戸田の渡しでお紺を殺して、筑波颪の吹雪く中、背後を時々振り返りながら、松屋利助に着いた治郎兵衛、顔は真っ青に成っております。
松屋「此れは此れは佐野の旦那様、お待ちしておりました。遅かったですねぇ、また、お顔の色が優れませんなぁ。」
治郎「何んだかぁ、雪に降られて、支度が整ってなかったからか?熱がある様で。。。ご主人、布団を敷いてお医者を呼んで貰いたい。」
松屋「畏まりました。」
暫くすると、宿の係りの医者がやって来ました。治郎兵衛を診ると、熱がえかく高こう御座います。その場で、薬を調合し与えますと、与えられた薬が利いたのか?やっと治郎兵衛は寝付きます。しかし、
「お紺!俺が悪かった。。。三四郎さん!許して下さい!いずれ、冥土で直に謝ります。」
と、殺した二人の名前を、うわ言の様に呟きながらうなされております。此れを見た松屋夫婦が驚き、慌てて医者に口止めを致します。
その後も七転八倒の苦しみ様で、明け方まで、身体中の水分を出し尽くす様な汗を流して、そして喉を掻き毟り、哀れ治郎兵衛、最期と相成ります。
(なんとも、この講釈本では、治郎兵衛は呆気ない最期です。よく聞いたのは、宿の女中が、お連れ様は、お連れ様はと、お紺の幽霊が見えて、
最期は湯殿でお紺の幽霊を追い払おうと治郎兵衛が狂った様に暴れて、風呂の角に頭をぶつけて死ぬと言う、怪談っぽいのを講釈では聞いております。)
松屋利助から治郎兵衛の死を知らせる為に、佐野船橋の店へ、宿の若い衆を走らせますと、此れと入れ違いに、治郎兵衛の店の手代が飛び込んで参ります。
手代「旦那様、治郎兵衛様はお泊まりでしょうか?」
松屋「ハイ、それが昨夜お着きになられましたが、大そう具合が悪そうにしておられて、医者をお呼びしたんですが。。。今朝早くに亡くなられてしまって。。。店の方には連絡しましたが、貴方とは入れ違いになった様で、何か有りましたか?お店で。」
手代「実は、次男の次三郎さんが、囲炉裏に落ちて大火傷を負われて、それで、旦那様に直ぐに店へ帰って下さいと、お伝えに参ったのですが、亡くなられたんですか?旦那様。」
二つの不幸が同じ晩に起こり、治郎兵衛は死に、息子の次三郎は、瀕死の重傷大火傷を負います。
次三郎の方は、叔父の有信が必死に治療を致しまして、命は取り留めたのですが、醜い化物の様な姿に相成りました。
そんな次三郎は、今では二十八で御座います。名を次郎左衛門と改めて、佐野船橋の店を父親治郎兵衛から受け継いで、立派な絹商人と成っております。
そんな次郎左衛門が、本多家浪人の都筑武助と出会い、三年の剣の修行を経て、今では鞍馬八流の免許皆伝の腕前に。
武助の遺言で、名刀籠釣瓶を預かったのですが、これを武助の菩提寺観音寺には奉納せずに、自らの道中差しに造り変えて、この日も江戸表へと商用に出掛ける道中で御座います。
アさて季節は春三月。江戸は桜が満開で、もう散り始めておりました。『お藤よりも美人を嫁に娶る』『三日で良いから、お藤より美人を妻にしたい』
この癖が、なかなか抜けない次郎左衛門は、思わず、後ろ姿を見て、美人に違いない!!と、推量すると、特に江戸表では、その女(ひと)の前に回って確認せずにはいられません。
お前は、エメロンシャンプーのCMかぁ!!
