傳助は、松平安芸守の足軽部屋に、庖司として採用されて、張り切って仕事に出掛け始め、一方、お津奈の方も腹がセリ出す毎に、母親らしくなり、
長屋のお上さん連中の助けもあり、味噌汁を作ったり、おしめの準備をしたりと、少しずつでは御座いますが、身の周りの事からお嬢様が主婦へと脱皮を始めておりました。
アさて、松平安芸守は、所謂、四月大名。四十二万石の領地『安芸』から、江戸へ四月に来て、翌年又四月には國へと帰る。此のサイクルを廻す、参勤交代が義務で御座います。
丁度、傳助が五郎兵衛町に所帯を持った年の五月の節句で御座います。例の通り安芸守様の足軽長屋へ出て参った傳助。
この時、高田大八郎という足軽組頭が病気の為に、一人、この長屋に留まり養生をしているのですが、一人だから飯は要らぬ!とは参りませんで、此の日も傳助は出勤です。
高田「今朝はえらく遅い出仕だなぁ、傳助!!何故、もっと早く来ぬ!ワシを飢え死にさせるつもりかぁ?!貴様が遅いので、拙者が米を研いで置いた!!こんな事なら、貴様の庖司の給金を、拙者が貰うようだなぁ〜。」
傳助「其れは!其れは!誠に相済みません!今朝程、やや子が生まれそうに成りまして、それで遅れたという次第で。。。ご迷惑、お掛けしました。」
高田「何んだ?!貴様は赤子を産むのか?!」
傳助「違います!ご冗談を!産むのは女房で御座います。」
高田「そうだろう!?子供が生まれそうだからと言うて、ワシが干物にされては困るぞ、傳助!!明日はちゃんと早く来い!
それから、飯は柔らかく、汁は塩分控えめになぁ!!病人が食うのだから、忘れるなぁ!!ひとッ風呂浴びて参る由え、その間に飯の用意をして置け!頼んだぞ!グズグスするなぁ!!」
手拭いを持って、プイッと高田大八郎が長屋を出て行きます。長屋にも内風呂は在りますが、朝湯は使えません。だから、高田は麹町の湯屋へと参ります。
五月蝿いのが消えてくれたので、傳助は手際良く飯の支度を始めます。菜葉を刻み、竈に火を起こして出汁を取り、お釜を火に掛けて米を焚き始める。
『あの高田様、直ぐに怒り出すお人だ。あの短気さえ直せば、良い人なのになぁ〜。然し、病と言う割に元気だぁ。湯にも入るし食欲も在る。』
そんな事を思いつつ、炎の前に屈んで火吹竹を拭いていると、天井からポタリポタリ、何やら落ちて来て、其れが傳助の頭、頬っぺた、そして吹いていた竹にも掛かった。
傳助「何んだべぇ〜、アッ!血だぁ〜、赤けぇ〜、血だぁ〜!!猫が又鼠を殺したなぁ〜。折角炊いたおまんまや、汁に入ったら一大事だ!又、高田様に叱られる。
それにしても、駄目なぁ猫だぁ〜。良い猫は鼠を捕っても血は見せないと言うぞぉ!捕り損じたかぁ?!富島さん所の黒猫だなぁ?!あの野郎には、このあいだ、干物を三枚も盗られてるから、目に物見せてやんべぇ〜!!」
そう叫ぶと、傳助は近くの薪ザッぽを掴んで、勢いよくハシゴを駆け上がり、二階の六畳で仕切られた琉球畳の足軽達の寝室へと飛び込んだ!
傳助「アレ!?畳の目なりに血が滲んでやがる?!猫は魔物とは言うが、垂らした血を目なりに拭いたりはしねぇ〜べぇよぉ〜???
