或日の事、奥平家の若殿、九八郎公が宇都宮城下を離れて、雀ノ宮八幡宮まで遠乗にて、ご参詣遊ばせる事になります。
この伴に選ばれたのは、若い馬廻り役で、若殿のお気に入りで年齢も近いご近習の石渡源蔵と才田藤助の二人で御座います。
この若殿九八郎公は、自身馬術が大好きで、馬を乗りこなす業にも優れていて、若手の馬廻り役の中で、馬術の腕に優れる石渡と才田のお二人が大のお気に入りで御座います。
そして当日、御徒士組頭・正木與五郎と厩仲間部屋頭・兵堂助右衛門の二人は、此の遠乗に市助を、途中の馬の世話をさせる為に、同道するようにと命じます。
考えてみますれば、此の市助こと筑紫市兵衛定雄と言う人、世に在る時は、肥前唐津藩次席家老を務めた武芸に優れた千五百石取りの立派な武士で御座いました。
それが、厩中間まで成り下がって若殿のお伴を致すお姿は、足軽雑兵の態にて馬の跡から飛んで行くようなお役目に御座います。
ただ、往路の道中は、馬を激しく駆けさせての遠乗では御座いませんで、三頭の鞍上が道中の景色を楽しみ、語らいながら進みますので、やや早足にて付いて行けば、伴が勤まりました。
やがて一行は、雀ノ宮八幡宮へと到着し下馬致します。
雀ノ宮八幡宮に到着した、九八郎様、石渡源蔵、才田藤助の三人は、宮境内前で馬を降りて、お三方が下馬した三頭を、市兵衛が参拝の済むまで面倒を見ております。
九八郎様は、石渡、才田両人を連れて本殿を参拝致します。すると中から神官が出て参りまして、武運長久を祈りましす。
是を受けた九八郎様は、玉串を奉納され、再び境内を通り抜けて、馬を見ていた市兵衛の元へと戻られます。
九八郎「石渡、才田!」
両人「ハハッ!」
九八郎「両人、帰りは早駆けの勝負をしながら、城中厩前の馬場までの復路を帰りたいと思うが、如何かな?」
石渡「宜しい考えに御座います。」
才田「若殿の日頃の鍛錬の成果を見せて下さい。」
九八郎「ヨシ、早駆けにて帰る事に致す由え、仲間は、跡から徒歩にて同道致せ。半刻以上の遅れは許す。ただし、馬を厩前に繋いで、我等は奥に下がるので、後の世話は頼んだぞ。」
市兵衛「御意に承りました、存分に早駆け、お楽しみ下さい。」
そう市兵衛が答えると、若殿は自らの馬へ、ヒラリっと跨がり、出鞭一発!疾風の如く駆け出して行きます。
そして、若殿が一町ほど前に出たところで、石渡、才田の両人も、馬を走らせて、此の跡を追い始めます。
ただ、やっと直線では若殿の背後姿が見える距離を保ち、追い付き追い越す気配はなく、早駆け競争の態では有りますが、必ず、若殿を勝たせる忖度が御座います。
まぁ、なまじ本気を出して勝って仕舞うと若殿の機嫌を損ない嫌われては損だと思う二人で御座いますから、その辺は抜かりは御座いません。
そんな遠乗の最中に、事件が起こります。若殿が快調に走りを進めていると、松林を抜けた緩い下り坂に、乞食の様な見窄らしい浪人態の男が、一人大の字で道の真ん中を塞ぎながら、寝転んで居ります。
男の風態(なり)はと見てやれば、頭は月代が伸び放題で、髷と言うよりはザンバラ髪を後ろに結くだけ、赤茶けた紋付は裾がもうボロボロで短くなり、帯は麻縄、足は裸足で寝ている横に、竹の杖を置いて居ります。
下り坂由えに、突然、目に飛び込んで来た乞食に対し、若殿九八郎様の手綱捌きが遅れてしまいます。
何とか踏み付ける事は回避できましたが、馬の足音で目覚めた乞食侍が、立ち上がろうとした瞬間、馬が驚き跳ねた後ろ足で、乞食侍の尻を蹴ってしまい、乞食侍は、一間半程飛ばされて転んで顔が泥だらけに成ります。
若殿「すまぬ。怪我は御座らぬか?!」
乞食侍「何を仕やがる!人の尻ッペタを馬で蹴りやがって、謝罪するつもりなら、陣笠は取って馬を降りてから謝れ!」
若殿「すまぬが、先を急ぐ遠乗の最中だ。許してくれ、予は宇都宮藩奥平大膳大夫の惣領で九八郎と申す。
今は手元不如意由え、後日、宇都宮城脇の藩邸に顔を出されよ。見舞金をお支払い致す。」
乞食侍「何を馬上に居て上から物申しておる。この若造がぁ!拙者、今は浪人にてこの様な身なりなれど、元は武士ぞ!許さん。」
と、叫んで、いきなり若殿九八郎公の馬の手綱を掴み、ハミを馬の奥歯に当たる所まで、押しましたから、馬が驚き棹立ちに成ります。
其処へ、漸く後続を走っていた石渡と才田の二人が馬で到着し、若殿と乞食侍が揉めているのを見付けまして、慌てて、乞食侍を止めに掛かります。
石渡「此の無礼者、乞食の分際で若殿に、何たる無礼!手を離せ!」
才田「言う事を聴かぬなら、成敗致すぞ!乞食野郎!」
乞食侍「何が無礼だ?無礼はその若造だ。人が寝ている所へいきなり馬で駆けて現れて、拙者の尻を馬の後ろ足で蹴りやがったんだぞ!
