大口楼の寮から逃げ去った金子市。初冬の闇の中を、吹っ切れた涼しい気分で走り抜け、浅草から大川を越えて押上へ。
そして両国の回向院で打ち鳴らす七ツの鐘が遠くで聞こえる頃には平井、荒川土手を越えて小岩へと来ております。
所謂、東雲時
薄らと太陽(ひ)の光が、先に川の水面をキラキラ伝わって、やや遅れ気味に帝釈天で打ち鳴らす六ツを知らせる鐘が聞こえて参ります。
矢切の渡し
帝釈天に寄りたい気持ちを我慢して、金子市は、松戸へ漕ぎ出される一番船の列に並びます。やがて江戸川を、朝日を浴びて登って行く矢切の渡し。
松戸に着いた金子市。イの一番で松戸の旅籠『三郷屋半兵衛』へと掛け込みます。
金子「小僧さん、すまないが、ご主人の半兵衛さんに此れを、渡して下さいまし。」
と、朝日を浴び目を半開きにして掃きそうじをしている小僧に、金子市が文を渡します。勿論、二十文の駄賃も添えて握らしております。」
小僧は、朝から縁起が良い!と、箒を放り投げて奥へと掛け出し、『旦那様!旦那様!、お武家様が?!お武家様が?!』叫びながら消えて行きます。
暫くして、奥から古参の番頭の忠介が出て来て、金子市を、人目を憚る様に中へと引き入れます。
忠介「お久しゅう御座います。主人の半兵衛は、奥でお待ちです。金子の若旦那もお変わりなく。。。」
金子「酒屋の『金子』は、遠の昔に潰れて無いが、親父の代からの贔屓だ、悪いが番頭、ちと世話になる。ただ、若旦那は、もう無しにしておくれ。」
忠介「いいえ、先の大飢饉で金子様がなされた施しが、もし、無ければ餓死した所帯が、流山では何百、いや千を超えて出たはずです。
其れを、貴方が一人でお救いなすった。当時、米を買い占めて、悪代官の宇都宮久秀とぐるに成って庶民を苦しめ、暴利を貪っていた米問屋の堺屋万吉!!
あの外道の蔵を明け放って、金子様が流山八百数十の家々に、一律二両の金子をお恵みになすった。正にあの銭で、何千人もの流山の百姓・職人の命が助かったんですよ。
更には米蔵も全て解き放ちになさいましたから、餓死寸前の乞食どもも、同じく何千と命を救われたはずですから、万の数の流山の住人が、貴方を敬い『足を向けては寝られない!!』と、常々申しております。」
金子「何年も昔の話だが、忠介さんに、そう言って頂けると、行動を起こした甲斐があった。其れより半兵衛はお元気ですかなぁ?」
忠介「お陰様で。半兵衛は奥に居りますので、ささっ、奥へ!」
番頭の忠介のヨイショも有るだろうが、金子市之丞が、故郷流山を捨てざるをえなく成ったのは、今、忠介が申した堺屋に対する『打ち壊し』である。
飢饉の年貢に苦しむ農民と、その影響で職を失った町人たちの置かれた苦境を、見るに見かねて、金子市之丞は発起して、義賊と成り民衆の為に戦ったのである。
結果、兇状持ちとなり、流山からは追われ、流れ流れて江戸へと辿り着いた。そして鳥越にあの道場を構えて、新しい人生を掴み始めていた所で、
直侍との三千歳を巡る恋の鞘当てとなり、結果、全てを失って、再び、ここ流山へと舞い戻って来たと言う事に成る。
半兵衛「是は金子様、本日は如何なる用で参られましたかなぁ?!」
金子「既に、手配書が廻っておるはずだが、拙者、流山での堺屋打ち壊しの一件以来、下総には居られなくなり、
居を江戸表は、浅草鳥越に道場を構えておりましたが、直参御家人の博徒、片岡直次郎と申す輩に、女の事で逆恨みされて、
火盗改の加役に密告されて、召し捕られてしまったのですが、この私を加役の手から助けて下さる御仁があり、畚を抜けて空き寺などを転々とし、漸くここ松戸まで逃げて参りました。
其れには、人生の終焉前に、姉上様、美和に逢うて、今生の別れを申して置きたく、今、姉上が何方に在るか?!三郷屋のご亭主ならば、ご存じかと思い寄らせて頂きました。」
半兵衛「そうでしたかぁ。其れならば、金子様の姉公は、同じ流山の同業、造り酒屋の『灘辰』に嫁いでおられます。
微力ですが、灘辰まで、私どもの信頼のおける駕籠屋を用意致しますので、其れに乗って、お顔を晒さず、姉公の元へお越し下さい。
また、同業の鎌倉屋新吉に、私が文を認めますから、流山では鎌倉屋にお泊まり下さい。」
金子「何から何まで忝い!半兵衛殿。この恩は、生涯、市之丞、忘れません。」
