筑紫市兵衛は、宇都宮城下鉄砲町に道場を構えて百人からの門弟を抱え、文武両道、ただ武術の技を教えるだけでなく、広く武士として人としての教えを説く講義を語った。
また、書や和歌といった文学に通じる嗜みも、時として伝え、門弟たちと共に是に興じ、筑紫市兵衛道場では、単に武芸だけに優れた者が尊しとされるのではなく、文武両道、人としての器を磨く道場を目指そうと、市兵衛は考えていた。
そこへ、牢屋で知り合った五人が、道場の理念を理解した上で、内弟子になりたいと名乗りを上げて呉れた事に、市兵衛は本当に快く思い彼らを歓迎した。
市兵衛「甚蔵、勝助、そして、権助、一太、熊蔵!!今日は、お前たちが持参した、その酒をとことん朝まで呑んで、この道場の未来を語り尽くそう!」
全員「おう!!」
こうして、五人の内弟子と百人からの門弟を持って『筑紫市兵衛道場』は、産声を上げた。直ぐに、奥平藩の藩士だけでなく、宇都宮近隣の郷士やその倅達も門弟に加わり、その数は百五十人を越えた。
そんな或日、大口屋銀兵衛と日向屋藤兵衛の二人が揃って、道場を訪ねて来た。
大口屋「先生、道場の繁盛、おめでとう御座います。今日はそこで、一つお願いとご提案が御座います。」
市兵衛「之は之は、お二人共お揃いで、何で御座ろうかな?」
日向屋「実は、先生にお願いしたい件が、御座います。其れは、先生の印籠の一件にも関係しておる事なんですが、
このところ、良からぬ不心得の浪人者が巷に増え、宇都宮城下でも狼藉を働く輩が目に付く様になっております。
そこで、先生のお力をお借りして、不埒な浪人どもを取り締まる自警組織を、門弟の方々で、作っては貰えないでしょうか?」
大口屋「日が暮れ始める七ツ半から五ツの鐘が鳴る一刻半だけでも、城下を十数人が東西南北四組に分かれて、治安の見廻りをして下されば、街場の皆は大いに助かります。」
日向屋「其れに、道場の宜い宣伝にもなると思うのです。どうでしょう、先生?」
市兵衛「分かりました。奉行の奥平大學様にご相談して、お墨付きを頂けるのなら、明日からでも、自警隊員を弟子の中から募り、夜の見廻りを始めましょう。」
大口屋「そして、もう一つ。之は私の酒屋組合の寄合でも、又、日向屋さんの旅籠の寄合でも出た意見なのですが、
先生の母上様、八重殿に先生となって頂き、女子史(おなごし)に武家の作法を教えて頂く、教室、寺子屋のようなものを、この道場の中に設けて頂けませんか?」
日向屋「武家奉公に、商家の娘を出しますと、費用が掛かるのは致し方ないのですが、娘が年頃になり婿を取りたい、嫁にやりたい、と親が思った時期に、先方より暇を頂戴できない場合が多々あり、
武家との関係が拗れて、困った事件にまで発展する事が往々にして起こります。また、殿様や若様のお手が着き、側室に迎えられれば、誉れではありますが、ただキズ物にされて稚児(やや)を身篭り暇を出されたりも致します。
よって、茶の湯や生花を八重殿に通で教えて頂きながら、其れを通して武芸の女性としての言葉使いや所作、作法が学べるならば、この道場に娘を通わせたい商人が城下に沢山居ります。是非、先生!ご検討願います。」
市兵衛「分かりました。その件は、母上にも相談して、母上がやりましょう!と、仰る様ならば、前向きに検討したいと思います。」
こんなやり取りがありまして、筑紫市兵衛は、自警団の件を奥平大學に相談する為、翌日、朝から登城致します。
大學「之は之は、筑紫殿。今日はどの様な用件で参られた?」
市兵衛「お奉行、今日は一つ相談が御座いまして、実は、城下の町役、大口屋銀兵衛と日向屋藤兵衛の二人から、
近頃、ご城下に不良浪人どもが蔓延り、何かと事件が起きていると聞き及びます。そこで、提案なのですが、
我が筑紫市兵衛道場の門弟より、有志を募り、その有志にて夜廻りを行う自警団を結成したいと考えまするが、お奉行!如何で御座いましょう?」
