ローマ教皇フランシスコの死去と、私の「原点」


 2025年4月21日 午前7時35分(日本時間午後2時35分)、ローマ教皇フランシスコが死去されたという訃報をスマホで知りました。肺炎を患っていたこと、高齢であったこと、そして元々肺が弱かったこともあり、退院後しばらくして亡くなられたとのこと。88歳でした。心よりご冥福をお祈りいたします。 



 

 核心を忘れていた自分


 このニュースを電車の中で見た瞬間、私の精神にガツンっ!と内面から強く響くような衝撃....。それは、今年1月に自分自身も重い肺炎で入院していた記憶が、フラッシュバックのように蘇ったからです。


  死にたくないという感情 


私は昨年12月末から今年の1月半ばまで、肺炎で約2週間の入院を経験。当時の主治医からは「抗生剤が効かなければ危ない」と告げられ、命の危険をはっきりと自覚。人間は、普段は忘れている「死」というものが現実味を帯びてくると、「死にたくない」という気持ちと、「それ以外はどうでもいい」という感覚が心を支配する。私の場合、まさにそうでした。その2週間、私は病室でほとんど「祈る」ような精神状態に..。「生きているだけでいい」「もうそれだけで十分」ただそれだけを願っていました。 


  生きること、そのものへの感謝 


 人は極限状態になると、「前に進もう」とする気力よりも、「祈り」のような、もっと根源的な精神のあり方に変わっていく。私はそれを、身をもって体験しました。入院中は、おかゆが少しずつ食べられることが嬉しくて、 少しづつ歩けることがありがたくて、退院後には、本を読めることや、妻と会話ができることが本当に幸せに感じられました。日常の「当たり前」が、どれほど貴重なことだったか....。それを体の奥で実感した、人生で初めての体験だったと思います。 


  欲は戻ってくるけれど... 


でも、人は元気になると、だんだん欲が出てくるものなんですよね..。「もっと頑張ろう」「もっと前に進みたい」「〜したい」等。まぁ、それ自体は悪いことではありません。でも、あのときの気持ちを忘れてはいけないと強く思うのです。今日、ローマ教皇の死のニュースに触れて、本当にそう私は思いました。 「あの2週間を、絶対に忘れてはいけない」と。 


 命が危うかった時の、あの感覚。生きていることの尊さ。何も持たなくても、ただ呼吸しているだけで十分だったあの日々。それこそが、私の「人生の核心に触れた時間」だったと思うからです。 


  今こそ、もう一度、体験を思い出す


 私はまだまだ修行中の身です。でも、こうしてまた気づけた今、もう一度、自分自身に言い聞かせたい。 


 

「今、生きているだけで十分だ。感謝の気持ちを、絶対に忘れるな」



これは自分自身の戒めのために記録として残します。

(2025年4月21日午後19時30分)