何んだ?何んだ?何んだよぉ〜!薄気味悪かんべぇ〜?!あの布団を仕舞う行李が、血の源のようだぁがぁ〜。怪我した猫が居るのかぁ?」
恐る恐る、薪を握り締めて、布団行李に近付く傳助。其の蓋を開けると、中には赤い布団袋が在り、きつく縄目が掛けられていた。
傳助「こん中に、何が在んべぇ〜かぁ?!」。かなり重たい中の布団袋を取り出して、きつい縄を解く傳助。今にも心臓が首から飛び出して仕舞いそうな感じがしている。
南無三
目を瞑って布団袋の中の物を出して、恐る恐る、目を開くと!!胴体と首が行き別れになった死体が、其処に詰められて居た。
声も出ず、腰が抜けた傳助が、二階の琉球畳でアワアワしている所へ、風呂から戻って来た高田が、二階で物音がするので、ハシゴ下から傳助に声を掛けて来た。
高田「まだ、飯は炊けてない様だが。。。二階で、何、油売っている!!」
傳助は、血の気が引いた青い顔で、這い摺りながらハシゴまで来て、何か喋って此の場を誤魔化そうとしたが、全く声が出ず、
一方の高田は是を見て、一瞬、ドキッとした顔を見せて、左手に刀を持ったまんま、ハシゴを駆け上がり、傳助の前で仁王立ちになった。
そして、大段平を右手で抜いて、左手は握っていた鞘を捨てて襟首を掴み、這ったまんまの傳助に低い声で命じた!!
高田「こっちへ、来い!!」
傳助「旦那!高田の旦那!!命ばかりはお助け下さい!お願いです。」
高田「傳助!俺は、まだ、何も言ってはおらんのに、その口ぶりでは、あの行李の中を、貴様!見て仕舞ったなぁ?!」
傳助「お助け下さい!誰にも口外致しません!!見猿・言猿・聞猿!です。権現様に誓って三不猿と成ったからには、傳助、此の事は墓場迄、持って行く所存に御座います。」
高田「駄目だ!見るも因果、見られて仕舞うも因果。貴様も、その布団袋に、首無しで入る定めじゃぁ!!覚悟致せ。痛く無い様に斬って進ぜよう。」
傳助「旦那!後生です。今日明日にも、赤子が生まれて参ります。その子を!その子を!父無し(ててなし)に、させないで下さい!旦那、命ばかりは!!何んでも致します。」
高田「傳助!貴様、そんなに命が惜しいかぁ?!」
傳助「命の惜しくない奴なんて、居りません!!惜しゅう御座います!!」
高田「そうかぁ、そうまで云うなら。。。考えてやろう。拙者の申す事は、誠!何んでも致すか?!」
傳助「ハイ、命の為!生まれて来る、我が子の為成れば、どんな命令にも、従いまする。」
高田「此の死体を、何処かへ捨てて参れ!!」
傳助「へい!分かりました。お易い御用です。」
高田「エッ!誠かぁ?!いずれに捨てて参る?」
傳助「お屋敷の床下か?!穴を掘って生ゴミと一緒に埋めて、捨てまする。」
高田「田分け!!屋敷に捨てる奴が在るかぁ!!邸内で済ませられるのなら、貴様などには、頼まぬ!!何処か遠い。。。山か?川か?!」
傳助「豊?!」
高田「巫山戯る(ふざける)なぁ!!殺すぞ。」
傳助「済みません!つい、山か?川か?って仰るから、ゆたか?に。分かりました。遠くへ、伊勢の先は、鳥羽辺りに捨てて参ります。」
高田「まだ、云うかぁ?!二匹目のどぜうを狙いおって!この噺、怪談だぞ!!此の辺りから本寸法へ戻す!宜いなぁ?!」
傳助「御意!!。。。持ち難いですねぇ〜」
高田「ヨシ!拙者が持ち易くしてやろう。」
そう言うと、高田大八郎は鞘に大刀を納めて、行李から首を出して、大きな合羽籠へと移し替えます。
高田「どうだ?行李には、首無しの胴体だけで、そっちは明日で宜いから、今日、貴様は、その馴染みの首を、合羽籠に入れて運び、見つからぬ様な場所へ、処分して来い!!」
傳助「馴染みの首って、旦那!アッシは、生首の知り合いなんて、居りません!!」
高田「何を言う、長年の馴染みだと、貴様の口から拙者は聞いたぞ。この首野郎の女房とは、生國が上総で同じだとか、貴様、云っておったろう?!」
傳助「女房の里が私と一緒って言ったら、、、まさか!十助ドン!?」
高田「その通り!霊岸島の金貸し、伊勢屋十助の成れの果てだ!!」
傳助「何故です?!なぜ、十助ドンを手討ちに。。。屋号が伊勢だからって、『うどん』じゃぁ〜あんめぇ〜し!!」
高田「阿漕な商売をするからだ。元金は五両だったのに、四年で二十七両二分だと言いやがる。それも、拙者が病で伏せっているのに、ヤイのヤイの、厳しい取り立てだ!!
