さて、飯岡に拠点を移した助五郎。近くに有ります笹川の十一屋の存在は、勿論存じて居りましたが、主人が藪雨の仁蔵親分の時代は、
特に商売や博打で利害関係が在るで無し、近くて遠い他所の一家でしたから、当然、その子分の岩瀬ノ重蔵なんて漢を知ろうはずが御座いません。
其の重蔵が、十一屋を引き継いで、メキメキと頭角を表して行くと、助五郎の方は、本来なら同國に同業の好い漢が現れたなら、此れを喜ぶべきものでありますが、
助五郎の料簡は、少し捻くれておりまして、重蔵に対して、妬み嫉みやっかみを抱きまして、此れ以降不和と成って行き、親分同士が其れですから子分達は口も聞かない一触即発!ピリピリした関係に成ります。
其の下総、八万石の地方内に、清瀧と言う所が御座いまして、其処に造り酒屋の大坂屋茂兵衛という者が御座いました。此の大坂屋、酒の小売も致しており、清瀧では評判の酒屋で御座います。
此の茂兵衛の女房は、針仕事の名人でして、この女房に裁縫を習いたい!と言う女子供が、近隣には多く在ります。ですから、彼女に弟子入りして針の技を教えて貰いに通って参ります。
そんな弟子が二十人近く集まり、大坂屋の女房は、針仕事を手広く請負い、其れを弟子たちに技術を教えながら粉して行く『裁縫教室』を営んでおりました。
此の様な『裁縫教室』は、江戸表には無く、此処下総の地方独特の仕組みと言えます。この時代に成っても、江戸は女性の業種が極端に少なく、芸事や接客業に偏っておりました。
その大坂屋の女房の裁縫の弟子に、銚子街道櫻井の荘客、輿兵衛の娘、お常という者が御座いました。
此のお常、歳は十八になりまして『裁縫教室』の弟子の中では、一番年長で針仕事の技量も一番で御座いますから、大坂屋女房の右腕として、仕事頭を勤めております。
ですから、『裁縫教室』の弟子達は、「姐さん!此れを見て下さい。」と、着物や帯の縫い上がり具合を、お常に査定してもらい、合格した物だけが、得意先へ出荷されます。
そんなお常も、娘十八番茶も出花、そろそろ嫁に貰われて、所帯を持ちたいと考え始めております。
そんなお常には、好い人が御座います。其れは大坂屋の小売店で働く佐吉と申しまして、今年二十一になる手代で御座います。
この佐吉、非常にひょうきんな性格で、明るく社交的で御座います。その佐吉は、酒屋の方から裁縫の方へ、空き時間を見付けては現れて、他愛も無い冗談を言っては、お常達、縫い子を笑わせておりました。
そんな佐吉を、お常も好きになり、着物の裾直しや、昼飯の世話を親切に致しますから、佐吉もお常を憎からず思う様になり、二人は大坂屋夫婦に隠れて、奉公人同士情を通じる様に成ります。
そして、二度、三度と通じる内に深い中に成って行ったのですが、佐吉は考えます。此のまま密会をコソコソ続けていると、いつかは、大坂屋の旦那にバレてしまう恐れがある。
バレたら、奉公人同士の恋愛だから、此れは暇を出されてしまうに違いない。今、大坂屋から追い出されたら、佐吉は生きては行けないと考えました。
其処で、この日佐吉は意を決してお常に、一旦、関係を終わりにしたいと、別れ話を切り出すつもりで、お常を呼び出します。
お常「佐吉さん、今日はえかく神妙な顔をして、どうかしたのかい?」
佐吉「お常さん、何も聞かずに此のまま、俺と別れ呉れ!!」
お常「何も聞かずに別れて呉れ!と、言われてハイとは申せません。なぜです?理由(わけ)を聞かせて下さい。」
佐吉「お常さん!貴方は輿兵衛さんの一人娘だから、俺の所に嫁入りって訳には行くまい?其れに、俺だって、今、ご主人の茂兵衛さんに、裁縫教室の仕事頭のお常さんと夫婦になる何て言うと暇を出されるに違いない。