大學「夜廻りの自警団ですか、悪い事は御座らぬが、一つ、懸念は、奉行所の上役人、同心、岡っ引との住み分けと言うのか、取り締まる同士が揉めては困ると思います。」
市兵衛「拙者も、其れを懸念致しまして考えてみたのですが、
一.自警団は七ツから五ツまでしか活動しない
二.謝礼/袖の下は禁止
三.捉えた浪人どもは、速やかに町奉行所に引き渡す
この3つを守る事を条件にお許し願えませんか?」
大學「分かり申した。貴殿がそこまで考えて法度まで作ると言うのなら、奉行として拙者が自警団にお墨付きを与えましょう。」
市兵衛「お奉行!誠に、有難う御座います。」
そう言って市兵衛は、勿論、喜んで道場に戻るのですが、実は、奉行の奥平大學も、この自警団の提案を内心喜んでおりました。
と其処へ、家老の奥平帯刀と勘定奉行の山本主水之丞が現れます。
帯刀「市兵衛殿が来ておったようだが、何んぞ有ったのか?大學殿。」
大學「ご家老!お喜び下さい。市兵衛殿が、城下の治安向上の為に、自ら自警団を組織したいと申し出て来ました。」
山本「其れが何んで喜ばしいのですか?大學殿。」
大學「山本様、何を呑気な事を!?筑紫市兵衛は、我が藩の宝ですぞ!自警団が結成されれば、宇都宮を軽々しく離れ辛くなるじゃありませんか?
それより、ご家老!市兵衛殿の嫁取りの件は進んでいるのですか?私が、いつも口を酸っぱくして申す通り、筑紫市兵衛定雄を宇都宮に根を下ろして貰う為には、嫁取りが不可欠。誰か良い相手は見付かりましたか?」
帯刀「それが、なかなか。。。帯に短し、襷に長し。」
大學「ご家老!そんな事では困ります。一刻も早く、市兵衛の嫁を探して下さい。」
帯刀「分かっておる。山本殿、其方も筑紫市兵衛に相応しい相手が有れば、拙者に推挙して欲しい。」
山本「ハイ、では気に掛けて置きます。」
大學「山本殿!『では』では困ります。必ず、この一年の内に市兵衛に嫁を取らせ、子を授かる様に致さねば、我が藩の宝が流出しますぞ!!」
そんな会話が有りまして、奥平家では、筑紫市兵衛の嫁探しを藩の最重要課題としておる事が分かりました。
アさて、自警団の夜廻りも始まって、母八重の武家の作法教室も同時に開校されると、道場の一角に八重の教室用の部屋が設けられます。
すると、既存の弟子の稽古に一層力が入り、新弟子を希望する者が増えて行きます。いつの世も、女人か近くに居ると、男は必要以上にハッスルする単純な動物で御座います。
そんな或日の市兵衛の講義を見てみましょう。
甚蔵「先生、今日はどんなお噺でしょう。」
市兵衛「名人と上手の違いは、何んだと思う?甚蔵。」
甚蔵「よく、講釈師は『名人は上手の坂を一ッ跳び!』何んて事をお題目の様に申しますが、上手が難しそうにやる業を、名人は意図も簡単にやってみせる感じが致します。」
市兵衛「甚蔵!なかなか、良い事を言う。流石、いきなり最初の盗みが家尻切りなだけある。」
甚蔵「先生、其れは褒めているんですか?!」
市兵衛「褒めているさぁ、普通、盗っ人はかっぱらい、空き巣狙い、摺りなどを経験した上で、家尻切り、天井切りへと出世するもんだ。
其れを、素人がだ、いきなり家尻切りで盗みに入るなんて、前座修行無しで二つ目になった、桂米丸、むかし家今松デビューの十代目金原亭馬生みたいなモンさぁ、天晴れだ。」
甚蔵「照れるなぁ〜。」
市兵衛「正に、その名人を評して色んな人が語っているんだが、拙者が、一番興味を抱いたのが、宮本武蔵の弟子であり、後に、養子になった宮本伊織の言葉だ。」
勝助「その伊織って野郎は、名人を何んだと評したんです?!」
市兵衛「よく剣術、武芸全般の事を山登りに喩える人が居る。」
一太「分かった、其処に山が在るから登る!!」
市兵衛「Because it's there. ジョージ・マロリーだそれは!!