正に、アレは五月の蝿だ!!余りに煩いから、首を斬り落としてやった。すると流石に、大人しくなりおったぞ!!」
傳助「可哀想に。。。南無阿弥陀仏!南無阿弥陀仏!」
高田「おう!そうだ、傳助。バレない様に捨てて来てくれるんだぁぞ!!タダでとは言わぬ。手間を払おう!ほら、三両在る、此れを貴様にはくれてやる、励め!!」
傳助「此れは!此れは!大枚を。有難う御座います。」
高田「礼には及ばぬ。十助がくれた香典だからのぉ〜。一蓮托生!!是で貴様も同罪だ。片棒を担いだ事を忘れるなぁ?!」
『殺した相手から銭を奪って香典かよ?!』
と、言葉に仕掛けて飲み込んだ傳助。高田大八郎は、「捨てるのは、日が暮れた後だ!」と言って、二階で待つ様に傳助に命じ、自身は、傳助が逃げない様に、ハシゴの下で番をしております。
駄々っ広い二階に一人、十助の死体と残された傳助は、早く日が沈め!と、心で念じるものの、なかなか日暮れの遠い、夏の五月で御座います。
そして、漸く西に日が大きく傾き、烏がその夕焼け空を、お山の巣に鳴き声だけを残して帰る頃、遠くの方から六ツを伝える鐘が聞こえて参りました。
高田「おい!傳公、合羽籠を持って早く降りて来い!!」言われた、傳助は、こんな作業を二日連続やらされたんじゃ堪らない!と、思いますから、
背中に、背負子を使い行李を担いで、手には首の入った合羽籠を下げております。
傳助「是で、何んとか旦那!今晩、一晩で、首も胴も捨てて参ります。」
高田「好きにしろ!でも、絶対に遠くに捨てろよ!?」
屋敷内に、傳助が十助の死体を放っぽり出して逃げない様に、高田大八郎は、屋敷の門を出て暫くは見送る様に付いて来た。
やがて、傳助は独りにされて、首と胴体を捨てる場所を探し彷徨います。霞ヶ関の芸州屋敷を出て、先ずは外桜田の堀端へと来て見ましたが、五月の節句ですから人通りが多くこんな場所へは捨てられません。
傳助『驚いた!こんな恐い思いは初めてだ!!早く捨てたいが、五月の節句の最中だから、人が通ること通ること。
十助ドン!成仏してくれよ!俺は脅されて嫌々、お前さんの亡骸を捨てに来ただけだ!夢夢、アタイを恨みなさんなぁ!
悪いのは、皆んな高田の旦那だ!恨み取り憑き、地獄に落とすのなら、其れは、アッチじゃないぜ!高田大八郎の旦那にしなぁ?!宜いねぇ、十助ドン!!』
漸く、柳の影に隠れていれば、捨てられそうなお堀端の場所を見付けた傳助が、合羽籠を包んだ風呂敷の、結び目を解き、中身を出しかけた、次の瞬間!!
