四谷左門町の組屋敷、伊藤快甫の屋敷では、奉公人と養子の喜平が居間に集められ、まだ現れぬお岩の幽霊の影に怯える快甫の為に、全員一緒に床に付く事に成った。
快甫「お美津!お佳代!家ん中に在るだけの行燈と燭台を持って参れ!!」
お美津「御隠居様、行燈と燭台で何をなさいますか?」
快甫「決まっておろう!燈して昼間の様に部屋を明るくするんだ。」
お佳代「そんな事をしたら、眠れません。」
快甫「寝なくてよい。明日は昼寝を好きなだけさせて、仕事も休んで良い。だから、居間を昼間の様に明るくするのだ。」
喜平「お父上、しかし、無闇に燈すと、火事を招く恐れが御座います。特に裸の蝋燭を燭台に立てるのは、危険(あぶのう)御座います。」
快甫「ならば、部屋の四隅に行燈を置き、桶や盥に水を予め汲んで置け!万一に備えるのじゃ、良いな、出来るだけ、部屋は明るくしろ!!」
行燈が部屋の四隅に置かれ、煌々と燈されますと、当時の日本家屋で御座いますから、いくら雨戸を致しましても、多少の隙間風が入って参ります。
しかも、部屋が屋敷で一番中央の居間で御座いますから、隙間風が跳ね返り、四方八方から吹き込みまして、行燈の火を揺らします。
すると、是によって唐紙や腰障子、壁に移し出される影が、微妙に不規則なゆらぎを生じますから、是に一々、快甫が怯えて声を上げ、
更にその声に、角助、お美津、お佳代の三人が驚き声を発します。すると、更に、この悲鳴に快甫が驚き、喜平と権助も煩くて寝て居られません。
喜平「お父上、そんなに影を恐れられるのなら、一層、灯りは消して真っ暗闇にした方が、眠り易くは御座いませんか?」
快甫「馬鹿!それが出来るなら苦労はせん。闇に戻さば、お岩の幽霊の思う壺だ!!お佳代!お前の側の行燈が暗いぞ!!油を足せ。」
お美津「喜平様、闇にされると、私とお佳代が、角助と権助に夜這を掛けられて難儀をします。どーか、灯りは点けて置いて下さい。」
権助「人聞きの悪い事を、言うでぇねぇ〜かぁ〜。オラは、婆ぁとオカメに夜這掛ける様な変態ではねぇ〜。」
角助「そうだ!こっちにも、選ぶ権利、選択の自由ッてモンが在る!!」
快甫「不規則発言は止めて、早く寝てくれ!あぁ、今、コトコトッて、物音がした、喜平!お前の方だ、廊下を見て来てくれ。」
言われた、喜平は仕方なく起きて手燭を持って、庭に面した廊下の様子を見て来る。
喜平「お父上、異常有りません。」
快甫「有難う。お美津!今度はお前の方だ、暗くなっている、油を足せ!!もっと明るく!」
お美津「御隠居様!油は一杯ですよ。」
快甫「そうかぁ。。。あぁ、何んだ今度は、髪の毛だ!髪の毛を擦る音がするぞ。隣だ、隣の部屋からだ。障子戸に髪を誰か!擦り付けてやがる!角助、見て来い。きっと、お岩だ。」
言われた角助が、恐怖のあまりへっぴり腰で見に行きますが、勿論、快甫の空耳です。
角助「御隠居、お岩さんなんて居ませんし、髪を擦る音なんで、俺には聞こえませんぜぇ?!」
快甫「まだ、擦ってやがる!音が、音が聞こえないかぁ?!髪だ、髪の毛を障子戸に擦る音だ!波の様な サァーサァーサァーって、 違う!其れは福原愛だ。
アァッ!?今度は足音。あぁ〜、同時だ。足音がする玄関口の廊下だ!二人共来る気だ!!権助、足音を見て参れ!玄関口だ。」
狂った様に、音に敏感になる快甫に、逆らわない方が良いと思った権助が、玄関口の廊下へ出て見るが、勿論、此処にも誰も居ない。
権助「御隠居様、疲れていなさる。足音なんてしていないし、誰も居ないぞ、玄関には。」
