両国予備校 回想録 第5回(最終章)


 両国予備校 寮生活の終盤


冬頃になると、寮生活はますます異様さを増していました。実際、トイレに行く時間すら惜しんでペットボトルに用を足す寮生がいて、それを寮監が朝礼で「1階の気迫を見習え」と本気で叱咤する。あの光景は今でも鮮明に覚えています。正直、笑えない話でした。




1月頃になると、私がいた階の寮生からも、私立大学の医学部合格者が続々と出てきました。合格が決まった時点で次々に退寮していく様子を見て、羨ましい限りでしたが、私は国立大医学部狙いだったので3月前半まで寮に残っていました。




センター試験


センター試験の数学・生物は9割以上だったものの、英語や国語は思うように点が伸びず、特に国語(古典)や化学は苦戦しました。結局、全体の点数としては医学部合格の基準には届かず、悔しい思いをしました。科目の選択を直前に変えたことも、今振り返れば大きかったのかもしれません。



当時、国立大医学部でも2次試験を課さない地方の大学もあり、センター試験1本で合格した寮生もいましたが、私には全く歯が立ちませんでした。




退寮、そして父との衝突


受験に失敗し、寮を出る日。親が迎えに来て、荷物を積み、車でそのまま帰りました。車内はずっと静まり返っていて、私の心も荒んでいました。父親からも色々と文句を言われ、関係はギクシャク。



国立大医学部を条件に父親が二浪を許し、二浪目は名古屋の河合塾にも通いましたが、やはり受験勉強に嫌気が差し、結局9月に途中でリタイア。



「もう嫌だ、大学なんて全部やめた!」と吐き捨てると、父親からいきなりビンタされたのを今でも鮮明に覚えています。「勉強しないなら家から出ていけ!」と激しく言われ、ほぼ家出同然で出ようとしたところを、母親が泣いて止めました。



母は「もう国立大医学部は目指さなくていいから、どこでもいいから、最低でも大学だけは行ってほしい」と必死に訴えましたが、私は「絶対に大学なんか行かない!」と反抗心で言い放ちました。もう、意地でも大学なんか行くか、くらいの気迫でした。あれは、まさに私にとって遅い反抗期だったかもしれません(^_^;) 




逃げと執着


それからは、なぜか他のことばかりしていました。哲学書を読んだり、相対性理論を理解しようとしたり。ワープロで「物理力離脱意識論」というオリジナルのタイトルで延々と100ページ以上の文章を書いたり...。

こんなもん書いたところで誰も見ないのに。



母親に、「なんであなたは勉強しないの!」と激しく怒られ、当時は私の心の核でもあったワープロは取り上げられました。そこで「ワープロ、返せ」と、母と喧嘩。父親からも「お前はなぜ、場違いなことばかりやるのか、なぜ、当たり前ことをやらないのか」と、せっかくワープロで書いた紙をビリビリに破かれ、怒鳴られました。でもまた文章を書いて繰り返す日々。自分で言うのもあれですが、異様ですよね...。




でも、なぜかそうなってしまう。分かってはいるのに、本当にそうなってしまうのです。じっくりと当時の私を思い返すと、確かに「逃げ」はあった。でも、自分でその時、思いついた事を最後までやり遂げたい、例えば自分なりの哲学書を完成させたいという、異様なまでの執着心もあった。これが止まらない。




いま思うと、あの頃の自分を振り返ると、とんでもなくあさってな事をやっていた事に、恐ろしいほど「ダメ人間」だったのではないかと、背筋がゾッと寒くなる瞬間すらあります。




本音


本当にこれだけは本音なので書きます。私は学ぶことが心の底から好きでした。学びは楽しい。それだけは嘘じゃない。その時に抱いた好奇心を必ず解決したい。今も変わらない。でも、5科目すべてやらなければならない受験勉強や、他人と競うことが物凄く嫌いでした。




「本当は不得意科目があるからだろ、出来なかったんだろ?本当は勉強出来なくて医学部に行けなかったんだろ?しかも、お前は勉強から逃げた。ダサすぎ」




と言われれば、そうかもしれません。でも、受験勉強は集中できなかったけど、自分の世界と言ってしまえばそれまでですが、他のものに集中していた感触だけは本当に確かな記憶として今でも残っています。









以上で、両国予備校の回想録を終えます。これが、あの頃の私の記憶と本音です。



ただ、受験で失敗しても、その後の人生、それなりに楽しいことがあるもので、人生捨てたものでもありません。この年になると、これもまた人生かなと、納得しています(少しやせ我慢(^_^;))