声高に喋りながら、銀杏歯の高下駄を鳴らして、勤番の若い侍が三、四人で通りかかりますから、流石に傳助、生首を掘りに捨てるのには躊躇しております。
仕方なくその場をやり過ごして、先ずは再び静けさが戻るのを待って見ましたが、其処から虎ノ門まで、生首をお掘に遺棄できるようなチャンスは御座いません。
流石、五月の節句期間中で、お堀端の人通りが多く、話をしながら、二人連、三人連が楽しそうに話しながらすれ違います。
其れは傳助と同じ様に風呂敷に箱を二つ包んだお店者の小僧と、長屋の町人風二人の三人連れで御座います。
定吉「お客様!お伴させて、頂きます。」
松蔵「小僧さん!済まねぇ〜なぁ、手間掛けちまって。」
定吉「いえいえ、店に居ても暇なだけですから、外の空気が吸えて。。。定吉!幸せです。所でお客様は、この人形をお幾らでお買い求めにやりましまかぁ?!」
松蔵「オレッチは、長屋一の買い物上手で、この野郎のカカァに見込まれて、買い物指南役として付いて来たのよ。
悪かったなぁ、小僧さん!オレ達が人形を値切り倒して、ハナ百文と言われた人形を、四十文に負けさせて!」
定吉「二十文、買い被った。」
松蔵「何んだとぉ〜、二十文買い被ったとは、どういう意味だ?!」
定吉「この人形は、我々人形屋の符丁では『ニカメ』、『豆喰い』とも申しまして、一昨年の売れ残りでして、
若旦那が、蔵の奥でゴミに成りかけを見付け来て、こんな売れ残りで日に焼けて変色した人形でも、馬鹿が見付けて有り難がるかも知れないから、店に並べとけ!って言われた奴で、
コンチ馬鹿二人組が、やって来て、是を百文だと吹っ掛けてみると、馬鹿だから乗って来て。。。ウッシッシ!四十文で売れたんです。」
松蔵「ヤイ!小僧、誰に向かって言ってやがる!」
定吉「アッ!仕舞った、馬鹿の当人だった。」
傳助「人形買いの帰りだなぁ?!何処かで聞いた噺みたいだった。しかし、人が多すぎて、なかなか捨てられない!!困った、困った。アッ!彼処はどうだろう?!」
と、草茫々の空き地、所謂、火事避けの広小路に捨て仕舞おうと、その茂みに入ると、中から女に手を掴まれて!!
女「長々、亭主に患われ難儀をしている者で御座います。」
傳助「何んだ!女乞食じゃねぇ〜かぁ!アッチへ行け!アッチ!!」
此処も駄目だ!背の荷物をまた背負い直して、歩き始めると、「傳助さん!!」と、呼び止める声が致します。
そして、誰だろうと振り向くと声の主は、口入屋の佐兵衛とは、反対側のお隣さん、大工の熊五郎で御座います。
熊五郎「おい!傳助さん、どうしたんだい?その包みは?!」
傳助「こりゃぁ〜お隣の親方!!変な格好を見られて、面目ない。いやぁ〜ねぇ、足軽頭の高田様ってお侍から、布団の洗濯を頼まれて。。。」
熊五郎「そんな事より、お前さん所のご内儀が、心配していたぞ!!ウチの人が帰らないって。何時もは昼前には帰るのにってなぁ。
だから、長屋で手分けして探していたら、オレがお前さんをあんな草叢で見付けたって訳だ。傳助さん!早く、お内儀に、無事な顔を見せてやりなぁ!!」
そう言われて、結局、合羽籠も行李も処分できぬまま、傳助は隣家の旦那と二人、五郎兵衛町の我が家へと帰って来た。
傳助「お津奈!今、帰った。」
お津奈「あんた!こんな刻限まで、何処に居たんだい。アタイは今日生まれるか?明日生まれるか?って身体で、心細いって言うのに、出て行ったら鉄砲玉で。。。アタイを置いて、逃げたかと思ったじゃないかぁ〜。」
傳助「済まない!足軽頭の高田大八郎様から、布団の洗濯を頼まれて、それで遅くなって仕舞ったんだ。」
お津奈「嫌だよ!無理、無理。アタシはこんな身体なんだから、布団の洗濯なんて、出来ないワよぉ!!」
傳助「馬鹿!身重で無くても布団の洗濯なんか、お前にやらせないさぁ、お津奈。是は明日、餅屋は餅屋。本職に頼んで洗濯させる。其れ迄、家に置いとくだけさぁ!安心しなぁ。」
お津奈「そうかい、其れなら宜いんだけと。アンタ!何か食べるかい?!」
