講釈は、時に脱線するものではありますが、『紀州調べ』で、いよいよ天一坊一味の悪事が暴かれようとしているのに。。。『隠密』と言うキーワードで、無茶苦茶噺が脱線します。
徳川時代の隠密事情とは、どう言うモノだったのか?テレビ東京の『隠密同心』では、「死して死屍(しかばね)拾う者無し」と、その悲哀と探索の難しさを強調していました。
将軍家の御庭番が、隠密として他国へ潜入する!何んて話は、柳生一族が御庭番の時代には、頻繁に有ったようで、『子連れ狼』は、正に隠密vs諸藩の戦いの物語でした。
この本が扱っている隠密は、もっと後半でして、十一代将軍家斉公が、まだ三歳の篤姫を、薩摩から嫁に貰うと言う話の中に登場する、隠密『桂川市兵衛』の物語でして、抜き読みにして一話独立できる内容です。
まあ、講釈師の手口としては、有り!な引き伸ばし作戦です。この本の感想録なので、あえて書きますが、本当に天一坊事件は、1ミリも進展しません。
十一代将軍家斉公は薩摩から姫を正室に迎えながら懐妊の側室を八人抱え、実に、六十五人の子を残して天保十二年の正月に他界なされます。享年70才、実に長命な将軍でした。
アさて、当時江戸に居を構える徳川幕府にとって薩摩は、謎に包まれた『外様の大国』でした。だから、少しでも内情が知りたくて、徳川家としては、初めて公家以外からの正室として迎えた経緯があります。
薩摩と言えば、古くは義経が落ち延び、徳川家の時代になっても、大坂の陣以降、真田幸村と豊臣秀頼の二人が落ち延びだ地かも?!しれないのです。
その薩摩の本当を知りたい!!と願うのは、将軍自身でなくても、分かる気がします。さて、そんな薩摩を隠密として、探れ!!と、命じられた人が居ます。それが、桂川市兵衛さん。
市兵衛さん、命令を貰ったその日から、隠密として何に化けて薩摩入りするか?研究を始めて、自宅には帰ろとしません。悩みに悩んだ結果、ぼて振りの八百屋を選択します。
更に、市兵衛は囲碁が趣味で、なかなかの腕前、薩摩の江戸藩邸に潜入すると、八百屋に身を窶して薩摩藩士の情報を得ては、
中で囲碁が好きな藩士だと聞くと、取り入っては碁を打ち、相手の技量に上手く合わせて、勝ったり負けたりの関係を作り、馴染みを増やす作戦を展開していた。
藩士A「八百屋!今日も一番どうだ?」
市兵衛「旦那、随分と碁が好きですねぇ?」
藩士A「おいドンは、他に趣味が御座らんけん。江戸に居っても、芝居見物とか女郎買いとかせん。」
この藩士は、所謂、采廻役/うねまわり役、つまり食事の係りである。朝廷などでは采女/ウネメと呼ばれる女人が担当するのだが、武士の社会では、食事担当は男性、侍が刀を包丁に持ち替えて担当していた。
この采廻役、畑澤采女と言う御歳二十一、江戸勤番となってまだ半年である。その采女に取り入って半年余りで、かなり親密な関係となったなっある日。碁を打ちながらの会話だった。
市兵衛「畑澤様、私は今年で三十五になりますが、両親とは死に別れ兄弟もありません。また、女房も持たず、勿論、子なしの天涯孤独な身の上です。
噂では、薩摩のお殿様は家来を大切になさり、主従の絆が他の大名家にない強いモノがあり、だから戦に強く、公方様も、そんな薩摩から姫を迎えられたと聞きます。
そんな薩摩様の家来の畑澤様に、私、市兵衛は奉公ぶちたいです。給金は要りませんから、家来にして側に置いて下さい。
これまでよりも、食料の仕入れには、私が身を粉にして仕えますから、畑澤様!ワシを家来にして下さい。」
畑澤「市兵衛!誠か?そちさえ良ければ、おいドンの家来にしよう。そうなったら毎日碁はできるし、食事の仕入れも、おはんに任せる。」
こうして、桂川市兵衛は、薩摩藩江戸屋敷の畑澤采女の家に居候して、中元として働くようになります。
野菜類の仕入れは勿論、魚や米、豆腐、卵などなど江戸表に明るい市兵衛が、コマネズミのように働き、薩摩江戸藩邸では、安い経費で美味い飯になったと大いに喜ばれ、
采廻役の畑澤采女は、評判が上がり出世して、三年後には、江戸勤番から鹿児島への栄転が告げられるのでした。