快甫「そうかぁ、南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。あぁ〜まだ音が止まぬ!!其処に居るのか?!お岩!許してくれ、コレ!伊助やぁ、俺が悪かった、怨まないでおくれ!南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。」
二人の名前を呼んで詫びる快甫の、執り憑かれた様な錯乱ぶりに、周りに居た五人もゾッと致します。
アさて、此の日から、伊藤快甫は、何を見てもお岩の影に怯えて、神経が擦り減り衰弱して行きます。
『俺が悪かった!』『許してくれ!』と申しますが、お岩一人の名前を挙げてではなく、必ず、もう一人。伊助!済まないと、伊助なる人物にも謝ります。
誰れなんでしょうかぁ?!この伊助。
是が芝居の『東海道四谷怪談』ならば、伊助ではなく、小佛小平と言う名前で登場する人物でして、この本では『伊助』と申します。
この伊藤快甫は、若い頃は、所謂『火付盗賊改方』の同心をしておりました。つまり、凶悪犯罪を、町奉行所を補佐して取締る役人で御座います。是を称して『火役』と申します。
その火役、江戸市中を見廻りに出ては、商人たちから賄賂を貰いますから、二百俵の下級旗本の快甫で御座いますが、この頃からの蓄財で、今も富貴に暮らしております。
その当時、隠居になる前ですから、名は快甫ではなく、『喜平』と申しまして、今からは想像も付きませんが、美男子でよーモテました。丁度、喜平が二十七歳の頃のお噺です。
喜平「コレ、伊助?」
伊助「へぇーい、何んぞ御用でぇ?」
其処に現れたのは、若党の伊助で御座います。
喜平「お前は、行ける口であろう?一献、相手を致せ!」
伊助「是は是は、ご相伴に預かります。」
喜平「役者風情は、女形にあらず立役でも、白粉を塗り紅を差す。そうして美男子を上手に造りおるが、あれは真の美男子ではない。
真の美男子とは、あくまで自然に、素人が見せる様な姿の美男子だと、私は思うが、そちは如何思う?有り体に申せ!」
伊助「まぁ、御意に御座いまする。」
喜平「ちと、手前味噌には成るが、拙者なんぞは美男子だと自負しておるが、如何だ?役人由え、白粉は塗らん!自然のまんまじゃ」
伊助「へへへぇ、へへへぇ、まぁそうで御座いましょう。そう言っておいでなさる間(ウチ)が花。」
喜平「妙な事を云うなぁ?!」
伊助「何にねぇ、貴方様は確かに、今、綺麗で御座います。然し其れが性来ならば宜しいのだが、そうでは無い。」
喜平「性来では無いとは?!」
伊助「どうです。私が貴方のその美貌が、特質(もちまえ)では無い証を、是より上げて見せましょう。貴方は最近、時々身体が痺れましょう?」
喜平「そうだ?!先月辺りから、身体が痺れていかん。紙を貼った様になる、カッケか?と、心配したが、医者は違うと申す。」
伊助「今のうちに治療しなさい。このまま捨て置くと、必ず、大事に成ります。事と次第では、二百俵の伊藤の家が潰れます。」
喜平「なぜ?!」
伊助「なぜって、必ず悪疾の在る者は、家名を絶やすと言うのは、天下の掟で御座います。是が百姓町人なれば、たとえ悪病に執り憑かれても家は残りますが、大名や旗本は悪い病が出ると公儀によってお取り潰しと相成ります。」
喜平「そんな事は、ワシも存じておる。」
伊助「存じ上げておられるならば、早く治療なさりませ。」
喜平「いったい、拙者が何の病気だと申すのだ?!」
伊助「貴方は癩病(らいびょう)に御座います。」
