日向屋藤兵衛は、早速、宇都宮十八万石奥平大膳大夫の家来で、御徒組馬役部屋頭、兵堂助右衛門の元を訪ね、筑紫市兵衛を厩仲間として働かせて欲しいと願い出ます。

日向屋「時に部屋頭。私には、甥で『市助』って三十の寡野郎が居りまして、此奴が母一人、子一人で難儀をしております。

どうか?!親方ん所で、厩仲間として使っては貰えませんか?本人には、厩仲間の辛さは重々言い含めて有りますし、馬を扱うのには多少慣れて御座います。どうか?宜しくお頼み申します。」

兵堂「おう分かった!他ならぬ日向屋、お前さんの頼みだ。了解したから、早速、明日組屋敷に連れて来ねぇ〜。任せなさい、面倒見てやるよ!」

日向屋「部屋頭!有難う御座います。」


喜び勇んで帰った日向屋藤兵衛。筑紫市兵衛に対し此の仕事が決まった旨を報告致します。

藤兵衛「筑紫様、と、言う訳で明日から馬役の部屋頭、兵堂助右衛門様が連れて来いと言われましたから、私が案内しますので、お勤めに出る事、ご承知願います。

また、先方へは部屋詰めの厩仲間として働く事になりますから、貴方の身分は私の『甥』と言う事で、『市助』と名乗り勤めて貰います。

尚、服装と髷も、その風態で厩仲間だと違和感が御座います。髷は町人風に、女中に結い直させますし、黒紋付に仙台平の袴ではなく、この半纏とお仕着せに着替えて下さい。

そうそう、その立派な二本の大小の刀も不要で御座いますから、其れは日向屋にて、奥の蔵に仕舞って預からせて頂きます。」

市兵衛「何から何まで、誠に苦労をお掛け致す。日向屋殿、筑紫市兵衛、この恩義は生涯忘れまいぞ。」

日向屋「母上様とは、暫く逢えませんから、今夜はゆっくりお名残り下さい。また、母上様と刀は、この日向屋が大切にお預かり致します。」

市兵衛「誠に、ご面倒掛け申す。」


翌朝、日向屋藤兵衛に連れられて、筑紫市兵衛は、宇都宮藩の仲間部屋を訪れた。

日向屋「部屋頭!甥の市助をご紹介致します。市助、こちらがお前さんの親方となられる兵堂助右衛門様だ。ささぁ、挨拶をしなさい。」

市兵衛「市助で御座る。何分、厩仲間などと申す下司(ゲス)な仕事は初めて由え、至らぬ事、多々御座ろうが、何とぞ!ご容赦願いまする。」

兵堂「日向屋!変わった物言いをする甥だなぁ〜。」

日向屋「申し訳有りません。口の効き用が変わっておりまして。。。何分、ご容赦願います。」

兵堂「おい!久助、おーい!久助は居るかぁ?」

久助「はい、御用に御座いますか?親方様。」

兵堂「おう、久助。之れなるは、本日より厩で勤めを致す、市助じゃ。久助、先輩仲間として、市助に厩仲間のイロハを教えてやれ!」

久助「はっは!心得まして御座いまする。市助、俺に付いて来い!厩へ案内してやる。」


まだ、二十歳そこそこで、市兵衛の市助よりは一回りか?十ほどは若い久助ですが、厩仲間としての奉公は、既に六年目に御座います。

当然、先輩風を吹かせて、上から目線で、馬のイロハを釈迦に説法致します。

久助「まぁなぁ〜、厩仲間なんて商売は、他から見ると実に暇そうで、誰にでも勤まる楽な仕事に見える様だが、之れがなかなか!奥深い商売なんだ。貴様にも、おいおい仕込んでやる。」

市兵衛「ハイ、宜しくお願い申します。久助殿」

久助「久助殿は硬過ぎる。他人行儀でいけねぇ〜。俺の事は、久助兄ぃ!と呼べ。俺は貴様の事は、イチって呼ぶからよぉ〜、仲良く頼むぜ。」

市兵衛「畏まりました、久助兄ぃ。」

久助「では、手始めに馬のイロハの『イ』の字を教えてやる。心して聞け。」

市兵衛「イの字なら、拙者、存じております。」

久助「何んだ?!言ってみろ?!」

市兵衛「では、兄ぃの前で僭越ながら、『イロハのイの字は、どう書くの?こうして、こうしてこう書くの?!』

久助は、まだ芸者遊びを知りません由え、市兵衛が赤坂の芸者衆から仕込まれた腰芸を見ても、ポカン!と、致しております。

久助「そんな芸事のイロハのイの字ではない!

