いよいよ、『新吉原百人斬り』のなかでは最も有名なお噺、「戸田の渡し/お紺殺し」で御座います。
佐野犬伏生まれの次郎吉は、幼い頃からぐれ始め酒、博打、女の三道楽で医者をしている実家を勘当になります。
同じ犬伏で、目明かしをしています焼金の鐡蔵に拾われて、鐡蔵が本業にしている蕎麦屋で、蕎麦打ちの技を身に付けます。
真面目な仕事ぶりに鐡蔵が、娘のお菊といい仲なのを知り夫婦にして、二十五両の支度金を付けて江戸表へ蕎麦屋の修行に夫婦を送り出します。
江戸は巣鴨浅香町の長寿庵で修行をする事になるのですが、主人の浅吉から、格安の七両でこの店を譲り受ける事に、あいなります。
順風満帆に、長寿庵を夫婦で営むかに見えましたが、次郎吉は生来の放蕩者で御座います。店が繁盛して、もっと蕎麦が有れば、更に儲かる!!と、女房のお菊が職人を雇うと、直ぐに働くのを止めて博打場通い。
結局、悪い借金を賭場に拵えて、それが百両!!其処へ、飛んで火に入る夏の虫!!若侍が殿様から三百両を盗んでやって来る。
此れ幸に、親切ぼかしに若侍を、追手から匿ってやり、十分信用させておいて、猫又坂で刺し殺して三百両を奪います。
殺した若侍の怨念、因果なのか?!初めて出来た子供は死産、女房のお菊も産後の肥立ちが悪く死んでしまいます。
江戸表で一人ぼっちになった次郎吉。それでも若侍・山田三四郎から奪った銭が百五十八両と、長寿庵を売った代金四十両が在りますから、
賭場で知り合った、芝口の三河屋藤七の所に草鞋を脱いで、佐野の次郎吉兄ぃ!!とか言われて持ち上げられて、当人もその気になって、男前で切符の良い渡世人を演じております。
アさて隣の屋敷を見てやれば、舟板塀に見越しの松、あだな姿の洗い髪、生きて居ますよ江戸節お紺。そんな女と出逢います。
お紺には、伊達藩江戸留守居役、渋江右膳と言う歴とした旦那があるにも関わらず、これを寝取り。あぁ其れなのに其れなのに、右膳を脅して最後に五十両を脅し取る。
そんなこんなで芝口には居られなくなり、赤坂田町へと引っ越す二人。古着屋渡世となりますが、お紺が梅毒を患い、鼻が落ち目は腫れて髪は抜け落ちます。
化物の様なお紺の看病に疲れた次郎吉は、お紺を赤坂田町に捨てて、一人、故郷の佐野へ帰りますが、お紺本人は、次郎吉は小田原へ金策に出たと思っております。
お紺を捨てて故郷佐野犬伏へ帰った次郎吉。死んだ女房の実家の蕎麦屋を頼り、心機一転、生まれ変わったつもりで頑張ります。すると、
伯父の彦兵衛、舎弟の有信の盛り立てなんかもあり、佐野船橋の絹商人、三右衛門の後家、お浅に入婿して、絹商人として人生を再出発します。
そんな少し山あり、殆どが谷!谷!谷!の人生を歩んでいる次郎吉も、絹商人になり、心機一転名前を治郎兵衛と改めます。
絹商人になった治郎兵衛は、商売に励み真面目一筋に働きますが、これ迄の悪行、不義理の因果なのか?女房のお浅を失い、愛する実の息子次三郎は疱瘡を患います。
アさて、十二月五日、十日の予定で江戸表の得意先廻りと仕入れの買付けと、治郎兵衛生糸の売込みを精力的に熟しておりますと、十日では済まなくなり、四日も予定より江戸へ長く滞在しております。
極月二十日、江戸の常宿は本銀町三丁目に在る佐野屋久兵衛、この寿司屋の様な名前の旅籠から、同じ野州、上州の絹商人三人連れで、今日の泊まりは蕨。そして宿は松屋利助と決めて出る。
佐野屋を三人揃って出たものの、道中寄る得意先が異なるので、戸田の渡しに着いた時は、治郎兵衛一人であった。
筑波颪の冷たい風が耳に突き刺さる、編笠を深く被り廻し合羽で避けながら進むと、遂に、空からは白い物が落ち来た!!『降って来やがった、急ごう!!』
独り言を呟いて、河原方を見ると蒲鉾型の小屋が在る。そこから、女乞食が這い出して来る、丸で貞子だ!!