喜平「黙れ!無礼なぁ、俺にそんな病気が在るものか!!」
伊助「貴方は無いと仰るが、残念ながら、癩病の初期に御座います。私は貴方に仕える身なれば、主人の大事を言わぬは不忠。由えに、今宵は真実を申しました。
論より証拠
貴方が信じないと、仰るのなら、貴方が癩病で在る事を、証明してご覧に入れましょう。私に付いて来て下さい。」
そう言うと伊助は、喜平を土蔵の中へ連れて行った。そして、戸を締め切り中を暗い闇にしました。
伊助「今から証拠を見せますから、驚いてはなりませんぞ。」
伊助は懐中から白く丸い塊を取り出した。
伊助「是に今から火を点けます。」
予め用意していたらしく、段取りよく半紙に点けた火を、その白い塊に移すと、青白い灯が、暗い土蔵ん中に浮かび上がった。更に、懐中から鏡を取り出した伊助は、
伊助「旦那!この手鏡で、この灯に照らして、ご自分のお顔をご覧になって下さい。」
言われて青白い光に照らされた自分の顔を見て、喜平は驚きます。額と頬、そして顎の先だけが、黒く紫色に腐りかけた様に映し出されたからです。
喜平「何んじゃ〜是りゃぁ〜!!」
お前は、松田優作かぁ!と、突っ込みたくなる気持ちを抑えて、伊助は、
伊助「それが貴方が癩病に犯されている証拠です。皮膚と肉の間が既に毒に犯されています。更に、もっと恐ろしい証拠をお見せしましょう。」
今度は、太い木綿針を懐中から出し、丸い白い塊の青い炎で針先が真っ赤に成る迄焼き始めます。更に尖に手拭いを巻き付けて、
伊助「旦那、今度はこの焼いた針を、貴方の腕に突き刺します。」
喜平「馬鹿を申すなぁ!!」
伊助「普通の人なら、チクリと尖を当てただけで痛みを感じましょうが、貴方は病魔に犯されていますから、全く痛みを感じません。宜しいですか?!」
喜平「宜くは無いが。。。刺してみよ!」
伊助「さぁ、刺しますよ。」
ブスリ っと針を喜平の二の腕に刺す伊助。
伊助「どうです。痛いですか?」
喜平「いやぁ、全く痛みはない。」
伊助「では、抜きます。」
ゆっくり、伊助が針を抜くと、血は一滴も出ない代わりに、真水の様な透明なドロッとした液体が、針を刺した穴から流れ出た。
伊助「どうです、旦那?血が出る代わりに、水が湧き出て来ました。この臭いを嗅いで下さい。」
言われた喜平が、嗅いでみると、何んとも生まれて初めて嗅ぐ悪臭に、気分が悪くなります。
喜平「堪らん悪臭だ!胸が悪くなる。」
伊助「その毒が、皮と肉の間を巡って、痺れさせているのです。今のうちに早く治療しないと、手遅れに成りますぜぇ。」
喜平「どーして、若党の貴様が、こんな事を知っているのだぁ?!」
伊助「私は蘭方医の倅で、長崎に生まれました。辛抱さえしておれば、今では立派な蘭学者だったかもしれませんが、道楽が過ぎ勘当されました。
やがて、長崎には居られなくなり、逐電し、流れ流れて旅の空、江戸へと参りました。そして、今では若党として貴方様に仕えておるのです。」
喜平「ほーぉ、貴様は、医者の倅かぁ?!」
伊助「私は昨日までは、貴方が自身の美男子ぶりを自慢する姿を見て、陰で笑っておりました。癩病とも知らず、顔の自慢などして、もうすぐその顔も手足も、癩病の毒で崩れてしまうのに、と。」
喜平「で、崩れぬ為には、どう治療したら良い?!」
伊助「是も乗り掛かった船。私が、ご主人様を治して進ぜましょう。取り敢えず、薬を明日求めて参ります。三両の金子をお貸し下さい。」
癩病に犯されては、天下の美男子!今業平も、三文の価値もなくなります。此処は、何の躊躇なく、伊助の申す通り三両を渡します。