伊織は語る。自分が必死で修行をして日々鍛錬し谷を渡り、川を越えてやっと山の七合目に居る。
そして、今までにない険しい谷に対峙して、この谷の攻略に悩み、どうすれば、既に頂上に居る師匠宮本武蔵の居る其の場所へ辿り着けるのか?と、悩んでいると、
頂上に居る宮本武蔵は、その谷を『谷』とは認識しておらず、「どうやって越えましたか?」と、尋ねると、
ガッ!と、やって、バッ!っと越えただけだと、『お前は長嶋茂雄か!?』と、突っ込みたくなる答えが、いつも返って来る。
つまり、名人とは、その様にして凡人には『困難』『壁』『試練』と呼ぶ其れらが、全く見えておらず、そして彼ら名人が悩んで立ち向う敵は、もっと異次元に存在する。由えに凡人にも見えない。」
勝助「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや!ですね、先生。」
市兵衛「勝助!そんな故事をよく知っているなぁ。天晴れだぞ。」
甚蔵「だとすると、名人は教えて上手じゃありませんね?」
勝助「そして、孤独でしょうねぇ?」
市兵衛「いい答えだ、甚蔵!勝助!。名人の悩み苦悩を感じられただけで、お前たちは一つ成長したと言える。」
そんな講義の最中、昼日中に、大口屋銀兵衛の店で事件が起こります。まだ、自警団が見廻る以前の八ツ前に、薩摩訛りの七、八人の浪人が、大口屋前を通り掛かります。
その時、大口屋の小僧が水を撒いていて、その水が浪人の一人の、袴の裾に掛かってしまった。激怒する浪人。
そして、この一団は大口屋ん中に雪崩込んで、この落し前をどう付ける。武士の袴を汚しやがって!と、怒り狂い、小僧の命を奪うと言い出します。
番頭の甚兵衛が、「小僧の命は差し出せません。この子の命は、田舎の親から店が預かっている以上、喩えお武家様が命を差し出せと言われても差し出す訳には参りません。」
そう言って拒否をすると、浪人たちの首領格が「ならば、命の代わりだ、二百両出せ!」と吹っ掛けて来ます。其処に、外出していた大口屋銀兵衛が店に戻ります。
銀兵衛「どうしました。番頭さん?」
甚兵衛「旦那様、実はかくかく、しかじか。」
浪人首領「小僧の命ば渡さんとなら、二百両ば出して貰う。おいどんは、薩摩の浪士で主人の仇ば探して全国を道中しとる。そん路銀に二百両ば出せ!!」
銀兵衛「水撒きの粗相は謝りますし、謝罪の意味で洗い針の代金や、お武家様への慰謝料を払うことも、やぶさかでは御座いませんが、二百両は、法外過ぎます。」
浪人首領「何んが法外やぁ!皆の衆、おいどんの意向ば、こん馬鹿タレに教えてやれ!!」
そう首領が号令すると、浪人どもは突然、大口屋の店の中を破壊し始めます。銀兵衛と甚兵衛が止めようとしますが、全く聞き入れずに暴れ捲ります。
散々店を破壊し、売り物の酒樽を壊し呑み干し、二百両を出せと言いますが、銀兵衛は応じません。
すると、流石に上役人が出て来るとまずいと思ったか?二百両と言っていた慰謝料を、二十両に負けて立ち去って行きます。
そして、大口屋が薩摩浪人に襲われていると言う報が、筑紫市兵衛道場に届けられて、市兵衛がおっとり刀で駆け付けますが、既に浪人連中は引き上げた跡で、追跡したものの捕まりません。
この薩摩浪人は、宍戸右源太の家来なのか?
