連続6日続いた馬桜プロデュースの落語会も、この日がファイナルでした。

そのうち、4日間、私は通いました。充実の4日間でした。

 

 


1.阿武松/鈴々舎馬るこ

落語コンクールで優勝した値多だそうです。

確かにレベル高い笑える演出の『阿武松』です。

凄いのは、白鵬と琴欧州、そして朝赤龍の本名を覚えていることろ。

そいうマメ知識が冴える馬るこくんです。

ただ、私は、イマイチ落語古典口調ではなく、

最近のピン芸人っぽい喋りをするのが、好きになれないのです。

元々、ピン芸人から咄家なので、仕方ない部分もあろうけど、

やっぱり、落語のリズムで、江戸弁でやって欲しいです。

できる子だと思うので、是非!!

 

 

2.三井の大黒/鈴々舎馬桜

久しぶりに聴きました。何時以来か?2005年に談春で聴いて以来でした。

もう、その時の事は、すっかり忘れています、当然です。

マクラは、このGWの落語会からシニア割引を始めた話。

寄席は、65歳から割引ですが、馬桜プロデュースの会は70歳からで、

通常2,500円が1,500円になります。お年寄に優しい馬桜師匠です。


馬桜師匠は、この噺を入船亭扇橋師匠から上げて貰ったそうです。


京の都で時の関白殿下に“竹の水仙”を謙譲して、

左官(ひだりかん)の位を頂戴し、全国にその名を知られた甚五郎。

京での修行にも飽きたのか、江戸への旅に出る事にする。

特にあてのない旅で、東海道を江戸へと向かう。


この旅の途中の噺が、『竹の水仙』で、『三井の大黒』は、その後、

甚五郎が江戸に入った直後のお噺です。


江戸の神田、今川橋の近所の銀町(しろかねちょう)に棟梁政五郎が仕切る普請場があった。

甚五郎は普請場まで来ると、働いている大工を見て、その三人の腕前をブツブツ呟きながら、

「こいつは、へたで、ぞんざい」「こいつは、可も無く不可もない普通」

そして、「こいつが一番見所がある」などと、つい口から出てしまった。


それを聞いた職人達は、特に評価の低かった野郎は、甚五郎を殴りつけてしまった。

そこに棟梁の政五郎が来て収めたが、聞けば上方の大工/番匠だという。

それに、この男まだ決まった先がないというので、

弟子の無礼を謝って、何かの縁だからうちに来たら良いと、勧めた。


すると、この男が妙な事を言う。俺を泊めるとお前の上さんが呆れ果てて、

離縁したいと言い出す、だからお上さんが居たら先に相談した方がいいと言うのだ。

これを聞いた政五郎、俺がお前さんを泊めるんだ、

かかぁが何のかんのと言い出したら、かかぁの方をおん出すから心配いらないと啖呵を切る。


絶対そんな口は聞かせないと橘町の我家に男を連れ帰る。

お上さんにも紹介して、聞くと生国は飛騨の高山だと言うが、

高山は腕の立つ大工の多くが居る所で、

そのうちでも有名な日本一の名工甚五郎も同郷なので知っているだろう、と問うた。


名前を聞かれたが、甚五郎の素晴らしさを熱く政五郎が語るので、

それは私ですは言い出せず、即答出来ずに忘れたと逃げた。

名無しでは困るので”ポンシュウ”と変なあだ名を貰った。


ここまで、馬桜師匠の演じ分けが絶妙で、甚五郎、政五郎、

そして弟子の若衆とお上さん、それぞれの語り分けで、

物語に心地いいリズムが在って、大変良かったです。


烏カァーで夜が明けて次の日、忙しいので朝から仕事を頼んだ。

棟梁の道具箱を借りて出掛けたが、ポンシュウは休憩も取らずに、

その道具箱の鉋を一身に調整する。

当時の大工は、4タイプの鉋を持っていたそうで、

まずは、荒削り用、次に整え用、更に前仕上げと、後仕上げ、

順番に、削る量がその職人の腕に合わせて調整されるのだ。


板を削れとの指示で、鉋の刃を研いて七つ頃になって、初めて削り始めた。

二枚の板をピタリと合わせて、剥がせるものなら剥がしてご覧と言ったが、誰も剥がせなかった。

それを見届けて先に帰ってしまった。政五郎はポンシュウに小僧の仕事、

板削りをさせたとは生意気だと怒鳴りつけた。


誰だってそんな仕事はいやだから、

具合が悪いと口実付けて帰ってくるのは当たり前だと、怒鳴り付けた。

ポンシュウには気が向くまで二階で、寝ていて良いと言い付けた。


ここまでの展開も、結構難しい演じところです。

弟子がポンシュウをバカにしきっているのに、

政五郎は、見所があると思っている。

この板ばさみで、甚五郎が取った行動が、

この板を二枚削って、合わせてみせる技なんですね。


まっ平らな面同士が、分子間引力で共有結合しているのでしょうか?