すると、翌日、伊助は何やら白い粉を持って帰って参ります。
伊助「是は和蘭陀の毒薬で御座います。是を湯殿に入る際に、お湯に適量混ぜて漬かります。すると、この毒が貴方の身体の癩の毒と戦い、癩の毒を滅ぼします。是は、西洋(バテレン)の新しい治療法で御座います。」
喜平「この薬、何んと申す?!」
伊助「ヨータゲンといいまする。」
喜平「そうかぁ、ヨシ、今後も治癒するまで、伊助!宜しく頼むぞ。」
伊助「ハイ、畏って御座います。」
こうして喜平に対する伊助の入浴治療が始まります。『毒を持って毒を制す』、薬の効き目を確かにする為に、頭まで坊主に剃って喜平は治療致しますから、火役の務めが出来ません。
此処は、病欠届けを出して治療致します。最初の三十日で痺れが取れて、土蔵で青白い灯に照らして見る紫の毒の跡も小さくなっています。
更に三十日、都合六十日目で針も刺さらなくなり紫の跡は完全に消え去って、髪が伸びて髷が結える半年後に、火役へ喜平は復帰します。
喜平「有難う!伊助、お前は命の恩人どころか、伊藤の家の恩人だ。貴様の忠義、この喜平、一生忘れぬぞ。」
伊助「本当におめでとう御座います。まだ、病み上がりですから、無理をなさらず、ゆっくりとお勤めにお励み下さい。」
こうして、喜平が職場復帰して一月が過ぎた或る日、伊助が、喜平に『お頼み事がある。』と、その晩、書斎にやって来た。
伊助「旦那様、十両ほど金子をお貸し下さい。」
喜平「十両とは大金だ、何に使う?!」
伊助「吉原で、花魁の酌の酒など頂きたく。十両、お願い申します。」
喜平「吉原で花魁なら、三両も有れば足りるだろう?」
伊助「松乃位の大夫職で、絹布のふかふか三段物に寝てみとう御座います。」
喜平「贅沢な奴だなぁ〜、その様な贅沢、ワシもした事が無いぞ!!」
伊助「ですから、私が代わりに味見に、参ります。」
と、喜平に十両出させて、伊助は、吉原で豪遊いたして、三日も帰りません。其れから、五両、十両と度々喜平から金子をせびり、吉原だけでなく、品川だ!千住だ!と、廓通いが止まりません。
しかも、居続けをして、仕事を三日、四日と休みますから、他の若党、奉公人にも示しが付かず喜平は甚だ困りますが、
癩病を治して貰った事は勿論ですが、この病に掛かった事自体を吹聴されては、困る立場なので、伊助の言いなりに金子を出して、既に五、六十両は取られた喜平です。
そして、遂に、品川の土蔵相模から付け馬が来て、三十両を請求されるに至り、喜平は、伊助を始末しようと考えます。
そして、北町の知り合いの同心に頼み、伊助の金使いが荒い根源は、盗っ人一味の仲間だからだと言う噂を流して、伊助を捕まえて牢屋にぶち込んでしまいます。
伊助は、必死に『喜平の癩病を治療したからだ!!』と主張しますが、そんな病が治せるはずがない!と、町方には聞き入れられず、
吊るし、水責め、石抱き、三角責め、そして最後は瓢箪責めと、五十日の間拷問の限りで責め立てられて、苦しみから逃れんが為自分で毒を飲み、喜平への怨み節を血に染めて、牢屋の床に書き残し息絶えるのです。
喜平!呪い殺す
そんな事件があり、喜平は、役を降りて名誉職の組頭となり隠居、娘お花には稲葉家から婿を取り、その婿に、喜平の名を継がせたのです。
是は、深読みかもしれませんが、名前を喜平から快甫と改めた理由には、この伊助の一件が有ったからかもしれません。
そんな伊藤快甫は、元々足が弱くなり来客だけが楽しみだったのに、お岩が執り殺すと言った噺を角助から聞いてから、伊助を牢屋で責め殺した事も重なりまして、いよいよ、引篭が激しくなっております。