傳助「そうだなぁ、茶漬でいいから、おまんまを一杯頂くよ。それより、お津奈!身体はいいのか?今日はもう生まれないのか?!」
お津奈「今日はもう、陣痛は無いと思うワ。お産婆さんも、今日はもう生まれなかろうって言ってました。」
傳助「早く、元気な子を生んでくれ!お津奈。俺は早く我が子が見たい!」
お津奈「私も、同じ気持ちさねぇ〜。でも、是ばっかりは、神のみぞ知るで、何時オギャー!と、生まれるかは?!アタシ達には決められないんだよ。」
傳助「分かっているさぁ!分かっちゃいるけど、本と!早く生まれて欲しい。」
傳助は、何故か?佛間の仏壇の下の観音開きの収納に、合羽籠と行李を仕舞うのだった。そして、何とも、この伊勢屋十助の首と胴の離れた死骸を、此のまま何処へ捨てると、生まれて来る我が子に災が振り返る、嫌な予感がして、堪らない気持ちになって居た。
お津奈「どうしたんだい?!もう食べないのかい?!明日も、アレを担いで出掛けるんだろう?そんなら、もう一杯、食べなよぉ!お前さん。」
傳助「いやぁ〜、夏バテかなぁ?!食欲が無いんだ。」
お津奈「そう!そう!あんた、神田の伯父さん家に行って一両、借りてきちゃ貰えないかい?!アタシが身二つになったら、何かと物要りだからさぁ。一両が無理なら二分だけでも、借りて来てお呉れ!?」
傳助「其れには及ばなねぇ〜。高田様から出産祝と布団の洗濯の手間で、三両頂いてある。是を渡して置くから、安心しろ!お津奈。」
お津奈「アンタ?!高田様って、足軽よねぇ〜、確かに芸州公は四十二万石の大大名だけど、足軽が飯炊きに三両もの大金を渡せるの?!
貴方?!嘘は止めてよ。盗んだ金子じゃないわよねぇ〜。悪い事だけは、厭やよぉ〜。」
傳助「本当だ!盗んだ銭などではない!高田様が、俺に下さった銭なんだ。有り難く使え!!」
お津奈は、怪しいと感じながら、それ以上、傳助を問い詰めなかった。あの行李と合羽籠も、何か悪巧みの臭いがするが、あえてスルーするお津奈。
一方の傳助も、十助の死骸を家に持ち帰った事を本当に後悔していた。是で祟りがお津奈や生まれて来る子に降りかかって困る!と、思った。
そして、傳助は自分なりの懺悔を思い付くのである。其れは、このお津奈が、傳助の帰りをあんなに恋しく待って居たのを見て思い付いたのだが、
金貸しの十助にも女房がある。彼女も今頃、十助の帰りが遅いと、心配しているに違いない。そして此のまま、十助の死体を隠してしまえば、
女房は、終わりの無い待ち地獄を彷徨い、来る日も来る日も、十助の帰りを待ち続ける事になるのだ。
無限地獄
其処から解放されるのなら、十助の女房に十助の死の真相を知らせて遣りたい。確かに、悲しむ事にはなるが、怒りの矛先は自分や家族ではなく、高田大八郎一人に集まる。
殺された十助だって、女房に最後に弔われたならば、お津奈や生まれて来る子供を、取り殺したりはしないであろう。
傳助「お津奈!今から霊岸島へ行く用事がある。大切な用事で、なるべく早く帰るから、留守を頼む。
其れから、是も絶対に守って欲しいのだが、仏壇の下の汚れた夜具布団、アレを見てはいけない!いいなぁ?!決して、見てはいけない。」
そう、実直な傳助が言い残して、霊岸島の伊勢屋へと急いで出掛けます。そして、一人お留守番のお津奈となるのですが、
見るな!と、釘を刺されてしまうと、抜きたくなるのが人情で、見るな!と言われると、見たくなるのも又人情です。
ドキドキしながら、お津奈は、恐いという気持ちを、見たい!と言う気持ちが勝って、吸い込まれる様に、佛間へと誘われます。
そして、仏壇の下の観音開きの戸を開けて、先ずは、小さな方から、合羽籠を取り出して、包んである海老茶色の風呂敷を解きます。
中から、太い縄目で縛られた箱が出て来て、最初は、見終わったなら、元へ戻す気でおりますから縄目を素手で解こうと試みますが、
高田大八郎が片結びにした縄目なれば、可弱いお津奈の指で解けるはずが御座いません。仕方なく、台所より菜切包丁を持ち出し縄を切ります。
ブツり!ブツり!
