両国予備校と19歳の私

ーはじめにー


なぜ、いま書くのか。私は現在52歳です。

いまから30年以上前、19歳だった私は「両国予備校」に通っていました。所謂、医学部専門の予備校です。

あの一年間は、今でも私にとって「黒歴史」と呼ぶにふさわしい記憶です。 しかし、時間がたち、自分の中でいろんなものを整理できるようになった今、ようやく「そのときのこと」を正直に書いてみようと思えるようになりました。 


 自分の人生にどんな歪みが生まれ、どんな重さを背負って生きてきたのか。それを記録として書き留めることで、自分自身へのけじめとしたいと思ったのです。 


  私が育った家庭環境


私の両親は大卒で、当時としては珍しく、教育を非常に重視する家庭で育ちました。母は専業主婦で、お菓子作りが趣味。学校から帰ると、焼きたてのケーキやクッキーがキッチンに広がっている、そんな毎日が私の当たり前の風景でした。家庭の中では「名門大学に進む」ということが特別な事ではなく、当たり前という環境。でも、ずっと窮屈で、ずっと苦しかった。でも、なぜかそれが周りに言えなかった。でも占い師であるいま、過去の自分に寄り添ってあげたい、そんな気持ちも強く生じます。

そんな育ちの中で、なぜ私は両国予備校でつまずき、人生の軌道を大きく逸れたのか、 それを、全5回に分けて少しずつ振り返っていきたいと思います。では、今回が第一回目となります。



両国予備校 回想録

第一回目


両国予備校の入学説明会


1991年12月、高校3年生の冬。進路を決める三者面談で、私は担任にこう伝えました。

「浪人します。高校卒業後は両国予備校に行きます。そして国立大学医学部を目指します」

年明けの1月中旬、母と一緒に両国予備校の入学説明会に参加しました。両国予備校では「必ず保護者同伴で説明会に出席すること」がルールでした。

当日は高校を一日だけ欠席し、名古屋駅から近鉄アーバンライナーで鶴橋駅へ。そこから地下鉄を乗り継いで兵庫県の布施駅で下車。正直、とても遠かったです。


6時間にも及ぶ入学説明会


説明会は午後1時からスタートし、終わったのは午後8時過ぎ。実質7時間以上にも及ぶ長丁場でした。

会場には50名ほどの生徒とその保護者、計100名近くが集まっていました。私は前から3列目に着席。高畑金造校長から、両国予備校の歴史や理念、医学部入試の現状、そして将来の医師像について話を聞かされました。

終盤、「それでも医学部に行きたい者だけが残れ」と校長が語り、場の空気が一変。私語は禁止、居眠りもNG。態度の悪い生徒はその場で親とともに退場させられ、「やってられるか!」と叫んで出ていった人もいました。

教室は緊張と静寂に包まれた、異様な空間でした。



ヒポクラテスの誓い


説明会の最後、全員に「ヒポクラテスの誓い」が書かれた紙が配られました。

「保護者以外、全員起立してください」と校長の号令が響き、私たちはヒポクラテスの誓いを音読させられました。まだ予備校に入学もしていないのに、まるで医学生になったかのような感覚でした。

そして校長はこう締めくくりました。

「今日、最後まで話を聞き、ここに立っている君たちの入学を許可します」


帰宅の電車内


布施駅を出たのは午後9時ごろ。参加者の多くは遠方から来ており、近隣のホテルに宿泊する人もいれば、私たちのようにその日のうちに帰る人もいました。

布施駅から鶴橋駅へ戻り、そこからアーバンライナーで名古屋へ。お腹が空いていた私は、電車内で母と一緒に駅弁を食べました。車内は空いており、母は隣の席で疲れて眠っていました。


帰宅後


帰宅後、父・母・私の3人で話し合いが行われました。

「本当に行けるのか? 寮生活、大丈夫か?」

父からそう尋ねられた私は、迷わずこう答えました。

「行くよ。医学部に行きたいから」



※次回は、「両国予備校」での予備校生活が始まります。そこで私が何を感じ、どんな経験をしたのかを綴ります