俺が教えてやるのは、馬術のイロハだ!よーく、聴いて置け。先ず、馬と言うもんは、裾を使わせられるか?之れが一番重要なんだ。

馬が裾を上手く使わないと、どうなると思う?そう、癇癪を起こして暴れ出す。逆に裾さえ上手く使わせられたら、馬は猫の様に大人しくしてくれるんだ。」

市兵衛「へぇ〜、成る程。ただその馬に裾を使わせるって言うのが、素人拙者には、分かり難くう御座る。」

久助「馬って奴は、自分の影にすら怯えるくらいに臆病で、気にしーいなぁ動物なんだ。特に足元に不安があると、動きたがらない。

其処を気遣ってやって、馬が足を気にせず運動できる様にしてやるのが、厩仲間の腕の見せ所よ。

正に、平素から馬に足元を気にしない状態を造る為に、我々厩仲間は、馬体、特に足を綺麗に磨き上げる。之れが『馬に裾を使わせる』と言うんだ!判ったか?新米。

之れが上手く出来れば出来る程、親方や馬廻り役の同心、徒士のお家来衆から頂く、給金や祝儀の額が違って来るのさぁ。」

市兵衛「久助兄ぃは、出来なさるんですか?馬に裾を使わせる事が?」

久助「あた棒よ!当家の厩仲間では一番だなぁ。」

市兵衛「そいつは、お見それしました。兄ぃに学ばせて頂きまする。久助兄ぃが、『馬に裾を使わせる』、その場面を見せて貰えますか?」

久助「ヨシ、宜く見てやがれ、新米!!」


と、言った久助は、一頭の馬を厩から引いて現れました。

久助「さぁ〜!さぁ〜!こういう具合に、『馬に裾を使わせるんだ!』」と、久助は其の馬の足を桶に汲んだ水で磨き始めた。

久助「此処を見て見ねぇ〜、ほらほら、馬が首を垂れて、気持ち良い!ッて、言っている様に見えるだろう?

馬は何にも言わないけれど、首を垂れる具合で、気持ち良いと心で叫んでいやがるんだ!宜いか?市公、俺ぐらいの名人に成れば判るッてもんだ。心して学べ!!」

市兵衛「有難う存じまする。見様見真似では御座いますが、拙者も、『馬に裾を使わせて』みせましょう。」

久助「何を言い出すんだ、市公!!お前は身の程知らずの大馬鹿野郎なのか?俺が、六年掛かりで漸く身に付けた秘儀『馬に裾を使わせる』と言う業を、一度見た位で真似できるとでも思っているのか?!」

市兵衛「何ぁ〜に、若造仲間が天狗になって、やって見せられる程度の業ですから、拙者に出来ぬ道理は御座らぬ。」

久助「若造仲間ッて、貴様、誰に向かって口を効いているのか?判った上で、言っているのか?!」

市兵衛「何ぁ〜にねぇ、世の中に数多、楽な事は御座れども、下司(ゲス)の業ほど、容易い物は御座いません。」

久助「貴様だって厩仲間なんだぞ!誰に向かって下司だの、仲間風情だの口にしやがる!あぁ〜、其処まで言うなら、俺と同じ様にやってみろ。

俺が汲んで来た桶の水を使わせてやるから、どの馬でも構わねぇ〜。この厩の馬を一頭選んで、足回りを綺麗にして『馬に裾を使わせる』所を見せてみろ!!」


市兵衛から、下司だ、仲間風情だと馬鹿にされた久助は、市兵衛を馬術の名人で一角の武芸とは知る由もありませんから、

馬廻り役か、御徒士組頭かの如く、自分を馬鹿にして来る市兵衛に腹を立て、やれるもんなら、やってみろと、水が一杯の桶を差し出し、ホレ馬に裾を使わせてみろ!と、命じます。

一方、言われた市兵衛は、久助の奴が最初(ハナ)から馬房の中でも一、二に大人しい猫の様な馬を選び、自らは秘儀だと威張り『馬に裾を使わせる』を見せたと判りますから、

あえて、大型で気性の一番荒そうな、黒鹿毛の鼻息荒い一頭を選び、この馬で『裾を使わせる』技を見せ付けようと致します。


しかし、此の馬は、家中の筆頭馬廻り役でも乗りこなす事は勿論、鞍一つ付ける事は出来ず、誰も世話を致しませんから、薄汚れて馬房の隅に繋がれておりました。

その馬を選んで、市兵衛が足元を布巾で拭き上げてやろうと致しますから、久助は『蹴られて死ね!』と、心で念じます。


ところが?!


