宇都宮城下の池上町に、大口屋銀兵衛と言う酒問屋が御座います。商いを手広く致しておりまして、酒だけでなく、味噌・醤油、更には米・雑穀、そして質両替屋なども営んでおりますが、
この質屋稼業が縁となり、最初は古着商売から始めて、今では呉服の販売も手掛けるようになります。そして其れが縁で越後の親戚筋から反物を仕入れて、宇都宮城下で加工・販売する様に成っておりました。
さて大口屋は、この『寛永三馬術』、筑紫市兵衛の巻の最初の頃からお馴染みの人物であり、銀兵衛は市兵衛の漢らしさに惚れて、陰日向に市兵衛を応援する一人で、大層慈善家でも御座います。
この銀兵衛、今年初めに女房に先経たれまして、今年二十一になる波次郎と言う倅が御座います。
ただ、この波次郎、まだ未熟で若こう御座いますから、銀兵衛楽隠居とは行きませんで、自ら仕入れなど重要な商用は、まだまだ銀兵衛自身が行います由え、今回も一人江戸表に来ております。
銀兵衛の江戸表での定宿は、馬喰町・梅屋清兵衛と言う旅籠、今回もこの梅屋に泊まりまして、用事も片付いたので、方々遊山にぶらりぶらりとしておりますと、
馴染みの町芸者『お鶴』が偶然、あちらから参りまして、銀兵衛、この女に声を掛けます。
銀兵衛「おや?其処に行くのは、お鶴じゃないか?御座敷かい?」
お鶴「アラ、大口屋の旦那?お久しぶり。違いますよ御座敷なんて。。。三味線の出稽古に、生徒さんのお宅へ行った帰りなんです。旦那は、商いですか?」
銀兵衛「商いはもう用済みだ。そうだ、お鶴、お前暇か?」
お鶴「ハイもーう、ずーっと暇しています。」
銀兵衛「其れなら、之から付き合え。飯なんぞ馳走しよう。久しぶりに、神田の菊川で鰻でもどうだ?」
お鶴「いいですね。家に三味線置いて来ますから、旦那、定宿は『梅屋』さんで御座んしょう?待ってて下さいなぁ。直ぐに戻りますから。」
と、銀兵衛、このお鶴と言う今年二十八になる大年増の芸者を連れて、菊川へ鰻を食べに行き、夜は出会い茶屋の『一力』で、この女と久しぶりに馴染みになりました。
翌日、また、その翌日と、お鶴を連れて夕方は、馬喰町から上野、浅草の料理屋で食事をして、夜は出会い茶屋でお鶴を抱いて、二十日余りの江戸滞在で、銀兵衛はこのお鶴を、後妻に迎える決心を致します。
このお鶴、器量は特に優れてはおりませんが、背格好は小さくて可愛いらしく、愛嬌が有りまして、実に男好きのするいい女で御座います。
銀兵衛「お鶴、このあいだも申したが、昨年、女房を亡くし、身内は倅と二人だけに成った。親類は宇都宮城下にも在るが、もう、三年、四年すれば、店を倅に譲り楽隠居だ。
どうだ?お鶴。ワシの後添えに成らぬか?隠居暮らしで、其方に苦労を掛ける心配はない。其れなりに楽をさせてやれると思うのだが、どうだお鶴、ワシと宇都宮へ来ないか?」
お鶴「ハイ、有り難い噺です。私には、全く身寄り頼りが江戸に御座いません。宇都宮へ嫁に行く障害は御座いませんが、
ただ、之まで江戸で世話になった芸者置屋の旦那さんと芸者衆の姐さん方、あと茶屋にも多少の借金が御座います。
義理事を済ませて、諸々の借金を返すとなると、七十両、いや八十両ぐらいは必要で御座います。そんな負担を旦那に強いるのは、心苦しゅう存じます。」
銀兵衛「何を水臭い事を。此処に百両有ります。之で三日後の二十八日までに、身辺を綺麗にして、この梅屋に来なさい。宜いですね?お鶴。」
お鶴「ハイ、有難う存じます。」
と、泪を見せて喜ぶお鶴が、銀兵衛は一層愛おしく感じるのだった。そして、二十八日、お鶴は約束通り、銀兵衛の渡した百両で、身の廻りを整理して、正に身一つで銀兵衛の後添えに入る為、旅支度で梅屋に現れた。
そして、元の芸者置屋の主人夫婦と、芸者仲間の姐さん達に両国橋で見送られて、銀兵衛に手を取られ宇都宮へと旅立ったのでした。