采女「市兵衛!喜んでくれ。拙者、再来月より生まれ故郷の鹿児島で、同じく采廻役じゃが、二番目に偉い目付方にて、百二十石を頂戴する身分とあい成った。
これも、お前が三年間、奉公に励んでくれた成果である。これは、ささやかではあるが、ワシならの気持ちじゃ、十両ある受け取ってくれ。
また、江戸表へは、ワシの従兄弟の畑澤一馬が赴任する。宜しければ一馬も采廻役だ、一馬の家来になり、引き続き励んではくれぬか?」
市兵衛「有り難いお言葉ですが、私は采女様が御主人様だったから、あれだけの奉公が出来たのであって、違う方に仕えるつもりはありません。
願わくば、私、市兵衛も鹿児島へお伴させては貰えないでしょうか?この後の私の生きる望み、生き甲斐を奪うような事は言わないで下さい。」
采女「そちは、そう申すが薩摩には薩摩の掟があり、たとえ江戸以外でも、他所者は鹿児島へ家来や妻として連れて帰る事は出来ぬのだ。
殿様代々の法度故に、それを破ってお前を鹿児島へは連れては行けぬ。許せ!市兵衛、ワシも辛いが。。。薩摩の定めじゃぁ。」
市兵衛は、ここで畑澤采女に一人鹿児島へ帰られては、三年半の努力が水の泡と消えてしまう。市兵衛は恥ずかしげもなく、泣いて采女に縋った。
また、四十近い家来が忠臣のあまり、泣いて縋るのを見て、采女も心が動かされた。分かった、お前を身内として、鹿児島へ連れて帰ろう。
苦労して潜入した甲斐あって、桂川市兵衛は鹿児島へと堂々と入る事に成功します。そして、畑澤采女の下男として、ここでも、身を粉にして働き、
鹿児島で見聞きした事は、薩摩藩の事に限らず文化・風俗・風土・地理、などなど、全てを本に書き留めて行くのでした。
そして市兵衛が鹿児島に入り二年が過ぎたある日、采女の親戚筋の豆腐屋が、亭主が不慮の事故で亡くなり、若い後家ができて、豆腐屋は女手一つでは立ち行かないので、再婚相手を探していた。
その豆腐屋の後家をはじめ、親戚一同が、是非、市兵衛さんに婿に来て欲しいと言う。市兵衛も、二つ返事でこの縁談に乗り、高砂やこの浦船に帆を上げて!と、なり、更に二年が経つ。
すると、二人の間に男の子が生まれて、その名を市太郎と名付けて可愛がって育てる。そして、その市太郎が、五才の時、遂に鹿児島紀行の本が完成した!と、市兵衛さん隠密としては江戸に帰る算段を始める。
実に、江戸屋敷で三年、鹿児島の薩摩藩で二年。更に豆腐屋で七年。合計十二年の隠密行動でした。
妻に豆とニガリの買い付けに行くと嘘をついて、肥後熊本へと街道筋から入り、船で、博多から安芸を経由して、大坂へ。更に、京都、近江、伊勢と進み、東海道を尾張、駿府、箱根へと進み四月下旬小田原へ着いたのは、一ヶ月が経過していた。
初鰹で酒を飲むと、いよいよ江戸が恋しくなる市兵衛でした。早速、江戸表へ帰ると御庭番の頭領に薩摩・鹿児島紀行の本を渡すと、直ぐに将軍に本は献上される。
家斉卿いたく感動されて、桂川市兵衛は七十表二人扶持から千二百石の旗本となり、麹町に屋敷を賜り、下総守となったのです。
また、隠密として鹿児島の薩摩の城に潜入した証に、市兵衛さん、島津公お気に入りの松の鉢植に、手裏剣(こずか)を置いて戻ったと、将軍に報告していた。
さて、家斉卿。それから半月くらいの後、薩摩から義理の父でもある篤姫の父、永翁様との御会食の晩餐会で、酒が入った拍子に、本で読んだ最近の鹿児島の事情をベラベラと披露し出す。
永翁様はいたく驚かれて、将軍様になぜ、そんな事をと尋ねられると、実は御庭番が隠密を、鹿児島に潜入させた、と、手の内を全て明かされて、松の鉢植の手裏剣の事まで、自慢されたのです。
薩摩藩も、馬鹿じゃないので、藩内を探索し畑澤采女が連れて鹿児島入りした豆腐屋『市兵衛』が隠密と分かり、嫌がらせのつもりで、息子市太郎を、江戸表へ連れ出し、
麹町の桂川市兵衛・下総守の屋敷に『父上に会わせろ!』と、送ってみたのだが、流石、隠密!!お前など知らぬ!と、親子の対面はせず、家来の茂十と言う男に、薩摩の江戸屋敷へと帰してしまったのでした。
この長いエピソード!?要ると思いますか?
つづく