三月二十日に書き始めて、五月十三日に大団円ですから、少しゆっくりになりました。
さて、『天保水滸伝』は、講釈では神田派で聞いていて、二代目山陽先生、愛山先生、更に春陽先生と、松之丞時代の六代伯山先生でも聞いております。全話誰かで聞いています。
また、映画も二本か?三本は観ていて、飯岡ノ助五郎が、どうしても悪役で、平手造酒が駆け付けて討ち死にする大利根河原決闘で物語は終わりますねぇ。
講釈や映画と比べて、今回の本は、まず、飯岡ノ助五郎が親の仇討ちに、横須賀から江戸へ出て、仇を探し求めて観音様のご利益と八卦見・青雲堂幽斎の占いで銚子へと旅立つ噺。
更には、銚子ノ五郎蔵親分と出会い、助五郎が出世しながら、仇討ちを成し遂げる迄の噺は、まず、講釈や映画では、まずやられない部分だと思います。
ここから、物語の最初の山場は『笹川の花会』で、其処に至る迄に、この本では、岩瀬ノ重蔵が十一屋を継ぎ、笹川と飯岡の対立が描かれ、
更には千葉周作道場の四天王の一人、平手造酒が、どの様にして重蔵一家の食客となるのか?と言う部分が細かく描かれています。
一方神田派がやる講釈でも、『平手造酒登場/生首事件』『鹿島の棒祭』『笹川の花会』と何話かは聴いておりますが、
私が聴いた神田派の噺は、一話一話を抜き読みできる噺に編集されていて、其々の噺の繋ぎの部分のエピソードが大胆に省略されています。
そんな理由からか?『笹川の花会』は、洲崎ノ政吉が、恥をかきそうになるのを、重蔵自身が身銭を切り、助五郎が祝儀を出したかの様に装って、政吉は恥をかかずに済み、助五郎と重蔵の貫禄の差を痛感するという噺に成ります。
洲崎ノ政吉は、笹川ノ重蔵と言う敵の大将に惚れてしまう感じの展開で、この『笹川の花会』と言う物語が完結します。
また、春陽先生は、五十人近い親分衆の、祝儀の金額と島内と名前を、夏目ノ新介が読み上げ態で、道中付けにして聞かせます。
忠臣蔵の討入や、二度目の清書きの、四十七士の活躍を修羅場で読んで聞かせるのを、無職渡世に置き換えた様なもので、実に、講釈らしい演出です。
この後、この本は相撲興行に纏わる抗争、高窓ノ半次による手打を挟んで、雪崩ノ岩松の事件と続いて、笹川が先に飯岡を襲って手打が反故になります。
このやや、紆余曲折ある物語の複座な人間模様が、神田派で聞く講釈には登場せず、『ボロ忠売り出し』から大利根河原の決闘の『平手の最期』になります。
そして、神田派講釈は、『三浦屋孫次郎の義侠』と言う重蔵暗殺から、暗殺を実行した三浦屋孫次郎が、
飯岡ノ助五郎に愛想を尽かして、重蔵の首を自ら十一屋へと届けて、丁重に埋葬して欲しいと願うと言う噺が、大団円として語られます。
ですから、重蔵の生い立ちや、父をたずねて紀州和歌山へ行く場面も無いし、勢力富五郎が、十一屋を継ぎ、仇討ちに奔走する噺も一切有りません。
憚りノ忠助と重蔵の未亡人・お糸がいい仲になり、十一屋を勝手に売り払い江戸に逃げていると、是を清瀧ノ佐吉が、見付けて討ちに行くなんて展開は、本当に初耳でした。
あと、ボロ忠こと奥州仙台の鈴木忠吉親分なども、勢力富五郎が、重蔵の仇討ちをする噺をしなければ、本当にただのボロ忠ですからねぇ。
さて、次回は何を読むか?『天保六花撰』からの『天保水滸伝』と来たので、次は、何か世話モノをと思っています。
『お富與三郎』か?『祐天吉松』か?思い切って『朝顔日記』にするか?迷います。
どちらにしても、この週末くらいに読み始めて、一月半で夏前に読み終えて、更にその次は、夏の名物!!怪談なんそを読んでみたいものです。