴の乞食が、波次郎のを見上げます。
波次郎「義母さん、確かに一時は貴方を殺したい程憎みました。しかし、今は一度はオッカさんと呼んだ方を手に掛けて殺すなど、私にはできません。
そして、梅毒(カサ)には、草津の湯が効くと聞いた事が御座います。今、之しか差し上げられる金子が手元にありませんが、
この十両で、草津の湯に浸かり湯治をなさり、梅毒(カサ)を治して下さい、オッカさん!やは、お鶴さん。」
お前さんと、言う人は。。。本に、本に済まなんだ!
と、泣いて崩れたお鶴の肩に、優しく手を置き、「草津で梅毒(カサ)、治ったら、宇都宮の法華寺に、オヤジは眠っていますから、墓参りしてやっておくなさい。」
そう言うと波次郎、そんなお鶴に「サヨウナラ」と、今生になる別れを告げて、弁慶堀をただ一人、赤坂見附へと降ります。
一方、是を見送るお鶴は、泪と雪で曇る目で、小さくなって行く波次郎を見て、千切れる様に手を降りながら、「有難う!済まないね!」と、繰り返すのでした。
つづく