そしたら、今まで大坂屋で辛抱して来た事が全て水の泡だ。俺は何とかこの店で辛抱を続けて旦那様から暖簾分けして貰いたい。そうなったら、嫁を貰うだろうが、今はその時では無いのだ、お常さん!分かって呉れるね?」
お常「分かりません!私は、操を捧げた、ただ一人の人と夫婦になると決めています。今、佐吉さん!貴方に捨てられたら、生きては行けません。明日にも、淵川に身を投げて死んでしまいます。」
真顔で、お常に「死にます!」と言われた佐吉が狼狽します。結局、お常の決意の固さに押し切られ、二人はこの日の夜、身の周りの僅かな着物と僅かな金子を持って、駆け落ち致します。
ですから二人は、旅籠を泊まり繋いで遠くへ逃げる訳には行きません。結局、鹿島に居るお常の遠縁の婆様を頼って、其処に潜伏しておりました。
一方、大坂屋の方では、佐吉が昨夜から戻らず、私物の入った葛籠を小僧に運び出させた事が分かります。更に、裁縫教室の方では、お常が無断欠勤しております。
大坂屋茂兵衛と内儀は、日頃から乳くり合っていた二人が、この夜に示し合わせて逃げたに違いない!と、お常の父親・輿兵衛を櫻井まで呼びに遣ります。
昨日、娘が帰らず心配していた、輿兵衛夫婦には、大坂屋からの知らせは寝耳に水でした。其れでも、取る物も取り敢えず、大坂屋へと駆け付けます。
茂兵衛「輿兵衛さん!気付いてなすったか?お常と佐吉の事は?」
輿兵衛「ワシも家の婆さんも、全く知らなんで、今聞いて腰を抜かした所じゃぁ。本当に、お常は、其の野郎と乳くり合った末に駆け落ちしたんですか?」
茂兵衛「間違いない。佐吉の私物が持ち出されていて、お常は、仕立ての集金をした後、その売り貯を店に入れず、持ったまま何処かへ消えておる。」
輿兵衛「そんなぁ!お常が、売り貯を盗むなんて!」
茂兵衛「輿兵衛さん、ワシもビックリしとる。あのお常が。。。乳くり合ってのぼせとるから、そんな事をするんじゃ。其れでじゃぁ、輿兵衛さん!二人の逃げた先に心当たりは無いか?」
輿兵衛「さぁ〜、丸っきり見当も付かぬ。」
そんな茂兵衛と輿兵衛のやり取りがありまして、輿兵衛は、この駆け落ちした二人の捜索を、飯岡の助五郎に頼みます。
輿兵衛「飯岡の貸元!ご無沙汰しております。」
助五郎「此れは此れは、輿兵衛さん!此方こそ、無沙汰をしております。で、今日はどーいった御用ですか?」
輿兵衛「実にお恥ずかしい噺何ですが、昨晩、うちの娘が大坂屋の若衆と、二人手に手を取って駆け落ちをしまして、其れを探索して貰いたいんです。」
助五郎「駆け落ち者の娘さんと、逃げた野郎を捕まえろと。そう、仰いますので?」
茂兵衛「ハイ、左様に御座います。」
助五郎「女連れで逃げていますから、アッシの子分達が捕まえるのは、造作も無いと思います。ただ、捕まえた後です。二人はどう成りますか?
生木を剥がす様に別々にされるとしたら、特に、娘さんの方は自害しませんか?そうなると、世間から、この助五郎が非難されます。」
輿兵衛「其れは、勿論です。娘を連れ戻してくれたなら、大坂屋の茂兵衛さんと相談して、二人には所帯を持たせてやるつもりです。」
助五郎「間違い在りませんか?」
輿兵衛「ハイ、若い二人が間違いを起こす様な事の無いようにしますから、兎に角、独り娘を見付け出して下さい、親分!!お願い致します。」
助五郎「分かりました。輿兵衛さんが、其処まで仰るなら、骨を折りましょう。」
輿兵衛から懇願を受けた助五郎は、飯岡に居る子分を直ぐに集めました。その数百二十人。三十人の四班に百二十を分けて、お常と佐吉を探す様に指図します。
まず第一班は、南は東庄から旭、倉橋を担当し、次に東の第二班は、豊里から椎柴を受け持ちます。
