私はよく物を無くします。
ちゃんといつもの場所に戻したつもりが、ついうっかり、ちょっとと思ってどこかに置いて、そのまま置き忘れてしまって、時間が経過し、気が付いたら自分がどこに置いたか覚えていなくて、ない・・・( ̄ー ̄; という状況です。
ありませんか? そういうこと。
それが今すぐ必要なものではなくても、「ない!」とわかると無性に気になり、ムキになって見付かるまで探さないと気が済まない性格です。
物が壊れてもそう。
今は物が溢れていますから、壊れたらいつでも代替品を購入することは可能です。
でもね・・・
それを購入するときのエピソードってありませんか?
どちらにするか迷い、お店の方に相談したり、色々考えて決断するまでの自分の心の経緯。
或いは、気に入ったものを見付けるまで東京中をさ迷って、やっと出会ったものの場合もある。
あっさり決めたものでも、そのときお店の方と交わした会話、頂いたお心遣い・・・
その総てが思い出としてその物に詰まっていると、全く同じ商品を購入したからといって、違うんですよね。
私は物を失うこいうことができないので、壊れたら修理する。修理してグッと回復した状態でまた使えるのって、本当に気分がいい。すっごく嬉しいんですよね。
ではこれが人だったら?
有難いことに、今まで友人を失ったことはありません。
けれど、失いかけたことはあります。
あのときは慌てたなぁ~。
もう私との交流は絶ちたいと言われたとき、その瞬間は何を言っても火に油を注ぐだけなので黙って尊重の意を示しましたが、内心、友人を失うことに納得できなかった。
それは絶対嫌だった。
よしと思える友人なら、最初っから友達にならないよ。
友達として、自分の特別な領域に足を踏み込ませるからには、大切にしたい。そう簡単に失いたくない。
私はその友人に、未練たっぷりでしたね(笑) 未練のない相手なら、最初っからいらない。
ここで悩んだのは、「尊重」との線引きの難しさでした。
相手を尊重するなら、私はそこでお付き合いを終わらせたでしょう。でも尊重と言えば聞こえはいいけれど、諦めって、そう簡単につきますか?
総ての場合に適用はできませんが、私は、人が一方的に交流を絶つ行為を納得できません。双方で話し合えば和解があるかもしれないし、誤解が解決するかもしれない。
話しに話して、話し尽くし、もうこれ以上話すことがないまでに話し合い、それで出した結論。或いは受け入れざるを得ない結論ではなく、ただ、一方的に突きつけた答えで友情にピリオドが打たれる。人と人との交流が終わってしまうことには、私は納得できません。
私、いつも体当たりかもしれない。人と接するとき、真正面から向き合い、軽率な発言で相手を怒らせることもありますが、でも、いい加減な気持ちで人に接したくないと思っています。
だから友人一人ひとりが大切なんですよね。
私はつくづく、人が好きなんだと思う。愛すべき人たちに恵まれていることにも、感謝します。