さて、大口屋では、銀兵衛が江戸表へ商用で出掛けたかと思ったら、親子程歳の差の若い女房を連れて帰るから、店の奉公人と倅の波次郎はびっくり致します。
父はこの女に騙されているに違いない。
倅、波次郎が嫁を貰う前に、まだ先妻の一周忌も済まぬうちに、まさが、銀兵衛が嫁を取るとは、周囲は思いもよらぬ事に驚き呆れるばかりです。
更に、初めは猫を被っていたお鶴ですが、今頃はもう化けの皮が剥がれておりまして、完全に亭主の手綱を、しっかり握り、ご内儀天下(かかあでんか)の風が吹き荒れております。
誠に慈悲深い結構な旦那様では御座れども、さて一度女と言う事になりますと、利口な方も鼻の下が伸びて間抜けになるもんで御座います。
そもそも、息子の嫁ぐらいの歳の差の、若い女房を後妻に迎えた、銀兵衛さんの料簡が、心得違いだったと言えましょう。
そんな銀兵衛さん、この度は越後の國は虎尾と言う所に商用で出掛ける事になります。其処での仕事を終えた銀兵衛さん、この近く、南蒲原郡三条、大町と言う所に親類の家が御座います。
それは、大野屋と申します立派な呉服屋で御座います。この大町、なかなか繁華な街で御座いまして、世帯が三千軒。旅籠の数も五十二軒、越後では一、二位を争う宿場町で御座います。
尤も三条と言う所は、近隣に一の木、中村、田嶋、裏館、少し離れて大崎、加茂、白根、見附、吉田などと繁華な町が御座いますから、
どうしても互いに切磋琢磨、意地と見栄が張り合いまして、三条は繁盛する様な立地で御座います。この三条で二、三日大野屋を通して、反物の買い付けをし、
漸く、翌日は長岡へと参りまして、信濃川を渡り関ヶ原。そこから更に進みますと、曾地峠に掛かって参ります。すると、後ろの方から。
オーイ、トッつさぁーん!!連れになろうかぁ〜
と、忠臣蔵五段目、山崎街道の斧定九郎みたいなぁ〜、人を与市兵衛みたいに?!と、銀兵衛がニタニタしてしまう声が聞こえて参ります。
ただ、時代が変ですけどね、赤穂事件は寛永よりも遥か後、元禄の出来事ですから。
銀兵衛「どなたですかなぁ?」
と、銀兵衛が声を掛けると、峠の向こうから現れたのは、浪人態の侍で御座います。
銀兵衛「私に何か御用ですかなぁ?!」
侍「いやいや、格別な用は御座らんが、どうも旅と言うものは、一人では誠、詰まらんもので御座って、出来る事ならば同道致したい。其方は何処を目指しておられますかなぁ?」
銀兵衛「エー、私は越後高田へ参りまして長野、上田、小諸、佐久を通り高崎へと目指しまして、最終目的地の我が家の御座います宇都宮へと。」
侍「そうかぁ、拙者も丁度日光東照宮の参詣をしたいと思っていた所だ。」
銀兵衛「あぁ、左様で御座いますかぁ。」
侍「それにしても、まだまだ、先は遠いのぉ〜」
銀兵衛「えぇ、まだまだ難所が御座いまする、由え、大変な道中です。」
侍「そうかぁ。」
さて、この時分はまだ徳川三代の頃ですから、日光と言ってもまだまだ、装飾された建物や、御霊厨が沢山在るわけでは御座いません。
侍「まぁ、兎に角日光は東照神君御霊屋であるから、是非、参詣して見たいと思うておる。」
銀兵衛「左様で御座いますかぁ〜。ならば、途中までご一緒致しましょう。」
侍「さて、大分日も傾いて来たが、其許(そこもと)は今夜は何処に泊まるつもりだ?」
銀兵衛「今夜は、柏崎に泊まるつもりで御座います。」
侍「左様かぁ。拙者は土地勘無く不案内であるから、其許だけが頼りじゃぁ。宜しく案内してくれよ。」
銀兵衛「ハイ、大舟とは言えませんが、信濃と越後は酒処で何度も来ていますから、旅は道連れと申します、出来る事はさせて頂きます。」
侍「そうだ、旅先には、護摩の灰と呼ばれる悪い輩が横行していると聞く。貴様?拙者がその護摩の灰だと、思っちゃいないかぁ?