人間が着ているから着物には違いないが、脱いだらただのボロ。そんな奴を纏って、頭には汚い煮染めた様な手拭いを姐さん被りにして、腰をくの字に曲げてヨロヨロと、何か叫びながら歩いて来た。
女乞食「旦那様!旦那様!一文お恵みを。一文!どーか、お恵みを!旦那様!」
治郎兵衛の合羽に、纏わり付く様にして、地びたを見ながら訴えている女乞食。以前の次郎吉だったら、足蹴にし無視して『渡し』の方へ行く所だが、
佐野船橋のお大尽となった今は、慈悲の心が十分芽生えており、優しい目をして、可哀想にと思える料簡になっていた。
治郎「分かった!おこもさん。此れを上げるから、何か暖かい物でも食べて、小屋からはなるべく出ない様にしなさい。」
女乞食「お有難う御座い!!」
強い風で、顎紐が緩んで、編笠が外れてしまったので、治郎兵衛が笠の紐を結び直した。その時、女乞食が下から治郎兵衛の顔を覗き込む。
次の瞬間、その女乞食が、治郎兵衛を両手で掴んで怒鳴り付けた。
お紺「次郎吉!!見付けたぞ!この野郎。やい!アタイだ!江戸節お紺だよ。」
跳び上がるくらい驚いた治郎兵衛は、ニ、三歩後すざりしたが、言葉はなかなか出ない。信じられない!!という表情で立ち尽くす。
お紺「ヤイ!人でなし!!お前と言う奴は、人の皮を被った鬼夜叉野郎だ。お前の為に右膳の旦那をしくじって、死装束着て五十両を都合してやったのに。
お前ときたら、小田原へ行くと嘘ついて逃げてやがって。。。赤坂の長屋にアタイを置き去りにしやがって、夜具も無しで私がどんだけ苦労したと思うんだい。
何度も死のうと思った事かぁ。其れをやらなんだのは、お前に恨み節を言ってからじゃないと、死んでも死にきれないと思ったからさぁ。本当に、お前のその喉笛に噛みついて、お前と差し違えて死んでやろうと思った事かぁ。」
治郎「お前に何と言われても、返す言葉もねぇ。小田原へは本当に行ったんだ。嘘じゃねぇーそしたら、留吉の奴は、一時は金回りが良かった時期も有ったけど、俺が行くと十五両の銭もとうの昔に無くなって居て、
小田原からは、一文の銭も返しては貰えずでよぉ。お前に合わせる顔がねぇーと思ったから、行くとしたら、佐野に帰るぐらいしか出来ねぇから、帰ってみると、親父もお袋も死んでいて。
仕方なく、前の家業の蕎麦屋を暫くは手伝っていたら、伯父の彦兵衛と舎弟の有信が後見になってくれて、絹商人として今では佐野船橋に店を構えて、何とか人並みの暮らしをしているって訳なんだ。
女房は持ってねぇーよ、嘘じゃねぇ。女房は、お紺、お前だけだ。本当だ、この後、俺に付いて佐野船橋の店に来たら分かる事だ。お紺!本当にすまねぇー。」
お紺「嘘も大概にしなよぉ。私を何年、置き去りにしてんだい、アンタは。半年や一年じゃないんだよ、六年半も放ったらかしにして、逃げておきながら、女房はお前だけだとか言われて、誰が信じるかい!!嘘を付くならもっとましな嘘におしよぉ!!」
治郎「嘘じゃねぇーよ、佐野船橋の店に行けば分かるって。お前と約束した湯治を、鬼怒川か那須の温泉でやろう。六年不義理をした分、お前を大切にするから、佐野の店に来てくれ、お願いだ!!」
お紺「本当かい?次郎さん。アタイをまた、女房にしてくれると言うのかい?!」
治郎「おぅよぉ。俺には女房は、お前だけだ。この先の蕨に松屋って宿を取ってあるから、今日は、お前をそこに連れて行く。
途中、着物も古着屋で揃えてやるから、とりあえず、その頭と顔、手足だけでも、そこの河原で洗い流して、サッパリしてから行こうぜ。」
治郎兵衛は、お紺に頭と顔、それから手足だけでも荒川の流れで垢を落とす様にと言いまして、河原へと連れて行きます。
治郎兵衛が、左手でお紺の帯を掴んで、川の水で手拭いを使って首筋や耳の裏の垢を落とさせますが、いかんせん何年も溜まった垢ですから、そう容易には落ちてはくれません。
お紺が、治郎兵衛に言われるまた、夢中で垢を落としていると、十分に油断をさせて置いて、右手で道中差しを抜いて、お紺の脇腹にそれをお見舞いします。
ブスリッ
お紺「エェー人を油断させて、よくも刃物をお見舞いしてくれたねぇ、恨むよぉー、祟るよぉー、次郎吉!!祟ってやるぅ!!三日と生かして置かないからねぇー。」
治郎「エェー、引かれ者の小唄とはお前の事だ!こっちも背に腹は変えられねぇー。恨みがあるなら、祟りだって何だって好きにしろ!!」
治郎兵衛は、江戸節お紺を、二度三度、刀で斬り付けて殺して、川の中へと沈めてしまいます。筑波颪の風に雪が混じる夕暮れですから、悪運の強い治郎兵衛の強行を目撃する人はありません。
そのまんま、廻し合羽を着て、戸田の渡しへと急ぐ治郎兵衛。蕨の中宿、松屋利助とう旅籠に着いた時は、もう日はとっぷりと暮れて六ッの鐘が遠くで鳴っておりました。
何となく、道中、誰かに付けてられている様な嫌な予感がして、何度も後ろを振り向きながら、治郎兵衛は、松屋へと入るのでした。
つづく