筑紫市兵衛は、此の薩摩浪人が宍戸の家来ならば、隠れて居るつもりは御座いません。道場で正々堂々と彼らを相手に闘おうと思いますから、
翌日、大工の同僚に頼んで十五枚の立札を作りまして、その板に黒墨で、『元寺澤家次席家老・筑紫市兵衛定雄道場、武芸諸流指南処・宇都宮城下鉄砲町興禅寺脇』と書きます。
この立札を、宇都宮城下の東西南北の要所に立てて、仇討ちに来る者が有ればいつでも勝負をする気概で待ちましたが、其れ以来薩摩浪人の噂は立ち消えて、翌年、新玉の春を迎えました。
年が明けて、謹賀の祝い。正式な家来では有りませんが、筑紫市兵衛定雄は、宇都宮領主奥平大膳大夫公から、正月の挨拶を兼ねて火急の用を賜る事になりまして、正月二日、
寄懸り目結の紋入りの黒紋付に仙台平の袴を履いて、裃を付け前には小刀・備前國は助貞を手挟んで登城いたします。
そして、市兵衛が接見の間へと通されますと、まず最上座一段高い所に太守奥平大膳大夫様、その傍らには御子息、九八郎公。
更にその一段下には、ご家老、勘定方、町奉行などなど藩の重役連中が、綺羅星の如くズラりと居流れております。筑紫市兵衛、両手を仕え申し上げます。
市兵衛「恐れながら、麗しきご尊顔を拝し、市兵衛定雄、恐悦至極に存じ奉りまする。今日は火急のお召し有りとの事、何事で御座いましょうや?早速御目通り頂きましたからには、市兵衛、御用の趣仰せ聞き有り難き幸せに存じまする。」
大殿「イヤ!市兵衛、苦しゅうないもそっと近こう進め。この度武州大宮の氷川神社に於いて、特別祭禮があって、境内に馬場を拵えて競馬が開催される。
この競馬を伴う特別祭禮は、三年に一度の文字通り、特別の催しで、氷川神社が、近隣の大名に声掛けてして馬術自慢を集めた競馬の祭典と言えるものだ。
当藩からも、毎回、この特別祭禮の競馬には、馬廻り役の中から、藩を代表する腕自慢を出場させていたのだが、三年前に、一寸、問題が起きて仕舞った。まぁ、問題と申すよりも、之は遺恨に近い。
三年前、当藩からは馬術指南番、八条流の南條叉右衛門が競馬に出たのだが、残念ながら武州忍の城主・松平下総守の家来で仁科孫大夫に負れを取った。
勝負は時の運もあろう。殊に競馬は人馬一体となっての勝負であろうに、この仁科孫大夫が、勝負の後で、叉右衛門に対し万座の前で悪口雑言を吐き捨てよった。
あんな、南條叉右衛門如きが、藩中随一の奥平など、二度と氷川神社の馬場へは来るな!!
あんなヘボが人に馬術を教えているとは、片腹痛い。アレで指南役の務まる奥平とは、どんな藩主なのか?馬鹿殿の面が見てみたい!!
そう罵るもんで事実負けた叉右衛門は、その場で腹を切ろうとしたのだが、そこは何とか予が止まる様に説得して、今も馬術指南番なのだが、
当奥平家、宇都宮藩としては、あの仁科孫大夫だけは、許して置けん!!其処でだ、市兵衛。今年の氷川神社の祭禮には、その方が競馬に出場して欲しい。
そして、忍藩の仁科孫大夫を打ち負かして、先方に恥辱を与え、叉右衛門もの受けた恥を雪いでやって呉れぬか?頼むぞ!市兵衛。」
市兵衛「ご家中御家人多い中から、拙者を選んで下さった殿の意気に応える為、不肖筑紫市兵衛、身に余る光栄に御座います。
委細承知仕りました。御心安く思い召せ、必ずや万座の席で其の仁科孫大夫とやらを討ち負かし、恥辱を倍返してご覧に入れまする。
ついては、一つだけ殿にお願いの儀が御座います。其れは、当日氷川神社にて乗る馬を、殿所有の愛馬より拝借願いとう存じまする。」
大殿「其の儀差支えない、許す!其の方が思いのまま、乗馬を選ぶが宜い。又、補欠の乗馬も連れて構わぬ、ソチの思うがままに致せ。」
市兵衛「ハッ!有難き幸せ。しからば、柴栗毛の若駒を拝借仕りまする。さすれば、憂いなく勝つ事間違いなしで御座います。」
大殿「あのような若い馬で宜いのか?他に良い馬が数多有ろうに?!」
市兵衛「いえいえ、年若な馬なれど柴栗毛は、後ろ足の蹴りがどの馬よりも強く、前足の捌きも素直で御座います。其れに若くして持久力にも優れますれば、之より心強い名馬は御座いません。」
大殿「左様であるか、ならば、柴栗毛にて仁科孫大夫を打ち負かしてくれ!任せたぞ、市兵衛。」
市兵衛「委細承知して御座いまする。」
こうして、筑紫市兵衛は、宇都宮奥平家の威信を背負って、大宮氷川神社の祭禮競馬へと参加する事になりました。さて、氷川神社の祭禮競馬、どうなりますか?次回をお楽しみに。
つづく