三郷屋半兵衛が用意した、所謂、宿駕篭に乗って金子市は、姉・美和の嫁ぎ先、『灘辰』へと向かいます。そして、灘辰のかなり手前で駕籠を降りたのが、四ツ頃で御座います。
ゆっくりと灘辰へと近ずく金子市。小僧を呼び止めてこう伝えます。「拙者、灘辰さんの女将・美和殿の遠縁に当たる江戸から参った者である。悪いが、美和殿に『市之丞が裏口で待っておる』と、伝えて下されぇ。」
小僧に、二十文の小遣いを渡し伝言を頼み、自分は裏口へと廻ります。程なく、慌てた様子の美和が飛び出して来ますから、其れに声を掛ける金子市。
市「姉上様!無沙汰をしております、市之丞です。お元気ですか?」
美和「市!何をしに参った。貴方は、弟とは言え天下の大罪人!顔も見とお有りません!此れを渡しますから、何処ぞへ!早く居んで下されぇ!!」
と、思わぬ返事で、十両の金子を渡されて、美和は直ぐに踵を返そうと致します。その袖を掴んで金子市、声を荒げて問いかけます。
市「イヤ、其の腹立ちは道理(ごもっとも)ながら、私も先の関八州大飢饉の折に、悪徳米問屋の堺屋と代官の宇都宮久秀に天誅を下し、
義賊として奪った金は、飢饉で困窮する百姓や職人に、無名で引窓や戸の隙間から二両金ずつ与えました。
此れを、姉上は、『天下の大罪人』『顔も見たくない弟』だと申されますか?姉上には、姉上の灘辰での立場も有りましょう。
ならば、ご両親への最後の供養だけは、済ませて仕置きを受けとう存じます。寺方へのお取り計らいだけでも、宜しくお願い申します。」
鬼も驚く金子市 実の姉に『天下の大罪人』『顔も見たくない』と、袖にされて、流石に落胆し、涙を見せて、両親の墓参りと供養を懇願します。が!!
美和「いえいえ、其れはお前の心得違い。堺屋を襲い二両ずつの金を貧民に施した事を、大した事の様に申して、義賊と正当化していますが、
所詮、盗賊の論理で、施しは額に汗して手にした清い金で行わなければ、何の徳も有りません。その様な事をして、亡き父上や母上が喜ばれると、お思いか?!
私は、今は灘辰の女房です。盗っ人の大罪人の弟と会うのは是、限り。こんな事が亭主の耳に入らば一大事!!二度と私の前には、現れなさんなぁ!!そして、お前は、勝手な方へ行って下さい。」
市「姉上!では御免。」
姉美和に、突き帰されて、返す言葉も無い市之丞。その場で、涙を払って肩を落とします。そして実に理にかなった姉の最後の説教を噛みしめます。
一方、突き放した姉美和も、去りゆく弟の後ろ姿を見続けて、心の中では、千切れる程に手を振って其の姿を刻み込みます。
優しい言葉の一つも掛けられず、心を鬼にして、凛と別れた姉の美和。如何ばかりか、弟に勝るとも劣らぬ、姉の辛さに御座います。
さて、悲しき姉との別れとは成りましたが、二つ目の願いを叶えた市之丞。故郷である流山には、そうそう長く留まる訳にも参らず、
どうしたものかと、色々と思案を巡らせておりますと、キラリ!一つ不思議な名案が、頭の中を横切ります。『ヨシ!是だ。』
流山に近い柏村の呼塚と言う所に、金子市の名案の素が御座いまして、山岡頭巾はもう脱ぎ捨てて、その呼塚の諏訪山街道をフラッカ、フラッカ歩いております金子市です。
街道と言っても田圃道に毛の生えた様な道でして、すこぶる険しく泥濘む道を、ゆっくりと金子市が進んでおりますと、向こうの方から、獲物がやって参ります。
呼塚の萬屋金兵衛
萬屋錦之介なら『破れ傘の旦那』とか、『子連れ狼』と呼ばれているでしょうが、この萬屋金兵衛、通称萬金の親分は、確かに十手を預かる二足の草鞋ですが、
飯岡助五郎や笹川重蔵の様な立派な侠客ではなく、子分が十人程の中の下!って感じの博徒で御座います。
その萬金、この日は珍しく前日からブッ通しでやりましたサイコロ博打で付きに付いて、些か、懐が温かい。思い出し笑いを浮かべながら、諏訪路に掛かりますと、
向こうの方から、見覚えのある野郎が参ります。『あれは金子市之丞!!野郎、江戸で牢破りをして、流山に舞い戻ってやがったのかぁ?!』と心で呟き、
面倒に巻き込まれたく無いし、何より今日は懐が温かい!!こんな時に御用の筋には関わりたく無い!!
そう思いますから、金兵衛、ソッポを向いて、素知らぬ顔で通り過ぎようと致します。しかし!!
