生活必需品とお津奈の母親・仲が持たせてくれた慈悲の五両を懐中に、身重のお津奈を連れ、傳助は神田、松田町に居る伯父を訪ねて行きます。
もう九ツが近い四ツ半過ぎに、野犬を追い払う様にして、夜逃げ同然の格好で、駆落者の二人が現在のJR神田駅が御座います鍛冶町二丁目辺りを歩いております。
傳助「津奈、その二軒先、二階屋で灯りの点いているのが伯父貴の家だ。先に俺が話をして来るから、すまないが、その角、軒先で待っていてお呉れ。」
お津奈「ハイ、お前さん。ほら、この土産の沢庵!忘れずにね。」
傳助「分かっているよ。」
そんな会話が御座いまして、傳助は、現在は楽隠居の伯父の家への戸口に参ります。この伯父、元はボテ振りの八百屋から始めて、青物の卸しの株を手に入れ、十分小金を貯めて、現在は悠々自適の楽隠居、女房と二人暮らしで御座います。
傳助「今晩は!夜分済みません。」
伯母「ハイ、どなたさんでしょうか?!」
傳助「甚兵衛伯父貴は御在宅でしょうか?甥の傳助に御座います。」
伯母「アラ?!珍しい、傳さんかい、今開けますよ、どうしたんだい?!」
傳助「それが。。。ちょっと訳有りで。。。詳しくは中でお話し致します。」
伯母「お前さん!傳助が来ましたよ。アタイは、行燈に油を足すから、お前さん!!迎えて上げて下さいなぁ?!」
伯父「分かった、俺が芯張りは外してやる。居間に行燈をもう一つ点けて明るくしろ!」
この伯父の家は、元八百屋ですから、木戸口から居間の間には、広い土間が御座いまして、其処を手燭を持ちました伯父が、芯張り棒を外しに出て参ります。
伯父「ホラ!開けたぞ、中へ入りなさい。おいおい、何んて荷物を背負ってやがる。そのまんまは、無理だ。荷物を横にして、中へ入れてから身体は後から入らなねぇ〜と、戸が壊れる!!だから、無理だ?!」
傳助「是はつまらない物ですが、どうかお納め下さい、伯父さん。」
伯父「なんだ!沢庵じゃねぇ〜かぁ、太くて美味そうだ、ありがとうよ。それにしても、下駄から傘から、何んて荷物を抱えてんだ?!民谷様の家で何か?有ったのか?!
取り敢えず、荷物は土間に置いて、部屋へ上がんなぁ!婆さん、火鉢に炭を足しておくれぇ。ホラ、傳助、上がりなさい。」
渡された雑巾で足を綺麗にして、傳助は居間に上がり、伯父さんと対面に座り、夜逃げして来た事を切り出した。
傳助「ハイ、伯父さん!今夜、民谷様の家から逃げて参りました。」
伯父「貴様のその格好を見たら、だいたいの想像は付く。しくじったのか?!民谷様の家を?!お前の事だ、銭を使い込むとか、博打に手を出す何んて心配はないと、思うが。。。どうなんだ?!」
傳助「博打や使い込みじゃ御座いません。」
伯父「そうかぁ、公儀の縄目を受けたり、世間に後ろ指をさされるしくじりじゃなければ、俺たち夫婦には子はなく、貴様は死んだ舎弟の忘れ形見だから、養子に迎えて面倒みてやってもいい。
今は、八百屋を引退したが、貸家家業の株を買って家賃収入で、それなりに食べて行けているから、その長屋を貴様に譲っても宜いと、俺は思っている。
其れになぁ、既に、近所の横丁の豆腐屋の娘か?その二軒先の古着屋の娘を、貴様の女房に迎えて、この辺りで所帯をとも考えていた所なんだ。
どうだ、今夜は良い機会だ。民谷様の所の奉公をしくじったのを福に変える為に、嫁取りをして、此の家の養子にならないか?」
傳助「伯父さん!其処までオイラの事を。。。でも、しくじりと言うのが。。。実は。。。」
伯父「ウーン、顔が赤く成ったなぁ、しくじりは、その様子だと女か?!好きな女が出来たんなら、その女と夫婦にしてやろうか?!
しくじりは、奉公人同士で惚れ合ったか?!おや?違う。。。もしや、民谷様の家にはお嬢様が居たはずだ。まさか、あのお嬢様と。。。好き合うたのか?!
