倉田屋文吉に預けられたお虎親子。文吉の手配で松岸の料亭『紅梅亭』で、母お金は中居、お虎は芸者として住み込みで働ける様になります。
お虎は、佐原の喜三郎への未練がありますから、まだ芝山の仁三郎を喜三郎が斬り殺して佐原向洲から逃げている事も知らされてはおりませんでした。
文政十二年も元号が改まり天保元年と成った頃、紅梅亭の客の噂で、佐原の喜三郎が芝山の仁三郎を斬り殺して佐原向洲から逃げて、下総には喜三郎が居ないとお虎は初めて知ります。
直ぐに倉田屋へ駆け込んで、喜三郎は何処へ逃げているんだ!と、文吉を問い詰めたが、文吉は知らないと言って答えてはくれません。
折しも天保へと元号が変わっても景気はよくならず。松岸の紅梅亭ではお座敷の数が滅法へり、お虎親子は喜三郎の居ない下総に居る理由が無くなります。
もう、江戸表に戻っても、父三五郎の借金の話をする人も居まいと踏んで、親子は柳橋で芸者に成ろうと、江戸表へと帰ります。
倉田屋文吉は、それを知り喜三郎へ手紙で知らせますが、喜三郎とて浅草安部川町では居候同然の客分の身なので、お虎親子の面倒など見切れるはずもありません。
お虎とお金の親子は前に住んでいた神田三河町に近い白銀町に借家を見付けて、お虎が柳橋へ芸者として働く事で何とか二人食べては行ける暮らしを手に入れました。
喜三郎も下総の噂では江戸表へ逃げたと聞いたお虎。同じ江戸の空の下に居れば、また逢えるかもしれない!と、淡い期待を持つのでした。
そんな平和な暮らしに影が指したのは、お金が風邪をこじらせて床に伏せったからでした。母を看病するとお虎が働けなくなり、薬代や医者の往診代などで、十五両の借金ができました。
これが、半年で二十両に膨らみ、お金が結局、長い患いの末に亡くなった一年後には三十両の借金に成っておりました。
誰にも相談できず、親類縁者の無いお虎。行く着く先は、お定まりの吉原に身売りして、借金を返済する以外手はありません。母を亡くし喜三郎にも逢えず、天涯孤独と成った事で半分焼けにもなりまして、吉原『大坂屋』で花魁の修行とあいなります。
お虎は、父から踊り、生花、茶湯、立花流香道、囲碁・将棋などの素養がありましたから、半年後の天保二年正月に、お虎は十九で「ボインは赤ちゃんが吸う為にあるんやでぇ〜」と、可朝ではなく、花鳥と言う源氏名で花魁となります。
つづく