素性を名乗らずに、馴れ馴れしくした拙者が悪かった。拙者、越後國新発田郡の城主・溝口伯耆守(ほうきのかみ)の元二百石取り家臣、秋月大八郎と申す。
由え有って先月主君に暇を頂戴致して、今は浪々の身ではあるが、一刀流の免許皆伝、伯耆守様に仕えた時は、剣術指南番であった。」
銀兵衛「左様で御座いますかぁ。それで、日光見物の後は何方へ?」
秋月「拙者、生まれてから新発田郡を出た事が無かった、井の中の蛙だ!そこで、見聞を広め武芸を磨く為、諸国を武者修行で廻ろうと考えて御座る。
そして行く行くは、江戸表に出て、我が腕前一つで、一刀流の道場を持つのが、目下の夢で御座る。失礼ながら、貴殿は酒屋なのか?名は何と申す?」
銀兵衛「申し遅れました。私は、宇都宮城下池上町にて本業の酒屋を営みます大口屋銀兵衛と申します。酒屋の他に、質両替屋と近頃は呉服大物屋も商っておりまする。」
秋月「其れは其れは、手広くやられている様子。さぞ召使い、奉公人の数も多かろう?ご主人は、さぞ忙しい事であろう。」
銀兵衛「へぇ、へぇ、近頃は彼方此方へと大概毎月商用で旅を致しておりまする。お陰で歳の割に、身体が丈夫に成りました。
そして、お武家様の前ですが、商いと言うものは、どんな商いでも奥が深く楽しゅう御座いまする。」
秋月「左様であるかぁ、、、」
此の秋月大八郎、歳は三十五、六では有るが、なかなか肝が座り喋る事が面白い。銀兵衛は、実に日光迄の長い道中の道連れを務めてくれるのは、銀兵衛にとっても好都合であった。
と、言うのも侍同伴であれば、護摩の灰や山賊の類がよって来なくなるからである。又、秋月は若い盛りで足取り軽く、前へ前へと進む姿はまるで、
『お前は、明大ラグビー部監督、北島忠治かぁ!!』
と、突っ込みたくなるくらい先へ先へと突進ぎみに進みますから、銀兵衛が遅れそうになりますが、秋月は銀兵衛を気遣い立ち止まり労ってくれるのです。
そうそう、明大ラグビー部監督の北島先生は、確か越後の出身です。神田京子先生が、確か「北島忠治物語」を講釈にしていたと記憶致します。
此の様に、秋月大八郎が何かともう六十の坂を下りつつある自分を気遣ってくれるので、大口屋銀兵衛は、大変喜び頼もしく思うのでした。
やがで、二人は柏崎へと着き旅籠に泊まります。烏かぁ〜!で、夜が明けて翌日は歩き始めると、直ぐに鯨波と言う所にある難所、米山四里の峠道へと差し掛かります。
秋月「之が越後街道名代の米山峠か?!」
銀兵衛「左様で御座います。」
秋月「米山薬師と申すは、近くに在るのか?」
銀兵衛「ハイ、御座います。その脇道を七、八里登ると薬師堂が御座いまする。」
秋月「ちょっと参詣してまいろうかなぁ?!」
銀兵衛「其れは良い心掛けに御座います。行ってらっしゃいませ。ただ、私は寄る歳波で、脇道に道草を喰いながらの旅は辛ろう御座いまする。
本来ならば、私が案内をしなければならない所でしょうが、御免被って此の場所にて、秋月様の帰りをお待ちしております。
ささぁ、申し訳御座いませんが、お一人でお出で遊ばして下さい。私は此処らでお待ち申し上げまする。」
秋月「左様であるかぁ。いやいや、只今何が何でも参詣せねばならぬ事はなく、その方が大儀と申すならば、拙者も無理に寄り道は致さぬ。」
銀兵衛「そうですかぁ〜、どうも相済みません。老体にはこの峠道は厳しく骨が折れまする、ご勘弁願います。」
秋月「気にするな、確かに此の峠はちと険しいなぁ〜」
二人がそんな話をしていると、何やら左脇の藪ん中から、ガサガサッと、物音が致します。すると、飛び出して来たのが、犬位はあろうかと言う『黒い獣』。
何んだ?!