更に西の第三班は、八日市場から多古を探索し、最後に第四班は、北の神栖から潮来、そして鹿島の担当です。
北の第四班を任されたのは、洲崎ノ政吉と和仁ノ甚助の二人で、潮来へ出した若衆が、霞ヶ浦から引き込みの外浪逆浦へ、若い二人を舟に乗せたと漁師から聞き込んで参ります。
更に、外浪逆浦から神栖、鹿島と足取りを追うと、鹿島の花売の老婆の家の二階に、今日昼過ぎから見慣れない若い男女が隠れて居るとの情報が齎されます。
この花屋の婆さんが、輿兵衛の遠縁に当たる事も直ぐに分かり、政吉と甚助の二人が出張って、その花屋の老婆を訪ねました。
政吉「御免なすって!」
老婆「ハイ、どなたですか?」
政吉「御用の筋で、人探しを致しております。飯岡、助五郎の身内で、洲崎ノ政吉と申します。そしてコッチが和仁ノ甚助です。
実は、櫻井の輿兵衛さんからのお願いで、娘のお常さんを探しております。櫻井の輿兵衛さんは、ご存知ですよね?」
老婆「ハイ、腹違いの姉が輿兵衛の内儀(にょうぼう)ですから、良く存じておりますが、お常は来ちゃ居ませんよ!!」
甚助「婆さん!隠すと為になんねぇ〜ぜ!御用の筋なんだ。二階に匿われているのは、調べは付いてるんだ?!駆け落ち者の二人を、直ぐに出しなぁ。」
老婆「何んだい!他人(ひと)ん家に来ていきなり役人風吹かせやがって。貴様等、目つきが悪いよ!!二階に人なんか、居ないよ、帰ってお呉れ!!」
そう言って老婆が、戸を閉めようとしたが、甚助が足を入れて閉めさせない。その隙に、政吉が中へ入り、『泥棒!泥棒!』と、叫ぶ老婆を無視して二階へと、ズカズカ上がり込む。
二階へと上がってみると、昨夜から一睡もしないで逃げて来た二人は、身体を寄せ合いながら、ブルブル震えて、小さく成って居ります。
政吉「心配するなぁ。大人しくしてくれ、連れ戻しに来たが、輿兵衛さんも、大坂屋の旦那も、お前たちを許すと仰っている。夫婦になれるんだ!嘘じゃない。安心して、戻ってくれ。」
佐吉「本当ですか?!お常さん、帰りましょう。」
お常「佐吉さん!」
迎えに来た、政吉と勘助に連れてられて、二人は清瀧へと連れ戻されます。お常は実家に、佐吉は助五郎の所へと其々、一旦、預けられますが、其処から話が拗れてしまいます。
と、申しますのも、輿兵衛の女房が、戻った娘を見て心変わりをして、佐吉との縁談を認めないと言い出したのです。
更に、二人に冷却期間を設ける為、娘を『行儀見習』と言う名目で、江戸の親戚へと送り出してしまうのでした。
さてさて、此れには飯岡ノ助五郎が、参ってしまいます。助五郎の顔は丸潰れです。
女房「あんた!あの色男に何時迄、家で、無駄飯を食わせて置く気だい?!宜い加減、追い出して下さいよ!!」
助五郎「俺だって、そうしたいのは山々なんだが、夫婦にしてやると言った手前、無碍に追い出す訳にも。。。困った!困った!」
女房「困った!じゃないよお前さん、輿兵衛さんに、早く何とかして貰いなさいよ?!」
助五郎「分かったよ。兎に角、話をするよ。」
そう言った助五郎、輿兵衛を呼んで話をしますが、既に、お常は江戸です。
助五郎「輿兵衛さん!話が違うぜ。あの色男と娘を夫婦(めおと)にする約束だった筈だぜ!!」
輿兵衛「親分!申し訳ねぇ〜。家の婆さんが、大坂屋をしくじった様な奴は、ろくな料簡じゃねぇ〜って。。。言う事きかなくて。。。此れで、親分!どーかぁ、何とか納めて下さい。」
輿兵衛は、手一杯の銭、金二百疋と荒子からの貰い物落雁を差し出した。
助五郎「輿兵衛さん!勘違いして貰っちゃ困る。俺は渡世人だ!長脇差なんだ。漢が一度、夫婦にしてやると口に出しているんだ!!