と、私世代は思う背後美人フェチの武助。それでも、振り向かなければ良かった!!が、世の常の様で御座います。
そんな次郎左衛門。常宿の佐野屋久兵衛で知り合った同じ野州から来た若者に、江戸表で美人を探すなら吉原に限ると言われて、その若者に連れられて、生まれて初めて吉原へと足を踏み入れます。
花の三月の吉原で御座います。仲ノ町両側の茶屋は花暖簾植櫻が咲き誇り、店は大そう賑わいを見せておりまして、夕方の事ですから、花魁の道中やら、二階でチリカラカッポで浮かれて居る様子。
初めて見るその廓の光景に、次郎左衛門は度肝を抜かれてしまいます。
次郎「若衆!なる程、話には聞いていたが、吉原と言う所は、本に、大そう賑やかな所だ。聞くと見るとでは、大違いだ!いやはや、驚いた。」
若衆「昔は遊女三千人御免の場所なんて事を言いましたが、今じゃ三千人ではきかないそうですから。」
次郎「うぁー、それは豪気なもんだなぁ。だが、その三千人が、皆、客を取る訳ではなかろう?」
若衆「どう致しまして、女郎は客を毎晩一人を相手にするんじゃござんせん。廻しで三人、五人と相手にするんですよぉ!!」
次郎「三千人がかぁ?!一人で三人を相手にしても、一晩で九千人が客になるのかぁ〜」
若衆「そうで御座いますね、そう言う事になりますなぁ。」
次郎「九千人とは、大したもんだ!」
そんな馬鹿っ話を若衆と話しながら、仲ノ町を歩いておりますと、引手茶屋『蔦屋』の前を通り掛かります。
其処に、当時吉原五丁で一とうたわれた傾城、万字屋の八ツ橋で御座います。橋本、船橋という新造が二人脇に付いて、更に遣手と禿を二人従えての入山形に二つ星と言う全盛で御座います。
それを一眼見た次郎左衛門の体に、電気が走ります。この時代に電気はありませんが、雷に打たれた衝撃!と、言うやつ。立ち止まり蔦屋の行燈の脇に、張り付いた様に成ってガン見しておりますと、
八ツ橋が、その行燈の脇を通る際に、ヒョいっと見返した、その途端に次郎左衛門が、間が悪い事に、スックり顔を出してしまいます。
八ツ橋「アレぇー!!化物が。。。」
驚いた八ツ橋が、気絶して倒れた所を新造二人が必死に支えます。漸く禿が湿らせた手拭いを当ててやりますと、八ツ橋は落ち着きを取り戻しまして、新造に連れられて、万字屋へと入って行きました。
また、次郎左衛門が、この蔦屋へと入って行きますから、店に居た女中、奉公人達が「化物が来た!」と騒ぎ出してしまいます。
此れを見た先の若衆、次郎左衛門を見捨てて、一目散に宿屋へと逃げ帰って仕舞います。アさて、店先が大そう騒がしくなりますので、何事か?と、蔦屋の主人、蔦屋佐次右衛門が出て参ります。
蔦屋「何事ですか?悲鳴を上げたりして、花見のお客様で掻き入れ時なんですよ!しっかり、働いて下さい!。。。アッ、おいでなさいまし、私、蔦屋佐次右衛門に御座います。」
次郎「此れは、初めてお目に掛ります。私は野州佐野船橋にて、絹屋を営みます、次郎左衛門と申します。以後、御見知りおきを願います。」
蔦屋「はぁ?!縮屋さんは取引があるけど、絹屋さんは生憎、間に合っておりますがぁ。」
次郎「商売で、品物を売りに参った訳ではありません。初めて吉原に参りまして、廓遊びと言うものを経験したく、宜しくお願いしたいのですがぁ。」
蔦屋「なんだ、お客様でしたか?何方かのご紹介ですか?一見さん。すいませんねぇ、うちは初めてのお客様は、何方か常連様の御伴か、ご紹介でないと上げないんですよ、すいませんねぇ。」
次郎「そうでしたかぁ、すいません。」
この蔦屋佐次右衛門、大変親切で悪い人では有りませんが、商売っ気がなく、店先で化物騒ぎを起こして、女中や奉公人達も怯えている様子が伝わりますから、やんわりと断りを入れます。
次郎左衛門ががっかりして、蔦屋から出ようとしたその時、奥の襖が開きます。蔦屋の女房、お仲で御座います。この女は亭主とは対照的に海千山千の一癖ある芸者上がりの女将で御座います。
お仲「なんだ!佐野のお大尽じゃありませんか?」
次郎「どちらかでお会いしましたか?」
お仲「私は、ここの家内で御座います。野州のお客様は、少々存じでおりまして、お大尽の事は常々伺っております。佐野と言えばお大尽ですから、絹屋のお大尽を知らなきゃぁ、モグリですよねぇ。
ささっ、二階に上がって下さい。ほら、足元を燭台で照らして案内して!!タバコ盆とお茶!直ぐにねぇ。酒と肴の注文も、お聞きするのよ!ハイハイ、働いて働いて!!」
次郎左衛門が、何だか分からないうちに二階へ上げられます。
お仲「いやだよ、この人は。あんな初回のいい玉を外に逃がそうとするんだから、あの着物を見たら分かりそうなぁ、もんだよ。鴨が葱背負って来てんだからさぁ。
アタシが万事引き受けるから、御前さんは釈場にでも行ってお出なさい!!」
お仲「お大尽、お待たせしました。申し訳ありませんねぇ、こんな狭い部屋で。佐野と違いまして、江戸の茶屋は造りが狭くて。。。」
次郎「そんな事はありません、どんな大男でも、畳二畳半あれば暮らせると申します。狭くても、この部屋は趣きが御座いますし、何より掃除が楽で御座います。」
お仲「お大尽!面白い事仰る。」
次郎「女将!私は吉原は初めてで、流儀や遊び方を知りません。恥をかくのだけは御免ですから、綺麗にお金は使いたい。ですから、懐に百両御座います。此れで、遊ばせて貰えますか?