と、思った瞬間、獣が二人の間を擦り抜けて、反対側の藪へ分け入ろうとする所を、秋月大八郎が足で、獣の行手を遮る様に、所謂、カウター気味の蹴りを一発喰らわせます。
すると、その黒々とした獣は、キャン!と鳴き声を上げて道端に倒れます。そして、直ぐに起き上がろうとした所を、秋月大八郎、今度は懐中より、南蛮鉄の親骨で出来ている鉄扇を取り出し、是で黒い獣の脳天を打ち砕きます。すると!!
ギャイーン!
獣は断末魔の鳴き声を上げ、頭がパックリと割れ状態で息絶えてしまいました。
秋月「何んであろう?」
そう言うと、秋月大八郎、横たわる獣の襟首を掴んで、差し上げる様にして、死骸の様子を観察致します。
秋月「ハハァ〜、之は『黒狐(こっこ)』だなぁ?!」
銀兵衛「コッ、コッ、コッ黒狐?!」
秋月「貴様、鶏か?!」
銀兵衛「何んですかぁ、其れは?」
秋月「野の狐は野狐、色では白狐、朱狐、黒狐などと狐を呼ぶんだ。知らぬのか?」
銀兵衛「丸で手塚治虫の漫画ですね、ボッコ、プッコ、ノッコ!」
秋月「ワンダースリーかぁ、歳がバレるぞ、爺。」
銀兵衛「狐にも、色々と種類があるんですね。ところで、その死んでしまった黒狐はどう致します?埋葬しますか?」
秋月「馬鹿なぁ、勿体ない事を言うなぁ。折角、狩取った獲物だ。之から季節は冬に向かう。黒狐の皮を剥ぎ、胴服でも拵えてみよう。」
銀兵衛「左様ですかぁ、狐の胴服とは、なかなか高価な物に御座いますね。」
秋月「呉服屋の貴様に言われると、値打ちが上がった気がする。ヨシ、早速、拙者が皮を剥ぎ取ろう。」
銀兵衛「旦那!皮を剥ぐ前に、黒狐の死骸を、其方に流れている小川に浸けましょう。」
秋月「何をするんだ?」
銀兵衛「黒狐が生きている時に寄生しているノミやダニを、毛皮から取り除きます。死んで、まだ、黒狐が生暖かいうちにやると効果的です。毛皮にノミやダニが居るのは気持ちの宜いもんじゃありません。」
秋月「流石、着物商いだけあって、毛皮にも詳しくなぁ〜。」
銀兵衛「そうやって小川でノミとダニを駆除して剥いだ皮は、落葉を上に乗せて、石の上でスリコギか木槌で叩いて鞣し(なめし)て下さい。柔らかくふっくらします。」
秋月「毛皮を着物にするのも、ノミダニを駆除したり、剥いだ後は鞣したりと、意外と大変なもんであるなぁ〜。」
銀兵衛「旦那、皮も大事ですが、此の黒狐の臓物と肉はどうしますか?」
秋月「美味いのか?」
銀兵衛「のか?、疑問の余地は御座いません。」
秋月「では、食べる。」
銀兵衛「ならば、まず、黒狐の臓物を抜いて下さい。臓物が黒狐の体内にあると、時が経つとそこから腐ります。
そして、臓物は、今なら生で食べられるので、取り敢えず、小川で綺麗に洗いながら、血抜きをしてこの場で臓物は食べましょう。」
秋月「エッ!生で喰らうのか?」
銀兵衛「旦那は、厭なら食べずとも結構です。私が、肝臓も、心臓も、腸も胃袋も、舌も全て一人で頂きます。
狼や熊は、獲物の肉を喰らう前に、イの一番に喰らう所は臓物です。美味いに決まってます。旦那は、食べないんですね?」
秋月「分かった!分かった!拙者も所望致す。」
と、二人は〆たばかりの黒狐の臓物を、美味い!美味い!と、言いながら、全て二人で食べてしまいます。
文字制限で、一話に纏められず。上下に分けてお届けします。
つづく