金子「アッ!!呼塚の金兵衛親分?何方へ。」
萬金「あれ?あれあれ?誰かと思ったら、金子の旦那?!お久しぶりです。何年ぶりだろう?流山に里帰りですか?」
金子「貴様の方こそ、シケた博打打ちだったのが、公儀(おかみ)から十手を預かり、二足の草鞋に成ったらしいなぁ?!大出世じゃねぇーかぁ。」
萬金「二足の草鞋ったって、子分が十人のシケた一家でして。。。旦那は何しに流山へ?」
金子「十手持ちの癖して、白らこい惚けは止めろ!金兵衛。俺が江戸表で火盗に捕まって、牢屋を畚抜けして逃げて来ているのを、貴様、知ってやがるだろう?」
萬金「十手持ちですから、確かに知っていましたが、昔のよしみ。密告(チンコロ)したりは致しませんから、安心して下さい。」
金子「其れだ!!その昔のよしみで、貴様に頼みがある。実は、野田の源七親分に、三百両程貸してある。今、その銭を野田まで取りに行く途中だったんだ。
と、言うのもお縄になって三尺高い木の上に行く前に、両親の墓参りと供養を寺方に頼んでしてやりたい。其の銭なんだ、三百両。
此処で貴様に逢ったのは、何かの縁、運命だなぁ。俺は貴様に捕まり最後のお縄になると、今決めた!!其の代わりと言っては何だが、源七に逢いに行く前に、
貴様、その懐の胴巻の銭、俺に貸してくれねぇーかぁ?そうしてくれたら、先に寺で供養を済ませてから、野田の源七ん所へ行き、三百両返して貰ったら、直ぐ貴様に銭は返すからよぉ?!頼むぜ、萬屋金兵衛さんよぉ。」
萬金「俺の胴巻の銭が見えるのか!?金子の旦那。参ったなぁ、そうまで見込まれちゃぁ、しょうがねぇ。お前さんに、胴巻から百両貸すよ。」
金子「有難てぇー!恩に着るぜ、金兵衛。俺は、この近くの鎌倉屋!新吉の旅籠に泊まって居るから、明日、四ツ過ぎに、お前の家に百両。いやいや、百五十両にして返してやるよ!!」
昔、兄貴!兄貴!と呼んで、世話になった金子市の頼みならと、漢気を見せて百両の銭を金兵衛は貸します。是が後々墓穴を掘る結果と成ります。
翌日、既に昼過ぎの八ツになっても、金子市が銭を持って来ないので、不安になった萬屋は自ら、その逗留先の鎌倉屋新吉を訪ねます。
すると、鎌倉屋に着く前に意外な奴と鉢合わせに。其れは野田の源七です。
萬金「源七!どうした?久しぶりだなぁ?何処へ行くんだ?慌てた様子で。」
源七「オウ!兄弟、暫く。いやねぇ、昨日、あの凶状持ちの金子市が、俺ん所に来て『貴様の手に掛かってお縄になりたい!』と、美味しい事を言いやがるのよぉ。
アイツが言うにはだ。呼塚の萬金!お前に三百両貸して在るから、其れを取りに行く途中なんだが、其の前に、両親の墓参りと寺方に、永代の供養金を渡したいと、言う訳だ!
その銭を百両貸して欲しいと言われて、貸したんだが、返すと言った刻限、今日の四ツになっても野郎、現れねぇ!!だから、奴の逗留先の鎌倉屋に行く途中なんだ。」
そう言われた萬屋金兵衛の方は、『やられた!、まんまと、嵌められた!!』と、ピン!と来ます。直ぐに訳を、源七にも話し、嵌められた二人して鎌倉屋新吉へと飛び込みました。
萬金「御免よぉ、新吉さん!金子市の奴が泊まってるかい?!」
新吉「いらっしゃい。アレ?!野田と呼塚の親分が揃って、金子市を捕まえに来たのかい?!」
源七「まぁ、そんな所だ。居るかい?市之丞の野郎?!」
新吉「遅かったね、今朝、明け前の七ツに、此処を立って行ったよ。」
萬金・源七「野郎!!何処へ行きやがった?」
新吉「まだ五十両にはなる使える手が在るとかで、結城石町の喜右衛門んの所へ行きましたぜ。」
萬金・源七「有難う!新吉さん!!恩に着るぜ。」
二人は直ぐに結城石町の喜右衛門を訪ねてみますと、遠の昔に金子市は出た後で、喜右衛門からも五十両を借りて、更には、小山の兵左衛門と言う岡っ引に借金が有ると、其処を出たと言います。
萬金と源七の二人は、喜右衛門!貴様も騙されていると教えてやり、一泊した翌日には、三人で小山の兵左衛門を訪ねます。
この兵左衛門も、金子市から五十両の借金を頼まれて、遂には、次は仙台で三本の指に数えられる大親分、仙台の常蔵の所へ行ったと言う。
もう、此処まで来たら、仙台へ行くしかない!!萬屋金兵衛、野田の源七、結城石町の喜右衛門、更には小山の兵左衛門を加えた、岡っ引の四人旅で仙台を目指します。そして、常蔵親分を訪ねてみると!!
常蔵「エッ!そんな盗っ人の凶状持ちは知らねぇーぞ、俺は。それに知ってたとしても、俺はお前さん方と違って、お人好しじゃねぇーから、銭を貸したりしないよ、盗賊に。」
常蔵の言葉に衝撃を受け、気を失う位に唖然呆然の四人(よったり)。騙された自分たちの、阿呆さ加減を噛み締めて、それぞれの家路へと帰ります。
つづく