いやいや!!彼処の家のお嬢様と言えば、俺が堀ノ内のお祖師様に参った帰りに、民谷様の家に寄り、お前と台所で立ち話をした折に見た、あの化け物と言うか妖怪と言うのかぁ、まさか、あの怪物と恋仲に成った訳じゃあるまい?!」
傳助「え〜、其れが。。。何んと申しましょうかぁ?!寒さに負けて。。。変な事で。。。」
伯父「ハッキリ云え!!」
質されて、傳助は非常に困り、黙ってしまった。
伯父「万に一つも、民谷様のお嬢様とは恋仲には成るまい?!あのお嬢様は、四谷の組頭屋敷界隈では有名な鬼娘だそうじゃないかぁ?!
しかし、鬼娘とはよく付けたもんだと、俺も感心した。アレが御家人の娘だから、飼って貰えるが、百姓町人の娘なら。。。香具師に売られて今頃は奥山で見世物だぞ!!
大方、アレだろう誰か悪い奴が居て、あの娘の嘘の縁談を民谷様に持ち掛けて、結納金を騙し取る算段など致し、貴様がそれに乗って手を貸し、民谷様の怒りを買ったのであろう?
あの化け物、鬼娘に手を出してさえいなければ、何とか示談に出来よう。安心しなさい!傳助。」
傳助「其れが伯父さん!つい、親切に絆されて。。。」
伯父「エッ!まさか!お前!あの鬼娘と。。。致したのか?!親切ぐらいの事で。。。」
傳助「ハイ、実は昨年暮れの寒い晩に、余りに寒いから寝られないと申しますと、民谷の旦那様が、民谷の旦那様がですよ、『娘の部屋が暖かいから其処で寝ろ!』と、仰る。」
伯父「当たり前だ!鬼娘とすこぶる悪い評判なのは民谷様が一番宜くご存知の筈だ。だから、まさか娘に手を付ける筈は無いと踏んで、そう言われたんだ!!なぜ、あの鬼娘を。。。鬼を抱いたりした?!」
傳助「えも言えぬ良い香りがして、鬢に何やら香りの良い油が塗られていて。。。」
伯父「何をぬかす!相手は鬼娘、あのチリチリのペッチャンコの髪に、例え香りが良くとも、鬼と戦いを挑むとは?!貴様は、渡辺ノ綱気取りかぁ?!お前は何を喰っても当たらないだろう?そんだけ悪食の毒好みなれば!?
だがなぁ、悪女の深情けと昔から申す由えに、あの様な醜女に限り直ぐに、やや子ができる。良いか?!傳助、今のうちだ、直ぐに別れてしまえ!!」
傳助「伯父さん!もう孕んで御座います。」
伯父「是は驚いた!!ならば、不人情、いや、人非人と言われても、二度と取り合うなぁ!!」
傳助「其れが、連れて逃げてよぉ!と、申します。」
伯父「で、貴様、何んと答えた!!」
傳助「付いておいでよぉ!」
伯父「矢切の渡しかぁ!!、婆さん、聞いたかぁ?鬼の分際で、連れて逃げろと申すそうだぞ!!」
伯母「呆れたねぇ〜、アタシはその民谷様のお嬢様とやらは、実物を見た事はないが、お爺さんから話で聞いただけで、二日、食事が喉を通らなかったんだよ、傳助!!」
傳助「其れは其れは、ご愁傷様です。それより、伯父さん!『連れて逃げてくれろ!』と、どうしても申します。」
伯父「どんなに、せがまれても五月蝿く付き纏われても、柳の如く生返事で受け流せ!!宜いなぁ?!で、勿論、今日は独りで逃げて来たんだろう?!」
傳助「其れが、連れて逃げぬなら、死んで化けて出る!三日でお前を取り殺すと言われて、一緒に逃げて来たんです。」
伯父「なんだ!!そんなら早く云え。通りで。。。妙に今夜は野犬が吠えると思った。(突然大声で!)傳助!貴様は果報者だ!小身とは云え直参である民谷様のお嬢様に、惚れられて。。。ややまで授かるとは。。。
(小声で)情けない!!婆、逃げるな、もう因果と諦めて。。。暫く食欲が失せるのは諦めろ!!(又大声で)ささぁ、傳助!お嬢様を待たせちゃ悪い、早く呼んで来なさい!!」