足らぬと、申されるなら、常宿の佐野屋に頼めば、三百両くらいの金は用意できます、如何でしょうか?」
田舎のお大尽だからって、いきなり絞り取って、懲り懲りだと吉原嫌いになられては困る。細く長く銭を引っ張る金鶴瓶にしようって魂胆ですから。
お仲「お大尽!吉原の大店ったって、そんなぁ、百両なんて銭は要りません。二十両も有れば遊すべます。この蔦屋のお仲に任せて下さい!芸者、幇間を四組くらい上げて、パァ〜っとパァ〜っとやりましょう。」
次郎「女将!全て任せます、宜しく」
と、切り餅ひとつ、二十五両出して、五両は手前だと蔦屋に渡します。直ぐにお仲の息の掛かった幇間の丸善藤八と、芸者は都家波太夫が呼ばれて、賑やかな宴が始まります。
しかし、肝心の次郎左衛門の相手の花魁が決まりません。どうさたものかと思案していると、次郎左衛門の方がこう言い出します。
次郎「私の父親は、昔、江戸表で暮らしていて、佐野から商用で参ると吉原にも来ていた様で、月岡の源久、江戸節の紋吉と言う二人に、吉原の事は案内させろと申しておりました。」
お仲「ヲっ!何だそれなら早く言って下さいよぉ、源久さん、紋吉さんと馴染みだったら話が早い!直ぐにお呼びしましょう。」
蔦屋の若衆が、源久と紋吉を呼びに直ぐに走ります。この二人は治郎兵衛が絹屋を継いでから目を掛けてやった馴染みでありまして、
治郎兵衛の事を、善人で慈悲深い、田舎のお大尽だと思っている者で御座います。結局、この二人も貰いを掛けたが間に合わず、又の機会と言う事で、次郎左衛門の相方が決まりません。
お仲「困りましたねぇ、旦那!貴方は、どう言った花魁が好みなんですか?若い子か?年増か?背が高い子か?ぽちゃぽちゃっとした子か?」
次郎「先程、この店からお伴を連れて出た、あの花魁は何と言う花魁ですか?叶うなら、あの花魁が呼びたいですねぇ。無理でしょうか?」
お仲「エッ!あれは万字屋の八ツ橋って花魁で、全盛ですよ!!吉原一の。」
次郎「あの方を呼んで貰えませんか?女将。」
お仲「八ツ橋がお大尽のお気に入り!ちょっとお待ち下さい。。。」
お仲が、波太夫と藤八に目配せして、隣の部屋で作戦会議が始まります。
お仲「大変な注文を受けちまった。どうする?波太夫、藤八?」
藤「兎に角、あのお大尽を万字屋に送り込んじまっては?時は稼げますぜぇ。」
お仲「お前は知らないからそんな無責任な事が言えるんだよ、あのお大尽が、ウチの行燈の横で八ツ橋に見惚れていて、八ツ橋がそれに気付かないで、
ウチを出て行こうとして、鉢合わせに成った時だよ、八ツ橋は『アレぇ〜化物!!』って叫んでシャクを起こして気絶したんだよぉ。
そんな相手の座敷に出ると思うのかい?蛇や蛙、いやミミズだってあれよりは、ましだと言うよ八ツ橋。」
波太夫「ここは女将。例の一件を持ち出して、八ツ橋を板挟みにしてやるのは、どうですかい?」
藤八「あのお大尽なら、五十や百の銭なら簡単に出しますよ。あんなぁ、小鳥を逃す手はありませんって。波太夫姐さんと、女将で、万字屋に捻じ込んで来て下さいよ!」
お仲「それは、案外、いいかもしれないね。じゃぁ、波太夫と万字屋で八ツ橋に例の一件をぶつけて来るから、藤八!お前はここで、化物お大尽の機嫌取りをしていておくれよ。」
お仲「お大尽!お待たせしました。私と波太夫師匠が、八ツ橋を口説きに行って参ります。お大尽は、藤八ドンと呑んで繋いでて下さい。」
そう言ってお仲が、波太夫を連れて、万字屋へと入って行くのでした。
つづく