更に、突然、顔に吹出物が出て、痒みが激しく医者にも見せず掻いておりますと、その傷が膿んで、酷い有様に。
更に更に、髪の毛の生際まで痒くなり、髪の毛が抜け始めますと、益々、昔、美男子・今業平が嘘の様な化物顔へ。
お美津、お佳代の女中二人も、お岩が乗り移った様で気味が悪く、快甫へはなるべく近付こうとは致しません。
そんな塩梅ですから七月のお盆に、女中二人と飯炊の権助は里帰りの暇を取ると、そのまんま盆が明けても!伊藤家へは戻って参りませんでした。とうとう快甫は、喜平と角助だけが頼りで御座います。
快甫「おーい、喜平!」
喜平「ハイ、何で御座いますか?」
快甫「近頃も、組内の若い者が、ワシの見舞いに来るようじゃが、皆んな玄関で口上を述べて帰りおる!不愉快千万。」
喜平「お父上の病に障るとまずいと思って、皆、遠慮しておるよしに御座います。」
快甫「そうではあるまい。ワシのこの奇病業病が、気味悪く、悍しいと避けておるのだろう。もう許してくれ!伊助、ワシが悪かった!お岩!二人共、成仏してくれ!!」
伊藤快甫は、もう声を張る事も出来ぬくらいに衰弱し、昼夜を問わずお岩と伊助の亡霊に悩まされて衰えて行きます。
是を、養子の喜平と中間の角助は、本当に献身的に介抱しては居るのですが、快甫が良くなる兆しは御座いません。
快甫「喜平!すまぬ。お前には、実に頼み難い事ではあるが、娘のお花を連れて来て欲しい。ワシも、もう長くは無い。最期の頼みだ、喜平、頼む。」
喜平「分かりました。お父上、お花を呼んで参ります。 角助!民谷の家に行ってお花を、呼んで来てくれ。」
角助「畏まりました。」
角助は、直ぐに民谷の家に急いだ。
角助「御免ください!お花お嬢様は、いらしゃいますか?」
お花「ハイ!アラ?角助、どうしました?」
角助「御隠居様が、是非、お花お嬢様にお会いして、お話がしたいと仰せです。」
お花「貴方?!伊右衛門様、父が私を呼んでいると。」
伊右衛門「行ってやりなさい。快甫の御隠居も病で長く家に閉じ籠りきりだ、娘の顔も見たいだろう。看病して来なさい。」
お花「有難う御座います、貴方。 では、角助!参りましょう。」
お花は、角助と一緒に実家である伊藤の家に着いた。三月の節句に来て以来だから、半年以上この家の敷居を跨いでいない。
お花「喜平さん、貴方には本当に、不義理ばかりで申し訳ありません。今日は、父に呼ばれて参りました。」
喜平「もうそんな事は、怨みになど思っておらぬ。民谷へ嫁に出た義妹が帰って来ただけの事。少しでも父上の心が癒されるならば、こんなに嬉しい事は無い。」
お花「お優しいお言葉、痛み入ります。では、父に逢わせて下さい。」
角助「お嬢様、こちらです。」
角助がお花を、快甫が寝ている居間だった部屋へと案内する。快甫は、眠っているらしく、寝息だけが聞こえる。
角助が、軽く揺り動かすと目を覚ました快甫だったが、もう自力で身体を起こす事もままならない。余りに細く痩せてしまったその姿に、お花は驚きます。
更に、髪は抜けて疎らだし、顔は崩れて深い皺?所々瘡蓋と膿が出ていて異臭が致します。半年ぶりに見た父が、こんな姿にと、悲しさを通り越して戦慄すら覚えるお花。
快甫「おーお花。」
お花「暫く見ないうちに、お変りになられて。労しゅう御座います。」
お花は、父快甫に縋り付いて泣き崩れます。そして、更に強く抱きしめ様としたその時、強い力で快甫が、お花を突き飛ばします。
お花「何をなさいます!父上。」