傳助が、勇み加減にお津奈を呼びに、待たせた角まで出て行く、そして家の中へお津奈は入ると、お高祖頭巾を被ったまんま、先ずは礼を致します。
伯父「是は是は、民谷様のお嬢様。私は傳助の伯父、甚兵衛です。そして、是は女房の崎に御座います。」
そう言われたお津奈、此処で顔を上げて頭巾を取る。其れを見たお崎が、気を失い掛けて踏み止まり、何とか布団を被って御題目を唱えます。お崎甚兵衛は法華で良かった!今夜は陽気に御座います。
すると、お津奈が「どうかぁ、甚兵衛!私と傳助を晴れて夫婦にしてくりゃれ!」と、やや上から懇願致しますと、是を聞いた甚兵衛は、
『鬼娘』の癖に!と、少しカチンと来るけど、人の宜いのは甚兵衛さん!!堪えて、「今日はもう遅う御座います。取り敢えず、今夜は二階で寝て下さい。明日、詳しい話を伺います。」と、答えて二人を二階へ上げて寝かせます。
翌朝、甚兵衛はお津奈と傳助から、二人の是迄の経緯を事細かく訊いて、お津奈の父、民谷又左衛門対策というかぁ、なるべく怒りの矛先をかわす策は無いものか?!思案したが、
結局、小手先でかわすのでは無く、正面から腹を割って、常に下手から誠心誠意謝罪しようと言う結論に達した。
やがて、遠寺が鳴らす九ツの鐘を聴いて、茶漬けを掻き込んで、四谷左門町の組屋敷を目指して、甚兵衛は出発しました。
神田松田町の家を出た甚兵衛、多町の大通りを須田町方面へと進みまして、其処を抜け左に折れて淡路町、更にその先は小川町、神保町へと掛かって参ります。
神保町から又、緩やかに左へと曲がりますと、九段下の坂へと出て、先には千代田の城の堀が見えて参ります。
坂を堀沿いに登りまして、城の掘割り沿いの道を三番町、一番町、麹町、二番町と道なりに通り抜けますと、もう其の先が、四谷左門町で御座います。
組屋敷へと参りまして、『民谷』の表札の掛かった又左衛門の屋敷前で、裏口へと廻り、中へと声を掛ける甚兵衛。
すると、下女が出て来て、直ぐにご新造を呼びに屋敷奥へと走り去ります。そして、奥からは又左衛門の女房、仲が出て参りました。
お仲「おう、私の読み通り!やっぱりその方を頼って二人は逃げましたかぁ、甚兵衛。何卒、頼みましたぞ。アさて、我が主人、又左衛門殿は実に堅い御方由え、不義を致した二人をお怒りじゃぁ。
頼むから、又左衛門殿が何を言い出しても、その方は反論致すでないぞぉ。表向きはお津奈を不埒な娘と罵ろうと、内心は可愛く思っておられるハズだぁ。」
甚兵衛「其れはもう、承知致しております。お許しは頂けぬと覚悟の上で参っております。ただ、お嬢様を私どもで預からせて頂いておると、ご挨拶に伺ったつもりで、御座いますから。」
お仲「宜う云うた!甚兵衛。其れから、お津奈は懐妊しておる由え、呉々も、身体を大切にしてやって下されぇ!そして、孫が生まれましたら、即、知らせてくりゃれぇ!?」
甚兵衛「其れはもう、お内儀へ真っ先に。」
お仲「では、旦那様、又左衛門殿をお呼びしますゆえ、客間にて待たれよ。」
そう言ってお仲は再び奥へ下がり、甚兵衛は客間に通される。暫くして、紋付姿で正装の民谷又左衛門が現れたので、甚兵衛は、直ぐに土下座して甥・傳助の不義を詫びた。
又左衛門「甚兵衛、貴様に謝られても詮方ない。本来なら不義を理由に、傳助は討ち取り、お津奈には自害させるのが、武士の慣しだろうがぁ、
高々、三十俵取りの低身御家人が、殿様の様な事言うのも、道理ではなかろう。よって、お津奈とは親子の縁を切る!そちと傳助に呉てやる!!
