其れは、鉄扇でした。この鉄扇、やや変わっており親骨の部分は銕ですが、細い枝骨は、鯨の骨が使われております。
鯨は、捕鯨が日本近海で行われていた時代には、色んな部位が色々な製品に利用かれていました。
私が幼かった昭和三十年代には、鯨のヒゲがテニス用ラケットのガットとして使われていたと記憶します。
直ぐに、青木の妻は亭主が、井上伴太夫に殺された事を、網元であり町役の三浦三右衛門へと知らせます。
三右衛門は直ちに役所に届け出る一方で、村人を組織して、井上伴太夫の行方を追いましたが、残念ながら捕まえる事はできません。
翌日、助五郎が手習を学んでいる寺で、殺された青木源内の葬儀が執り行われ、参列した息子助五郎は、この日、初めて灰になった父親を見て涙するのでした。
残された妻と息子助五郎は、三浦三右衛門が面倒を見る事になります。三右衛門の家には、家族、親類、そして奉公人を合わせますと三十四人の大所帯です。
ですから、此れが三十六人に成っても、びくともしない豪家の網元。其れどころか、源内の妻が洗濯方として良く働くので大助かりだと、思っております。
また、助五郎には、『必ず、父親の仇を討つ』と言う、まだ九歳の助五郎にとっては、ぼんやりした目標ですが、必ず、井上伴太夫を見付け出し、父の仇討をの誓いが芽生えます。
やがて歳月は流れて、助五郎は十五歳となります。そんなある日、助五郎が改って三右衛門に、父親の仇討を願い出ます。
助五「三浦の旦那、私も今年で十五となり、いよいよ江戸表にまずは出て、父の仇、井上伴太夫を討ちたいと思います。どうか、旦那の許しを頂きとう存じます。
また、私は、仇討の為にこの浦賀を離れる事に成りますが、母の事を、どうか面倒を見てやって下さい。宜しく重ねて頼みます申します。」
三右「助五郎!よく決心した。お前が討とうとしている井上伴太夫は、一刀流の使い手で、そう簡単に討てる相手ではないが、神信心を怠らず、親孝行のその気持ちが有れば、きっと何時か願いは叶うと、ワシは信じておる。
また、井上伴太夫の居場所も分からず、その消息を探す所からの仇討だから、この先、何年、いや、十数年掛かる仇討になるやも知れぬが、母親の事は心配要らん、ワシに任せなさい。」
助五「有難う御座います。母を宜しくお願いします。」
三右「其れからなぁ、江戸表までは、浦賀港から船で品川まで送る用意がある。是に乗って明後日の朝、出発しなさい。
また、長い旅になると思うから、今は元気で病など無いと思うが、旅先では何が起きるかも分からない。
そんな病で身体がどーしても動かない様な時には、遠慮なく『相模國三浦郡浦賀港の三右衛門宛』、ワシに手紙で知らせなさい。
ワシは何を置いても、助五郎!お前の元に駆け付ける。是は硬く硬く約束する。と、言うのもだ、
ワシがお前の父・源内さんに、井上伴太夫を紹介せなんだら、あんな事には成っておらんかも知れぬと。今も、ワシは後悔しておるんじゃぁ。」
助五「そんな!父の死は、三右衛門さんのせいではありません。悪いのは井上伴太夫、一人です。其れに、あの日に知り合わずとも、浦賀に井上伴太夫が居る限り出会っていたと思います。
其れより、三右衛門さんは、父が碁の上での諍いで死んだからと、『碁絶ち』をされていると聞きました。
井上伴太夫が公儀(おかみ)に召し捕りになるか、私が仇討するか、それが成就せぬうちは碁石は持たぬと誓われたとか。本当ですか?