化学的な理屈の説明は、落語だからありませんが、

まさに金属板を二枚合わせたような剥がれにくい状態を作った甚五郎。

天才、神の技ともいえるこの状況を語って伝える必要があります。

そして、馬桜師匠のこの板のくだりは、名人の技を感じさせてくれました。


そうなると、女房は愚痴りだし、離縁してほしいと言い出した。

やはり、そうなったかと女房に納得してもらい、

ポンシュウに二階から降りて来てもらった。

お前さんも分かったと思うが、江戸では表向き百人の人工の手間が掛かっていると思われても、

実際には80人しか掛かっていない場合もあるし、

反対に上方では百人の所に百五十人掛かっている。

江戸は火事早いから手が掛けられない。

腕があるから上方で仕事をした方が良いと勧めた。


この部分で、ポンシュウがお上さんの出すおかずが、

毎日鮭なのに閉口して、氷見のブリが食べたい!と贅沢を言う場面が笑えます。

そんなにブリが食いたかったら、富山に行きなぁ!富山に。

と、ヒステリックに怒るお上さん。それに対して馬耳東風の甚語楼。

ここが一番の笑い所でした。


甚五郎、暮れが近づき、春まで遊んでも居られないので、

暮れの市で売る品をアルバイトで、踏み台、チリトリなど作っては?

と、勧めたが乗り気にならない。


それでは番匠ならば彫り物が出来るだろうから、

恵比寿・大黒等縁起ものを彫ってはどうか。と言われて思い出した。

去年、国を出る前、江戸の越後屋から恵比寿様に対になる大黒の彫り物を依頼されていた。

二階に上がって、彫り物に取り組みだしたが、飯を食う以外は休まず鬼の形相で仕事をする。

何かが乗り移ったか?と政五郎が背筋が寒くなるくらいの気迫の甚五郎である。

出来上がったからと湯に行くという甚五郎、

その前に、手紙を書くので丁稚に「越後屋」へ届けて欲しいと頼む。


ポンシュウが居ないところで、盗み観るのは気が引けるが、

政五郎、見たい気持ちが勝って二階に上がってみると、

なにやら布が掛かったものがある。

たった一つ、3寸近い大きさの大黒があり、

その大黒が布を取ると目を開いてニャっと笑ったように思えた。


その時、越後屋の番頭が来て、甚五郎様が出来上がったので、

渡したいとの書面をいただいたので伺ったと挨拶した。

政五郎はこの時、ポンシュウはあの名人甚五郎であることを悟った。


風呂から帰った甚五郎に、水くさいというと、甚五郎も日本一と言われたので、

名乗る事が出来なくなってしまい、申し訳ないと詫びた。

大黒と引き替えに内金の30両と持参した70両、合わせて100両


70両のうち50両を、これまで逗留した礼にとお上さんに渡し、

10両は、政五郎の弟子達にお年玉だという。

残る10両だけを手に残して、これで次は伊達公の仙台が見たいと言う。


越後屋にある恵比寿様は、運慶作で「商いは濡れ手で粟のひと掴み(一つ神)」

という上の句があるので、この大黒にも、下の句を付けようと、甚五郎が詠んだのが、

「護らせたまえ 二掴みたち(二つ神達)


三井に残る甚五郎の大黒様の一席です。

 

三代目三木助のは、勿論、音源でしか聴いたことがありません。

馬桜師匠のも、なかなか良かったです。

この噺は、やっぱり年をとった、年輪を感じる咄家に似合う値多です。

 

 

 

3.芝濱/鈴々舎馬桜

今年、初めての『芝濱』です。これも三代目・三木助の十八番ですね。

安藤鶴夫と組んで、こしらえたそうですが、そのままの型で演じると、

えらいキザで臭い『芝濱』になります。三代目・三木助だからの演出です。

音源だけで聴くと、あまりすーっと噺に引き込まれない感じです。


勿論、馬桜師匠も三木助の型ではやりません。

70%近くは、立川談志の型を踏襲しています。

馬桜流なのは、お上さんが妊娠しているからと夢にした直後、

勝公に、死ぬのを思いとどまらせます。

ただし、さん喬師匠みたいに、よちよち歩きの子供は出て来ません。


この馬桜師匠がやったくらい、サラっとした『芝濱』が私は好きです。

毎年、暮れにこの噺を掛けると、どの咄家もそうなんですが、

どんどん重たくなるのです。談春もたい平くんも、談志師匠だってそう。

志らくは比較的同じでやるけど、志らくのは速いですからねぇー


目白の小さん師匠が、花緑の会でゲストの志らくが『芝濱』やっているのを聴いて、

「このアンチャンは、何をやってんだい、客がえらい笑ってるけど」と花緑に訊ねたので、

花緑が「『芝濱』ですよ、師匠」と答えると、目を白黒させて、

「エッ!あの『芝濱』か? 『金明竹』みたいに速いぞ」

と、言ったらしいです。