若侍「之れ!町人。」
平九郎「あぁ?!」
倅孫六と同年代の若侍に町人と、上から目線で言われた曲垣平九郎、ムッとして思わず顔に表情を出してしまいますが、遺憾!と、感じ、慌てて下手を装います。
平九郎「ハイ、お武家様、私で御座いますか?」
若侍「さてその方は、余程馬術に長けておるなぁ、お上がご覧になられて、喜べ!その方を気に入られた。格別のお計らいによって、御目通りが許された。さぁ、本陣まで拙者に同道なされよ。」
平九郎「馬術の心得など、甚だ恐縮いたします。単に畜生の喧嘩を止めただけです。仲裁は時の氏神、火事場の馬鹿力みたいなもんで、
この留吉さんを救いたいと、命を賭して必死で無我夢中でやりました。年寄の冷水とは思いましたが、偶々、上手く運んだだけです。
この様なまぐれで、お殿様に拝謁するなど、言語道断、恐れ多い事に御座います。どうか御目通りの儀は、暇を頂きとう存じまする。」
若侍「左様かぁ。ならば、上様にその儀、お伺いしてみる。貴様、名前は何んと申す。」
平九郎「私は、東町の近江屋に先月より居候しております、江戸の道中商人で平左衛門と申します。」
若侍「兎に角、上意に背くは不敬千万である。上様が、直々に目通り許すと仰るものを、無碍に断るとは、貴様はどう言う料簡なのだ?
十分に年輪も重ねておる様子、之れはお主に取っても名誉な事であろう?兎に角、本陣に顔を出して、上様のお言葉を承れ!!」
と、若侍も必死に、色々申します。そりゃそうです。殿様直々の命令ですから、逆らう訳には行きません。スッポンの様に喰らえ付き、蛇の様に執念(しつこい)粘りを見せます。
平九郎「分かった!分かった!拙者の負けだ。それでは、御目通り願おう。」
そう開き直って曲垣平九郎、若侍に従えられて本陣へと入り、落語『妾馬』の八五郎が、田中三太夫にやられた様に、頭を下げて控えております。
若侍「皆様に申し上げます。先程、馬同士の喧嘩を見事に仲裁致し、両馬を御してみせました者を、殿の御前に連れて参りました。」
まず、彦根藩馬廻り役筆頭、庵原助右衛門が是に答えます。
庵原「この者の素性は?!」
若侍「本人が申しますには、東町近江屋に滞在する者で、江戸の道中商人、平左衛門と名乗りよります。」
庵原「近江屋は何屋だ?鼈甲問屋か?!まさか、馬喰ではあるまい?」
若侍「東町の近江屋と申しますと、呉服屋に御座います。」
庵原「呉服屋?呉服屋の客人が、なぜ又、馬をあのように御せる?!主税、孕石主税、その方は、江戸詰が長かろう?あそこまでの馬術の使い手が、江戸の町人で見た事があるか?」
孕石「有りません、庵原様。ただ、心当たりが少々御座います。」
大殿「主税!苦しゅうない、有り体に申せ。」
孕石「ハハッ、上様に申し上げます。私の知る限り、あの立ち振る舞い、馬の腹、首を巧みに扱い、馬を御すやり方、あれは正に曲垣流馬術の奥義と言われております。」
大殿「予は、見ておるぞ!その曲垣流馬術の名人を。今から去る事、二十一年前だ、此処におる倅、内匠頭が生まれた寛永十一年の正月だ。
上様のお伴で、品川東海寺よりの帰り路。
上様の気紛れで、愛宕山の山頂より、あの男坂の石段を登り降りして、見事に誉の梅花を取って戻った見せた、曲垣平九郎の勇姿!予はこの目で見た。」
之れ、面を、面を上げ!!