ならば、私は一日も早く井上伴太夫を討ち、三右衛門さんに、楽しく碁盤を囲んで欲しいと、思っております。」
三右「頼んだぞ!助五郎。是は私からの餞別だ。大事に使えよ。又、品川へ着いたら馬喰町の旅籠『庄内屋』に行きなさい。私が手紙を出しておく、分かったなぁ!」
二日後の朝、母親と三右衛門、そして手習した寺の和尚など沢山の知り合いが助五郎の見送りに浦賀港に集まってくれた。
父親の葬儀で、仇討を済ますまでは、もう二度と泣くまいと誓ったからには、此処でも涙は見せぬと、漢・助五郎は頑張った。
浦賀港を船は出て、『百万石の肩壁も 擦れ違うたる繁盛は 金の成る木の植所』と、白木やの序文に出て来るぐらいの繁栄の江戸表は品川を目指します。
八百万石の江戸のご城下を初めて見た助五郎。行き交う人の多さに先ずは驚き、此の人混みん中から井上伴太夫を探さねばならぬのかと思うと、
三右衛門が言った『何年掛かるか?いや、十数年掛かるか?』は、全く大袈裟な噺では無いと痛感致します。
そして、助五郎、あの鉄扇を取り出して、是だけが唯一の手掛かりだからと、改めて眺め、そして握り締めたり致します。
品川に着いた助五郎、仇討ちだからと、まずは験担ぎで、泉岳寺へ参拝し『四十七士』詣でを致します。
泉岳寺を出ますと芝の濱を見ながら田町へと参ります。此処で母親が持たせてくれた握り飯と竹筒のお茶を頂いて昼食です。
腹も満たされて又歩き出す助五郎、田町、大門、御成門を抜けた頃には、江戸の人混みに慣れて参ります。
さてその次は新橋で、此処を真っ直ぐ進むと北町奉行所、更には南町奉行所と役人がうようよ居る街並みを通りますので、
何となく海の方へ道は逸れ、築地、月島、門前仲町を通りまして、此処から永代橋を渡り新川、茅場町へと参ります。
水天宮で手を合わせ、一際賑わう人形町、牢屋で有名小伝馬町と通り抜けて、着きました!!馬喰町。此処で三右衛門が差し宿をしている庄内屋へと宿を取る。
さて、江戸に着いてみたが、十五の助五郎、仇の井上伴太夫を探すにあたり、秘策が在る訳では御座いません。
取り敢えず、三右衛門にも言われた、神信心に縋ろうと、なぜか?浅草の浅草寺を目指します。そして、此処から浅草の観音様に、三七、二十一日の仇討の願を掛ける助五郎です。
そして、満願の日。明け六ツに起きた助五郎は、朝食の前に井戸端へ行き、体を清めようと下帯だけになり水を被ります。
朝飯をカッ込む様にして、人の少ない境内に入り、観音様に願ってみたが、何のお告げも聞こえない。
助五「こりゃぁ、俺の心がまだ足りないんだなぁ。続けて、もう二十一日願掛けに参ります!観音様。」
そんな事を呟いて、助五郎は、仲見世を通り、並木町の方へと曲がって庄内屋へ戻りかけた、その時、商人風の二人連れの話声が聞こえて来ます。
商A「伊勢屋さん?」
商B「何ですか?山城屋さん。」
商A「先日は、有難う御座いました。」
商B「どう致しまして、其れで、失せ物は出ましたか?」
商A「教えて頂いた、その日に行ってみたんです。そしたら、運良く先生がいらっしゃって、直ぐに診てもらえたんです。
そしたら、家の中で台所から辰巳の方角、高い所と仰って。。。」
商B「へぇ〜、其れで?」
商A「先生が、仰るには、まだ人手には渡って居ないし、壊れてもいないので安心しろ!と。其れで台所から家ん中の高い所を片っ端から探したんです。
そしたら、隠居部屋の箪笥の上に在りました!!女房が、掃除していて隠居部屋に無造作に置かれているのを見て、箪笥の上に片したんです。
其れを女房の馬鹿は、忘れてしまって。。。物が見付かった後で、アラ?そうだったワぁ!とか言いやがって、でも見付かって本当に助かりました。」
商B「そうでしょう?当たりますよね、あの先生。私は、次は失せ物とかじゃなく、身の上を診て頂くつもりです。」
商A「良い考えです。私、あの先生は日本一だと思うんでゲス。以前、京都の土御門本山の博士と言う人にも診て貰いましたが、先生の足元にも及びません。私も次は生涯の事を診て貰いましょう。」
助五郎は直感します。是だ!此れが観音様のご利益だ!と。此の伊勢屋と山城屋が話していた、根岸の八卦見、青雲堂幽斎に、身の上占いを頼もう!と、決意します。
助五「モシ!少々伺いますが?」
通人「へぇ、何ですか?」