『やだねぇ〜、夜具をこんな荒縄で縛って!』と、呟いて、合羽の端を開いて中を覗くと、髪の毛の様な物が飛び出して、『ウッ?』と悪臭を感じた次の瞬間!!
ゴロゴロ、ゴローン!
生首が畳を転がり、塊かけた血のりがベッとり塗られております。『ギャ!』短い悲鳴を上げて、お津奈が力んだ後、気絶致しますと、このショックで赤ん坊が生まれて参ります。
オギャー!オギャー!オギャー!
そうです、是が後に『お岩』となる女の子で御座います。元気に火が点いた様に泣き叫ぶ。この赤ん坊の声に、長屋の住人が、お津奈と傳助の家に集まります。
先ず、隣の熊五郎が、かなり酒に酔っている状態で是を見て驚き、大家の六兵衛さん家に駆け込みます。
熊五郎「大家さん!大ぇ変だぁ!お津奈さんが、赤ん坊と生首を生み落とした!!」
呼ばれた六兵衛さんと長屋の皆さんが、駆け付けて見ると、赤ん坊が生首を弄りながら戯れている、その横で、菜切包丁を握った山姥の様なお津奈が白目を剥いて、泡を吹き伸びております。
正に、地獄絵図!!
オマケに、観音開きの仏壇の下から、行李に詰まった胴体の方も出て参りますから、番屋から役人が呼ばれて来て検死するやら、
長屋の場末からは産婆が呼ばれて、赤子に生湯を使わせるやらで、悲しいのやら?目でてぇ〜のやら?分からない、是も呉越同舟?!の世界で御座います。
そうこうしていると極め付け。其処へ、十助の女房が霊岸島から駆け付け来るなり、あの生首を掴んで「お前さん!お前さん!」と泣き喚き、半狂乱と成りまして、ここに地獄絵図が極まれり。
翌日、死体が霊岸島の金貸し、伊勢屋十助だと知れて、女房の半狂乱も治り、その女房の口から、十助殺しは高田大八郎の仕業と、傳助から聞いたと齎されます。
しかし!昨夜のドサクサの中、傳助は何処かへ消えて居なくなりますし、また、生首出産したお津奈は、相当のショックを受けたのでしょう、産後の肥立ちも悪く、昨夜のうちに絶命致します。
つまり、後にお岩となる赤ん坊は、あの生首騒動でいきなり孤児として生まれ、困った大家の六兵衛が、傳助とお津奈夫婦の身元引受人だった、伯父・甚兵衛を呼び出し、そのお岩を引き取らせます。
お岩を預けられた、お崎甚兵衛夫婦も、是には困り果てますが、甥の傳助がした事ですから、厭!とは言えす、貰い乳しながら、育ててみるか?とも思いましたが、どうにも赤ん坊を持て余します。
其処で、楽隠居のお崎甚兵衛より、直参の民谷家だろうと思いまして、甚兵衛がお岩を、民谷又左衛門の所へ連れて行くと、
お爺ちゃん!実の娘は可愛いと見えて、快く是を引き取り、妻の仲も喜びまして、めでたく、お岩は民谷又左衛門の手で育てられる事になります。
アさて!最後に、高田大八郎で御座います。こいつは、悪知恵、勘働きが良う御座いまして、十助の死体を傳助に処理させると決めた、
その晩に、病が回復したと藩には届け出て、支度金を前借りし、国へと帰ると偽って江戸の何処かへ逐電致します。
そしてこの後、物語はこの民谷家の養女お岩と、高田大八郎の息子・伊右衛門が出逢う事と相成りまして、この二人の因果・因縁が複雑に絡み合うので御座います。
刻は、享保三年五月六日の事で御座います。
つづく