言われた曲垣平九郎、もう観念して、顔を上げて、掃部頭の前に晒します。
大殿「おー!間違いない、老いてはおるが、紛れもない、之れなるは曲垣平九郎だ!!」
平九郎「ハハハハッ、御活眼、恐れ入り奉ります。江戸の道中商人などと偽りし儀、誠に持って失礼仕りました。近江屋には罪は御座いません。全て、拙者が仕組みし事由え、責は、全て拙者が負いまする。」
大殿「何を言う、平九郎!久しぶりである。達者にいたしておったか?」
平九郎「既に、主君無き浪々の身分では御座いますが、心身は至って、健康に御座います。」
大殿「では、平九郎!一つ予の頼みを聞いては貰えないか?」
平九郎「何んなりとも、御意に!」
大殿「ならば、予にはもう手に入れて、三年。鞍すら付ける事が叶わぬ名馬のジャジャ馬が在る。この荒れ馬を、その方に調教し、鞍を付けて人馬一体!走れる様にして予に馬術の玄妙を見せて欲しい。」
平九郎「分かりました。この曲垣平九郎の技の限りを尽くさせて抱きます由え、近江屋だけは、お構い無しに願います。」
大殿「武士に二言は無い!近江屋は、之れまで通り商い致して構わぬ。その代わり、我がジャジャ馬の調教!ソチに任せたぞ。」
本陣から戻った曲垣平九郎、事の次第を近江屋佐兵衛に噺をしまして、平謝りに謝りましたが、意外にも是を近江屋佐兵衛は一笑に伏します。
佐兵衛「先生!ご苦労様でした。近江屋の良い宣伝になりました。之れで近江屋佐兵衛の名前が殿様の耳に届きました。
先生が、来る前は、近江屋と言えば、近江屋卯兵衛さんの鼈甲問屋だ!『文七元結』の近江屋か?!と、宜く言われました。
それが、私近江屋佐兵衛が一番になれはば、向こうが、『愛宕山、誉の梅花』の近江屋ですね?ッて言われますから。さぁ、帰りましょう。」
常に前向き、くよくよしない。そんな近江屋佐兵衛の態度に、曲垣平九郎は、この漢はもう一人の度々平だ!と、評価し益々信頼します。
劉備、関羽、張飛、この三人が兄弟の契りを礎に、蜀の國を作った様に、平九郎、度々平、近江屋も、負けない義兄弟だと、曲垣平九郎は思いを新たに致します。
言葉で、あれこれ言わぬ前から、察知して動いて見せる度々平、そして、近江屋佐兵衛。年齢が長兄の曲垣平九郎は、劉備玄徳の気持ちになり、お呼ばれした、井伊直孝・掃部頭の我がままを、心地よく受ける決意を致します。
烏カァ〜で、夜が明けて。流石に、昨日は疲れた様で、曲垣平九郎は、五ツの鐘を聴きながら、漸く目を覚まします。
佐兵衛「先生!流石に、もう起きて下さい。さて、お召し物は?普段の紋付と袴ですか?!」
平九郎「何か不都合でもあるか?」
佐兵衛「掃部頭様の気持ちを慮ると、その荒馬調教の間だけは、食客、肥後の細川公が宮本武蔵を抱えた様に、貴方を掃部頭様は、武蔵の様に側に置くおつもりなのでは?」
平九郎「拙者は、もうこの年に成って仕官するつもりは毛頭無いし、食客身分でも、城勤めは御免蒙りたい。彦根の大殿の荒れ馬の調教の件は、引き受けたが、城勤めは固く辞退するつもりだ。」
佐兵衛「そうですかぁ。先生が、仰るのなら私がどうこう口を挟む事は御座いません。先生の好きに、なさって下さい。」
そんな会話が有って、遅めの朝食を済ませて、縁側で庭を眺めながら、平九郎、茶など啜っておりますと、四ツの鐘に合わせ、城の方から迎えの使者が参ります。
使者は、登城用の衣装として、井桁に橘の紋付と袴に裃を「上様から、貴殿へのご拝領の品に御座います。」と渡されます。
平九郎、是を拒む道理無く、「有り難く頂戴仕ります。」と、早速、召し替えて四つ手の駕籠に乗せられて、直ぐに登城となり、井伊掃部頭の待つ本丸へと案内された。
流石に三十万石の幕府老中の居城で御座いますから、入口の門の造りは立派でして、玄関も広く、直ぐに十畳程の控えの間に通されます。
そして、側近の山内主膳と言う家老が応対に現れて、使者の若侍との引継ぎをし、平九郎に向かっての挨拶の口上と、相成ります。
主膳に「殿が当家紋付の揃着を拝領なされた御人は、身内以外では貴公が三人目で御座います。」と言われ、平九郎、改めて身の引き締まる思いであった。
暫く、平九郎、この山内主膳と歓談いたしまして、いよいよ、殿様との対面の儀となるのですが、長い本丸の廊下を、そろりそろりと、案内されて、三間ほど離れた板の間と畳の境目で、控える様、指図されて、