成敗するだと?今は落ちぶれているが、此方もかつては武士だ。貴様らの様に無礼な侍は容赦はせん、掛かって来い!!」
乞食侍は、そう叫ぶと竹の杖を槍に見立てて、先は竹槍の様には尖らせては御座ませんが、武器としては十分で御座います。
一方、若殿のお伴の石渡源蔵と才田藤助の両人も、馬から下りて刀の鞘を払います。乞食同然の浪人が相手ですから、二人で楽に倒せると明らかに舐めて掛かります。
ところが、此の乞食侍、なかなかの槍術の使い手で、腰に竹の杖を貯めて、槍術の要領で鋭い突きを繰り出します。
此の攻撃で、石渡源蔵は、手の甲を竹の杖で突かれて刀を落とし、鋭い二段突きで、更に喉を突かれて呆気なく伸びてしまいます。
又、才田藤助の方は、石渡への攻撃を見て、突きを警戒し距離を十分に取り、突いて来たら竹の先を斬ってやろうと狙いますが、
素早い突き引きの動作に、刀を空振りして仕舞い、一歩踏み込んだ乞食侍の繰り出す、竹杖を片手持ちで車輪の様に回す攻撃を、真面に米噛みに受けて、此方も伸びてしまいます。
さぁ、是を見ていた若殿九八郎、逃げるべきか?イヤイヤ今、逃げたら二人の伴侍は間違いなく、この乞食侍に殺される。
そんな思案をしているうちに、乞食侍が又、馬のハミの部分を掴んで、馬を棹立ちにさせて、若殿を馬上から引き摺り下ろしに掛かります。
ドスン!
尻餅を突いて馬上から落された若殿。是を見て、『覚悟!!』叫び、竹杖を振り被り、乞食侍が若殿に襲い掛かろうとした、その時!
後方を徒歩で着いて来ていた筑紫市兵衛が、漸く、此の場に間に合って、尻餅の殿様と、竹杖を大上段に構える乞食侍の間に割って入ります。
市兵衛「待たれよ、何が有ったかは存ぜぬが、之れなる若公は、拙者の主君、かかる無礼を許す訳には参らぬ。
どうしても、その方が、竹杖にて若公を打擲すると申すなら、拙者、市助がお相手致す。サッ!掛かって参られよ。」
乞食侍「何んだ?何んだ?又、出て来たかと思えば、今度は仲間かぁ?!貴様の上司だろう?其処に伸びておる若侍二人は?!
立派な風態の此の両人が、あの程度の腕前だ。宇都宮藩の侍の技量など、高が知れておるは?!貴様仲間如き、相手にもならん、下がっておれ、怪我では済まぬぞ!!」
市兵衛「さて、其れはどうかなぁ?!」
乞食侍「命知らずの馬鹿仲間が、その忠義心だけは褒めて使わす。覚悟、致せ!!」
市兵衛は、腰にさしている真鍮の芯金入りの木刀を抜いて正眼に構えた。相手の乞食侍は、又槍術のスタイルで竹杖を構えて、時折、鋭く市兵衛を突いて参ります。
此の突きの鋭さを見て、市兵衛考えます。此の乞食侍、あの唐津藩江戸屋敷で斬り捨てた、薩摩の宍戸右源太よりも、難敵であると感じます。
ただし、まだ幸いにも相手は竹杖を槍に見立てての攻撃なれば、是はまだ打つ手がある!と、市兵衛考えます。
其れは、相手が竹杖を、突く、打つ、払う度に、わざと強く木剣を当て返してやるのです。是を繰り返す事で、相手の竹杖はダメージを受けて竹が裂け始めます。
遂に、四半時も是を繰り返していると、槍に見立てた竹杖の先がブラブラになり、槍として機能しない様になり始めます。
其処で、この乞食侍も、百戦錬磨と見え、使い物にならなく成る寸前、此の竹杖を、市兵衛に投げ付け、一か八か?!間合いを詰めて、掴み掛かろうと致します。
しかし、是は、市兵衛の策で御座いまして、竹杖を投げた瞬間、〆この兎!!とばかり、斜に是を避けて、木剣を横一線、抜き胴を乞食侍に喰らわして、是を仕留めるので御座います。
市兵衛「若殿様!お怪我は御座いませんか?」
若殿「おぉ、大事無い、予は尻餅を突いただけじゃ、それより石渡と才田の両人を診てやれ!」
市兵衛「御意に」
と、市兵衛が二人を見ますと息はありただ、伸びているだけなので、喝を両人に入れると起き上がります。