馬は、全く暴れる事なく猫の様に、大人しく自ら足を上げて率先して、市兵衛に『裾を使わせます。』


其処に、偶々、部屋頭の兵堂助右衛門と、御徒士組頭の正木與五郎の二人が厩へ現れます。

兵堂「おい!市助、何をしておる?!其の馬は触ってはならん!蹴られるぞ、離れよ!」

市兵衛「之れは、兵堂の親方。久助兄ぃさんから、『馬に裾を使わせる』業を見せて頂いて、一番、猫の様に大人しい、此の黒鹿毛で業を試しておりました。」

正木「馬鹿を言うなぁ!その馬は、拙者ですら鞍も付けさせて貰えぬ暴れ馬だぞ?!癇の虫が騒ぐと手が付けられん!久助、なぜ、触ると言い出した此奴を止めぬ?!」

兵堂「その通りだ!久助、貴様、市助に恨みでもあるのか?!」

市兵衛「親方も、お武家様も、久助さんは、何も悪い事は。。。どれでも好きな馬を選んで宜いと申されたまでで、拙者が、この黒鹿毛を選んだんですから。

其れに、誰も触らないからか?この馬はこの厩で一番汚い馬だったから、拙者、綺麗にしてやりたく、成り申した。」

正木「しかし、其れにしても、大人しいなぁ、今日の『雷鼓神(らいこじん)』は?」

市兵衛「エッ!!雷鼓神って名前ですかぁ?この馬は。」

兵堂「何人、この雷鼓神の落雷を受けて、怪我をしたかぁ。死人も二人出ている。殿様が、ご贔屓で無ければ。。。恐らく厩には居ない馬だ。」

正木「其れにしても、雷鼓神を上手く扱う仲間だなぁ〜。助右衛門!良い厩仲間を見付けて来たなぁ、此奴は間違いなく、宜い仲間になる。」


と、いきなり初日から部屋頭と組頭の二人に気に入られた筑紫市兵衛、是から高麗鼠の様に、厩を走り回り、細やかに丁寧に馬の世話をしますから、直ぐに評判の仲間となります。

更に、この市兵衛さん、家中の奥方様達からも、大変な人気者になるので御座います。と申しますのは、例えば、百文のお遣いを頼むと、

普通、他の仲間達は、先ず二十から三十文を途中買い喰いをして、蕎麦を手繰るとか、宇都宮だけに餃子を喰らうとか、鮨を摘むなどして仕舞います。

又、仲間達は、商人に対して常に上から目線で偉そうに横柄な言葉使いですから、七十、八十文の買い物のはずが、五十文程度の粗悪品を掴まされて帰って来るのです。

ところが、市兵衛さんはと見てやれば、まず、買い喰い何て致しません。其れに、商人とは対等に駆け引きしながら、上手に値切り、良い物を安く買って来てくれるから、

市助!市助!と、奥様連中に慕われて、ご祝儀を頂いたり、着る物や食べる物が届けられたりと、絶大な人気を誇ります。

そして、こうして奥方様達なら頂いた金子や品物は、殆どが日向屋に居るお母様へと届けられて、全く自身が贅沢したりはしませんから、

孝行者との良い評判が立って、誰が呼び始めたのか?孝行市、孝行市と呼ばれて、益々、家中の人気者になります。

是には、厩仲間を束ねている部屋頭の兵堂助右衛門は、鼻高々で御座いまして、周囲の仲間達には、市助を見習え、孝行市を見習えと、事ある毎に言うようになります。


そんな市兵衛の市助は、或日親方である兵堂助右衛門の屋敷に呼ばれます。

市兵衛「親方、何か御用で御座いますか?」

兵堂「おう!市助、上がってこっちに来なさい。ささぁ、其処へ足を崩して座りなさい。」

市兵衛「何か?お小言でしょうか?」

兵堂「馬鹿を言え!お前さんに、小言など在るはずがない。他の厩仲間の二倍、三倍は高麗鼠の様に働いて、博打(わるさ)はしない、それどころか、親孝行の鏡と言われるお前さんだ、小言なんて在りはせん。

其れより、お前の母親(オッカさん)を、この仲間屋敷に連れて来て、お前さん、一緒に住むつもりは無いか?

日向屋藤兵衛とは、伯父と甥の間柄だとは思うが、日向屋は旅籠だ。客商売の家に母親を居候では、母親も気苦労が多かろう?どうだ、此の仲間屋敷に連れて来ないか?」

言われた市兵衛は、絶句致します。日向屋藤兵衛は、良い人物で、真心からの親切心で、母親を居候させてくれて、其れに甘えていた自分が恥ずかしく、母親自身の気持ちを考え無かったと反省致します。

市兵衛「誠ですか?親方。其れが許されるのなら、市助、天にも昇る心持ちに御座いまする。」

兵堂「勿論、儂一人の一存で申しておるのではない。正木様、御城代にも相談して、『孝行市の母親ならば』と、お墨付きを頂戴しての事だから安心致せ。」

市兵衛「有り難き幸せに御座います。」

兵堂「ヨシ、ならば善は急げだ。明日、母親を迎えに行き、明日から早速親子水入らずで暮らすと宜い。」

市兵衛「本当に御座いますか?親方、有難う御座います。」


泪を流しながら喜ぶ市兵衛。兵堂助右衛門は、他の仲間達を集めて、明日から市助の母親が仲間屋敷に同居する事を伝えて、

奥の離れに在る空き部屋の掃除を命じて、母親の受け入れに備える様に命じた。更に、翌朝五ツ過ぎに、市助には母親を迎えに行くよう命じて、厩仕事をその日は免除するのだった。

そして、日向屋に現れた市兵衛の市助から、親子一緒に宇都宮藩の仲間屋敷で住めると聞いて、母親と日向屋藤兵衛も大喜び致します。


こうして、親子で暮らす事になった市兵衛と母・八重。市兵衛は、酒を嗜む母の為に、是より毎日、城下に在る酒屋『大口屋銀兵衛』と言う店に、十六文持って二合の酒を求める様になるのですが、是が又新たな人との出逢いを生む事に成ります。



つづく