快甫「何をする?!よくもまぁ〜、お前さん、此の家の敷居を跨げたねぇ?!」
お花「何をお父様仰います。貴方が逢いたいと言うので、角助が迎えに参りました。」
快甫「誰が迎えに来ようとも、お前は此の家に足を踏み入れられる義理かぁ?!お前は伊右衛門を寝取り、私に賤しい務めをさせようとしただろう?!今に思い知らせてくれるワ!」
お花は、この声がお岩だと気付き、ゾッとして慄るえながら語気を荒げて、
お花「お父様!どうしました、しっかりして下さい。お気を確かに!」
快甫「おーぉ、何ぞ俺は言ったか?ワシは夢中だった。まだ、頭がボーッとして晴れぬ。その声は、お花か?!其処に居るのか?お花。」
お花「お父様、今日はご看病するつもりで出て参りました。」
快甫「何ぃ〜、貴様、看病しに来たって?!お前さんの父、この快甫は私を苦しめたバチが当たってこんな病に成ったんだよぉ?もっともっと苦しめて殺してやるんだから、お前はアッチにお行き!」
正に、又もやこの声はお岩で御座います。もう自分の力では太刀打ちできない、せめて、快甫が正気で居るなら看病の仕甲斐もあろうが、お岩に取り憑かれた状態では、一緒に居るだけで苦痛です。
結局、お花は呼ばれて来たものの、ろくに会話すらできぬまま、お岩の復讐への執念の恐ろしさに慄るえながら帰って行きました。
その夜も、相変わらず喜平と角助は、交代で快甫の看病をしていた。快甫も衰弱が激しいが、看病している二人の疲労も負けず劣らず激しいものだった。
喜平「角助、それにしても、御隠居の世話で俺たちの方が先に逝くかもしれぬなぁ。」
角助「何を縁起でもない。御隠居は、貴方にとっては義父、私にとってはご主人様。恩返しの為にも、互いに頑張りましょう。」
喜平「そうには、違いないが、此方も生身の人間だ。」
快甫が、「ウーン!ウーン!」と苦しそうに魘されています。
喜平「どうしました、父上!」
快甫「おぉ〜、喜平。悪い夢を見た。」
喜平「また、お岩の亡霊ですか?」
快甫「其れが、鼠だ。鼠が、ワシの顔をペロペロ、舐めに来るんだ。」
喜平「鼠ですか?鼠は、唐紙をピタリと閉めてあれば、中へは入れません。」
快甫「しかし、天井から降りて来るんだ、鼠と言う奴は。」
そう言われた喜平が、行燈の灯で天井を見ようと致しますと、灯りが快甫の顔に当たって、パックリ割れた額と頬が浮かび上がり、紫色に膿の出た様子が、喜平の目に飛び込んで来ます。
其れから、喜平は鼠に鼠にと、毎夜鼠に悩まされて、いよいよ、喋る事も儘ならぬ程の衰弱です。
其処で、喜平と角助が相談して、蚊帳を吊り快甫と布団に中に入れて、四角には石を置いて鼠が中へは入れないようにして、快甫を寝かせます。
快甫のスースーと、寝息が聞こえたら、次の間へと下がり二人も寝て、半刻毎に蚊帳の様子を伺う事に致します。
喜平「角助や、親父殿の病には、もう精魂尽き果てた。近頃では、帯を解いて寝た事がない。もう治る見込みは無い身体だ、其れならば、お岩の亡霊や鼠に苦しまぬ様に、楽にして差し上げる方が幸せなのでは?と、考える。」
角助「若旦那!何を弱気な。御隠居は、まだ死に切れない様子です。最期まで面倒を見て差し上げましょう。」
喜平「困ったものだ、最近はとんと、吉原もご無沙汰だ。かしくの所から度々手紙が来る、今度は何時くんなますか?と。其れに返事も出せぬは。」
角助「若旦那!何を呑気な事を。貴方にとって一番大切な義父様で御座います。ちゃんと、死に水を取って差し上げて下さい。」
ウーン!ウーム!ウーン!ウーム!
