今日は母の日 無口な母としゃべった最後の会話 | 洋服直し屋の日常

洋服直し屋の日常

服の直しや仕立ての仕事をしています。
日常で出会ったおもしろいこと、服の製図や
自分でできる修理方法など書いています。

       無口な母としゃべった最後の会話


「お母さん」という題で作文を書けと言われたら、
優しいお母さんの笑顔、おいしい料理、いっしょに行った旅行などについて、
書くことがいっぱいあると思う。
だが、私にはそんなものはない。

私は母の生いたちを知らない。
自分の過去を、いっさいしゃべらない母だった。

私が小6年のとき、親子遠足に行ったことがある。
鳥取と岡山の県境にある蒜山(ひるぜん)高原だ。


友達と大さわぎしながら遊んでいて、ふと、母の姿をさがした。
友達のお母さんたちは草の上にすわり、
輪になっておしゃべりに夢中だ。

ところが母だけは、そこから離れた場所で、
ひざをかかえ、独りで空を見あげていた。

私は子供ながらに、その光景を異様に思った。
だが、母の顔は穏やかだった。晴れわたった5月の空や、
髪をなでるそよ風を楽しんでいるように見えた。

はじめて会ったお母さんたちの輪の中に、
気楽に入っていけない自分の性格に、負い目を感じていたのだろうか。





私は高校を卒業するとすぐ実家を出た。
楽しくない母と離れたかったのである。

都会で暮らすようになって、生活の苦しさを知った。
きらめくネオンに、虚しさを感じることが多々あった。
そんなときは、むしょうに故郷が恋しくなり、
寝台列車に飛びのったことが2度あった。

久しぶりに会った母は、
私が都会でどんなくらしをしているのか、たずねることもしなかった。
あいかわらず無言のまま、私の好みの料理をせっせと作った。

私も無言のままそれを腹いっぱい食べ、酒も飲んだ。
わずか数年で、私はかなりの酒飲みになっていたのである。
酔ったあとは24時間眠り続け、3日後に東京に戻った。

その後、私は結婚、出産、離婚を経験した。
離婚後、実家に身をよせている自分に後ろめたさを感じ、娘をつれて上京した。

母は全部で7人の孫がいたが、誰ひとりだっこしなかった。
オムツも取りかえなかった。
いつもそまつな服を着て、年金をコツコツ貯めるのが唯一のたのしみだった。
貯めたお金のゆくえは私たち4人の姉妹だ。
出産、孫の入学、就職祝いのためである。

それぞれの家庭の経済状態に応じて、30~100万円の祝い金をくれた。
これは母なりのわが娘への可愛がりかただったのか?

それとも、母親らしい言葉かけができないことへの
陳謝のきもちだったのか。


12年前に母が痴ほう症になり、介護が必要になった。
仕事を持つ父には、介護ができない。
独りぐらしの私が世話をすることになった。

店を閉め、埼玉から鳥取の実家にもどり同居を始めた。

2年後、母はホスピスに入所した。それから1か月、母は毎日トイレ以外
寝てばかりで、寝たまま80才で息絶えた。


無口のほうが楽なのか、口を開けばグチ満載になるのを
さけたかったのか、今となってはわからない。

母と交わした会話で、何かおもしろかった話題はないかとふり返ってみた。

「しょっぱなに生まれたおまえ(私の事)が女なのはしょうがない。
あとの3人は、父ちゃんが期待した男の子ほしさに、生み続けたんや。

堕ろすより産むほうが安かったしな。
あの3人は要らんかったな」

「そやな」あはははは!(爆)  2人で顔を見合わせて笑った。

このことは、妹たち3人は知らない。


母は痴呆になる以前2ヶ月ごとに、私の娘の口座に1万円の振り込みをしていた。
祖母から孫へのおこづかいである
これは娘が社会人になるまで続いた。

娘の古い通帳には、振りこみ人の名前が定期的に記載されている。

母は多美子という名前だった。
           

                                                              にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
                                                              にほんブログ村

 

 

感謝の気持ち、もう伝えた?

▼本日限定!ブログスタンプ

あなたもスタンプをGETしよう