助五「根岸という所へ行きたいのですが、どう、参ればいいですか?」
通人「根岸ですかぁ、この横丁を真っ直ぐ進むと、門跡前って所に出ます。其処を左に折れて、又真っ直ぐ行くと『峰ノ湯』って湯屋がある。
その湯屋の手前で今度は右に路地へ入って、その路地を抜けて広い通りに出ると其処が下谷の車坂だ。其処まで行くと根岸はすぐたから、其処で又通行人に尋ねなさい。」
助五「ご丁寧に、有難う御座います。」
助五郎は、教えられた通りに進むと、車坂に出ました。更に、道を尋ねて進みと、『根岸青雲堂』の立派な表札が目に飛び込んで来ました。
助五「御免下さい。先生は、いらっしゃいますか?」
取次「居りますが、どういうご用件ですか?」
助五「身の上を診て頂きたく、罷り越しました。」
取次「少々お待ち下さい。」
弟子らしい取次が、奥に入り、暫くして戻って来ると、先生が診てくれると言うので、助五郎は中へと入って行きます。
中には大きな唐机(えんたく)が在り、その上に、算木と筮竹が置かれていて、如何にも易者だと分かる様子が目に飛び込んで来た。
そして、奥の唐紙を静かに横に開くと、五十三、四歳の白髪の老人が、ゆっくりと唐机の前に着座して、助五郎を凝視して喋りだした。
幽斎「青雲堂幽斎です。よくいらっしゃいました。」
助五「へぃ!」
幽斎「何を診て欲しい?」
助五「身の上の事を、先生に診て頂き。何処へ行けば良いか?導いて欲しいです。」
幽斎「貴方、今、お幾つですか?」
助五「今年、十五です。」
幽斎「元亨利貞。。。ゞゞゞゞゞゞゞゞゞ」
パチパチ!パチパチ!と、算木筮竹を使いながら青雲堂幽斎の易が始まります。
易経は全部で六十四の卦で構成されています。「卦(か)」というのはある時の様相をあらわし、人生で遭遇するであろう、あらゆる時を示しています。
易の特徴は、陰陽六本の爻で示された卦の記号(象)があり、そのかたちから読みとった時の様相が辞で記されていることです。
六十四卦の象の成り立ちは、まず八卦太極図を見てください。
易経に「この故に易に太極あり。これ両儀を生ず。 両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず。八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず。」(繋辞上伝)とあります。
太極から陰陽二つにわかれ、次に四つ象(老陽・少陽・老陰・少陰)にわかれ、さらに分裂して三本の爻からなる八種類の象(八卦)になります。
「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と耳にしたことがある でしょう。古代の原型的な易占いはこの八卦で判断していました。
八卦には、「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」(けん・だ・り・しん・そん・かん・ごん・こん)の名まえがついています。
これらの性質を自然現象にたとえると、「天・沢・火・雷・風・水・山・地」 (てん・たく・か・らい・ふう・すい・さん・ち)になります。
それぞれが象徴する属性、性質があります。占いでは、この属性を参考に時・処・位を読みとっていきます。
幽斎「お前さんは、年に似合わない大きな大望がお在りだね?人間には、誰しも『望み』はあるものだか、お前さんのは、年相応ではない大望だ。
そして、お前さんの大望は、此処、江戸に居ては残念ながら成就しない。是より方角を指して上げますから、其方へ移動しなさい。
お前さんの大望が潜む場所は、江戸から見て、青龍、東の果てに在ると、出ている。そして、其れは早くて三年、遅くとも七年で成就すると出ておる。東の果て!東の果てに行きなさい。」
助五「有難う御座います。其の東の果てとは、具体的に何処へ行けば宜いのですか?」
幽斎「此処江戸から見た、東の果てであるから房州の果て銚子だなぁ。」
助五「見料は、如何程お支払いすれば宜しいでしょうか?」
幽斎「百文も、頂こうか?」
助五「有難う御座いました、では百文です。」
助五郎は、馬喰町の庄内屋へ戻ると、翌日銚子に立つと主人に伝えて、これまでの経緯を手紙に認めて、浦賀の三右衛門へ送った。
そして、翌日、朝まだ暗い七ツに、銚子へ向けて旅立つのだった。
つづく