そして、最後に抜き胴を当てた乞食侍にも、喝を入れ起こしてやると、罰が悪かった様で、先の折れ掛かった竹杖を残し、その場を立ち去りました。
若殿「石渡!才田!貴様ら両人は、本に見掛け倒しじゃ。馬に乗り早駆けでは予に劣り、刀を取れば、之れなる仲間にも劣る。
貴様ら両人は、高い禄を貰いながら、日頃の精進が誠に足らぬ。もし、この仲間が居らなんだら、宇都宮藩の恥が天下に晒されておる所だ!」
石渡「誠に申し訳御座いません。油断致しました。」
才田「返す言葉も御座いません。突然、槍術を使われて、動揺致しました。」
若殿「本来なら、この場で切腹申し付ける所であるが、今回だけは、この仲間の功、天晴れなるを持って、特別に許して遣わす。両人、仲間に礼を申せ。。。ヨシ。
ところで、仲間!実に天晴れである。名を何と申す。。。ほー、市助と。されば、貴公が母を大切にする親孝行の『孝行市』か?。。。成る程、通りで天晴れな訳だ。
予は、誠にその方に感銘を受けた。此の功には、十分な褒美を取らせる。金五十両を遣わす。その代わり、この事は一切他言無用に願いたい。宜いなぁ?市助。」
市兵衛「誠に恐悦至極に存じ奉ります。若殿、此の事、他言無用との沙汰、重々承知仕ります。又、拙者は、当宇都宮藩より禄を頂戴する身分なれば、若殿の大事に働くは必定。
特に褒美に値する功を挙げたとは思いません。それに、金五十両は分不相応な褒美に御座います。」
石渡「オイ、市助。若殿のお気持ちを、貴様、忖度致せ!口止め料も含めての金五十両である。飛んだ石部金吉であるなぁ。」
才田「其れに、今は遠乗の途中なれば、金五十両の手持ちは無い。下さるのは後日となり申すが良いなぁ。」
若殿「分かってくれるか?市助。貴殿には、後日の約束に、この家宝の印籠を金五十両の形に預ける。之れは五十両などと言う安い値打ちではない。他人に決して見せたり、貸したりせず、大切に保管して呉れ!宜いなぁ?!」
渡された印籠を見て、市兵衛の市助は、驚きます。根付は雲丹の瓢、緒〆には珊瑚の六分玉が嵌っていて、塗りの絵柄は『近江八景の禽高蒔』で御座います。是は、三百両と言われても仕方ない逸品で御座います。
こうして、五十両の形に若殿様から大切な印籠を預けられて、乞食侍との一件を口止めされた市兵衛の市助。
厩に三頭の馬を繋ぎ、裾の世話を済ませてから仲間屋敷に戻り、母親にだけは、今日の出来事を話します。
母親「その槍術を使う乞食が、余程、天晴れですね、市兵衛。」
市兵衛「誠に、あの乞食侍の方が、当藩の御徒士組の武士より腕がたちまする。あれを野に置くは惜しいと思わぬ、若公には、市兵衛、些か失望しました。」
母親「ならば、市兵衛、その五十両が手に入った暁には、此処宇都宮を出て、又、江戸表に戻りませんか?そして、江戸表で仕官の口を探してみては?」
市兵衛「母上は、それが良いと、仰せに御座いますか?」
母親「此処宇都宮には、確かに日向屋さん、大口屋さん、其れに正木氏、兵堂氏と親切で頼もしい貴方の味方、朋友は有りますが、貴方自身は仲間のまんま、出世せずに一生を終えるつもりですか?」
市兵衛「分かりました。母上が、其処まで決意をお持ちなら、五十両を元手に、江戸表に仕官の口を探しに参ります。
ただ、母上は、拙者の仕官の口が見付かるまでは、此処宇都宮にお留まり下さい。日向屋殿か大口屋殿に頼み、止まり頂ける様に致しますから。」
母親「承知しました。五十両、早く届く事をお祈り申します。」
しかし、なかなか印籠を引取に、若殿からの使者は現れ無かった。決して払うつもりが無いのではなく、喩え十八万石の若殿とは言え、五十両を右から左へと用意できずに居たのでした。
三ヶ月が過ぎても五十両は届かず、市兵衛は、珍しく流行風邪に高熱を出して、寝込んでしまいます。そして、この病気と預かった印籠が元で、又、新たな事件に巻き込まれてしまいます。
つづく