その代わり、二度と民谷の敷居は股交わせぬ。いや、四谷左門町の土を踏むなと伝えてくれ。
そして、今一つ!!傳助に伝えろ、甚兵衛。お津奈をワシが呉れたからには、捨てる事は許さん。万一、お津奈を捨てたら、その時は、拙者、傳助を斬る!よいな、覚悟いたせ。」
甚兵衛「畏まりました。」
此奴は、偉い事になった!と、甚兵衛は思ったが、其れ以外の返事はあり得なかった。
又左衛門「甚兵衛!拙者は、この様に、この跡勤めが御座る。仲に相手をさせる、茶でも飲んで行け。」
甚兵衛「忝う存じ、奉ります。」
今風に言うと、又左衛門は空気を読んで外出した。直ぐに、お仲が現れて、再度、本当の娘だと面倒をみる様にと、昨日の五両の他に、又、五両、甚兵衛に手渡した。
そして、孫が生まれて、その元気な顔を見たら、又左衛門の勘当も解けると思うし、その孫が男女に関わらず、民谷家の跡を託す事になるだろうと語るのだった。
甚兵衛「ご新造様、きっとアッシが、立派な夫婦に二人をして見せます、ご安心下さい!」
お仲「有難う甚兵衛!頼りにしていますよ。金銭的に困る時には、私に直接言って来なさい。」
甚兵衛「いえいえ、アッシ等も子無しの夫婦ですから、其れには及びません。赤子が生まれたら、真っ先にご新造様にお見せに上がります。」
お仲「お七夜に、又左衛門殿にお見せして、名付け親にでも成って貰えば、二人は許して貰えましょうぞ!!」
甚兵衛「御意に御座います。」
帰った甚兵衛が、此の事を伝えて、共に白髪の八千代まで夫婦仲睦まじく過ごせ!と、意見をして、夜逃げから十日後には、京橋五郎兵衛町に所帯を持たせてやりました。
ところが、傳助は手に職が有りませんから、甚兵衛の知り合い筋や、口入屋からは、なかなか良い仕事が見付かりません。
また、お津奈も御家人のお嬢様ですから、家事全般が苦手。結局、お仲から貰った十両を食い潰しながら、家事は全て甚助が熟すと言う、本当に行く末が案じられる状態が三ヶ月程続いた、或る日の事でした。
相も変わらず、おままごとの夫婦の家に、昼日中八ツ前に、その隣に住む、幡随院長兵衛の様な大名相手の口入屋、その子分をしている佐兵衛と言う男が訪ねて参ります。
佐兵衛「御免なさいよ!傳さん、居るかい?!」
傳助「へーい、居ります。締まりはしてませんから、入ぇって下さい。何んだ、お隣の佐兵衛さん。今日は、何んのご用で?!」
佐兵衛「おーい!傳助さん、いい若けぇ〜もんが、昼日中、女房の膝枕で耳掃除かい。お前さん、仕事は?!」
傳助「今、仕事にあぶれてやして。無職です。ムショクですよ、ブショクじゃなく。」
佐兵衛「そいつは宜くねぇ〜なぁ、いい若けぇ〜者がぁ、働かずブラブラしてるのは。でー、傳さん!お前、おまんま炊けるかい?」
傳助「炊けるかい?!だぁ〜、人をヤマトタケルか、佐藤健みたく言いやがって!」
佐兵衛「でぇ、炊けるのかい?!」
傳助「アタイは、日本で三本の指に入る飯炊きだよ?!」
佐兵衛「三本の指って?!誰なんだ?!道場六三郎と陳建一か?!」
傳助「馬鹿こくでない、鉄人が飯を炊くかぁ!!権助、清蔵、そして、傳助じゃねぇ〜かぁ。
始めチョロチョロ、中パッパぁ〜、パチパチ弾けりゃ火を止めて、赤子泣いても蓋取るなぁ!!って、免許皆伝の飯炊きだ!オラは。」
佐兵衛「そうかぁ!なら、大名屋敷の足軽部屋で、飯炊きを探してるんだが、やってみないかぁ?!霞ヶ関の松平安芸守様だ。」
傳助「給金は、幾ら貰える?!」
佐兵衛「二分と五百文だが、俺が紹介した手間で五百文は抜くから、貴様の手取りは二分だ。どうだ?其れに、米・味噌・せうゆは、好きなだけ家に持って帰れる。だから、夫婦と子供の二、三人なら楽に暮らせるぞ!」
傳助「やる!オラ、やらせて貰う、その飯炊き!!」
佐兵衛「一応、飯炊きたって四十二万石の大名屋敷だから、包丁を司ると書いて『庖司/ほうじ』と呼ばれるんだぞ。」
傳助「『乾いて候』の腕下主丞(かいなげ もんど)だなぁ?!」
佐兵衛「そんなぁ、宜い者じゃねぇ〜。お前がやるんだから。」
こうして、長屋の隣人の親切から、傳助は本人にぴったりの仕事が、何と!霞ヶ関の松平安芸守の足軽部屋に見つかったのである。
つづく