次の間から、快甫の呻き声が一段と真に迫る感じで聞こえて来ます。喜平と角助は、慌てて唐紙を開けて次の間へ飛び込んでみると、
快甫を寝かせた蚊帳の中に、何やら黒い大きな塊が、生き物のようにザワザワ揺れて動いています。
喜平「お父上、しっかりして下さい。お気を確かに。」
快甫「ウーン!ウーム!」
その快甫唸り声の後、黒い塊が、ゆっくりと快甫の上で、二回、三回と回転し、ガリガリグチュグチュと気味の悪い音を立て始めます。
喜平「角助!何んだあれは?!」
角助「判りません。動いてますねぇ。」
喜平「お父上の上に、黒い物が覆い被さっておる。角助!蚊帳を下ろすぞ。」
二人が蚊帳を下ろして、中を直に見てやれば、それは甘口鼠(かんこうそ)と言う小さな鼠が、数百快甫の上に張り付いて、快甫を喰らうております。
慌てて、角助が木剣で是を払うと、鼠は一列になり、柱を伝って天井裏へと消えてしまいます。
喜平「天井へ消えたが、天井に穴など無いぞ!何んだあの鼠は。」
角助「魔道の鼠ですね、南無阿弥陀仏!南無阿弥陀仏!」
喜平「それより、お父上は?!」
角助「是は?!」
喜平「何んとした事だ!」
快甫は鼠に喰われておりました。目玉は無く、鼻と耳も有りません。頬は喰いかけで、喉や手足は骨が見えております。
喜平「是は酷い。祟りとは言え、あんまりだ。父上が哀れでならん!」
角助「それより、若旦那。葬式になりますから、佛を早く湯灌して、この姿を少しでも見られる様に直してやるのが、喪主の貴方の務めです。」
喜平「喪主?」
角助「そうです。貴方が喪主でしょう。組頭の葬儀ですから、参列者も大勢来ます。少しでも、御隠居の死顔が綺麗になる様に致しましょう。まずは、湯灌を!!」
喜平「私は湯灌などした事が無いぞ。」
角助「分かりました、湯灌は私が行いますから、若旦那は、盥と桶に水を汲んで下さい。汲んで来ましたか?
では、次に、若旦那!御隠居の服を脱がせます。帯を解いて、宜しゅう御座います。さて、若旦那、背後から抱えて下さい。
そんでもって、腰を入れて下さい。って、自分の腰を入れてどうするんです。ドリフのコントじゃありませんよ、ささぁ、御隠居の腰を盥に入れるんです。
そして、桶の水で御隠居の身体を拭いて、よーく拭いて下さい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。水は佛に掛けて下さい、私に掛けない。」
喜平「もう、水が無い。」
角助「じゃぁ、今度は私が汲んで来ます。」
と、角助が手桶を持って外の井戸まで行く。すると、突然、雨が落ちて来ます。九月の末、季節は秋ですから、夜は、一層淋しい気配が漂います。
待っている喜平は、雨音が聞こえて来て、死体の側に居る自分に、不安を覚え始めた、その時!天窓の紐が緩み窓が開くと、雨が一気に降り込んで来る。
喜平は、思わず雨が降り込む天窓を見ると、其処に、視線が!!
喜平「角助、お岩が天窓から覗いておる!」叫ぶ様に喜平が怒鳴るので、慌てて、手桶を置いて、角助が駆けつけて来る。
角助「お岩さんは何処ですか?!」
喜平「其処だ!」と、腰の抜けた喜平が天窓の方を指さすと、其処には。。。
角助「何んですかぁ〜、若旦那、アレは猫ですよ。」
喜平「エッ?猫。」
角助「それより、盥ん中に御隠居が居ませんよ。」
そう言われて、辺りを見た喜平が、もっと恐ろしい物を目にするのだが、この続きは、次回のお楽しみ。
つづく