大利根河原に立った二人、助五郎は抜いた兼定を正眼に構えます。此れを見た一方の井上伴太夫は上段に構えて、上背(うわずえ)が有るのを利用して、圧力を掛ける作戦です。

そして、暫く睨み合いが続いて、勝負は意外とあっさり決着致します。上段からの圧力をもろともせず助五郎は、擦り足で井上伴太夫にじわじわ攻め寄り威圧します。

嫌な間合いだと感じた伴太夫が、先に上段から面を繰り出しますと、寸前に体を交わす助五郎。『ブン!』という風切音を聞いて助五郎、素早く貫胴を横一文字にお見舞いする。

此れが見事に決まり、臍辺りから脇腹を真っ二つにされた井上伴太夫は、夥しい鮮血を流して其の場にうつ伏せに倒れ、そのまま臨終となります。

鶴公「若!おめでとうございます。」

助五「泣くな!鶴。伴太夫の死骸を家に運ぶから、戸板を借りて来い!!」

鶴公「運んでどうします?」

助五「伴太夫の亡骸は、荼毘に伏して懇ろに葬ってやる。そして、陣屋の役人に仇討を届け出ねぇ〜と、ならねぇ〜なぁ。」


此処銚子の領主は、上州高崎藩の松平右京之介様で、銚子から高崎藩へは、一万石の年貢が納められておりました。

ですから、上州高崎から派遣された役人が、銚子本陣に常駐しておりますので、助五郎は仇討の次第を願書に認めて訴え出ます。

陣屋の役人は、直ぐに願書の内容を改めます。相模國浦賀港へと出張して調べてみますと、助五郎の訴えに有る通りで、青木源内を殺害し井上伴太夫は十三年前に、此処浦賀を逐電していると分かります。

勿論、此の事は浦賀の網元、三浦三右衛門が役人に丁寧に説明しますし、青木源内の妻で、訴人である助五郎の母も証言しますから仇討が成立致します。

此れにより、助五郎は親の仇を追って十五の幼い身体で、相模國浦賀港から上総國銚子湊へと江戸表を経由して訪れ、実に七年の歳月、艱難辛苦を乗り越えて親の仇を討った立志傳の孝行者として青差五貫文が与えられました。


さて、親の仇を討った助五郎、銚子ノ五郎蔵一家では、正式に『代貸』と呼ばれる様になり、この頃になりますと、

助五郎が参りました七年前は、まだ百ニ、三十人だった五郎蔵の子分の数が、今では八百人を超える大所帯に膨れ上がっておりました。

そして文政五年(1822年)、五郎蔵が病の為に亡くなります。享年六十七才。助五郎は三十一才になっておりました。

代貸助五郎は、貸元五郎蔵の葬儀を日本一の侠客の葬儀に相応しいモノにする為に、奔走致します。

房総三ヶ國の親分衆は勿論の事、関東一円は言うに及ばず全国から名だたる親分へ回状をまわし、顎足付きで招待した結果、前代未聞の盛大な葬儀なります。

そして、助五郎はその席で、頂いた不祝儀を、まるで花会の祝儀のように、会場に張り出しまして、一同の目に触れる様にするのでした。そうしておいての助五郎の挨拶です。


助五「代貸の助五郎に御座んす。一同様に置かれましては、親分(オヤジ)銚子ノ五郎蔵の葬儀の為に、遠路遥々お越し頂き有難さんに御座んす。

此れより頂きました義理包の金高を、読み上げさせて頂き、天界へ参りました五郎蔵に、報告申し上げたいと存じます。政!お前が読み上げろ。」

読み上げを頼まれましたのは、助五郎一の子分で洲崎ノ政吉です。政吉が読み上げますと、一同の前に張り出されている名前だけの紙に、金高が書き入れられる趣向です。

政吉「では、僭越ではありますが、私(わたくし)洲崎ノ政吉が、読み上げさせて頂きます。」


上州 大前田英五郎親分、名代・前橋ノ三五郎様 金百両

奥州 信夫ノ常吉親分、名代・二代福島清五郎様 金百両

上州 國定忠治親分 金八十両

駿河 清水湊長次郎親分 名代・森ノ石松様 金八十両

常陸 土浦ノ皆次親分 名代・佐原ノ喜三郎様 金八十両

甲州 黒駒ノ勝蔵親分 名代・赤鬼金平様 金五十両

伊勢 丹羽屋傳兵衛親分 名代・会津ノ小鉄様 金五十両

武州 赤尾ノ林蔵親分 金五十両


坊主のお経の前に、助五郎らしい趣向があって、親分衆は圓福寺の本堂から、精進落としの料理を振る舞う『角兵衛』へと移動します。

本来、精進落としは四十九日が過ぎてから、振舞われるが、此れも助五郎らしい演出である。


助五「國定の貸元!本日は、わざわさオヤジの為に有難う御座います。義理も過分に頂戴いたしまして、有難う御座います。」

忠治「なぁーに、土浦の兄弟には生前世話になりっぱなしだったから、当然の事だ。其れにしても、関東・東海、そして奥州の長脇差は全員集合だなぁ。」

助五「全て、オヤジ五郎蔵の人徳です。」

忠治「助!貴様も気張れ!」

助五「有難う、御座んす。」


其処へ、年廻りの近い佐原ノ喜三郎と赤尾ノ林蔵が参ります。

助五「喜三郎親分!其れに林蔵親分!今日は有難う御座いました。」

林蔵「助五郎さん!お前さんが、五郎蔵一家の跡を取りなさるのかい?そうなったら又、今度は盃事だ。そん時もまた呼んで下さいよ。」

助五「まだ、跡目は決まってねぇーが、そん時には、またお声掛け致しますから、是非、宜しく頼みま申します。」

林蔵「此方こそ、助五郎親分、もし近くに参られたら入間にも寄って下さい。お待ちしております。」

助五「喜三郎親分、いや、喜三郎ドン。皆次親分は元気にしてなさるのかい?」

喜三「元気とは言えのぇーが、病と上手く付き合って長生きしてもらいてぇ。今日も、佐原と銚子はたった九里だからと、自分で行くってきかない所を、どうにか宥めて俺が来たんだ。」