堂々した山内主膳と横並びに、畳の跡が額に付くぐらい頭を下げて、掃部頭の登場を待つ事暫く!!漸く、掃部頭が一段高い上座に現れます。
掃部頭「平九郎!大儀である。面を上げぃ!」
平九郎「ハハッ。この度は、ご当家の家紋入りの召し物など、過分のご配慮、平九郎、有り難く存じ奉りまする。」
掃部頭「平九郎、其方は、もう生涯禄は食まず、浪人を通すと申すは誠か?!」
平九郎「御意に御座いまする。既に五十の坂を下り還暦を迎える身なれば、主君に使え禄を頂戴するには、先が短く充分にご奉公できぬまま、身罷るは本意では御座いません。
また、既に、同様の理由にて、お断り申し上げたお方も御座いまして、この期に及んで、主君に仕えますと、拙者の義が立ち申しません。由えに、主取致すつもりは御座いません。」
掃部頭「惜しい!実に惜しい。なれど、その決意、判らぬではない。では、食客として予に仕えぬか?功ありし時に、褒美を取らせる。」
平九郎「その儀も、どうかご容赦願います。近江屋に居候しておる間は、大殿の御用あらば、馳せ参じます。今回のご依頼の調教の件は真っ当致します由え、重ねてご容赦願います。」
掃部頭「あぁ、左様であるか、もう重ねては申さぬ。さて、然らば、我が荒馬をソチに紹介致さねば。早速、馬場へ参ろう!」
平九郎「ハハぁ〜」
山内「曲垣殿、此方へお願い致しまする。」
平九郎は、山内に連れられて厩の脇を通り馬場へと、跡から掃部頭が、福草履を履いて、若将を二人従えて馬場に現れた。
そして、直ぐに二人係りの馬方仲間に引かれて、真っ黒な薄い肌の馬体が、まるで天鵞絨(ビロード)の様に滑らかで輝く馬が現れた。
掃部頭「どうだ?平九郎、之れが予の自慢の愛馬、大黒だ。」
平九郎「殿、大黒とは珍しいお名前を付けていらっしゃる。其れにしても、立派な馬体で御座います。そして、賢く猫の様に大人しい。」
と、言いながら、二人の馬方を引き摺る様に、現れた大黒の首筋を撫でながら、平九郎は馬方から手綱を奪い、轡でしっかりハミを取って誘導を始めます。
掃部頭「猫の様に大人しいとは、この気性の荒々しい大黒に対して、申しておるのか?!皆、この馬を荒馬と呼ぶぞ?」
平九郎「左様ですか、恐れながら、この曲垣平九郎は、荒馬なんぞと言うものは見た事も御座いませんし、世に荒馬など存在せぬと信じおります。どの様な馬でも、猫の様に大人しく躾けてご覧に入れます。」
掃部頭「左様かぁ。心強い。」
言われた平九郎、大黒の轡を取り顔を正面から、そして側面から睨み付けて、「惜しい!」と小声で呟きます。すると、是を聞いた掃部頭が。
掃部頭「何んだ?何が惜しい?平九郎。」
平九郎「アァ、申し訳御座いません。耳障りな事を申しました。いや、この馬、大黒号、今日より三日の命に御座いまする。拙者、幼少より馬と共に生き暮らして参りました由え、
馬の死期を知らせる死相を心得ております。この馬の相、馬相を見るに死相が現れております。大変不憫では御座いますが、寿命に御座います。」
掃部頭「黙れ!平九郎。」
平九郎「はぁ?」
掃部頭「この大黒に、死相ありとなぁ?!」
平九郎「御意に御座います。」
掃部頭「黙れ!黙れ!黙れ!無礼ぞ、平九郎。」
平九郎「殿より『黙れ!無礼!』と罵倒されたとて、大黒の寿命に変わり無しに御座います。この馬は三日の後に絶命致します。
拙者、ベンチャラ、嘘の付けぬ性分です。それが、無礼と申されるなら、平九郎、之れにて近江屋へと退散致します。もし、殿が『我が領内に居る事罷りならん!』と仰るならば、直ぐに旅立、何処ぞへ去りまする。
それでも、三日の後には大黒死去致し、平九郎の申す事、誠であったか?!と、殿はお思いになられるに違い御座いません。」
掃部頭「ならば、三日の後に、大黒が死去致さぬ場合は、貴様!如何致す?!」
平九郎「その時は、殿様に謝罪申し上げまして、この命を殿に差し出す覚悟に御座います。」
掃部頭「予に命を渡すと言う事は、予の家来になる事で良いな!ヨシ、大黒が三日の後に死なざれば、平九郎!貴様を五百石で、当家の馬廻り役として召抱える。宜いなぁ?!」
平九郎「ハイ、曲垣平九郎、異存御座いません。」
掃部頭「ヨシ、之れで予が曲垣平九郎を家来にしたと、上様並びに伊豆守が聞いたなら、地団駄踏んで悔しがるであろう、愉快!愉快!では、平九郎!三日後に必ず、再度、登城致せ。」
そう言うと井伊掃部頭は、若将と奥へ消えて行き、曲垣平九郎は、山内主膳に送られて、本丸を出た。
つづく