西町同心、藤井三十郎が島屋の隠居所に現れた事を、島屋旅館の方へと伝えに文右衛門が伺うと、玄関の門番に止められてしまう。

どうにかこうにか、用人山村甚之助と面会ができて、西町奉行松平日向守の名代で、藤井三十郎と言う同心が来て、『徳川天一坊』なる者について、その素性を明らかにするよう沙汰が有った。

速やかに日向守役宅へ出向いての申し開きの対応を願いたいと伝えると、甚之助は落ち着いた様子でこれを快諾し、文右衛門には、御烙印に間違いないから安心する様にと言い含める。

これを聞いて安心した文右衛門は、直ぐに藤井三十郎へこの事を伝えた。返事を殊の外早く頂いた藤井は、直ぐに日向守に報告するので、追って沙汰すると言い残して島屋を引き上げた。


同心、藤井三十郎から報告を受けた松平日向守は、直ぐに東町奉行、稲垣淡路守殿と相談の上、大坂城代土岐丹後守様に報告された。

丹後守は、容易ならぬ事なれば、慎重の上にも慎重に事の仔細を調べよと、日向守に命じ、日向守は直ちに島屋へ『明日、巳刻(四ツ)に西町奉行所、日向守役宅にて申し開きの儀を行う』と知らせを出した。此れを受けて天一坊側からは『委細承知』と返事を出された。


此れを受けて、島屋ではこんな相談がなされた。赤川大膳とこれより改名した名前を使うと宣言した藤井六之助が、感応院と山村甚之助の二人を呼んだ。

大膳「感応院殿は本日より、天一坊様の御守役となります。また、用人山村甚之助を共に連れて、日向守役宅へは向かって下さい。

兎に角、できる限りの威厳を示して、決して相手の風下には立たぬ様に願います。武士の作法は、鍋島藩に居た勘之助殿が全て心得ておりますので、感応院さんは仏門のしきたり作法にてお願いします。」

感応院「法澤、天一坊様の生い立ちは、私が説明すれば良いのか?」

大膳「御意に。貴方様が、天一坊様を幼い頃より一番よくご存知かと思います。また、お墨付と短刀、そして澤乃様のお話も、感応院殿からお願いします。

また、今日のところは、澤乃様はご病気で、紀州にて静養中である事も、隠さず話されてよいでしょう。」

山村「さて、拙者は何をすれば?」

大膳「お主は、お墨付や短刀を日向守に見せる際に、如何にも武士らしく、王行に振る舞う為に行くのじゃぁ。草履取りの若衆も連れて行け。駕籠から降りる際は草履を若衆に用意させるんだ!!」


感応院と山村甚之助は四手駕籠に乗り、草履取りの若衆を連れて松平日向守の役宅へと出向いた。すると、広い書院に通されて、直ぐに日向守が現れ着座、早速質問が飛んだ。


日向守「長町島屋に於いて『徳川天一坊旅館』なる看板が掲げられておる様だが、天一坊様とは如何なる身分のお方か?内々にご確認申したい。」

感応院「拙僧は、感応院と申しまして御烙印、天一坊様の守役を務めよります。さて、天一坊様は、二十年前にお生まれになったのですが、その母親を澤乃と申します。

澤乃は、産婆をしておりましたおさんの娘で、紀州家国家老加納将監方に、水仕奉公しておりました。

また、現在の公方様は、源六郎公と呼ばれておりました時、父君、光貞卿は源六郎公が四十二の二ツ子だった為、この国家老加納将監へ養子に出されておりました。

この加納家にて、源六郎公が澤乃と割りなき仲となり、懐妊いたし生まれたのが、我が主君、天一坊様なのです。

この天一坊様を澤乃が懐妊しました折に、源六郎公には、紀州家分家筋、松平左京太夫様より婿養子の話が進められており、澤乃へは、こちらの書状と備前長光の短刀を形見にお渡しになり暇が出されたのです。

澤乃は、それから母親と二人で天一坊様を國太郎と名付けて五歳まで育てましたが、女手一つでは生活もままならず、私の後妻となり、更に天一坊様が十五歳まで育てました。

その後は、広く社会を見せて僧侶としての見識を高める為に、紀州を出て美濃長洞の常楽院天忠様を支持して修行して参りましたが、どうしても父君と対面したいと申されまして、『徳川天一坊の旗揚げ』と相成った次第です。

このまま、大坂、京での訴えが取り上げて頂ければ、江戸表へと行列を進めて、公方様とのご対面の後に、幕府への身分の裁定願いをと思っております。」


お墨付と長光の短刀を見せられた日向守は、元禄十五年八月二十四日の日付で、花押されたその書状を持つ手が震えた。

長光の短刀も葵の紋入りで、錦の袋も将軍家のものに違いない。「あい分かった!戻られよ。」と言って両人を帰すしかなかった。


二人は喜び勇んで島屋へ戻り、これを赤川大膳に報告。大膳も上々の首尾にこれで安心と喜び合うのでした。



つづく