助五「そうかぁ、皆次親分もオヤジの二才下。若くはねぇーから、無理しねぇーで、長生きして貰いたいぜ。」

喜三「有難うよ。俺は、近くお不動さん詣でに成田へ行くつもりだ。助さんは観音様一筋だから、一人で久しぶりにのんびりして来るつもりだ。」

助五「お前さんは、漢っぷりがいいから、女がほっとくまい?精々気を付けて行ってらっしゃい。」


そんな会話を、数多の親分衆と交わした助五郎。この五郎蔵の葬儀には、全国から八百人の参列者があり、内侠客が四百人を超えて、三千両の義理包と二百両の香典が集まったと申します。

やがて、四十九日が過ぎると、銚子ノ五郎蔵の跡目に付いての話し合いが、代貸の助五郎と、三十六の賭場を仕切る胴元の本出方十八人、

其れに相談役の五郎蔵の兄弟分四人を加えた、合計二十三人によって、『角兵衛』の二階を貸切って行われました。

結果、まず八百人のうち、五郎蔵親分の死を持って引退/隠居したいと願い出た者には、金十両の功労金を与え、堅気になる事が認められた。結果、約百五十人が堅気となる。

一方、銚子の五郎蔵の屋敷及び銚子の五郎蔵の嶋内と子分は、異存なく全て助五郎が相続し、二代五郎蔵一家を立ち上げます。

ただし、銚子から遠く離れた武州・上州にある嶋内と、上総の嶋に付いては、それぞれの賭場の胴元から貸元を選び、新たに一家を構えて運営する事になります。

此れによって、助五郎は約二百五十の子分と、十八の賭場を相続し、新たに子分二百、九つの賭場を持つ五郎蔵からの兄弟一家が二つ誕生した。


早速、助五郎は助五郎一家の発足を、願書に認めて、銚子本陣の役人に届け出ると、意外な申し出を受ける事になる。其れは。。。

あの仇討で伝説となった青差五貫の助五郎が一家の親分になるなら、公儀より十手を授け、目明かしにすると言うのだ。

断る理由の無い助五郎は、この役人の申し出を受けて、所謂『二足の草鞋』となりますが、此れが、思わぬ助五郎の誤算を生みます。

と、申しますのは、十手持ち・目明かしになると、必ず一日に二回、沼田田中の屋敷に、呼び出しが来て、本陣に正装で出向く必要が生じます。

そして、また、行ってみると用事など大した事は無く、なぜ?呼ぶのかと言うと、役人の袖の下・賄賂の要求です。

このまま、銚子に居ると役人に喰い潰される!!と、思った助五郎。此処旧五郎蔵邸は、代貸に昇格させた、洲崎ノ政吉に任せて、自らは飯岡へと拠点を移し『飯岡ノ助五郎』と名乗る様になるのです。


そして、助五郎は網元の利権に目を付けて、浦賀港で、三右衛門の側で見ていたノウハウを、ここ銚子湊でも展開致します。

まず、此れまでは、漁師たちは魚を取って、それを各船持ちの網元が、個人で契約している卸しの魚河岸へと提供します。

是では、明らかに卸しを牛耳る魚河岸の言いなりで、網元には大した旨味は有りません。そこで、まず、網元たちを一つの座に纏めて、水揚げされた魚を『魚市場』を作り此処に集めます。

そうしておいて、鑑札を買ってくれた卸しの魚河岸を一同に集めて、セリで一番高い値段を付けた卸しに売る仕組に変えてしまいます。

是により、網元は収入が1.5〜2倍になり、助五郎は大いに喜ばれ、株が上がります。

また、セリに参加する鑑札の代金と、魚市場での上がりの一部上納金で莫大な収入を得る事になるのです。

更に、助五郎は、第二の故郷浦賀から漁師の次男、三男を銚子に呼んで、網元/漁師の利権から派生する仕事を斡旋します。

まずは、銚子湊の改修、拡大工事。次に、卸しの魚河岸への新規参入、そして、定置網や釣竿など道具の独占、及び造船と船修理などにも手を広げてます。

こうなると、飯岡ノ助五郎は、銚子の盟主中の盟主となるのですが、金を莫大に手にしてしまうと、もっと!もっと!と言う欲が湧き、

やがて、使う方には吝、因業な面が見られて、何が何でも銭を欲しがる助五郎、正に、守銭奴と化して行くのでした。

そんな飯岡ノ助五郎の目の前に、どーにも鼻持ちならない、若い侠客が現れます。そう!岩瀬ノ重蔵、又の名を笹川ノ重蔵です。

若い時の、仇討が成る前の自分と重なる仁侠一直線のこの漢が、助五郎には、どう写ったのか?次回申し上げる事と致します。



以上