其れを、吐いた唾を呑み込むみたいな、見っともない真似を、二百疋=二分くらいの銭では、出来ねぇ〜んだよ!娘を嫁には、どーしても出せねぇ〜ってのかい?」
輿兵衛「やれません!!親分!何んとかお願いします。」
助五郎「分かった。輿兵衛さん!その荒子の土産は要らないから、持って帰りなぁ。」
輿兵衛「要らないんですか?そりゃぁ、良かった。茶菓子に貰って行きます。有難う御座います。」
助五郎「自分が持参した菓子を、有り難がる奴もなかろうに。。。しかし、困った!!困った!!」
助五郎、仕方なく、佐吉を呼び、兎に角、こう言う時は、時間稼ぎ。時薬が一番だと子分に言われて、苦肉の策で、佐吉をこの様に言い包めます。
助五郎「佐吉さん!すまないね、十日も待たせて。」
佐吉「何時になったらお常と、夫婦にしてくれますか?」
助五郎「其れがなぁ、お常は、江戸で行儀見習が済まないと、嫁には出さないそうだ。早くても半年。長くなると一年は清瀧へは戻らないそうだ。
其処でだ。此処に五両の金子がある。お前さん、此れで伊勢詣にでも行って来ないかい?そうして、漢を上げて帰ってからお常を嫁に迎えるってのは、どうだい?!」
佐吉「親分さん!一つ聞いても、宜しいですか?」
助五郎「あぁ、何だ?」
佐吉「この五両は、手切金ですかい?」
助五郎「馬鹿を言うなぁ!!違うよ、お前に漢を上げて貰いたいから、俺が出した銭だ。失礼だなぁ?!」
佐吉「すいません、親分。分かりました。有り難く頂戴して、伊勢へ行って参ります。」
助五郎「ヨシ!行って来い。」
助五郎は、何とか格好を付けて解決したと思いました。まさか、この佐吉が本気で漢を磨く為に、伊勢詣に行って来るとは、夢にも思わず、
五両を持って何処か遠くへ逐電してくれるとばかり思って送りだしたら、半年後、真っ黒に日焼けして、赤福餅を土産に帰って来られて驚きます。
そして、佐吉は初めて知ります。お常の両親が結婚に反対して、約束を反故にした事と、助五郎がその事を正面から教えず、五両の金子で無かった事にしようとした事を。
佐吉は、何とかして助五郎のハナを明かしたい。助五郎に赤っ恥をかかせてやりたい。そして、何よりお常と夫婦(めおと)に成りたい!!と願い、助五郎と敵対する笹川の岩瀬ノ重蔵の元を訪ねます。
佐吉「かくかく、しかじかで、飯岡ノ助五郎のハナを明かしてやりたいんです。そして、何よりお常と夫婦になりたいんです。」
重蔵「ヨシ、お前さんの気持ちは分かった。なら、此処に三両ある。此れを持って江戸へ飛べ。そして、馬喰町の旅籠『庄内屋』に泊まるんだ。
翌朝に成ったら、浅草の観音様にお参りして、その足で根岸へ行け。目指す相手は、青雲堂幽斎と言う八卦見だ。
その青雲堂に、お常の居場所を見て貰いなぁ、必ず、言い当てるから。そしたら、お常を連れて笹川へ戻って来い、俺が貴様等を夫婦にしてやる。」
佐吉「有難う御座います。」
直ぐに、佐吉は江戸表に飛び、馬喰町の旅籠『庄内屋』へと宿を取ります。翌朝、浅草の観音様へお参りしたら根岸へ。
在りました青雲堂!!まだ、朝で客も空いていて、直ぐに見て貰いお常は、両國に居ると言われます。
両國橋を渡り路地へ入った途端、味噌擦を下げたお常が豆腐屋から出て参ります。半年ぶりの再会に抱き合う二人。
佐吉は、お常を連れてお常が江戸で世話になっている親類の家へ行き、お常を連れて下総へと帰る事を、堂々と告げます。
その足で、笹川へと戻り岩瀬ノ重蔵に報告すると、『助五郎の仇討噺は、案外使えるなぁ〜』と笑顔で迎えてくれました。
其れから、櫻井の輿兵衛夫婦を訪ねた岩瀬ノ重蔵は、命を張って此れを説得し、佐吉とお常を夫婦にし、佐吉を一家に迎え入れます。
さて、この一件が飯岡ノ助五郎の耳にも入り、笹川ノ重蔵が!また、余計な事をしやがってと、『天保水滸傳』、一番最初の遺恨となるのであります。
この後、佐吉はメキメキ漢を上げて、清瀧ノ佐吉と二つ名で呼ばれる様になり、勢力富五郎と並んで評される重蔵の子分と相成ります。
つづく